127 2026年5月15日(金)_04 カレーと芋煮
さっきまで、ひっきりなしに響いていたヘリコプターの回転音。
それが、ふっと途切れた。
艦内に、久しぶりの静けさが戻る。
修理の金属音も、怒号もない。
ただ、低く響く機関音だけが、一定のリズムで船を震わせている。
――明日。
一葉は、その言葉を胸に、ぺたぺたと廊下を歩いていた。
艦内スリッパの軽い音がやけに響く。
明日の作戦。
潜航。
残る機体。
怖くない、と言えば嘘になる。
でも、逃げるという選択肢は、もうない。
そのとき。
厨房のほうから、ぼそりと聞こえた。
「……芋煮……」
ぴくり。
一葉の耳が反応する。
大学時代、陰で「芋煮警察」と呼ばれていることを、卒業後に知った。
キャンパス内で、味噌か醤油かの論争で本気になりすぎて、
最終的に肉体言語、つまり指相撲で決着をつけかけた女である。
後日、陽葵に言われた。
「どっちも美味しいじゃん。あほくさ」
あのとき、一葉は悟った。
世間は芋煮にそこまでの熱量を持っていない。
それでも。
「うむ、これは出動の予感だ……」
ぬるり、と厨房を覗く。
そして。
目が合った。
給養員たちと。
「「「「あっ」」」」
気まずい沈黙。
給養員長が、咳払いをする。
「……片桐さん。聞いてました?」
「はい。芋煮ですね?」
「いや、まだ決まってないんですけどね……」
事情を聞けばこうだった。
昨日の戦闘で負傷者が出た。
給養班も例外ではない。
本来、昼はカレーの予定だった。
だが後始末で時間が押し、軽食のサンドイッチに変更。
金曜の夕食くらいは、伝統のカレーを出したい。
けれど――
「芋煮、サプライズで出そうかって話も出てましてね……」
「でも人手が足りない、と」
「ええ。両方は厳しいです。どちらかを諦めないと……」
一葉は、顎に手を当てる。
「なるほど」
にやり。
「いい案あるよ」
給養員たちが顔を上げる。
---
夕食時。
科員食堂に、久しぶりの活気が戻っていた。
「芋煮お待ち!」
元気な声。
配膳カウンターに立っているのは、一葉だった。
「せ、先輩!?」
槌谷が目を見開く。
児島も一瞬、足を止める。
一葉は、にかっと笑う。
「児島さん、みんな。私、明日潜ります」
静かになる食堂。
「私しかできないんでしょ? なら、うまくやります」
軽く肩をすくめる。
「大丈夫です。私、強いんで」
強がりではない。
本気だ。
児島は何も言わず、椀を受け取る。
小ぶりの椀に、醤油ベースの芋煮と、小皿には福神漬け。
香りは完璧だ。
ひと口。
……うまい。
山形の河原で食べるあの味に近い。
だが。
――少ない。
周囲を見る。
観測班も、クルーも、皆同じ顔をしている。
「……足りないわね」
武田がぽつり。
「ええ、これは完全に足りません」
今田が眼鏡を直しながら真顔で頷く。
50代女性の児島ですら物足りない。
気まずい沈黙。
だが、早く食べ終わった者が、次々と配膳列に並ぶ。
一葉は笑顔で対応している。
「お代わり? はいよ!」
そのとき。
ふわり。
鼻孔をくすぐる香り。
……カレー。
児島が目を細める。
ああ。
これは。
秋の河原の、あの匂い。
芋煮を楽しんだあと。
鍋にカレールゥを投入し。
うどんを入れる。
山形の“しめ”。
大きなどんぶりで配られ始めた。
たっぷりの芋煮カレーうどん。
「これ、私の大好物」
一葉が誇らしげに言う。
「芋煮カレーうどん。これ食べないと、秋になった気がしないのよね」
どんぶりを受け取った隊員たちが、思わず笑う。
「これだよこれ!金曜日はカレー!」
「二段構えか!」
「このボリュームがたまらん!」
まばらに空いた席。
そこには、手つかずの小さな椀がいくつか置かれている。
誰も何も言わない。
しばらくして。
気づけば、その椀は、空になっている。
おそらく一葉のアイディアに違いない。
……全く、あの子らしい。
でも、まっすぐで。
誰に似たのか。
いや――
似た、というより。
綾の強情と、
早川の直情を、
そのまま足して二で割らなかったのだろう。
守ろうとして壊した母と。
守ろうとして失った父と。
その両方を、
なぜか丁寧に受け継いでしまった。
だからこそ、
彼女は誰かを見捨てられない。
児島は立ち上がる。
空の椀を持って、配膳列へ。
「お代わり、もらえるかしら?」
一葉が、ぱっと顔を上げる。
「もちろん!」
そして、少しだけ小声で言った。
