126 2026年5月15日(金)_03 憧憬と湯呑
「しなの」艦内、士官エリア。
昼。
静かな振動だけが、床を伝っている。
一葉はベッドに仰向けになり、
与えられた個室の天井を、ぼんやりと見つめていた。
白い天井。
小さな換気口。
規則正しい艦の鼓動。
今日は休暇。
負傷した人員の治療、壊れた機材の修理。
その都合で、作業は明日へ持ち越し。
さきほど児島から、最終確認の連絡があった。
簡単に言えば――
同期率と、メンタル。
両面で無理をさせたくない。
だが。
今回の襲撃で、
「次回改めて」とは言いにくくなった。
断ってもいい。
命令ではない。
評価でもない。
脅しでもない。
ただの事実。
可能なら、無理してくれるか?
その言葉。
軽くはない。
今回の襲撃で、
“次回”という余裕は、消えた。
日本海溝。
沈んだ機体。
敵は、もう知っている。
こちらが何を回収しようとしているか。
何を守ろうとしているか。
腹いせに、
残りを壊す。
やりかねない。
一葉は、ゆっくりと息を吐く。
県庁で予算関連の書類を作ってきた。
数字。
桁。
見えない重さ。
これだけの規模を動かす金額。
艦。
護衛艦。
人員。
機材。
正確な額は知らない。
でも、想像はできる。
それを、無駄にするわけにはいかない。
目を閉じる。
同期率。
数値は、安定している。
九十台前半。
ハコ子がいる。
>ひとは あんてい しています
脳裏に、あのぴょこぴょこした影。
浮雲だって、いる。
きっと今日も、
アンテナ基部で、結界を見張っている。
大丈夫。
皆、いる。
私は、一人じゃない。
天井を見つめたまま、
小さく呟く。
「……やるか。」
怖くないわけじゃない。
でも。
怖いまま、やる。
それだけだ。
ベッドから飛び起き、昼食へ向かう。
カロリーは全てを解決する。
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児島は軽食の昼食を終え、
艦内の小さな休憩スペースでコーヒーを飲んでいた。
紙コップ。
軽い。
頼りない。
贅沢を言うつもりはない。
ここは艦だ。
だが、
ふと、思う。
湯呑。
できれば、少し大きめで、
厚みがあって、
掌に重さが残るやつ。
あれが、欲しい。
若林は、薄々気づいているかもしれない。
児島が緊張すると、
湯呑を握る癖があること。
石原修。
あの人が湯呑を握る癖を、ずっと真似していたこと。
勝手に、憧れて。
勝手に、真似して。
勝手に、好きだった。
誰にも言わなかった。
本人にさえ。
なんど、重責を、
湯呑を握ることで誤魔化してきただろう。
なんど、空になった湯呑を口元に運び、
“飲むふり”で表情を隠してきただろう。
震えそうな唇を、
見られないように。
――若林はそんな時、必ず視線を逸らす。
紙コップは軽すぎる。
誤魔化せない。
すでに若林には通信で例の件の確認を取っている。
その後の裏取りは、山形側で奔走してもらっている。
問題は――
児島はコップを持つ指に力を込める。
浮雲。
足音。
早川が入ってくる。
「児島、どうした?」
声はいつも通りだ。
整備主任らしい、少し低くて、現実的な響き。
「いえ、ちょっとね。」
歯切れが悪い。
自分でもわかる。
早川が眉を寄せる。
「珍しいな。児島が歯切れ悪いなんて。」
少し笑う。
「そういえば、今野さんとか観測班の若いのが騒がしかったが……昨日の襲撃の後、後遺症でも出たやつがいたのか?」
心配そうに眉を顰める。
「整備班は確認したが大丈夫だったが……」
その言い方。
整備の視点。
機体。
人員。
損傷。
まだ、“それ”を想定していない。
児島は、紙コップを机に置く。
軽い音。
「あのね、早川。」
声が、わずかに低くなる。
「落ち着いて聞いて。」
早川の目が、真剣になる。
「浮雲が倒れたの。」
一瞬。
ほんの、一瞬。
早川の顔が、空白になる。
「……浮雲?」
「ああ、1999年の英雄だろ?」
言いながら、思い出を探る顔。
「昨日、負傷したのか?」
児島の胸が、ひりつく。
ああ。
やはり。
嫌な予感。
当たってほしくなかった予感。
当たった。
存在の欠落は、
静かに始まる。
最初に、
最も強い感情を持った誰かから。
帰ってきて、関係性を“更新”した私たちではない。
再会し、
再定義し、
再接続した私たちではない。
変わらず。
ずっと。
27年間。
友情を、
そのまま持ち続けた男。
早川真。
彼の瞳の奥で、
“何か”が、薄くなる。
「……浮雲?」
もう一度、言う。
