第10話 明日は、岸で会いましょう
約束の前夜、最終便の客をすべて降ろし終えた〈ツバメ〉は、静まり返った北岸の桟橋に繋がれていた。
暗くなった水面に、街灯の光が細長く映っている。
カリーナは、明日の休みに備えて手早く船の片づけを済ませようとしていた。だが、作業の手はどうにも覚束ない。
「おい、カリーナ」
機関室から上がってきたイーヴォが、苦笑いを浮かべて甲板の端を指差した。
「モップの水を切ってねえぞ。早く帰りたいのは分かるが、せっかく拭いたところが水浸しだ」
「あ……ごめんなさい!」
カリーナが慌ててモップを桶へ戻すと、イーヴォは首を振って笑った。
「珍しいこともあるもんだ。いつもなら俺が叱られるところだ。……まあ、明日着ていく服でも考えてたんだろ」
「もう、叔父さんまでからかわないで」
そうは言ったが、図星だった。朝から何度も服のことを考えている。どれなら似合うだろう。彼は何と言うだろう。その先に聞けるかもしれない言葉まで考えると、片づけの手が遅くなった。
その時、桟橋の板を軋ませる足音が聞こえた。
見上げると、街灯の下にダミアンが立っていた。濃紺の外套を羽織っている。
「ダミアン様? お約束は明日の朝でしたよね。何か、お仕事が入りましたか?」
「いや。公務ではない」
ダミアンはタラップの手前で止まった。一度目を逸らし、またカリーナを見た。
「……明日まで待つつもりだったのだが、どうしても顔が見たくなって来てしまった。邪魔だったか」
カリーナは、桶を持ったまま笑った。明日を気にして手につかないのは、自分だけではなかったらしい。
「いいえ。……あと少し、片づけがあるんです。そこで待っていていただけますか」
「ああ。いくらでも待つ」
ダミアンは杭のそばで待っていた。カリーナが甲板を拭き終え、点検用のランタンを消すまで、十数分かかった。
作業を終えたカリーナがタラップを渡り、桟橋へ足を降ろす。
イーヴォが機関室の扉を閉めながら「俺は先に上がるぜ」と背を向け、桟橋には二人が残った。
「お待たせいたしました」
ダミアンは差し出された手を取り、川沿いの遊歩道へ歩き出した。ほかに人はなく、水音の間に二人の靴音が聞こえる。
ふいに、ダミアンが足を止めた。
街灯の柔らかな光の下で、彼はカリーナと正面から向き合った。
「カリーナ」
「はい」
「明日の食事の席で、落ち着いて話すつもりだった。だが……今、言わせてほしい」
ダミアンは外套の内ポケットから、小さな濃紺の革箱を取り出した。
「夕方になると、今日も君に会えるだろうかと考える。一緒に食事をしても、帰り道では、もう次の約束をしたくなる。……カリーナ。仕事が終わったら、同じ家へ帰りたい。君と暮らしたいんだ」
彼は革箱の留め金を外した。
細い銀色の輪に、サファイアが留まっていた。街灯に照らされて、深い青が見える。
「私の妻になってくれないか」
箱を見つめているうちに、涙で石の輪郭がぼやけた。
あの濡れるベンチで手帳を開いていた人が、今は小さな箱を持って返事を待っている。視察の用がなくなっても来てくれた。船を降りてからも、帰る時刻まで一緒にいたがった。
カリーナは真っ直ぐにダミアンを見つめ、震える声で答えた。
「はい。喜んで、お受けいたします」
ダミアンが笑った。箱を持つ手が、少し震えていた。
指輪が左手の薬指を滑った。ひやりとした輪に、彼の指が重なる。
カリーナは指輪を見ながら、涙のまま笑った。
「……もう、ダミアン様ったら」
「ん?」
「明日、何を着ていこうか、今朝からずっと悩んでいたんですよ。それなのに、作業着のときに言われてしまうなんて」
「すまない。顔を見たら、先に答えを聞きたくなった」
彼は大真面目だった。カリーナは何も返せずに、指輪を見た。
「明日は、どんな服を着てくるつもりだったんだ?」
「……明日まで内緒です。見てください、そのときに」
「そうか。では、明日がますます待ち遠しいな」
ダミアンが口づけようと顔を寄せた。
カリーナは、彼を待たずに一歩近づいた。
指輪をした手で外套の襟をつかみ、背伸びをして唇に触れた。
ダミアンが腰を引き寄せた。口づけが深くなり、カリーナは彼に身を寄せた。
夜の川風が二人の髪を揺らす。
襟をつかんだ手を緩めると、ダミアンがその手も包み込んだ。指輪が二人の指の間に当たった。
唇が離れても、ダミアンは額を寄せたまま、低い声で尋ねた。
「明日は……朝から晩まで、一日中一緒にいてくれるな?」
「ええ、もちろんです」
カリーナは彼の腕の中で笑った。
「明日は、船に乗りませんから」
二人は指を絡め合い、夜の街へと歩き出した。
振り返れば、静かに波に揺れる〈ツバメ〉の姿が見える。
カリーナは舫い綱が確かに留まっているのを見て、ダミアンへ向き直った。
「明日は、遅れないでくださいね」
「君より先に待っている」
「今夜みたいに、早すぎても困ります」
笑いながら、彼の腕に自分の腕を通した。




