133 2026年5月17日(日)_02 お姉ちゃんをする
夜。
鉄砲町の路地は、昼間のざわめきが嘘みたいに静かだった。
住宅街の隙間から、濃い木々の匂いがする。
六椹八幡宮のあたりは昔から空気が少し違う。
湿り気を含んだ、落ち着いた夜。
マンションの駐車場にスペーシアを止める。
エンジンを切ると、急に現実に戻る。
手に持ったのは、白松がモナカの詰め合わせ。
深呼吸。
チャイムを押す。
ピンポーン。
ガチャッ。
「いち姉ぇ、返事なんでくれなかったの!」
勢いよくドアが開く。
陽葵。
目が赤い。
あ。
そうだ。
日本海溝直上、スマホほぼ圏外だった。
回線も重かった。
結局、資料管理室の端末ばっかり使ってた。
……そのあと。
大量通知。
既読だけつけて。
疲れて寝た。
あ。
やばい。
陽葵、いつもの“お姉さんモード”じゃない。
地が出てる。
本気で怒ってる。
「ひまりは心配したんだよ!!」
一人称が名前。
確定。
怒ってる。
ちょっと泣いてる。
「海で自衛隊が事故で死んだ人出たってニュースやってた!
いち姉ぇ、海に行くって言ったじゃん!」
言葉の端が震えてる。
胸がぎゅっとする。
「ヒマ? 陽葵ちゃん、さん、さま?」
とりあえず敬語。
「お姉ちゃん全面的に悪かったから。
おうちに入れてくれないかな?
くれませんか?
お願いいたします。
つまらないものですがモナカでございます。」
袋を掲げる。
「やだ!しらない!いらない!
心配かける人しらないもん!
ばか!」
バタン。
締め出される。
……あぁ。
これは。
完全に私が悪い。
ちょうどその時。
奥から足音。
「何やってるの」
母、綾。
呆れ半分、ため息半分。
状況を一瞬で察して玄関が再び開く。
「上がりなさい。外で騒がない」
ありがたや、ありがたや。
靴を脱ぐ。
玄関の匂い。
知ってる匂い。
安心する。
陽葵はそのまま自室に直行。
ドアが閉まる音。
重い。
「ごめんよう……」
小声。
本気で。
「ちゃんと、“終わった”あとにでも連絡くらい返しなさいよ」
綾は淡々と言う。
怒鳴らない。
でも、刺さる。
「うん……」
リビングの灯りがやけに柔らかい。
モナカの箱をテーブルに置く。
あの子、絶対甘いもの好きなのに。
拗ねてる。
当たり前だ。
海で事故。
戦死者。
ニュース。
私はその海にいた。
言えないことが多すぎる。
でも。
心配させた事実は消えない。
廊下の奥。
陽葵の部屋の前で立ち止まる。
怖くてノックすらできない。
私は山形ロボに乗れる。
邪神とも戦える。
でも。
妹の涙は。
たぶん一番効く。
リビングに戻ると、綾がじっとこちらを見ていた。
視線は穏やかだが、逃げ場はない。
「悠……、若林さんとお父さんから、事情は聴いている」
淡々とした声。
「でも、あなたの言葉で、陽葵に言える範囲できちんと伝えなさい」
一拍。
「おねぇちゃんでしょ?」
責める響きはない。
けれど、甘やかしもない。
それだけ言って、綾は台所に戻る。
水の流れる音。
食器を洗う音。
いつもと同じ生活音。
なのに、胸の奥だけが少し重い。
私はソファに腰を下ろす。
モナカの箱を開ける。
ぱかり、と蓋が外れる。
整然と並んだ最中。
甘いあんこの匂い。
この家の空気と混ざる。
あぁ。
“いつも”に帰ってきたんだ。
戦場では、判断を誤れば誰かが死ぬ。
速度、出力、位相、因果。
計算。
選択。
責任。
でも、ここでは違う。
ここでは、
言葉を選ばないと、誰かを傷つける。
それも、たぶん同じくらい重大。
「……おねぇちゃん、か」
小さくつぶやく。
私は強くなったのかもしれない。
たぶん。
でも、
強いことと、
ちゃんと話すことは別だ。
陽葵の部屋の前で、もう一度立ち止まる。
ノックはしない。
深呼吸だけする。
言えること。
言えないこと。
守るべき沈黙。
守らなきゃいけない人。
バランスを探す。
リビングの灯りが背中を照らす。
台所から、綾の気配。
この家は、逃げ場じゃない。
帰ってくる場所だ。
モナカをひとつ手に取る。
重み。
甘さ。
生活の重さ。
私は、もう一度小さくつぶやいた。
「マジごめんよう……」
今度こそは、
ノック。
コンコン。
「……なに」
声、まだ拗ねてる。
「ごめん」
間。
「ほんとにごめん」
沈黙。
「次からは、ちゃんと連絡する。
圏外でも、圏内になったらすぐする」
静か。
「……ほんと?」
かすれ声。
泣いてる。
「ほんと。約束する」
ドアは開かない。
でも。
向こう側の気配が、少し柔らいだ。
「……モナカ、あとで持ってきて」
小さい声。
「はい喜んで」
少しだけ。
許された。




