第7話:偽りの夜、すれ違う背中
精霊の森での雨宿りから数日。
エルナの胸には、ギルバートから告げられた「過去の真実」が重くのしかかっていた。自分をずっと想い、護ってくれていた彼に、どう向き合えばいいのか分からない。
そんなある夜、王宮の月光が差し込む美しいテラスで、エルナは最悪の光景を目撃することになる。
「あら、ギルバート。そんなに固くならなくていいじゃない? 今日は私だけの護衛をしてくれるって、約束したでしょう?」
艶然とした笑い声を響かせるのは、隣国の若き未亡人であり、外交のために滞在しているカトリーヌ公爵夫人だった。大人の色香を漂わせる彼女は、ギルバートの逞しい腕に、自らの白い腕を絡めている。
(え……?)
エルナは物陰で息を呑んだ。
あの、女性を寄せ付けない「孤高の騎士」が、拒みもせずに、カトリーヌの手をそのままにさせている。
「……公爵夫人。人目が好ましくありません」
「ふふ、誰も見ていないわ。それに……あなたも、あのかわいい聖女様の『お守り役』に退屈していたところでしょう?」
カトリーヌの妖艶な指先が、ギルバートの頬をなぞる。
ギルバートは、そのすぐ近くの物陰に、エルナが立ち尽くしていることに気付いていた。気付いた上で、彼はあえて目を逸らさず、エルナに聞こえるような声で冷たく言い放った。
「ええ。子供の我が儘に付き合うのは、少々飽きていたところです」
──ドクン、とエルナの心臓が嫌な音を立てた。
「そうよね。あの子はいずれラインハルト殿下のものになる。あなたのような強い男は、もっとふさわしい戦場へ行くべきだわ。……私と一緒に、来ない?」
カトリーヌがギルバートを誘うように歩き出す。ギルバートは一度も後ろを振り返ることなく、エルナをその場に残したまま、公爵夫人の後ろを静かに付いていってしまった。
その背中を見送りながら、エルナの目が滲み、端から涙がこぼれ落ちた。
『俺の泥まみれの手じゃ、お前を汚してしまう』
あの洞窟での言葉は、嘘だったのだろうか。やっぱり、私は彼にとって、ただの退屈な護衛対象でしかなかったのだろうか。
視界が涙で歪み、その場に崩れ落ちそうになった、その時。
「──やっぱり、君を泣かせるのは、いつだって彼なんだね」
頭上から、低く、けれど酷く優しい声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、そこにはラインハルト王子が立っていた。
彼はエルナの前にそっと跪くと、自分のシルクのハンカチで、彼女の涙を優しく拭う。その手のひらは温かく、どこまでも甘やかだった。
「殿下……なぜ、ここに……」
「君の姿が見えたから。……エルナ、もう彼を追うのは、やめるんだ」
ラインハルトは、エルナの華奢な身体をそっと引き寄せ、自分の胸の中に抱きしめた。
王子のまばゆい金髪から、心地よい香りが鼻腔をくすぐる。
「僕の元へおいで。僕なら、君にこんな涙は流させない。僕のすべてを賭けて、君を世界で一番幸せな花嫁にしてみせる」
王子の温かい腕の中で、エルナはただ、声を殺して泣き続けるしかなかった。
これでいいのだ、と自分に言い聞かせながら。
◇◇◇
一方、回廊の角を曲がり、エルナの姿が完全に見えなくなった場所で。
ギルバートは、絡められていたカトリーヌの腕を、容赦なく振り払った。
「……感謝します、公爵夫人」
ギルバートの声は、完全に凍てついていた。その拳は、爪が手のひらに食い込むほどきつく握りしめられている。
カトリーヌは、そんな彼の痛々しい姿を見て、ふう、と大人の溜息をついた。
「相変わらず不器用な男ね。あそこまで嫌われ役を買って出るなんて。……本当にいいの? あの子は今頃、王子の腕の中で、あなたのことを忘れる準備を始めているわよ」
「それでいい」
ギルバートは月を見上げ、ひどく寂しそうに笑った。
「あいつが俺を恨んで、綺麗さっぱり忘れて、あの光あふれる玉座で笑ってくれるなら……俺の役目は、終わりを迎える」
カトリーヌは、彼の胸元で静かに揺れる『青い守り石』のペンダントを見つめ、それ以上は何も言わなかった。




