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かつて天使と友達だった  作者: 梔子
第三章 日記
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38/38

十一

 結局、善次の家にいたのは一時間ばかりだったように思う。本を手にすると倉惶と善次の家を出た。天国のようなあの家が、忽然と無気味な空気を漂わせ出した。


 俺は家へ戻った。相変わらず、家には誰もいなかった。部屋に入って、本の入った袋を床に置いた。それから、窓のすぐ側にある机の引き出しを開いた。


 そこには依然として一冊のノートが、黒の表紙を見せていた。一見ただのノートだ。が、その内側にある死相が外に滲み出ていた。まるで、いわくつきの骨董品のように重々しさを有している。


 自殺かもしれない。善次の日記を読んでそういう考えが閃いた。それが俺を善次の家まで駆り立てた。

 

 日記を読む事は恐ろしい事に違いなかった。見ない方が、幸福だったかもしれない。が、俺は何が善次を決意させたかを知りたかった。知らなければならない気がしてならなかった。そこには、義務めいたものが纏綿していた。思えば、善次の家に行くと言ったあの時から、それは始まっていたのかもしれない。


 日記を手に取るーー俺の右手は薄っぺらいそのノートに重みを感じた。


 「四月七日。僕は三年生になった。初めて、琥都ちゃんとクラスが離れた。足永くんとは同じクラスだけれど、本当は琥都ちゃんと同じクラスになりたかったのだと思う。だから、僕で申し訳ないと思う。

 僕は足永くんと話していない。何を話せばいいかわからなくて、緊張してしまう。足永くんは琥都ちゃんがいないとあからさまに不機嫌だった。僕といると時だけ不機嫌だった。僕の何が気に入らないのだろう?何か、嫌われる事をしたのかな?

 足永くんとは話が合う気がした。彼も映画が好きだったし、何より甘いものが嫌いだったから。それだから、仲良くなりたかった。けれど、難しそう。

 僕は皆と何が違うのだろう?足永くんだけじゃない。皆、僕にはよそよそしい。皆と深く関わる事が出来ない。遠慮がないのは琥都ちゃんだけだった。けれど、その琥都ちゃんも、今では僕以外の人間と仲良くしている。僕は淋しい人間だ。

 足永くんは休み時間の度に琥都ちゃんのクラスに行く。一応僕にも声を掛けてくれる。だから、お昼は三人で食べている。琥都ちゃんと足永くんが二人で話している。僕は会話に入る事が出来ない。話すタイミングがわからない。居心地が悪い。気まずさを紛らわすために、笑っておく。二人は、楽しそう。

 僕などいなくてもいいのかもしれない。琥都ちゃんはもう僕じゃなくてもいいんだ。僕には琥都ちゃんしかいないのに。でも、琥都ちゃんだって、僕を都合の良い人間だと思っているに違いない。僕の家に来るのはお菓子が食べられるからであって、僕自身が目的ではない。現に、同じクラスの子からお菓子を貰っているのを見た事がある。他に与えてくれる人が出来たら、僕はもういらない。」

 

 俺は善次の知らない面を目の当たりにしても、どこかで善次は俺の事を好いてくれている。他とは違う、特別に思ってくれている。そういう自負があった。が、善次は俺の事も他と同じように軽蔑していた。

 

 俺は善次の言葉に自分が思っている以上に衝撃を受けていた。ページを捲る手は石のように固まっていた。衝撃を受けたのは、冷たい言葉を放たれたからだけではない。その言葉が真実らしい響きを持っていたからだった。


 俺は彼の言葉を真っ向から違うと否定できなかった。あの頃の俺は飢えていた。食べ物を与えてくれるのならば誰にでもついて行っただろう。たとえそれがどんな人間であっても。


