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影のように密やかに。孤高の騎士は、その熱を燻らせたまま、ひだまりの少女を護り抜く   作者: 星海 零


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第1話:鉄の匂いと、白い薔薇

ドレスの裾を踏まないように歩くこと。


声をかけられたら、まずは扇で口元を隠し、淑女の微笑みを浮かべること。


決して、お腹が空いたなどと言って周囲を見回さないこと。


「……はぁ」


きらびやかな夜会の会場から少し離れた、西の回廊。


月明かりだけが照らす静かな漆黒の中で、エルナは小さく溜息をついた。


肌に合わない絹のドレスは身体を締め付け、慣れないヒールは悲鳴を上げている。ほんの数ヶ月前まで、田舎の領地で薬草を摘み、土にまみれていた自分が、なぜこんな贅沢な迷宮にいるのだろう。


「──ため息をつけば、幸福の女神が逃げるぞ。聖女様」


低い、低音の弦楽器を鳴らしたような声が、背後の闇から響いた。


驚いて振り返る。そこに立っていたのは、月光すら吸い込んでしまいそうな黒い甲冑を身にまとった男だった。


腰には、国一の業物と名高い長剣。漆黒の髪の間から覗く切れ上がった瞳は、他者を寄せ付けない凍てついた輝きを放っている。


ギルバート・ヴォルフレイド。


平民の身でありながら、その圧倒的な剣技だけで騎士の頂点に登り詰め、今や「孤高の騎士」と恐れられる男。そして今は、田舎娘から突如『聖女』として召し上げられたエルナの、専属護衛騎士だった。


「ギルバート……。驚かせないで」


「お前が隙だらけなのが悪い。ここが戦場なら、今ので首が三回は飛んでいる」


「ここは王宮の回廊よ。戦場じゃありません」


ふくれっ面をするエルナに、ギルバートは表情一つ変えずに歩み寄る。カラン、と甲冑の擦れる冷たい音が響いた。


彼はエルナの前に来ると、音もなく片膝をついた。


エルナの目線が、自然と下がる。


「……ギルバート?」


「足、痛むのだろう。歩き方が不自然だ」


彼はそう言うと、手袋を嵌めた大きな手で、エルナのドレスの裾を躊躇いなく持ち上げた。


「ひゃっ」と短い悲鳴を上げて一歩引こうとするエルナだったが、彼の鉄のような手に足首を優しく掴まれ、動きを止められる。


「動くな。……やはりな。靴擦れだ」


ギルバートの指先が、エルナの白い足首に触れる。革の手袋越しだというのに、彼の持つ独特の熱が伝わってくるようだった。


彼は懐から小さな薬瓶を取り出すと、手慣れた手つきでエルナの傷口に透明な軟膏を塗っていく。


「私、聖女なのに。自分の傷くらい、癒やしの魔法で治せるのに……」


「無駄な魔力を使うな。お前の光は、もっと高貴な奴らのために残しておけ」


ぶっきらぼうに言い放ちながらも、彼の指先は驚くほど優しかった。怪我人を扱うというより、壊れやすいガラス細工に触れるかのような、慎重さ。


いつもそうだ。この人は、口を開けば冷たい言葉ばかりなのに、差し出される行動はいつだって誰よりも温かい。


「終わった。立てるか」


ギルバートが立ち上がる。見上げるほど高い彼の身体からは、微かに鉄の匂いと、そして、エルナの好きな白い薔薇の香油の匂いがした。彼がエルナのために、わざわざ同じ香りを身につけてくれていることを、エルナはまだ知らない。


その時、回廊の奥から、まばゆいばかりの『光』が近づいてくる気配がした。


「──そこにいるのは、エルナ?」


凛とした、誰もが平伏したくなるような美しい声。


第一王子、ラインハルト。


金色の髪をなびかせ、光の魔力を全身にまとった彼が、暗闇の回廊へと歩を進めてくる。彼こそが、エルナをこのきらびやかな世界へ連れ出した張本人であり、未来の夫となるべき男だった。


エルナの心が、緊張で跳ねる。体が思わず強張った。


だがそれを後押しする声がする。


「……行け、エルナ」


ギルバートが一歩、後ろへと下がった。


月明かりの届かない、濃い影の中へと、彼の身体が溶けていく。


「あの方の元へ戻るんだ。お前の居場所は、あちら側だ」


影の中から響く声は、いつになく冷徹で、そして、どこか引き裂かれるような寂しさを孕んでいた。エルナは咄嗟に彼の手を掴もうと指先を伸ばしたが、触れるよりも早く、王子が「待って」と彼女の腕を掴む。


これがエルナと、その騎士の、届かない距離の始まりだった。



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