第2話:泥にまみれたドレス
「まあ、あれが噂の『野草聖女』様? くすんだ緑の髪がお似合いね」
「聖なる力があるからって、おいたわしいことですわ。あんな泥臭い娘が、ラインハルト殿下の隣に立とうだなんて」
王宮の庭園へと続く回廊。
きらびやかな扇の向こうから投げつけられる、棘を含んだ笑い声。
エルナはドレスの裾をぎゅっと握り締め、うつむいたまま歩みを早めた。
田舎で薬草を摘んでいた頃は、身分なんて気にしたこともなかった。けれど、この広大な王宮において、下級貴族の、それも領地をまともに治めてもいない貧乏貴族の娘であるエルナは貴婦人たちの格好の餌食だった。
第一王子であるラインハルトに力を見出だされ、さらに婚約者となるかもしれないと噂が立ったせいで、周囲の令嬢たちの嫉妬はさらに燃え上がっている。
身を縮ませて歩いていると、不意に何かに足を取られ、つまづいてしまった。
「──っ」
傍を歩いていた公爵令嬢の取り巻きの一人が、わざとらしく足を突き出したようだ。
避ける間もなかった。慣れないヒールがもつれ、エルナの身体が前方へと傾く。
(あ、危ない──)
地面の硬い石畳が迫る。
だが、衝撃は来なかった。
「おっと、危ない。エルナ嬢、大丈夫かい?」
すっと差し出された白い手。
そこにいたのは、金色の髪を陽光に輝かせた美貌の青年──第一王子、ラインハルトだった。
彼はエルナの華奢な身体を軽々と抱きとめると、ひどく心配そうな目を向ける。
「怪我はないようだね。少し疲れてしまったのかな?」
「ら、ラインハルト殿下……! 申し訳ありません、私の不注意で……」
「いいんだよ。連日、夜会続きじゃ仕方がない。僕は君に会えて嬉しいのだけどね」
ラインハルトが爽やかに微笑むと、周囲の令嬢たちから「まぁ……!」と羨望と嫉妬の混じった悲鳴が上がる。
王子はエルナを優しく促し、そのままエスコートして歩き出す。その圧倒的な光のオーラに、彼女はただ気圧されるしかなかった。
(殿下は優しくて、完璧で……本当に絵本の中の王子様みたい)
けれど。
その温かい手のひらに触れていても、なぜだかエルナの胸の奥はどこか冷えたままだった。
一歩遅れて、二人の斜め後ろを歩く黒い影がある。
ギルバートだ。
彼は、王子とエルナの仲睦まじい様子を、表情一つ変えずに見つめている。その瞳は完全に凍てついており、何を考えているのか全く読み取れない。ただ、腰の長剣を握る手袋の手が、シワが寄る程きつく締め直されていた。
◇◇◇
その日の夕方。
エルナが自室に戻ると、ベッドの上に置いてあったはずの、明日の夜会で着るためのドレスが消えていた。
「そんな……どこを探してもないなんて……」
侍女たちに聞いても「知りません」「勘違いでは」と冷たくあしらわれるだけ。
焦って王宮の裏手を探し回ったエルナは、ついにそれを見つけた。
中庭の片隅、泥水が溜まった木箱の裏。
純白だったはずのドレスは、無惨にも泥まみれになり、ズタズタに引き裂かれて捨てられていた。
見た瞬間、息を呑む。
顔を歪ませ、張り付く喉から声を絞り出した。
「ひどい……」
呼吸もままなりほど鼻の奥がツンとして、不覚にも涙がこぼれる。
どれだけ陰口を叩かれても耐えてきた。けれど、自分のために領地の両親が無理をして仕立ててくれた、大切なドレスに手を出されては、心が折れてしまう。
ふらふらと泥の中に膝をつき、汚れるのも構わずにドレスを拾い上げて抱えた、その時。
頭上から、大きな影が降ってきた。
「……どうした」
低く、けれど落ち着く声。
見上げると、そこには夕闇を背負ったギルバートが立っていた。
彼は泥まみれのドレスと、涙で顔を汚したエルナを交互に一瞥する。次の瞬間、周囲の空気が、肌がピリつくほどの冷たさに変わる。
エルナは思わず名を呼んだ。
「ギルバート……?」
「誰がやった」
そう聞かれて、彼女は視線を落とす。
「わからないの……。でも、もう明日の夜会には出られなくて……殿下にも、迷惑をかけてしまう……」
エルナが言葉を詰まらせると、ギルバートは「はっ!」と吐き捨てる。
「くだらない。そんなドレス一枚失っただけで、王子の隣に立てないのか。ならば、その程度の相手だったということだな」
「そんな言い方しないで! これは、お父様とお母様が……!」
「静かにしろ」