 俺は初めて善次の家に訪れた時に、半分に分けたケーキを思い出していた。


 俺は自分の意地汚さを自覚した。そして、それを善次に見抜かれていた事を情けなく思った。


「四月十日。三年になった。また委員長を任された。一年の時にやると、そのイメージがつくのか、二年、三年になっても自然とやるはめになる。

 本当は、やらなくていいならば、やりたくはない。けれど、誰もやる人がいないから、押し付けられる。断れない僕が悪い。せめて、別の誰かに押し付けてくれればいいのに、何で僕なんだろう。いつもそうだ。僕ばかり。ついていないと思う。

 頼まれた事は断らない。自分の我ばかり通さず、人に合わせる。それが善だと思っていた。けれど、好き勝手に振舞っている人の方が、皆の輪の中で和気あいあいとしているように見える。それで、僕の方が除け者にされる。一体、何が正しいんだろう。


 四月二十一日。委員会で初めて伊勢野さんと話した。伊勢野さんも一年の時からずっと委員長を任されていたらしい。話していると彼女は『勝手にイメージつけられて嫌だよね』って。僕と同じ事を思っていた。それが嬉しかった。彼女は皆の中心にいるような人だった。そんな人でも同じように思うんだ。何だか救われた気分だった。


 五月十九日。委員会がある度に、伊勢野さんとは話した。伊勢野さんのお兄さんがいるらしい。優秀な人でいつも比べられて辛いと言っていた。僕にもその気持ちがわかる。何とか彼女を元気づけたいと思った。けれど、こういう時、気の利いた言葉一つ出てきやしなかった。

 誰かと比較される苦しさは僕にもあった。けれど、伊勢野さんの抱える苦しみは彼女にしかわからない苦しみだった。だから安易にわかるよとも言えない。

 ただ、僕もと口にしていた。僕も父さんにはよく叱られていると言った。伊勢野さんは「そうなの」と言った。その目には憐れみの色が浮かんでいた。

 憐れまれると何だか申し訳なくなる。居心地が悪くって、平然なら平気を装って跳ね除けていただろう。そもそも、他人にこんな事口にしない。

 が、この時、伊勢野さんの目を見て、ちっとも嫌に感じなかった。むしろ、可哀相に思って欲しかった。僕は一体どうしてしまったのだろう?


 六月一三日。全校集会があった。委員長だから皆の先頭にいる。隣の伊勢野さんが、耳元で「私達がいなくなったら、誰がここに立つんだろうね」と言った。僕は思わず伊勢野さんの顔を見た。彼女は僕を見て微笑んでいる。

 その顔を見ていると、動悸がした。どくどくと血が流れているのを感じる。僕は慌てて視線を逸らした。

 伊勢野さんはどうして突然そんな事を言い出したのだろう?伊勢野さんの意図がわからなかった。

 集会の間、彼女は僕の隣で何事もなかったかのように立っていた。

 放課後、先生に掲示物の貼り替えを頼まれて、それをしていると伊勢野さんが手伝ってくれた。用事があるお言っていたのに。足永くんを呼んで手伝わせたのには驚いたけれど。

 僕だけが我慢すれば良いと思い込んでいた。皆も僕には何を押し付けても良いと思っている。けれど、伊勢野さんはそれをしない。彼女は信用に価する人間だ。」


 この「伊勢野さん」が出てきてから、悲観的な言葉が少なくなった。元気、活力を取り戻していた。俺はあれと思った。ここからは死の気配がしない。


 自殺だと思った。けれど違うのかもしれない。それに、何だろう……この善次は俺といた時の善次とは違う。幸福感に満ちていた。


 それからも度々「伊勢野さん」はその名を現した。日記には俺の名前ではなくて、彼女の名前を占めるようになった。善次は俺の代わりをーーそれはより良きものだったーー見つけた。上辺だけで取り繕うのではなくて、魂からの共感が出来る相手を。


「伊勢野さん」は一体どんな人間なのだろう?多分、一度も同じクラスにはなった事がない。謎に包まれた女。あの善次が良い人間だと評するくらいなのだから、余程の人格者なのだろう。


