第4話:迷宮を抜け出して、泡沫の祭りを
「……あ、あの、ギルバート。本当にこれで大丈夫なのかな?」
王宮の勝手口から少し離れた、鬱蒼とした木々の影。
エルナは、そわそわと自分の格好を見回した。
いつも彼女を縛り付ける豪華な絹のドレスではなく、動きやすい麻のブラウスに、深い緑色の素朴なスカート。髪も華やかな結い髪ではなく、一本の三つ編みにして肩に垂らしている。
「問題ない。誰もお前が、聖女だとは気付かないだろう」
壁に寄りかかっていたギルバートが、ゆっくりと歩み寄る。
彼もまた、いつもの黒い甲冑姿ではなくなっていた。仕立ての古い革のジャケットに、あまり使われていないような金糸の刺繍が入ったブーツ。けれど、その圧倒的な体躯と鋭い眼光は隠しきれておらず、まるで「訳ありの凄腕傭兵」といった風情だ。
昨日、王子の熱烈なアプローチと周囲の嫉妬に押しつぶされそうになっていたエルナを見かねて、ギルバートは「明日は終日、野外での隠密護衛訓練を行う」と、半ば強引に彼女を王宮から連れ出したのだった。
「さあ、行くぞ。はぐれるなよ」
ギルバートが歩き出す。王宮の重い鉄門をくぐり、急な坂道を下っていくと、徐々に耳に飛び込んでくる喧騒が大きくなっていった。
◇◇◇
「わあ……っ!」
王都の下町──市井は、活気に満ちあふれていた。
今日はちょうど、収穫を祝う収穫祭の日だったようだ。色とりどりの旗が通りに掲げられ、香ばしい焼き肉の匂いや、甘い果実の香りが鼻腔をくすぐる。行き交う人々は誰もが笑い、泥だらけの子供たちが元気に走り回っていた。
「すごい……! 王宮の庭園も素敵だけど、私、こういう温かい場所の方が好きだな」
エルナの瞳が、ひだまりのような輝きを取り戻していく。
露店に並ぶ珍しい薬草の干物や、素朴な木彫りの細工を見るたび、彼女は少女のように目を輝かせた。王宮ではいつも緊張で強張っていたその顔に、ようやく本来の、心からの笑顔が咲く。
ギルバートは、そんな彼女の一歩後ろを、周囲への警戒を怠らずに歩いていた。
だが、その視線は、人混みよりもむしろエルナの弾むような後ろ姿に釘付けになっていた。
「ギルバート、見て! これ、田舎の私の領地でもよく採れた果物のお菓子だよね」
エルナが嬉しそうに指差したのは、蜂蜜をたっぷり塗って焼いた、素朴な串焼きの果実だった。
ギルバートは無言で懐から数枚の銅貨を取り出すと、店主に渡し、熱々の串を二本受け取った。
「ほら、食うだろ」
「いいの? ありがとう!」
一口齧り、「おいしい!」と頬を落とすエルナ。
「口の周りに蜜がついているぞ」と、ギルバートは呆れたように言いながら、自分の指先で彼女の口元を不器用になぞった。
「あ……」
手袋のない、生身の指の熱。
エルナが驚いて顔を赤くすると、ギルバートもハッとしたように指を引き、バツが悪そうに自分の分の串を口に放り込んだ。
「……お前がそういう顔で笑うから、あいつらに舐められるんだ」
「もう、せっかく美味しいのに、すぐそういう意地悪を言う!」
頬を膨らませて怒るエルナ。
けれど、そのやり取りが、どこか酷く愛おしかった。
身分も、聖女の義務も、王子の影もない、ただの男と女としての時間。
その時、大道芸の一団が傍を通過し、周囲の群衆が一気に二人の元へと押し寄せてきた。
「きゃっ!?」
人の波に押され、エルナの身体がよろめく。
その瞬間、強い力で腕を引かれ、エルナは硬い胸の中に抱きすくめられていた。
「──言った傍からこれだ。迷子になりたいのか」
耳元で、ギルバートの低い声が響く。
見上げると、彼の広い肩が、押し寄せる群衆を完全に遮る壁となっていた。エルナの身体にまで彼の胸の鼓動が、服越しにドクドクと力強く伝わってくる。
つられて緊張する彼女が、顔をうつむかせる。
「行こう」
ギルバートは、エルナを庇ったまま、そっと彼女の手を握った。
手袋のないタコだらけの、大きくて少し冷たい手。
だが、その繋ぎ方は驚くほど優しく、そしてどこか壊れ物を扱うかのようだった。
エルナが顔を上げると、誤魔化すように言う。
「はぐれないように、こうしておくが……嫌か?」
いつもなら「義務だ」と言い訳する男が、今日に限って、そんなかすれた声で問いかけてくる。
エルナは、胸がズキンと跳ねるのを感じながら、首を横に振った。
「ううん……嫌じゃ、ない。むしろ、すごく安心する……かも」
伺うように顔を見ると、ギルバートの瞳が細められた。その手は微かに震え、それから、ぎゅっと握り直された。
(ずっと……このままでいられたら──)
エルナの胸に、そんな思いがけない願いがよぎる。
けれど、その手を引くギルバートの横顔は、直前の熱が引き、まるで凪いだ海のように静かだった。
ギルバートは分かっていた。
この温かい手のひらも、市井の喧騒も、彼女にとっては、ほんのひと時の寄り道に過ぎない。
数日後には、彼女は再びあのきらびやかな王宮に戻り、ラインハルト王子の差し出す手を、握ることになるのだろう。
自分が彼女に与えられるのは、この安い銅貨数枚の祭りと、泥にまみれた手だけ。
それが、平民上がりの引き立て役である己の、限界の幸せだった。
夕暮れが二人の影を、どこまでも長く、切なく引き延ばしていった。