名前を呼んだはずなのに、
手応えが、ない。
児島の背筋が冷える。
紙コップが、やけに軽い。
湯呑が欲しい。
今すぐにでも、
重たい陶器を握りしめたい。
だが、ここにはない。
誤魔化せない。
児島は、ゆっくりと続ける。
「負傷じゃない。」
「……存在の方よ。」
---
帰国して早々、
渡部は走り回っていた。
根回し。
たった三文字。
だがその実態は、国家間の呼吸を合わせる作業だった。
国内世論。
報道機関。
同盟国。
敵対国。
非常事態を“非常事態に見せずに”回す。
それが、いま彼に課された任務だった。
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専用端末。
暗号化回線。
コツ、と認証キーを打ち込む。
《会議室》接続。
白い壁。
暗い書斎。
ブラインドの降りた無機質な会議室。
国旗も、紋章も、風景もない。
場所も、所属も、意図的に消されている。
黒いスーツ。
まとめたブロンドの髪。
進行役が口を開く。
「対怪異戦域、日本・東北地域に関する進捗報告を求めます。」
渡部が頷く。
「日本側より報告します。」
声は平坦。
感情は挟まない。
「日本海溝より七〇メートル級機体五機のサルベージ計画。」
「現時点で四機の引き上げに成功。」
わずかな沈黙。
「作戦行動中、名在り級三柱による強襲を受けました。」
渡部の声は、抑揚を排した報告調だった。
「一柱は撃退。残る二柱は撤退。」
――ざわめき。
無音設定のはずの回線越しに、
わずかな空気の揺らぎが伝わる。
名在り級。
単なる怪異ではない。
神格。
しかも、信仰されてきた概念。
狂った情動の依代。
人の世の秩序を破壊するもの。
災厄。
人間が“撃退”という動詞を用いる対象では、本来ない。
誰もがそれを理解している。
だからこその沈黙と、
だからこその微かな動揺。
「人的・機材的損耗は発生。ただし戦域は維持。」
渡部は続ける。
数字は出さない。
詳細も伏せる。
必要以上の具体性は、
この場では火種になる。
一瞬、間を置く。
「撃退個体は、ボクラグと推定。」
今度は、はっきりとした反応があった。
画面の向こうで、数人が姿勢を正す。
ボクラグ。
深海と石造都市の神格。
そして――怒りを忘れぬ存在。
「当該個体は、報復性の極めて強い因果干渉型。」
渡部は淡々と説明する。
「一度敵意を向けた対象に対し、
数十年、数百年単位で因果を追跡。
子孫に至るまで呪詛を連鎖させる特性が確認されています。」
重い沈黙。
誰かが低く呟く。
「……世代継承型の呪いか。」
「はい。」
渡部はうなずく。
「今回、現世での受肉体および因果接続を凍結・切断する処置に成功。」
「凍結?」
「因果凍結処理により、
“怒りの連鎖”そのものを無効化しました。」
画面の向こうで、視線が交差する。
理論上は可能。
だが。
「危険だったのでは?」
別の声。
「はい。」
即答。
「発動が数秒遅れれば、
当該因果は固定化され、
関係者のみならず地域単位で長期的干渉を受けた可能性が高い。」
東北。
日本。
あるいは――さらに。
渡部は続ける。
「今回は、幸運と戦術判断が重なった結果です。」
それ以上は言わない。
“偶然に近い成功”だとは、口にしない。
だが、この場の誰もが理解している。
撃退は快挙。
同時に、
紙一重だった。
進行役が口を開く。
「当該個体の“怒り”は完全に断たれたと判断してよいか。」
「現世での因果接続は消滅確認。
少なくとも、今回の戦域に対する継続干渉はありません。」
“少なくとも”。
その言葉の重さ。
沈黙。
やがて、低い声が言う。
「神を怒らせ、なお生き延びた。」
別の声。
「それが前例になる。」
渡部は静かに応じる。
「前例にはしません。」
「同条件は、再現困難です。」
正直な言葉だった。
ボクラグは、怒りを忘れない神。
だが今回、その怒りは――
凍結され、
切断され、
“なかったこと”にされた。
神にとって、それは屈辱。
そして、侮辱。
神の怒りを断つという行為は、
世界のどこかに、必ず歪みを残す。
紙一重。
あまりにも、紙一重だった。
画面の向こうで、数人が視線を交わす。
ブラインド越しの薄暗い書斎。
白壁だけの部屋。
顔の半分だけが光に照らされる人物。
誰も名乗らない。
だが、全員が理解している。
“撃退”は事実だ。
しかし、それは同時に――
均衡が破れ得るという証明でもある。
最初に口を開いたのは、
低く、冷静な男の声だった。
「当該個体の神格残存率は?」
