最終回(後編):ひだまりの帰る場所
王都の外へと続く東街道は、どこまでも長いのどかな一本道だった。
初夏のうららかな陽光が、並木の間から木漏れ日となって地面を斑に染めている。先日降った雨の名残を、ところどころ乾かし始めていた。
王宮から離れ喧騒が遠ざかるにつれ、聞こえてくるのは鳥のさえずりと、草木を揺らす穏やかな風の音だけになる。
その街道を、一人の旅人が黙々と歩いていた。
黒い甲冑を脱ぎ捨て、仕立ての古い革のジャケットを羽織った男──ギルバートだ。
彼の右腕は白い布でしっかりと吊られ、力なく身体の側面に固定されている。剣士としての命である腕を失った彼の足取りは、どこか奇妙に軽かった。いや、軽くあろうと自分に強いているのかもしれなかった。
「……ふぅ」
ギルバートは足を止め、動く左手で胸元を探った。
引き出されたのは、かつて辺境の山で一人の幼い少女から貰った、古びた安物の『青い守り石』のペンダントだった。あの激しい戦いの最中、浴びた返り血を吸って、石を結ぶ紐は黒ずんでいる。けれど、石そのものは今も変わらず、不格好ながらも確かな青い輝きを放っていた。
これさえあれば、いい。
自分の右腕と引き換えに、あの優しくて温かい思い出の少女は、この国の最高峰である玉座へと送り届けられたのだ。平民の、それも泥にまみれて戦うことしか知らなかった男の人生の幕引きとしては、これ以上ないほどに上出来のはずだった。
「幸せになれよ、エルナ……」
二度と届くことのない祈りを、ギルバートは風の中に放り投げた。
そして、再び前を向いて歩き出そうとした、その時だった。
「──待って!!! ギルバート!!!」
背後から、街道の静寂を切り裂くような、引き裂かれんばかりの絶叫が響いた。
ギルバートは、雷に打たれたように硬直した。
あり得るはずがなかった。脳裏に焼き付いて離れない、世界で一番愛おしい声。幻聴だろうか。いや、幻聴にしては、その後に続く足音が、あまりにも必死で、泥臭く地面を蹴り上げている。
ゆっくりと、ギルバートは振り返った。
そこには、まばゆい初夏の光を背負って、がむしゃらに走ってくる一人の少女の姿があった。
王宮にいるはずの、いや、今頃はラインハルト王子の隣で国中の祝福を一身に浴びているはずの、エルナだった。
彼女は息を切らし、美しい金糸の刺繍が施された高価なドレスの裾を両手で大胆にたくし上げ、なりふり構わず道を駆けてくる。額には汗が浮かび、結われていたはずの髪は、激しい動きのせいで半分ほど解けて乱れていた。
「エルナ……!? なぜ、お前がここに……っ」
ギルバートの声が裏返る。
エルナはギルバートの数歩手前までたどり着くと、激しく上下する呼吸を整えようと、膝に手を突いて深く息を吐き出した。喉が鳴り、言葉がすぐには出てこないほどに、彼女は限界を超えて走り続けてきたようだった。
「おい、冗談だろう……。なぜここにいる。お前はもう、殿下との婚約を……!」
ギルバートが動揺のあまり一歩詰め寄ると、エルナはぐっと顔を上げた。その瞳は、涙で濡れていながらも、かつてないほどに強い意志の光で満ち溢れていた。
「婚約は……っ、解消されたの……!」
「……は?」
「ラインハルト殿下が、行けって言ってくれたの! 『君は僕の隣じゃ一度も心から笑わなかった』って……!『あの護衛騎士に、一生かかっても返せないほどの盛大な貸しを作ってやったと伝えろ』って、殿下が……っ!」
エルナの口から次々と飛び出す信じられない言葉に、ギルバートは思考が完全に停止した。あの完璧で、執着心の強い王子が、手に入れた最高の聖女を自ら手放したというのか。
「何を、バカなことを言っている……! 殿下がお前をどれだけの覚悟で守ろうとしていたか、お前だって分かっているはずだろ! 王宮に戻れ、エルナ! お前の居場所はこんな泥道の真ん中じゃない、光のあたる玉座だ!」
ギルバートは思わず声を荒らげた。動く左手で彼女の華奢な肩を掴み、力任せに王都の方へと押し戻そうとする。だが、エルナは一歩も引かなかった。彼女はギルバートの胸に自らの身体をぶつけるようにして、その叫びを至近距離で受け止めた。
