十
「八月二十四日。今日からまた学校が始まった。気が重い。誰にも会いたくない。人と話すのが怖い。
八月三十一日。朝ごはんはポップターツだった。母さんはまた通販で買ったようだった。目に入った瞬間、吐き気がした。ここ最近、胃の調子が悪い。消化されずにそのまま残っているみたい。
九月二日。皆、自分が発した言葉がどう他人に影響するかちっとも考えない。能天気なものだと思う。言葉というものには気を付けなければならない。慎重に扱わなければならない。些細な一言で、相手を地獄に突き落とすかもしれないから。けれど、そんな事誰も考えない。
二年の時、国語の国語の授業でヘッセの少年の品の思い出の続きを書いて皆の前で発表するというものがあった。僕は『僕』が盗んで壊してしまったクジャクヤママユを何とかして手に入れてエーミールに謝罪しようとした時、彼を帰らぬ人として、僕の罪を永久に許されないものとした。読み終わると、どこかから『暗くね?』という声がした。他の者は仲直りをしたとか、大体そんな話を作っていた。僕はそれらを聞きながらそんなに簡単に済むものかと思った。
九月四日。疲れた。眠りたいのに眠れない。朝になって漸く眠気が押し寄せてくる。何だか最近気が散って集中できない。こんなんじゃいけない。また父さんに叱られる。中学でも失敗した。高校こそは受からないといけない。父さんみたいにならないといけない。いけないと思うのに、そうなれない。苦しい。逃げたい。
九月十日。模試の結果が良くなかった。父さんに何て言われるだろう?眠いのに、眠れない。身体は眠ろうとしているのに、脳がそれを拒んでいる。気が休まらない。神奈川に帰りたい。あの頃は、幸せだった。祖父と祖母がいたし、何より家に叔父が来ることもなかった。あの頃に戻りたい。あの家に帰りたい。東京の家は居心地が悪い。普通に呼吸できない。生きているのが辛い。」
日記はいつも暗かった。読む度に、知らなかった彼の内側を見た。見ると、まるで唐突に冷水を浴びせかけられたように俺を驚かせた。いや、冷水というよりも、酸をかけられたように、ひりひりと焼けるような痛みを伴った。
善次は物事を悲観的に捉えている。彼は神経質で、深く考え過ぎるきらいがあった。俺は善次の隣にいて、彼がそんな事を考えているとはとても想像つかなかった。彼は綺麗な言葉ばかり話した。それは彼の性質から来るものだと思っていた。
けれど、それは性質というよりも、そうしなければならないと適切な言葉を選んで話していたとこの日記から感じた。何事も深く考え過ぎる。それ故に、言葉に慎重だった。誰も傷つけない言葉を探していた。
「十月九日。僕が何も言い返せない事を良い事に、面倒事を押し付けてくる。本当は僕だってそんな事したくない。僕は嫌だとは言えない。嫌だと言って不快な顔をされるのが苦痛だからだ。それならば、僕が我慢した方が良い。
皆僕を良い人だと言う。僕自身も良い人であろうとした。が、嫌だと思う自分がいることを認識していた。
小学生の頃、矢部くんと江東くんが教室でふさげていて、僕の工作を壊したことがあった。僕はそれを教室の外で聞いていた。二人は僕に気づいていないから、「坂下が自分でした事にすればいい」なんて言っていた。先生に叱られるのが嫌だから、僕に責任を擦り付けた。
正直僕は腹が立った。と同時に惨めな気分になった。僕は押し付けてもいい人間と見なされていた。情けなくて、泣きそうになった。ちょうどその時だった。琥都ちゃんが矢部くんに頭突きをした。驚いたのは言うまでもない。
それは、まるで何も言えない僕の代わりに二人を咎めてくれているみたいだった。僕はそれが嬉しかった。何だか救われた気分だった。
嬉しくて僕は琥都ちゃんにどうして矢部くんに頭突きをしたのか聞いた。理由を知りたかった。僕のためだと言って欲しかった。今になって思うと、あの頃の僕は欲しがりだったと思う。
琥都ちゃんは僕のためとは言わなかった。理由はもうどうでも良い。ただ、嬉しいと思った。僕は琥都ちゃんさえいればいい。他には何にもいらない。だから、僕から離れていかないで。」
ああ、善次だ。胸の内が懐かしさと切なさで一杯になった。俺の知っている善次がここにいた。この日の日記を読んで、俺は久しぶりに善次に会った心地がした。
頭突きをしたのは覚えている。あの後、善次に窘められた事も覚えている。俺の粗暴な行動を嫌がっていると思っていた。けれど、嬉しかったのか……善次は、嬉しかったんだ。
