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どうぞ、その泥舟にお二人でお乗りください  作者: 九葉(くずは)


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9/10

第9話 いちばん遠くまで、一枚

 川祭りから三週間が過ぎ、帝都を吹き抜ける風には、冬の気配が混じり始めていた。


 浅瀬に腹を乗せた〈白鷺〉は、大型の起重機船によって泥から引き揚げられたものの、船底の損傷は深く、大理石の舞台や内装をすべて撤去しての大規模な修繕が必要となった。


 王室への違約金に、招待客への見舞金も重なった。ボルドー商会の遊覧事業は、一度の航行で行き詰まった。


 怒った父親はレナートを跡取りから外し、仕事の権限も取り上げた。船も、損失を埋めるために売却されることが決まったという。


 エレナとの婚約も解消された。自分の目の前で別の女に復縁を持ちかけた相手と、改めて結婚を披露する気にはなれなかったらしい。サロンでは、婚約の披露よりも祭りの騒ぎのほうが噂になった。話はカリーナの耳にも届いたが、その後の二人を自分から尋ねることはなかった。


 〈ツバメ〉には、初めて乗る客が少し増えた。


 王女を安全に送り届けた船として名が知られ、臨時便の相談も来た。ただ、イーヴォと二人で回せる数には限りがある。引き受けられない分は断った。


 王宮から届いた礼状は、まだ机に置いたままだった。額を探すより先に、カリーナは早朝の桟橋で、救助の際に傷がついた舷側の木肌を、黙々と新しいペンキで塗り直していた。


 ダミアンとは週に二、三度、仕事終わりに短い散歩をしたり、川沿いの小さな食堂で食事を共にするようになった。カリーナからも「今日は少し早く仕事が終わります」と短い手紙を届けるようになり、返事が夜遅くなる日は、先に夕食を取った。翌朝届いた手紙に次に会える日が書いてあると、予定帳へすぐ書き入れた。


     *


 薄い霜が降りたある朝のことだった。


 いつものように出航前の点検を終え、乗船台帳を開いていたカリーナの前に、影が落ちた。


「おはよう、カリーナ」


 顔を上げると、ツイードの外套を着たダミアンが立っていた。


 護衛の男も少し離れたところで乗船を待っていたが、いつもの調査役の随員たちもいなければ、重々しい書類箱もない。手には皮の手袋と、小さな革の小銭入れだけを持っていた。


「ダミアン様……? おはようございます。今日は、役所の予約はありませんでしたよね」


「公務ではない。客として乗りに来た」


 ダミアンは懐から銀貨を一枚取り出し、カリーナの手のひらにことりと置いた。


「いちばん遠い停留所まで、一枚頼む。帰りも乗る」


「えっ……? 上流の終点、森の製材所まで往復なさるのですか? 途中の寄港もありますし、帰るのは夕方になりますよ。財務省のお仕事は……」


「休暇を取った」


 そう言いながら、ダミアンは操舵席の右隣へ向かった。


「丸一日休んで、大丈夫なのですか」


「昨日までに、今日の分も片づけてきた。せっかく休めるのに、家で過ごすのは惜しくてな」


 ダミアンが笑ったので、カリーナも笑って革札を渡した。


「承知いたしました、お客さま。では、出航いたします」


 カリーナが舵を握っている間、ダミアンは冬枯れの川岸を眺めたり、常連の老人の話に相槌を打ったりしていた。ときどきカリーナが横を見ると、彼も気づいて顔を向ける。それだけで、帰りの時間まで一緒にいられることが嬉しかった。


 途中の停留所では、荷を降ろすカリーナを甲板から見ていた。終点に着いてイーヴォが機関の点検に入ると、彼女の座る木箱へ近づいてくる。


「隣に座ってもいいか」


「どうぞ。……それにしても、本当に帰りも乗っていらっしゃるんですね」


 彼が隣へ腰を下ろす。カリーナは操舵席の陰で包みを開き、笑った。


「いらっしゃると分かっていれば、お昼をもう一人分用意してきましたのに」


 包みには、黒パンに干し肉を挟んだものが二つ。ダミアンが覗き込んだ。


「一つ、分けてくれないか」


「え? いつもと同じ、黒パンですよ」


「君が作ったのだろう。それが食べたい」


 カリーナは二つのパンを見比べ、大きいほうを彼に差し出した。


 包み紙ごと受け取ったダミアンは、ひと口かじり、「美味いな」と言った。


「次は、いらっしゃる前に一言教えてくださいね。二人分、用意しておきますから」


「約束だな。必ずそうする」


 肩が触れそうな距離で、二人は残りのパンを食べた。


     *


 復路の便が帝都へ戻り、ほかの客が桟橋へ上がった頃。


 ダミアンは下船せず、見送りを終えたカリーナが戻るのを待っていた。


「カリーナ」


「はい」


「次の君の休みはいつだ」


「明後日ですが……何か?」


「船に乗っていない君と、一日過ごしたい」


 ダミアンは一歩、彼女へ歩み寄り、カリーナの左手を取った。


「その日、君に……話したいことがある」


 カリーナは彼の手を見た。まだ何も聞いていないのに、薬指を意識してしまう。


 顔を上げた。


「……はい。明後日の朝、時計塔広場でお待ちしています」


 ダミアンはほっと息をつき、握った手に力を込めた。


 ダミアンを見送ってから、カリーナは予定帳を開いた。明後日の欄には、もともと「休み」とだけ書いてある。その隣に、待ち合わせの場所を書き添えた。

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