118 2026年5月14日(木)_03 武神帰還
潜水中。
山形ロボは、静かに、ゆっくりと落ちていく。
一葉はシートに身を預け、隣――いや、視界の端にふわふわ浮いているマスコットをぼんやり見ていた。
深度、2000。
深度、2500。
8000メートルまで一気に落ちることも理屈上は可能らしい。
でもそれをやると、水圧は防げても、慣性が問題になる。
山形ロボが、ぺちゃんこになる。
いや、ぺちゃんこは言い過ぎかもしれないけど、内部構造が耐えられない。
だから、水の抵抗を“残す”。
完全無効化しない。
重力に対して、うまく減速する。
らしい。
武田さんがホワイトボードに数式を書きながら、
「慣性質量と流体抵抗係数の最適化で……」
とか何とか言っていた。
数式の一部には見覚えがあった。
微分方程式。
ベクトル。
ラプラス変換。
あ、これテストで出たやつだ。
でも理屈は苦手。
数学は好きだけど、説明は嫌い。
浮上は12秒。
潜水は、めちゃくちゃ大変。
不思議だ。
深度、3000。
水は、もう青ではない。
暗い。
ほとんど黒。
深度、3200。
外界は完全な闇。
だが、視界はむしろ広がる。
CG補正で突然明度が跳ね上がる。
深海なのに、どこまでも見える。
コクピット内だけが、静かに明るい。
一葉は、ふわふわ浮いているマスコットを見る。
「そういえば、貴方を何て呼べばいいの?」
>わたしは わたしです
武田の声が割り込む。
「Guardian Output – Hitoha Lock の可視化インターフェースです」
……やりにくい。
「ねぇ、名前、勝手に決めるよ?」
マスコットは瞬きをする。
「ロボ太郎はなんか違う。ニチアサでありそう。山形ロボ……箱……箱大仏……」
ちょっと考える。
「ハコ?……ハコ子。うん、ハコ子でいいや」
槌谷の声。
「雑ですね」
「いいんだよ!」
マスコットが小さく震える。
>わたしは ハコ子
>こんご わたしは ハコ子です
「よろしくね、ハコ子」
深度、3500。
ハコ子が、ふいに言う。
>ひとは そうびひんリスト いがいのもの そうびがあります
「装備品以外?」
眼鏡?
いや、眼鏡は体の一部だ。
むしろ本体だ。
支給品だけど。
コンタクトは危ないって言われた。
極限環境で眼球に異物をつけるのはリスクが高いらしい。
この全身タイツ……新型対Gスーツは、インナーまで全部支給品。
基本、余計なものは持ち込まない。
「え、なに?」
今田の声。
「先輩、多分、首から下げてるソレでは?」
>はい
>その ぬのせいの オブジェクトです
一葉は首元をつまむ。
「これ?」
小さなお守り袋。
自作。
中身を取り出す。
黄土色の、シンプルなレゴの剣。
「<ゆうしゃのけん>」
ハコ子が無機質に解析する。
>しんかく0
>しんき0
>れいし0
>しんこう0
>さっしょうりょく0
>いんが0
>ただの じゅしの はへんです
>Amazonでは 10こセットで 2137えんで うられています
「そういう情報は知らんでいいかな……」
深海の静寂。
一葉は、剣をそっと握る。
「これはね」
少しだけ声が柔らかくなる。
「私が助けられなかった人の、息子さんから“預かってる”<ゆうしゃのけん>なの」
通信室が静まる。
「私が迷ったり、間違わないように。弱くなりそうなとき、ちゃんと前を向けるように」
小さく笑う。
「<ゆうしゃ>って呼ばれる人になれるように、って」
ハコ子が、しばらく沈黙する。
>Overflow
>むずかしいです
>がいねんを まなびます
その言葉は、どこか慎重だった。
---
深度、7500。
海底が近づく。
闇の中に、巨大な影。
今日の対象。
“ギガマサムネ”。
武者みたいなシルエットが、海底に横たわっている。