これまでの日記を思い起こした。善次らしからぬ言葉に動揺したのは事実である。戸惑いの感は起こった。違う人間を見ているみたいだと思った。けれど、それは言葉通りの意味しか持たなかった。
思っていた善次と違うからといって、嫌いになったわけではない。軽蔑したわけではない。
ただ、善次も醜い感情を持つのだと、ちょっと意外に思った。端からそんな感情を持ち合わせていないような、そもそもそんな感情自体を知らないといった顔をしていたから。
「僕から離れていかないで」
その文字を見て、俺は首を振った。離れるわけないだろう。離れたのは善次の方だ。いつからか、善次は俺達の前に姿を現さなくなった。三年になって、クラスが変わって、でも最初の頃は一緒にお昼を食べていた。いつからか、善次だけ来なくなった。
三年になってからの善次を俺はよく知らない。俺は一度そこで日記を閉じた。今、これ以上は受け止められない。
それから、特に何をすることもなく、二、三週間が過ぎて、夏休みに入った。俺は宿題なんてろくにせずに、徒然と過ごしていた。借りた本にも手をつけずにいた。何となく、何をする気にもなれなかった。
が、ある日唐突に思い立って、俺は机の引き出しから日記を取り出した。あの日の続きを読む事にした。日付を見ながらパラパラと捲っていく。
果たして、続きにはある絵が描かれてあった。その絵は縄で輪っかを作ってあった。が、その結び方というのが、輪っかの結び目のところを一方の縄でぐるぐる巻きつけてあった。それは絞首台とか、首吊り自殺を想起させた。その隣にハングマンズノットと記されてあった。
突然現れた絵に戸惑いつつも、次のページに視線をずらした。
「十二月六日。首を吊ると初めに頭がカッと熱くなって、それから目に光を感じるらしい。その景色は綺麗だろうと思った。光を感じながら意識を失っていくのはちょっと惹かれる。そういう死に方もありなのかもと思った。
でも、もしそうしたとして、それを最初に見るのは間違いなく母さんだ。それは、避けたい。飛び降りとか手っ取り早く済みそうだけれど、もし下に誰かがいたとしたら、何の罪のない人まで巻き込んでしまうのは避けたい。それに飛び降り死体は醜いという。発見した人が不快に思うかもしれない。飛び降りはだめだ。何かいい方法はないか?
十二月十一日。京都に一度足を踏み入れたら決して浮かんでこれない底なし沼があるらしい。泥が堆積して、それが深いからこの池で入水自殺した人の遺体は見つかっていないと言う。ここならば、誰にも気づかれずに死ねるだろうか?ああ、でも京都は遠い。もし、死ぬのならば、今みたいに寒い日がいい。雪の降るような寒い日に、誰にも気づかれないようにそっと死にたい。」
「何だよこれ……」
次に書かれたものを見て、俺は動揺していた。思わず、日記から手を離した。音を立てて床に落ちた。日記は開かれたままその面を床に付けていた。重々しい黒の背をこちらに向けている。俺は、ぎこちなく、拾い上げた。ページをもう一度見る。
見間違いではなかった。そこに書かれてあったのは、種々多様な薬だった。どれも、睡眠薬としての役割を持っていた。それらを何錠飲めば致死量に値するかという事が四ページにわたって些細に書き記してあった。
「眠っているうちに、そのまま死んだ」
そう聞かされていた。突然、死んでしまった。その「突然」という言葉が薄っぺらい響きに変わった。
突然死んだ人間が死に方を綿密に調べ上げているか?突然死んだ人間がこうも死にたいなどと日記に書くだろうか?
ーー嘘だ。突然なんかじゃない。明らかに死に向かっていた。違う、突然じゃない。兆候はあった。ただし、この日記の中にのみ。
次のページには何事もなかったかのように日記が再開されていた。
「十二月四日。学校までの坂道を上っていると、目の前に首吊り縄がぶら下がっているのが見えた。ハングマンズノット。僕が一歩進むと、ぶら下がった縄も一歩先へ進む。もし、この縄が進まないとしたら――?何となく、ああ、僕はもうすぐ死ぬのかもしれないと思った。」
この言葉を見た瞬間、あることを思い出した。俺の頭にはその光景が流れた。中学校までの坂道、上りながら善次はぼんやりと宙を眺めている。そして何かを呟いた。あの時は何と言っているかはっきり聞き取れなかった。何とかノットと言っているのだけはわかった。が、今わかった。あれは、首吊りをする時の縄の結び方の事だった。
「ハングマンズノット」善次はこう言ったんだ。歩きながら、そんなものを見ていたのか?