「嫌!!! 私は王妃になんてなりたくないの!!! 私は、ただのエルナとして、あなたと一緒にいたい!!」
「エルナ……っ!」
「私は気付いたの! あなたへの想い……ギルバート。あなたが、私を遠ざけようとしたことも、私のドレスのために裏でどれだけ無茶をしてくれたのかも、全部聞いたよ。どうして、どうしていつも一人で全部背負って、勝手にいなくなっちゃうの!?」
エルナの目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、彼女の白い頬を伝って泥道へと落ちていく。
「俺は……っ、お前を幸せにできないんだよ!」
ギルバートは、胸の奥底に燻っていた、一番認めたくない弱音を、ついに怒声に変えて吐き出した。
「見ろ、この右腕を! 俺はもう騎士じゃない! お前を狙う敵から、その身を護る剣すら握れない、ただの役立たずだ! 平民に戻り、右腕も動かない俺が、どうやってお前を幸せにすればいいんだよ!!」
悲痛なギルバートの叫びが、静かな街道に虚しく響き渡る。
己の無力さ、身分の壁、そして何より、愛する人を物理的に護れなくなったという騎士としての絶望。ギルバートは悔しさに唇を噛み切り、血を滲ませながら頭を垂れた。
しかし、エルナはそんな彼の絶望を、包み込むかのように優しく、けれど拒む余地のない強さを秘めて返す。
「剣がなくても、私があなたを護るから」
「……何?」
エルナは、ギルバートの動く左手を、手袋のついていない自らの両手で、ぎゅっと、壊れ物を扱うように、けれど絶対に離さないという強い力で握り締める。
「あなたの動かない右腕は、私の癒やしの魔法で、毎日、何年かけてでも絶対に治す。もし、もしもどうしても治らなかったら……その時は、私があなたの右腕になるから。あなたが剣を握れないなら、私があなたのために薬草を摘んで、二人で下町で暮らせばいい」
エルナは涙に濡れた顔で、けれど最高にまばゆい、あのギルバートの凍てついた心を溶かした『ひだまり』の笑顔を咲かせた。
「私は、綺麗なだけの檻の中で、誰かが用意してくれた贅沢な食事を食べるよりも……ギルバートと一緒に過ごしたい。あの下町で手を繋いで、安いお菓子を美味しいねって笑い合える未来がいい。私は、あなたがいいの、ギルバート……!!」
その瞬間、ギルバートの中で、これまで彼を縛り付けていたすべての仮面や諦念の氷が、音を立てて粉々に砕け散った気がした。
平民の身分。騎士の誇り。聖女の義務。王子の警告。
そんなものは、この目の前で泣きながら笑っている我が儘な少女にとっては、石ころほどの価値もなかったのだ。彼女はただ、一人の男としてのギルバートを求めて、全てを捨てて走ってきた。
「……お前は、本当に、我が儘で、手の焼ける聖女様だ」
ギルバートの声が、激しく震えていた。
彼は吊っていた右腕のことなど忘れ、動く左腕だけで、エルナの華奢な身体をこれ以上ないほどきつく、狂おしいほどの愛おしさを込めて抱きしめた。
「う、ぐっ……、ギルバート……っ!?」
エルナの顔が彼の胸に埋まり、ドレスの白い生地が彼の服に残った泥で汚れていく。「苦しいっ!」とわずかに離れた二人は一拍置いて笑い合う。汚れを気にする素振りは、微塵もなかった。
ギルバートは改めて、彼女の背中に回した左手に、より一層の力を込める。そして、かつて心の中で誓った言葉を、今度は本物の約束として彼女の耳元で囁いた。
「言ったはずだぞ。次泣いて戻ってきたら……、もう絶対に離してやらないってな」
「うん……! ずっとここにいるから、もう離さないで……!」
エルナは彼の胸に顔をうずめたまま、昂る感情のまま声を上げて泣き、そして笑った。
遠く王都の方からは、新時代を祝うかすかな鐘の音が、今度こそ二人を祝福するかのように優しく響いてきた。
けれど、もう二人があの光の迷宮に戻ることはない。
かつて辺境の泥の中で、一人の少女の光に救われた少年は、大人になり、すべてを捨てて飛び込んできた彼女の光を、今度こそその腕の中にしっかりと抱きとめた。
これからは、二人で新しい足跡を、あの懐かしい泥とひだまりの溢れる故郷へと刻んでいくのだった。