一葉は剣を袋に戻し、首に下げる。
「さて」
深呼吸。
「深海8000メートル。今日も引き揚げ作業しますか」
ハコ子が、小さく応答する。
>ひとは
>まよい0.3びょう
>でも まえをむいています
コクピット内の照明が、わずかに揺れる。
外は、絶対の闇。
だが、一葉の視界は、確かに開いていた。
---
深海八千メートル。
闇の底で、それは横たわっていた。
巨大な刃のような両腕を持つ鎧武者――
“ギガマサムネ”。
装甲の継ぎ目から、かすかに燐光が滲む。
それは生きている光ではない。
記憶の残滓のような、淡い残照。
機体の輪郭が、視界内のCGで黄色くマーキングされる。
二十七年前。
この機体を“見た者”がいる。
覚えている者がいる。
だから形を保っている。
忘却されていないものは、
この世界から完全には消えない。
山形ロボの巨大な手が伸びる。
ペンチのような無骨な指。
慎重に。
静かに。
ワイヤーを通す。
固定点を探る。
……昨日みたいに、簡単にはいかない。
微妙にズレる。
水流が、わずかに揺らす。
「ええい!いらいらする!」
ハコ子の声が、淡々と響く。
>ひとは とは げんざい
>どうきりつ94.8% です
>わたしは すこしづつ ひとは と ちがうものになります
「……そっか。下がったのか」
94.8。
たった数パーセント。
でも。
動きの“軽さ”が、消えている。
思った通りに動く、あの無音の一体感が、ない。
ズレ。
抵抗。
人間の身体を通した、わずかな遅れ。
「ここまで変わるの……こわ」
>ひとは たいへん です
「なにそれ」
ハコ子が、ぴょこ、と揺れる。
かわいいな、こいつ。
その瞬間。
視界の端に赤い警告。
<LINK ERROR>
>かんそくはん との つうしんが かんぜんに きれました
>ワイヤーの だんせんです
一葉の背中が、冷える。
山形ロボと“しなの”の間は、
霊波変換式戦域通信システム。
だが受信設備がない艦側とは、
八千メートル以上伸ばした
霊子化炭素繊維の特殊ワイヤーを媒介にしていた。
深海の水圧。
塩分。
乱流。
それらに耐える強度。
地上で破壊するのは困難とされる、
ほぼ“切れない”ロープ。
「いやどういう事?切れるのあれ?」
>はい
>ぶつりほうそくが きかないもの
>“かいい” なら せつだん かのうです
喉が、鳴る。
「“しなの”には浮雲さんいたよね?
警備班二人。
護衛艦“かげろう”。
自衛官さんたち、怪異対策のプロだよね?」
わずかな沈黙。
>はい
>すべての じょうけん から よそくすると
>“じゃしん” ネームド
>つまり つよい “じゃしん” が きた かのうせいが あります
静寂。
深海の闇。
水圧の数値だけが淡々と上がる。
一葉は、迷わない。
ワイヤーを無理やり通す。
ギガマサムネの胴を締め上げる。
背部ハードポイントへ固定。
背負う形。
無理がある。
バランスが悪い。
でも時間がない。
>たすけに ゆかないと ですが
>じょうきょうが わかりません
脳裏に浮かぶ。
泣きながら筋トレしていたとき、
無言でタオルを置いてくれた人。
ご飯を大盛にしてくれた人。
「お疲れ」って、
貴重なコーラをくれた艦の偉い人。
お父さん。
整備のみんな。
警備班の二人。
観測班の三人。
児島さん。
助けなきゃ。
理屈じゃない。
「ハコ子!」
深海で、山形ロボの眼が光る。
「いくよ!」
ハコ子が、初めて即答する。
>わかりました
>ふね と ひと
>まもります
重力制御が、唸る。
一葉は笑う。
「OK!だってさ」
加速。
「私、ゆうしゃ、だからね」
深海八千メートル。
黒の底から、守護神が飛ぶ。
水が、歪む。
暗黒を、切り裂くように。