 彼女についてわかる事はーー七月一日の日記にこういう事が書いてあった。「頭の高い位置で髪を一つに結んでいた。それだけで印象ががらりと変わる。殊に伊勢野さんは艶のある色素の濃い黒の髪は目を惹きつける。僕の席からは、彼女の後ろ姿がよく見える。束ねた髪の先から白い首筋をちらつかせていた。今もその首筋が目に浮かぶ。」

 

 あの善次が誰かに関心を持っている!善次がこれほど誰かに執着しているところを見た事がなかった。誰に対しても優しくて、分け隔てのない、けれど、とりわけ特定の誰かに固執する事はなかった。


 それにしても、妙だなと思った。死ぬはずのない人間が死んだ事になる。謎はまた謎に戻る。「突然死」が現実味を帯びてくる。


「十一月十日。放課後、伊勢野さんと二人で教室で仕事をしていた。僕ら以外には誰もいなかった。それだから、普段口にしないような言葉も自ずと口から出た。

 受験が近かったため、その話になった。中学受験に失敗したこと、父さんに叱られたこと、それを見た母さんに泣かれたこと、話し出したら止まらなかった。話し終わると、彼女は僕の手を握った。身を乗り出して、そうして、目を閉じて『辛いね』と言った。

 ほんの一瞬、彼女の鼻の先が僕の鼻先に触れた。これ程の喜びはなかった。

 僕は興奮していたのだと思う。それで、ある事を話してしまった。それは僕の根底にある、最も悲しい出来事だった。彼女に共感して欲しかったからだ。哀れんで欲しかった。

 ああ、思い出したくもない。どうしてあんな事口にしてしまったのだろう。後悔しても、もう遅い。

 伊勢野さんは『そんなに自分を卑下しないで。私は笑っている坂下くんの方が好きだよ』と励ますように笑った。その口元には明らかに軽蔑が浮かんでいた。

 本心を曝け出さば、嫌われる。瞬時に理解した。もう、何も言うまい。言いようのない悲しさが湧いて来た。結局僕は誰からも理解されない。


 十一月十一日。本音を押し込めて、表面では笑っている。言わなければ、僕の考えている事は伝わらない。何も考えていないことと同じになる。それが虚しかった。

 僕は言いたいのだろうか?けれど、言えば拒絶される。それは嫌だ。それならば、黙っているより他はない。

 淋しい。僕は誰からも必要とされていない。僕がいなくとも、うまく行く。それなら僕はなぜここにいる?


 十一月二十三日。嫌な事を言う人とも付き合わないといけないのだろうか。それとも、拒絶してもいい?自分にとって気分を良くしてくれる人とだけいるのは、ダメなこと?都合の悪い事を言う人を拒絶するのは甘えなのだろうか。堪えないといけないのだろうか。その言葉を受け止めないといけないのだろうか。どうだろう。どうすればいいのだろう。厳しい事を言われても、受け止める度量は必要な気がする。受け止められなければ心が貧しい。


 十一月二十八日。受験の日が近づいている。どうにも落ち着かない。また、失敗しそうな気がする。中学受験に失敗した時、父にはかなり怒られた。また、あれを味わうのだろうか。二度と失敗は許されない。神経が張り詰めている。怒られるのは嫌だ。逃げたい。

 幼い頃、父のようにならなければいけないと思った。そのために努力してきた。けれど、今ではそれが無理な気がしてならない。

 本音を言うと、父のように偉くなりたいわけじゃない。尊敬されたいわけじゃない。ただ、何か良きものにはなりたかった。けれど、良きものになろうとすると、却って悪い感情ばかりが湧いてくる。僕は何者にもなれない気がする。

 

 十二月四日。人は何故生きるのか、何のために生きているのか、僕にはわからない。僕は何故生きるのか、何のために生きているのか……ここ数年そればかり考えている。考えるのは疲れる。もう止めにしたい。解放されたい。が、その思考は影のようにくっついて逃れようとする僕から離れない。光が明るければ明るい程、その影は濃い闇となる。それから逃れるには死があるのみだった。死ねば、もう考えなくて良い。死とは思考からの解放だ。死ぬ事が出来ない限り、永遠にこの苦悩に堪え続けなければならない。僕は、覚悟が出来た。」