「不明。ただし現世への干渉は停止確認済み。」
「完全消滅ではない、と。」
「その通りです。」
別の声。
「東北地域の戦力拡張が、結果として刺激となった可能性は?」
渡部は間を置く。
「可能性は否定できません。」
「だが、放置すればより大規模な侵攻を招く。」
今度は女性の声。
「位相遮断領域の安定度は?」
「現在、基準値内。ただし局所的負荷上昇を観測。」
沈黙。
それぞれが、
自国のリスクを計算している。
日本を守るか。
世界を守るか。
自国を守るか。
答えは一つしかない。
再び、進行役が口を開く。
「本件は、記録上“局地的異常気象に伴う海域演習事案”とする。」
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ロシア代表。
低い声。
「北方海域にて通常規模の艦隊演習を実施する。」
「表向きは戦術更新だ。」
「だが、東北戦域から北方への“拡散”は認めない。」
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アメリカ代表。
淡々と。
「太平洋東側での機動演習を拡大する。」
「情報共有はリアルタイムで行う。」
「日本の主権は尊重するが、脅威の太平洋横断は阻止する。」
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シンガポール。
「南方海域の航路監視を強化。」
インドネシア。
「多国間合同訓練の名目で哨戒網を構築。」
ベトナム。
「南シナ海経由の異常位相反応を即時共有。」
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中国代表。
「海域演習については公式には関知しない。」
「しかし、通信網上の異常痕跡は我々が追跡する。」
韓国。
「ネットワーク層での霊子干渉検知を強化する。」
インド。
「量子通信解析を用いた神気波形の監視を提案。」
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UAE代表。
「位相遮断領域の波形歪みを解析中。」
サウジアラビア。
「負荷集中箇所の予測モデルを共有可能。」
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EU代表。
「衛星群による全地球的観測を統合する。」
「データは《会議室》限定で提供。」
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表向きは、すべて“演習”。
知らないふり。
関係ないふり。
だが本音は明白だった。
あの邪悪を、
自国には入れたくない。
それでも。
一九九九年。
狂気が世界を覆ったあの時代を知る者たちは、
国家間の敵対よりも、
あの“再来”の方が致命的であると知っている。
銃口を向け合う国同士であっても、
この件だけは協力する。
それが、本能だった。
---
進行役が最後に告げる。
「参加国家の発言を記録しました。」
「本日の《会議室》はこれにて閉じます。」
画面が一斉に暗転する。
沈黙。
通信が切れたあとの端末は、
ただの黒い板に戻る。
渡部は、ゆっくりと背もたれに身を預けた。
深く。
息を吐く。
肺の奥に溜まっていた、
見えない重圧が、少しだけ抜ける。
まだ、今日の分が終わっただけだ。
報告は済んだ。
協力の枠組みも整った。
だが――
国内調整。
予算。
情報統制。
記者の勘。
野党の追及。
味方の疑念。
山のように残っている。
スマホの待ち受け、
息子夫婦の画像写真。
小さな手。
無邪気な笑顔。
「じいじ、また出張?」
その声が、脳裏に蘇る。
孫に、本気で嫌われるかもしれない。
約束を破る。
運動会に行けない。
誕生日に間に合わない。
“また?”と、言われるだろう。
だが――
もし、あの再来を許せば。
守るべき未来そのものが、
消える。
嫌われる未来があるのは、
世界が続いている証だ。
渡部は、そっとスマホのカバーを閉じる。
視線を上げる。
老いはある。
体力も、昔ほどではない。
だが。
両眼には、まだ光がある。
高齢ながらも。
強靭な意思の光を宿して。
椅子から立ち上がる。
次の電話。
次の交渉。
次の根回し。
国家は感情では動かない。
だが、
最後に動かすのは、
いつだって人の意思だ。
渡部は、静かにドアノブに手をかけた。
今日の続きへ、歩き出す。