「……ちゃんと、帰ってきますから」
児島は一瞬だけ目を細め、
「ちゃんと、帰ってきなさい。報告書、待ってるわ」
そう言って、どんぶりを受け取った。
食堂のざわめきが、少しだけあたたかくなる。
明日は戦い。
それでも、今夜は。
芋煮カレーうどんの夜だった。
---
夜。
艦内は静まり返っていた。
消灯後の薄暗い通路。
低く唸る機関音だけが、一定の鼓動のように響いている。
早川は、寝付けなかった。
二段ベッドの下段で、目を閉じても、
親友の名前すら思い出せなくて、
呆けて笑ってすらいた自分を思い出す。
そっと身を起こす。
軋まないように慎重に床へ降りる。
共有スペースの自動販売機の明かりだけが、ぽつりと灯っていた。
そこに――
コーヒーの紙コップを片手に、
タブレット端末へ向かっている一葉の姿。
がぶ飲みして、また打つ。
また飲む。
「……どうした、終わらないのか?」
一葉が振り向く。
「あ、お父さん!」
ぱっと顔が明るくなる。
「報告書ね、山形ロボのログをちょっと微調整して出そうとしたらさ、ハコ子が
”このままだと ひとはは もっとバカになります”
とか言って止めるの」
早川、思わず吹き出しかける。
「それは……」
「しかも児島さんと鬼どもも同調してさ。ひどくない? 私、ちゃんと書いてるのに!」
眼鏡拭きでレンズをクリアにしながらぷんすかしている娘の横に、
早川は腰を下ろした。
少しだけ沈黙。
「……そうか」
そして、ぽつりと。
「実はな。お父さんは、浮雲のことさ、完全に忘れちゃってたんだ」
外付けキーボードを打つ手が止まる。
一葉は、ゆっくりと顔を上げる。
「聞いたよ」
あっさり。
「浮雲さん、山形ロボとシンクロしすぎて、過剰に”みんなの記憶にある自分”を消費したんでしょ?」
早川は、目を伏せる。
「でも、意識戻って、お父さんと浮雲さんと話したら、今までの記憶戻ってきたんでしょ?」
「ああ……」
絞り出すように言う。
「俺は、あいつを助けに行くために……」
言葉が詰まる。
一葉が、先に続けた。
「お母さんと私と陽葵をほっぽって」
早川の肩が強張る。
「……それで、お母さんに愛想尽かされたんでしょ?」
静かな声だった。
責める色は、ない。
「……おまえ、聞いたのか? 綾に」
「んー、断片だけ」
肩をすくめる。
「全部は聞いてないよ」
少し考えて、言う。
「でもさ。いいんじゃないの?」
「……何がだ」
「もう過ぎたことだし」
まっすぐ、父を見る。
「お父さんは親友を助けたかった」
「お母さんは家族を守りたかった」
「どっちも悪くない」
早川の喉が、詰まる。
「でもな……」
低い声。
「家族を捨ててまで守ろうとした親友を、俺は忘れたんだぞ」
「それが、怖いんだ」
コーヒーの湯気が、二人の間に揺れる。
一葉は、少しだけ考えてから、言った。
「でも、離婚してもさ」
「私と陽葵のお父さんだったじゃん」
「お父さんはお父さんだよ」
あっけらかんとしているが、目は真剣だ。
「だからさ」
キーボードを閉じる。
「もしまた忘れたら、また思い出せばいいじゃん」
「無理なら、また親友になればいいじゃん」
さらっと言う。
「最初からやり直せばいいんだよ」
早川は、言葉を失う。
こんなに簡単に言えることではない。
だが、この子は本気でそう思っている。
「……簡単に言うな」
かすれた声で言うと、
一葉は、にやっと笑う。
「簡単だよ」
「だってさ、私だってさ」
少しだけ視線を落とす。
「明日、死ぬかもしれない世界で生きてるんだよ?嫌だけど」
「それでも、また芋煮食べたいし、推しのライブ行きたいし」
「だから、やり直せるなら、何回でもやり直せばいいじゃん」
沈黙。
早川は、ゆっくりと娘の頭を撫でた。
「……強くなったな」
「もともと強いし」
間髪入れず返ってくる。
「それに、ハコ子いるし」
画面の隅に、小さくテキストが浮かぶ。
>はやかわまこと の めんたる あんていど やや こうじょう
早川が苦笑する。
「おまえら、本当に油断ならんな」
一葉は、再びキーボードに向き直る。
「ほら、お父さんも寝なよ」
「明日、私潜るんだから」
その言葉の重さを、
早川だけが、ちゃんと理解していた。
それでも。
「……ああ」
短く答える。
立ち上がる前に、もう一度だけ娘を見る。
忘れても、思い出せる。
失っても、やり直せる。
その言葉を、胸にしまいながら、
早川は静かな通路へ戻っていった。




