十二
夏休み半ばのこと。僕は弟の紅緒の髪を切っている。ゴミ袋に底に頭が通る程の穴を空けて、すぽりと被った紅緒は母の三面鏡と向かい合っている。
「切りすぎだよ!顎までって言ったじゃん」
「顎じゃないか」
「これのどこが顎?口だよ、口!」
紅緒は顔周りの髪を指差して喚いている。紅緒は琥都くんを目にしてから、前髪を伸ばし出した。そうして彼の髪型と同じにするように要求する。
紅緒が琥都くんに憧れているのは言葉にしなくともわかる。琥都くんが好きで、彼と同じものになりたがっている。足永家の血はどうもあの手の顔に弱いらしい。
「すぐ伸びるさ。文句があるなら美容院に行く事だな」
「お金くれんの?」
「ばか、小遣いに決まってるだろう」
僕が襖を開けて部屋を出る間際に紅緒は舌打ちをした。生意気なることこの上ない。真似たところで、琥都くんにはなれない。僕達兄弟は皆よく似ていた。他人が一目見ただけでも血の繋がりがわかるだろう。
そんな事を考えながら、ふと、琥都くんはどうしているだろうと思った。
坂下の家で坂下の仏壇と向き合ってから、坂下の亡霊探しはやめた。そして今度は本を読み始めた。彼が教科書以外に本を手にしているところを見た事がなかった。僕はそれを見て新たな奇行だと思った。
琥都くんは偶に坂下の話題を口にした。彼の中で何かあったには違いなかった。けれど前のように危うさは感じなかった。それで、僕は進んで彼の内側に踏み込んでいいものか決めかねていた。そうしているうちに夏休みになった。僕はこの夏を煩悶と過ごした。
夏休みが明けると、琥都くんはまた纏う空気を変えていた。明らかに元気がなかった。覇気がないというか、つまり、前の何もせずぼんやりとしている彼に戻っていた。また、何かあった。一体こうもぐるぐると姿が変わるものだろうか?
放課後になって、僕は琥都くんに声をかけた。
「今日さ、家に来ない?」
そうしたのは、彼に良くない兆候あったからだった。また、何か新たな奇行に走る前触れではないか。亡霊か、本か、それともーー
いろいろの理由が僕の行動を裏づけた。が、結局のところ、一番は直観だった。このまま放っておいてはいけない。一人にしてはいけない。それで、僕は彼を僕の家に誘った。
「久しぶりにさ。ほら、弟達も会いたがっているし」
こういう文句を付け足した。前に誘った時に、行くとも行かないとも言わず曖昧な態度で逃げられた事がある。一度断られると、二度目は誘いにくい。が、そんな事を気にする繊細な性質を元来持ち合わせていなかった。今度は逃すものか。
それで、琥都くんはというと、何も反応を示さない。最初、聞こえていないのかと思った。やがて、その目を僕に向けた。どきりとした事は言うまでもない。そして、口を開いた。
「紅緒と天音が?」
彼の言葉を聞いた瞬間、今度は僕が固まった。
「――そう、そうだよ!紅緒と天音が会いたがっているんだ。だから、僕の家においでよ」
僕は語気を強めて言った。温かいものが胸一杯に広がって溢れ出した。驚いたのだ。弟の名前なんて覚えていないと思っていたから。
そうして久しぶりに、琥都くんと二人で僕の家へ向かって歩いていた。途中、スーパーに寄って、夕飯の買い物をした。
入ってすぐの青果コーナーで琥都くんははたと足を止めた。彼はじっとほうれん草を眺めている。
「食べたいの?」
「いいや……それで、何買うんだ?」
「お菓子の買い置きなかったんだ
「絶品ホットケーキミックス……」
絶品、もちやわ食感――この単語に惹きつけられた。坂下の家に招かれた時、彼の母親がホットケーキを焼いて、ことくんはそれを五枚平らげていたのを思い出した。僕はそれをかごに入れた。すると後ろで琥都くんが「お前、甘いの嫌いじゃなかったか?」と言った。
「まあ、たまにはいいかなって思ってさ」