冷たく遮られ、エルナはビクリと肩を揺らす。
やっぱり、この人は冷たいのかもしれない。孤高の騎士だなんて言われているのだから。人の気持ちなんて、少しも分からないんだ、と彼女は唇を噛み締める。
だが、その考えに反してギルバートは、エルナの前に一歩踏み込むと、躊躇いなく泥の中に片膝をついた。高価な黒い甲冑が泥で汚れるのも気にする様子はない。
彼は自分の大きな手袋を外すと、剥き出しの、タコだらけの無骨な手で、エルナの涙を乱暴に拭った。
「あいつらの狙いは、お前を泣かせて夜会を欠席させ、聖女の面目を潰すことだろう。ここで泣いていたら、敵の思う壺になる」
「敵の……」
「ドレスなら俺がなんとかする。お前は部屋に戻って、顔を洗って寝ていろ」
「えっ? でも、ギルバートがどうやって……」
「俺を誰だと思っている。……お前の護衛騎士を、舐めるなよ」
彼はそう言うと、泥まみれのドレスを片手で奪うように取り、立ち上がると背を向け闇の中へと消えていった。
◇◇◇
その夜遅く。
王宮の北の塔、女官用の衣装部屋では声がしている。
エルナのドレスを切り裂いた首謀者の令嬢たちが、ワインを片手に談笑していた。
「クスクス、見ものよね。明日の夜会、あの野草聖女がどんな格好で来るかしら?」
「お可哀想に、泣き寝入りして欠席じゃない?」
その時、トントンと扉を叩く音がした。
「……」
令嬢たちは動きを止める。こんな遅くに、衣装部屋を訪ねる人物がいるだろうか。
侍女や宮廷管理者でも、夜更けに来るとは考えにくい。一旦黙ってやり過ごそうとしたが、再度扉が叩かれた。
どうする?と一人が聞く。
黙って、ともう一人が答える。
直後──ドンッ!ドンッ!と響き、ドォン!! と鉄製の頑丈な扉が、凄まじい音を立てて内側に吹き飛んだ。
「きゃあああ!?」
「な、なに!?」
巻き上がる粉塵の向こうに見えたのは、抜剣した黒い騎士──ギルバートだった。
室内からのわずかな光を浴びた刀身が、妖しくギラリと光る。彼の全身から放たれる圧倒的な威圧感に、令嬢たちは悲鳴を上げることもできず、その場にへたり込んだ。
ギルバートは無言で中に入ると、へたり込む令嬢の一人のすぐ脇の床へ、容赦なく剣を突き立てた。
ガァン! と石畳が砕け、火花が散る。
令嬢が狼狽しながら捲し立てるように言った。
「ひっ……! あ、あなた、狂ったの!? 私は侯爵家の──」
「黙れ。お前たちのことは全てわかっている。次エルナに何かすれば、その首と胴体は繋がっていない。覚えていろ」
地獄の底から響くような声だった。
ギルバートの瞳には、一切の慈悲がない。彼は平民上がりだ。貴族の法など、本気になれば顧みない狂犬であることを、彼女たちは今さら思い出した。
その狂犬が手に抱えていた汚れたドレスを、床に放り投げる。わずかな水音を立て、令嬢たちの前に落ちる。
「聞け。明日の朝までに、国一の仕立て屋に、最高のドレスを用意させろ。エルナが着るはずだったそのドレスと同じものを、だ。……一分でも遅れたら、お前たちの実家の不正の書類を、すべて国王の机に叩きつける」
「な、なぜそれを……」
「俺の目を盗んで、王宮で動けると思うな」
ギルバートは床から剣を引き抜くと、一瞥もくれずに部屋を去った。
残された令嬢たちは、恐怖で歯をガタガタと鳴らしながら、夜通し仕立て屋を手配するために走り回る羽目になるのだった。
◇◇◇
翌朝。
エルナの部屋の前に、見事な白薔薇の刺繍が施された、新品の美しいドレスが届けられていた。昨日引き裂かれたものと、全く同じ、けれどより上質な生地のドレス。
「これ……どうして……?」
不思議に思うエルナの背後で、ギルバートがいつも通り、壁に背を預けて腕を組んでいた。彼の甲冑の裾には、うっすらと昨日の泥の跡が残っている。
「言っただろう。俺がなんとかすると」
「ギルバートが用意してくれたの……? ありがとう!」
満面の笑みで振り返るエルナ。
ギルバートは、そのまばゆい『ひだまり』のような笑顔から、ふいっと気まずそうに目を逸らした。
「……勘違いするな。お前が夜会を欠席すれば、俺の護衛任務に支障が出る。そのためだけだ」
相変わらずの、ぶっきらぼうな言葉。
けれどそれでも、滲み出る優しさにエルナは笑みを返す。そして新しいドレスを改めて眺めては、強く抱き締めた。