「十二月二十四日。ここ数か月、死ぬことばかり考えている。誰がわかってくれるだろうか、僕のこの心を。」
俺はいてもたってもいられなくなって、日記を引き出しにしまうと、慌ただしく受話器を取った。善次の家の電話番号を押す。電話に出たのは叔母さんだった。俺は手短にこれから行くと伝えるとそのまま家を出た。
足早に歩きながら、善次の言葉が俺の頭に纏わりついて離れなかった。眠れないこと。勉強が思うようにいかなくて追い詰められていたこと。それから叔父のこと。善次を苦しめるそれらを、善次自身はどうする事も出来なかった。誰かが代わりに何とかしなければならない。善次は攻撃など出来ない人間だから。
俺はある意志を持って善次の家を訪れた。事前に電話しておいたから、勿論彼の叔父の姿はなかった。叔母さんはいつもの笑顔で向かい入れてくれた。ただ、脳裏に泣いている姿がちらつかない事もなかった。
俺にはある目的があった。ここに来たのは日記にあった事が真実だったか確かめるためではない。それならば、何のためにと思うだろう。
善次は言いたいことを言えない人間だった。言えないのならば、誰かが代わりに言わなければ、善次の思いはなかったことになる。
そんな事にしていいはずがない。そして、それは俺の役割だった。善次の心を知っているのは俺だけだから。
「いらっしゃい、琥都ちゃん」
善次の家に着くと、叔母さんはいつものように俺を迎え入れてくれた。俺はいつものように叔母さんの後ろを歩きながら、口を開いた。
「あの、この間はすみませんでした。突然押しかけて」
「どうしたの?改まって」
叔母さんはくすくす笑いながら「気にしないでいいのよ」と言った。
「でも、あの人――善次の叔父さんでしたっけ。何か用があったんじゃないですか?」
「大したことじゃないのよ。だから気にしないで」
「よく来られるんですか?」
「どうして?」
「善次から聞いたことがあって。よく叔父さんが来るんだって。でも俺会った事がなかったから」
俺は叔母さんにある意をもってしてこの言葉を放った。
「そうなの。それより、暑かったでしょう。アイスクリーム食べる?」
叔母さんは俺の言葉をひらりとかわした。そして俺の答えを聞く前に彼女は冷凍庫を開いてアイスクリームの箱を取り出していた。アイスクリームディッシャーで乳白者のそれを掬った。そしてガラスの器に丸く載せる。
何か反応を示すかもしれないと思った。その「何か」がどのようなものかはわからない。けれど、「何か」があるということはわかるかもしれない。
けれど、実際は叔母さんは何の反応も示さなかった。そもそも彼女は日記の存在を知っているのだろうか?そして、その日記がなくなった事に気づいているのだろうか?
俺はキッチンの椅子に座って、隣の部屋の善次の仏壇を見やった。彼は言いたい事を我慢して生きてきた。言う事なく、善い人間の皮を被ったままその一生を終えた。彼の仏壇を眺めていると、胸の内にある感情が込み上げてきた。そしてそれが俺の口を動かした。
「叔母さんは、善次が眠れないって聞いたことありませんか?」
「え?」
彼女の声は緩やかだった。何の話をしているかわからないって言っているみたいだった。
「前に、善次が、顔色が悪い事があって、どうしたんだって聞いたら眠れなくて、しんどいって。叔母さんは、善次からそんな話、聞いたことはありませんか?」
「善次がそんな事を?――確かに、遅くまで勉強していた事はあったけれど、眠れないなんて聞いた事がないわね」
叔母さんはアイスクリームの入った器を俺の前に置いた。彼女はあっけらかんと答える。そこで、俺はもう一歩踏み込んだ。
「――眠れなくて、薬を飲んではいませんでしたか?」
「いいえ、そんな事はなかったわ」
叔母さんは丸い目をぱちりと開いた。それは、はっきりとした拒絶だった。こうしていると、善次の目の形と似ていない。善次の目は彼の父親に似ているのだろうか。
「あの子ね、毎日楽しいって言ってたわよ。話に出てくるのはあなたの事ばかりだったわ。あの子が死ぬ前の夜だって、あなたの事を話していたのよ」
俺は肩を落とした。叔母さんは何も、揺らがない。彼女は何も知らずに、たった一人で息子が死んだ後も、息子の友人にお菓子を振る舞っている。彼女の行為は慈善的だった。それは無差別な慈善だった。
目の前に置かれたアイスクリームを眺めた。室内の空気に晒されて溶け始めていた。それを掬って、口に入れた。甘い。善次が嫌いな甘い味がした。
食べ終えると、俺は善次の部屋に行った。そして、善次の部屋で本棚の背表紙を眺めていた(本を借りる名目で彼の家を訪ねていた)。
正直、読む気になれなかった。だから、適当に、何冊か手に取った。そのうちの一冊の表紙に妙に見覚えがあった。それは画集だった。パラパラとページを捲って、サッと目を通していると、あるページではたと手を止めた。
そのページには白の服に白の翼を持った天使と、その向かいに赤と青の衣を纏った女性が描かれてあった。絵の下に「グイド・レニ、受胎告知」と印刷されてあった。
俺はこの天使を善次と似ていると感じた事を思い出した。




