第8話 どうぞ、その泥舟にお二人でお乗りください
最後の救助艇が着き、招待客も乗組員も、全員が岸へ上がった。
泥まみれになり、ドレスの裾を濡らしたエレナと、青ざめて立ち尽くすレナートも、他の乗客と同じように救助艇のタラップを踏んで陸へ上がった。
浅瀬に突き刺さった〈白鷺〉は、河港の専門業者が点検し、引き出す手順を決めることになった。大理石の舞台を載せたまま、すぐ動かせる状態ではない。河川パレードは中止になり、式典は庭園の天幕の下で続けられた。
王女の世話役を務める式典官が、水上詰所の役人を伴ってカリーナの元へ駆け寄ってきた。
「クロイツ船長、助かった。もう一つ頼みたいのだが、殿下は川の景色を楽しみにしていらした。宮殿の前を十五分ほど回るだけでも、君の船でお連れできないだろうか」
カリーナは息を整え、〈ツバメ〉を見た。
「旅客定員は十五名です。殿下と護衛、お付きの方を合わせて、その人数まででしたら。本流の水深が足りる区間を、短く往復します」
「ありがたい! すぐに殿下にお伺いを立ててくる」
式典官は宮殿へ駆け戻った。カリーナが甲板の掃除に取りかかろうとすると、背後から声がした。
「カリーナ!」
乱れた髪をそのままに、レナートが駆け寄ってきた。その後ろから、泥の跳ね返りを気にするエレナが引き攣った顔でついてくる。
「殿下をお乗せするんだな。なら、私も乗ろう。商会の代表としてご案内する。この船のことも、私からお話しすれば――」
「お断りします」
カリーナはモップを動かしたまま答えた。
「契約を結んだのはうちの商会だぞ。私が挨拶をすれば、まだ間に合う。不運にも浅瀬に乗ったが、提携先の船をすぐ用意した。そうお伝えすれば、話は通るじゃないか」
カリーナが顔を向けると、レナートは慌てて懐へ手を伸ばした。
「わかった。協力するなら、昨日の指輪を戻してもいい。婚約の話も考え直そう。それなら、お前も文句はないだろう」
「……なんですって!?」
悲鳴のような声を上げたのは、背後にいたエレナだった。
泥のついた扇子を落とし、血相を変えてレナートの腕に掴みかかる。
「何を仰るの、レナート様。わたくしを婚約者だと、皆さまに紹介したでしょう。庭園には、わたくしの友人もいるのよ。その前で、婚約を考え直すですって?」
「黙っていてくれ! 殿下にお会いできなければ、商会には違約金だけが残るんだ。そもそも、お前があんな花嫁席を欲しがらなければ――」
「わたくしのせいですって!? 本流を回ると言った船長をクビにして、勝手に舵を握ったのはあなたじゃないの!」
レナートがエレナの手を振り払い、カリーナへ向き直った。
「お前からも何か言ってくれ。今は争っている場合ではないと――」
カリーナは仲裁せず、浅瀬の〈白鷺〉を示した。
「どうぞ、その泥舟にお二人でお乗りください」
二人が黙った。
「お二人で選んだ船でしょう。婚約も、商売も、もう私には頼まないでください」
カリーナはモップを片づけ、背を向けた。
「出航準備がありますので。そこをどいていただけますか」
ほどなく式典官が戻り、十五名以内に収めた一行の人数と、詰所が確認した航路を伝えた。カリーナはイーヴォと船の状態を確かめてから、王女一行を迎えた。
秋の柔らかな光の中、〈ツバメ〉は静かに水面を滑り、王女は古い橋や川沿いの家々に声を上げた。橋の上の人々へ手を振ると、岸から手が振り返された。カリーナは速度を保ったまま、次の橋の名を告げた。
ダミアンも公務で同乗し、殿下のそばについていた。
やがて船が桟橋へ戻り、王女一行が下船する。
すべての客を見送り、最後に桟橋へ上がろうとしたカリーナの前に、ダミアンがすっと右手を差し出した。
「お疲れさま、カリーナ」
カリーナはその手袋のない手を、躊躇うことなく取った。
ダミアンはカリーナを桟橋へ引き上げた。足が岸についたあとも、その手を放さない。
レナートがこちらを見ていた。カリーナはダミアンの手を握り返し、そのまま隣へ並んだ。
*
その日の夜。
祭りの喧騒が遠のいた帝都の静かな酒場で、カリーナはダミアンと向かい合っていた。
食事の途中で、カリーナはフォークを持ったまま黙ってしまった。気が緩むと、一日分の疲れが出てきた。
ダミアンも話をやめ、店主にスープを温め直すよう頼み、隣へ移ってきた。
カリーナは小さく息をつき、彼の肩に頭を預けた。
ジャケットから石鹸の匂いがした。
「すみません。せっかくご一緒できたのに、眠くなってしまって」
「無理もない。朝から何十人もの命を預かり、泥水の中を往復したんだ」
ダミアンが腕を回し、肩を抱き寄せた。
「岸から君の船を見送っていたとき、戻ってくるまでが長くてな。次の船影ばかり探していた」
カリーナは彼の肩に頬をすり寄せ、目を閉じた。
「ダミアン様が岸で待っていてくださったから。戻ったあとのことは、お任せできました」
「……そうか」
ダミアンが、肩にかかった彼女の髪を梳いた。
温め直されたスープが届いても、カリーナはもう少しだけ、その肩を借りていた。