 覚悟――たった二文字の言葉は、妙な輝きを放っていた。それから目を離す事が出来ないでいた。まるで、暗闇の中に光る人魂のように。


 善次と伊勢野さんとの間に何かがあった。そして完全に他者から心を閉ざし、内に塞ぎ込んだ。そして、再び日記から死が漂い出した。


「十二月十八日。最後に鎌倉に行くことにした。不思議だな、帰ろうと思えばいつでも帰れるのに。僕はそれをしなかった。

 鎌倉駅に着くと、昔通っていた教会に行った。礼拝の後、祖父母に連れて行ってもらった喫茶店に行った。

 昔は祖父母と一緒だった。この時ばかりは何も気にせず好きなものを食べられた。結局いつも頼んでいたタマゴサンドとホットコーヒーにした。

 日曜日という事もあって、店の中は混んでいた。それにも関わらず、店の中は落ち着いた雰囲気だった。

 案内されたのは窓際の席で木々の植えられた庭がよく見えた。緑が目に優しい。ここは昔と変わらない。懐かしいと思った。あの頃に戻りたいと思った。

 食べ終えると、僕は祖父母の家に行ってみることにした。祖父母が死んでから、一度も訪れた事はない。予期していたものと反していた。誰もいない森閑としたところを想像していた。

 それが、家の近づくたびに子どもの声が聞こえる。背伸びをして塀から中を覗いた。庭に面した部屋で五、六歳くらいの子どもと隣にいるのは恐らく母親だろう。二人でままごとをして遊んでいた。

 奥から父親と思われる男性が姿を現した。二人の側に寄って、胡座をかいて座った。仲睦まじそうな家族ーー僕の家には別の家族が住んでいた。もう僕の帰る場所はどこにもない。その事実を眼前にはっきりと突きつけられた。僕はどうしようもなく、東京に帰る事にした。


 十二月二十六日。今日は冬休みに入る前の最後の登校日だった。僕は久しぶりに琥都ちゃんに会いに行った。理由なんてない。ただ会いたかったから。そして二人で一緒に帰った。昔みたいに何気ない事を話した。楽しかった。駅で電車を待っている時、雨が降り出した。空を見ながら、雪になりそうと無意識に呟いていた。

 すると、それを聞いた琥都ちゃんが『ああ、そうだな』と言った。その言葉を聞いた瞬間、今日だと思った。

 覚悟は決めていたのだけれど、それをいつにするか決心がつかずにいた。不思議だな、生きていたくなんてなかったのに。

 けれど、琥都ちゃんが今日だと言ってくれた。うじうじしている僕の背中を押してくれた。

 琥都ちゃんに会いたいと思ったのも、雨が降ったのも、僕はそこに運命を感じている。

 今は夜、もうすぐ日付が回ろうとしている。ふと、窓の外を見ると、白の結晶がちらちらと落ちている。予期していた通り、雨が雪に変わった。ああ、何ということだろう。

 僕はもう眠ろうと思う。漸く、全てから解放される。最後に琥都ちゃんと話せて良かった。」


 十二月二十六日の次の日の朝、善次は死んでいた。この日の日記は先へ進むにつれて、字が歪み、最後の方は善次が書いたようには見えないみみずのような字だった。


 最後に善次と話した時のことは覚えている。彼が「雪になりそう」と言ったことも覚えている。それに対して「そうだな」と言ったことも覚えている。


 俺は日記を見ながら「違う」と言った。違う。そういうつもりで言ったのではない。俺は、善次が死にたいと思っていたなんて知らなかった。死のうとしているなんて知らなかった。


 けれど、その言葉を契機として善次は何らかの手段を使って死んだ。つまりはーー


「俺のせい、なのか?」






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