家に着くと、前のように誰も出迎えて来ない。が、テレビの音がするから、家にはいる。
部屋の奥に進むと二人して居間でテレビを見ている。周が「おかえり」とこちらを見た。僕の後ろにいる琥都くんを見て、目を丸くした。
「あれ、コトだ」
周の声に紅緒が奥から覗き見た。最近、ただいまもおかえりも言わなくなった。
「あ、ほんとだ。めずらしい」
周は露骨に喜びを表した。自分の横に呼び寄せて仕切りに話している。琥都くんが元気がなくおもお構いなしだ。紅緒は素っ気ない態度だった。澄まして、テレビの画面に視線を戻した。本当は、琥都くんに会えて嬉しいくせに。
買い物袋を台所のテーブルに置くと、買ってきたものを冷蔵庫にしまった。
ホットケーキを焼くのにホットプレートを出さなければならない。それは背丈よりも高い食器棚の上にあった。僕は手近にある椅子を引き寄せてその座面に立った。
手を伸ばして、ホットプレートを掴み、持ち上げる。大型のものだから、まあまあ重い。僕は居間にいる紅緒を呼んだ。
「紅緒、ちょっと手伝って!」
「えー、何で俺?テレビ見てるのに」
「そんなこと言う奴にはホットケーキやらないぞ」
「え、なに、ホットケーキ?」
紅緒はホットケーキに露骨に反応した。紅緒は反抗期なのか、「何で俺が」が口癖だ。全く、可愛げがない。
ホットプレートを下ろして、のそのそと来た紅緒に渡す。受け取った紅緒はそれをテーブルの上に置いた。
「ホットケーキ作るの?ぼくもやる!」
天音が琥都くんを手を引いてこっちに来た。
「あのね、卵われるようになったんだよ!コトはできる?」
「……やったことない」
「教えてあげる!見てて!こうやってーー」
周は卵を割ってみせると、「すごい?」と言ってくしゃっと笑った。いかにも無邪気な子どもの顔をしていた。
「ーーああ、すごいな」
「でもね、兄ちゃんは片手でわるんだよ!すごいでしょ?」
琥都くんが僕の顔を見た。視線が交わるーー今だに、彼と目が合うとどきりとする。
「そうだな」
口角を上げた。力のない、悲しげな、笑い方だった。心配になった。と同時に美しいとも思った。
こういう顔もするんだ。僕は力なく笑う彼にそういう印象を抱いた。
卵の入ったボールに牛乳を注ぐ。周が琥都くんに混ぜてみろと泡立て器を渡した。こうやるんだよと身振りで教えている。
彼はぎこちなく、天音の真似をした。いかにも慣れていない。そういえば、調理実習でも何もしていなかったことを思い出した。琥都くんは家ではどうしているのだろう?父親がいないと言っていた。母子家庭で、母親は働いているだろう。手伝いなどしないのだろうか?家ではどうしているのだろう。僕は彼の生活を想像した。僕はこの時初めて、単なる美の象徴ではなくて、生きたものとして彼を見た。
今、牛乳と卵をかき混ぜている琥都くんからは人間味を感じた。生きていると思った。
混ぜている途中、彼は急に手を止めた。
「なあ」
彼はボールに目を落としたまま「中学の時に、国語の授業で『少年の日の思い出』ってやっただろう」と言った。
やっただろうと言われても、いまいちピンときていない。
「何だっけ、それ」
「ほら、国語の、主人公がクジャクヤママユを盗んで――それで、エーミールがーー」
クジャクヤママユ、エーミール、その独特な名前を聞いて思い出した。
「あ!あれね。思い出したよ」
「そう。それで、その話の続きを書くって授業があったんだけど、何書いたか覚えているか?」
「続き?そんなのやったかな……」
僕がそう言うと、彼はがっかりした顔をした。そんなもの聞きたいものなのだろうかと不思議に思った。
「琥都くんは何て書いたの?」
「俺も覚えてないんだ」
僕は拍子抜けした。自分も覚えていないことをどうして聞いたのだろう?それに、何故唐突に中学の時の事を?
