最終回(前編):光の王子の譲り状
クーデターが鎮圧されてから一ヶ月。王宮はクーデターの混乱を避けるように、第一王子ラインハルトと聖女エルナの婚約を発表した。
沸き立つ祝福が国中を包む。だが当の本人であるエルナは、その賑やかさが届かない、王宮の片隅の小さな療養室を目指して歩いていた。
護衛騎士を辞退し、右腕の動かなくなったギルバートが、今日この王宮を去ると聞いて。
せめて最後に一目会いたいと願ったエルナだったが、療養室の前でふと足を止める。その視線の先に、彼女のことを聞きつけ、先に待っていたラインハルト王子が立っていた。
彼はエルナに気付くと、顔を上げる。眉をひそめ言った。
「……エルナ、行くのはやめなさい。君はもう、僕の婚約者だ」
「殿下……。でも、彼は私のために腕を……。お別れくらい、させてください」
「駄目だ。僕の妻になる女性が、他の男に未練を見せるのは許さない」
王子の青い瞳は冷徹で、伸ばした手でエルナの手首を掴むと強い力を込める。彼女は痛みに顔を歪める。
(やっぱり、この人は冷酷な王者なのだ。私の心なんてどうでもよくて、ただ『聖女』という飾りが欲しいだけなんだ──)
エルナが絶望に瞳を曇らせ、下を向いた、その時。
「……という風に、僕が悪者を演じてあげれば、君は諦めて僕の隣に並んでくれるのかい? エルナ」
「え……? 殿下?」
手首の力が、ふっと抜け、驚いて顔を上げる。するとラインハルトは、いつもの冷徹な仮面を外し、少し寂しそうに、けれど最高に優しい笑みを浮かべていた。
「君には負けたよ。この一ヶ月、僕の隣にいる間、君はただの一度も心から笑わなかった。毎日、あの一途で堅物な騎士のことばかり考えていただろう。……残念だけど君の心は変えられなかったようだ」
ラインハルトは懐から、一通の重厚な羊皮紙を取り出した。そこには、二人の婚約を白紙に戻す『婚約解消書』と、ギルバートを不敬罪に問わないという王子の直筆のサインが刻まれていた。
「殿下、これは……!」
「聖女としての役目は、王宮にいなくても果たせる。……エルナ、君はもう自由だ。自分の心に素直になりなさい」
王子はエルナの華奢な肩を、ポン、と優しく叩いた。
「さあ、行って。あいつはさっき、東の城門を出たはずだよ。今ならまだ走れば間に合う。……僕が泣かせるまでもなかったね。あの護衛騎士に、『一生かかっても返せないほどの、盛大な貸しを作ってやった』と伝えておくれ」
「殿下……! ありがとうございます……! このご恩は、一生忘れません!」
エルナは何度も頭を下げると、いまだ着慣れない豪華なドレスの裾を大胆にたくし上げ、振り返らずに走り出した。
光あふれる王宮の回廊を、影にいる愛しい人の元へと、ただがむしゃらに。
残されたラインハルト王子は、去りゆく彼女の眩しい後ろ姿を見つめ、後ろに控えていたハンス侍従長に向かって苦笑した。
「……まったく。王位も、なにも、一途で不器用な愛には勝てないなんてね」




