第8話:星屑の引き際、血に染まる黒騎士
カトリーヌ公爵夫人の件以来、エルナはギルバートと一言も口を利いていなかった。
ギルバートもまた、冷徹な仮面を貼り付けたまま、ただの機械のようにエルナの後ろを歩くだけ。
「エルナ、明日には僕たちの婚約が国中に発表される。もう何も心配いらないよ」
ラインハルト王子はエルナの手を優しく握り、微笑みかける。エルナは「はい」と微笑み返しながらも、胸の奥の痛みを消せずにいた。
──だが、運命の夜は、あまりに唐突に訪れた。
地響きのような轟音と共に、王宮の結界が内側から崩壊したのだ。
廃嫡を狙う異母弟派の貴族たちが、禁忌の魔導書を使い、数千の「影の魔獣」を王宮内へと召喚したクーデターだった。
息切れする騎士の一人が駆け込んでくる。
「……殿下! 結界が破られました! 敵の狙いは殿下と聖女様です、早く地下回廊へ!」
血を流した騎士たちが次々と倒れ伏す中、黒い甲冑に身を包んだギルバートが、血に染まった長剣を手に振り返る。
だが、エルナの手を掴んだのはラインハルトだった。
「エルナ、僕から離れないで!」
彼は光の魔力を放ち、迫り来る魔獣を薙ぎ払う。しかし、敵の数は異常だった。王宮の地下回廊へと逃げ込む一同だったが、背後から地鳴りのような足音が、確実に迫ってくる。
地下回廊の出口──そこを抜ければ安全な王宮外の砦へと繋がる鉄門。
しかし、敵の追っ手をここで食い止めなければ、全員が背後から刺されて全滅する。
誰かが、ここに残らなければならない。
「──殿下、エルナを連れて行け」
低い、いつも通りのぶっきらぼうな声が響いた。
ギルバートが、皆に背を向け、迫り来る闇の魔獣の群れの前に一人、立ち塞がった。
「ギルバート……! 君、正気なのか!?この数を一人で……!」
王子の叫びに、ギルバートは振り返りもしない。
「あなたには王位があり、この国を救う義務がある。そして、何よりエルナを幸せにする約束があるはずだ。……ここで彼女を死なせたら、俺はあなたをあの世から呪うぞ」
「ギルバート!!」
エルナがラインハルトに止められながらも、悲鳴のような声を上げる。カトリーヌの一件で彼を恨んでいたはずなのに、その背中を見た瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。
「嫌です! あなたも一緒に来て! 私を置いていかないで……!」
ギルバートの肩が、微かに揺れた。
彼はゆっくりと、一度だけ振り返った。その顔には、エルナが一度も見せてもらったことのない、ひどく穏やかで、全てを愛おしむような、優しい笑みが浮かんでいた。
「言っただろう。お前には、あの光あふれる玉座がよく似合う……幸せになれ、エルナ」
「あ──」
その瞬間、ギルバートは自ら壁のレバーを引き、エルナたちの目の前で、巨大な鉄門をガラガラと閉め落とした。
「ギルバート!!」
鉄格子の向こう側で、ギルバートは完全に闇の群勢と対峙する。
ズガァン!!!
凄まじい衝撃音と共に、ギルバートの剣が、魔獣の肉を切り裂き、火花を散らす。
彼は平民上がりだ。王族のような綺麗な光の魔法は使えない。だからこそ、己の肉体と、命そのものを削るような泥臭い、圧倒的な剣技で、押し寄せる闇を力任せにねじ伏せていく。
一本、また一本と、魔獣の爪がギルバートの黒い甲冑を切り裂き、鮮血が舞う。
右肩を深く抉られ、剣を握る右腕の感覚が失われていく。それでも、彼は左手で剣を握り直し、ただの一歩も後ろへ退かない。
(あいつを、泣かせるなと言ったはずだ……殿下……)
薄れゆく意識の中、ギルバートは胸元に手をやった。
甲冑の隙間から覗く、血に染まった『青い守り石』。
(俺の命は……最初から、あいつの笑顔を護るためだけのものだ……)
ドスッ、と重い一撃が彼の脇腹を貫く。
ギルバートは激しく吐血しながらも、最後の魔獣の首を力任せに跳ね飛ばし──そのまま、血の海の中に崩れ落ちた。
鉄門の向こう側。
「嫌ぁあ!!! ギルバート!!! 開けて、お願いだから開けて!!!」
絶叫し、鉄門を叩くエルナ。
ラインハルト王子は、悔しさに唇を血が出るほど噛み締めながら、暴れるエルナの身体を抱きすくめ、強引に走り出した。
「すまない……すまない、ギルバート……!! 君の命、決して無駄にはしない……!」
背後で、エルナの泣き叫ぶ声が、冷たい地下回廊に虚しく響き渡っていた。
ギルバートが最後に見せたあの優しい笑顔が、偽りの夜のすれ違いを全て塗り替え、エルナの心に消えない傷痕として刻まれるのだった。