彼の言葉には脈絡がない。突然始まる。果たして、それは突然ではないのかもしれない。彼の中で何かが起きている。ただ、その内側で起きている変化を表に出さないから、何が起きているかわかりにくい。表に現れた時には、かなりの変化となっている。
もう少し、口に出してくれればいいのにと思う。そう思いながら、僕はホットケーキの粉を入れた。琥都くんは手を動かし続けている。
混ざっているそれが、なんだか普段見慣れているそれとは違う。
「なんか、普通のより大分もったりしてるね」
パッケージの裏の作り方を見た。ちゃんと分量通りだ。まあ、そういうものかと思って、僕は琥都くんからボールを受け取り、ホットケーキを焼きにかかった。
ホットケーキは三枚分だった。一枚を琥都くんに、もう一枚を周に、最後のを紅緒の皿に載せた。それから、バターを四角に切り取って焼きたてのホットケーキに載せる。
紅緒が周のホットケーキの上に蜂蜜をかける。それから、自分のにも。終わると、蜂蜜を琥都くんに渡した。琥都くんは蜂蜜を受け取って、パンケーキの上に大量にかけている。加減というものを知らない。弟がそれをしていたら止めている。
「これあれだよ!ポンデリングだよ!」
周が目をきらきらさせて言った。紅緒も「確かに」と同意する。琥都くんはぽかんとしている。
「兄ちゃんも食べてみなよ!」
フォークに刺して、僕の口元に差し出した。口に入れたそれは、周が言うようにあのドーナツと食感が似ていた。
「ね!そうでしょ?」
「確かに、似てるかも……」
「ポンデリングって何だ?」
一人、話についてこれていない琥都くんが口を開いた。
「ドーナツだよ!あのね、ミスドにポンデリングってドーナツがあってね、コトは知らない?」
「知らない」
「いっぱい種類があって、美味しいんだよ!僕ポンデリングが一番好き!」
琥都くんはポンデリングを知らない。ミスドに行ったことがない。坂下とも行かなかった。そういうことが、頭に浮かんだ。
テレビからアニメのオープニング流れた。それを耳にした紅緒が、すくっと立ち上がって、皿を置いたままテレビのある居間へ移った。叱ろうとすると、周も琥都くんの手を引いているのが目に入った。
まあ、今日はいいか。
僕はホットプレートの鉄板部分を外して、流しへ持っていく。蛇口から水を出す。プレート熱が水で冷まされていく。プレートと皿を洗い終えると、僕も居間へと移った。
三人は並んでテレビに釘付けになっている。僕は琥都くんの隣に座った。琥都くんはテレビから目を離さない。僕もその視線の先に目をやる。ちょうど主人公達が敵と戦っている。
「このさ、ところ天って敵なのか?」
「確か、元々は敵だったけど、今は味方だよ」
「味方なのに殴られてるじゃないか。こいつ、嫌われてるの?」
「いや……そういうわけじゃないと思うけど」
「好かれてたら殴らないだろ」
「まあ、その、好かれてはないだろうけど……」
「コト、そういうのは考えたら負けだよ。考えても理解できないんだから」
紅緒が横から口を挟んだ。
「わけわかんないから面白いんじゃん」
「そういうもの、なのか……」
フッと笑った。
「確かに、意味わかんねえ」
彼がこんな風に笑ったのを久しぶりに見た。歪な笑い方ではなくて、自然に笑っている顔だった。昔の彼を思い出した。坂下が生きていた頃の彼を見た。
「そういえばさ、ゼンジは何してんの?」
僕は口をあんぐりと開けたまま、間抜けな顔をしていた。何故今、このタイミングで、琥都くんが立ち直りかけたこのタイミングで坂下の名を口にした?
誰も口を開かない。テレビの音がいやに耳についた。僕は琥都くんの顔を見た。その目には何の感情も表れていなかった。
黙りこくっている僕らを紅緒は怪訝な顔で見る。
「何だよ、俺なんか変なこと言った?だって前はよく来てたじゃん。喧嘩でもしたの?」
「あいつは――色々あんだよ」
僕はお茶を濁した。琥都くんはスッと立ち上がった。
「――俺、そろそろ帰るわ」
「あ、うん。送ってくよ」
琥都くんはわけありな目で僕を見た。その目は僕に何かを訴えている。そして、以前ならいいよと断ったのに、今日はやけに素直に従った。
僕らは駅へ向かって並んで黙って歩いた。
「なあ」
琥都くんが口を開いた。僕は来たぞと思った。琥都くんは僕に何か話したがっている。彼の目を見た時、そう思った。それで、僕は彼が口を開くのを待っていた。
「お前、俺のこと好きなのか?」
「……はあ!?」
琥都くんは真面目な顔をしていた。冗談を言っているわけではないらしい。元々冗談を言うような人間じゃない。
「なに、急に?」
彼は急に真面目な顔になった。それで、僕の目をじっと見た。僕を捉える目は、僕がずっと見つめられたいと思っていた目だ。独り占めしたいと願っていた目だ。その目に真正面から見られて身体が石のように固まった。身体だけじゃない、思考までもが氷ついている。ただ、心臓だけがどくどくと脈を打つ。
「嫌いか?」
「そんなわけないよ!その、好きだよ、友達として」
「ふうん」
琥都くんの事は勿論好きだ。顔が好き。仕草が、子どもっぽい言動がーー友達として、彼が好きだ。
「……ミスドってさ」
唐突に話が変わる。僕は先の言葉に引っ張られていたが、ぐいと方向を変えざるを得なかった。
「ポンデリングってドーナツがあるのか?」
「うん、あるよ。でも、ポンデリングだけじゃないんだよ。オールドファッションとか……チョコのかかったやつもある」
「そうなのか?」
「うん。きっと琥都くん好きだと思うよ」
「ふうん……」
そう言って、彼は足元に視線を落とした。
「明日さ、買いに行こうよ。色んなの買ってさ、家で皆で食べよう」
「……うん」
その声は、頼りなくて、僕は何だか泣き出しそうになった。




