九
「何だよこれ」
俺は一度日記から目を離した。これ以上は読み進める事が出来なかった。脳が受け付けない。理解が、出来ない。俺は善次が書いた字を見て、それを俄かには信じられなかった。嘘だろと思った。
昔、善次の家に招かれた時、彼の綺麗な家を見て、天国みたいだと思った。その家では空腹を知る事がなかった。だから、そこで暮らす彼らの生活は幸福そのもののように見えた。けれど、この日記の善次はちっとも幸せそうじゃなかった。
俺が見ていたものとは余りに違い過ぎた。幸福の象徴だったあの家が、俄かに張りぼてのレプリカに姿を変えた。
甘いものが嫌い?俺の頭には過去の記憶があれこれと蘇っていた。嘘だ。だって、ずっと一緒に食べていたじゃないか。嫌いだなんて一言も聞いたことが無い。
無いと断定したところで、俺は善次が給食のプリンをくれた事を思い出した。あれは、好意ではなくて、自分が嫌いだったから?まさか、いや、でももしそうだとしたら――ただ嫌なものを押し付けていただけ?
いや、いや、違う。善次に限ってそんな事、あるわけないだろう?
俺が知っている善次は甘いものが好きで、人参が嫌いで――ああ、でも……善次の口から好きだと聞いた事はなかった。善次が何が好きで、何が嫌いか、俺ははっきりと言えない事に、今気づいた。
俺は日記に視線を落とした。嫌いなものを好きだと言った。嫌いでないものを嫌いだと言った。俺は善次が嘘をついていたことに驚いた。嘘などつけないような顔をしていたから。その嘘は俺の気を悪くしないためだった。そうやって、他人のことばかり気にかけているのはいかにも善次らしかった。
別に、嫌いだと言われても何とも思わない。それで怒ったり、善次の事を嫌ったりしない。何でそんな事を気にするのか、理解出来なかった。嘘をつかれていたことに、怒りの感情はない。ただ、同じだと思っていたから、分かり合えていたと思っていたから、それが悲しかった。
それは別にしても、テストの点が悪くて父親に怒られていた事も信じ難かった。善次は賢かった。勤勉だった。英語の訳でも間違えた事などなかった。彼はいつでも正しかった。誰が見ても優秀なのに違いなかった。
それなのに、父親に怒られていた。泣いている叔母さんに、それを慰める叔父――想像できない。そういった事を善次の口から語られた事は一度なかった。
隠していた。嘘をついていた。でも、一体何のために?考えてみた。首を振った。わからない。善次がわからなくなった。何故こんなにもわからないのだろう?善次は俺にとって一番の友達だったのに。中学の三年になってからクラスが離れたし、一緒にいる時間は少なかった。けれど、あの頃は、少なくとも小学生のあの頃は、俺たちは友達だったろう?
何の特徴もない黒の一冊の手帳が恐ろしいものに感じた。けれど、読まずにはいられなかった。手が痺れて、上手くページを繰ることが出来ない。
「七月一日。また、叔父さんが家に来ている。東京に越してきてから、叔父さんはよく家にくるようになった。それも、父さんがいない日に。笑い声が階下で響いている。二人は楽しそう。僕がいることなんか忘れているみたい。
二人の声が嫌に響いて耳がざわざわする。よくもまあこんな図々しく(とここで途切れてある。実際はこの『図々しく』の部分は線で塗り潰してあった。が、そう書いてあるのがわかる)
いけない。こんな事を言ったらいけない。
小学生の頃は、毎日のように琥都ちゃんを家に呼んで、叔父さんが来ないようにした。けれど、今はそれも出来ない。足永くんも引き連れようとしたけれど徒労に終わった。彼は僕の家が好きじゃないみたい。
何とかして追い出したい。いなくなって欲しい。叔父さんが来るのは、とにかく良くない事だ。
母さんと叔父は僕を子どもだと思って、彼らの思惑に気づいていないと思っている。もしくは、二人自身も気づいていないのかも。
いや、母さんはともかく、叔父は気づいている。けれど、気づいていないふりをしているだけだ。僕は叔父がこの家に来る目的を知っている。紳士の面を被って、おぞましい人だ。僕が勘づいていないとでも思っているのだろうか?中学生は大人とは違う。けれど、完全に子どもでもない。その事に二人は気づいていない。」
善次が誰かを好ましく思っていない事が意外だった。「図々しい」なんて善次にしては思い切った言葉だった。善次は何を言われても、どんなに嫌な事をされても、怒ったり不機嫌な顔をしなかった。その善次がこれ程に嫌悪の感情を示すなんて。いや、それとも、顔には出さないだけで、心の内では、別の感情があったのか?
俺は彼の叔父の姿を思い出した。善次の家の玄関ですれ違ったあの男――背の高い、細面のややつり上がった目を。「じゃあ、また」と善次の家を後にした。それに視線で答える叔母さん。二人のやり取りには親密さがあった。「また」という事はまた会う事があるという意味だ。
善次はそれを拒んでいた。何があったか知らないが、善次は彼の叔父を嫌がっている。殊に、彼と叔母さんが親しいことを。叔父を近づかせないために、俺を家に招いていた。こう考えて、俺はまた頭を抱えた。俺を家に招いていたのは、俺と遊びたかったからではなくて、そういう理由で?
日記の善次はこれまで俺の目に映っていた善次とは真逆だった。まるで表と裏が逆さまになったような――それも突然めんこのようにぴしゃりとひっくり返されたみたいだった。彼の行動は全てが善意に起因すると思っていた。が、この日記の善次は人を手段として使っていた。俺は利用されていた。俺に何ら被害はなかった。けれど、何だか、信じられなくなった。この日記をでもあるし、善次自身を。
俺は善次を思い浮かべてみる。浮かぶのは、あの天使のように微笑む顔。この日記は偽者が善次の評判を下げるために拵えたようにしか思えない。お前は本当に善次なのか?
俺は日記を閉じた。考える事に慣れていない俺はそれきり、日記を机の引き出しにしまった。
次の日の朝、学校へ行くのに最寄りの駅に向かっていた。歩いていると、雨の降る前の匂いがした。駅についてエスカレーターでホームに上がって電車が来るのを待つ。ふと顔を上げると、善次が「落ちるぞ」と思った歩道橋が視界に入った。ちょうど、善次がそう書いたのと同じ時期だった。
ただ、歩道橋は塗装工事中で通行止めになっていた上にその橋自体も白の板で覆われており、誰も落ちようがなかった。
「落ちない……」
俺はそう呟いていた。そこで、電車の到着を告げるアナウンスが流れた。暫くして、電車がホームに着いて、歩道橋は見えなくなった。扉が開く。俺は電車に乗り込んだ。
学校に着くとそこにはもう海人の姿があった。近くの席の生徒と話している。二か月程しか経っていないのに、彼はもうクラスに馴染んでいた。中学三年の時、善次とクラスが離れても、一人きりにならなかったのは、二年の時に海人が周りの人間と繋いでくれたからだった。
海人は俺に気づくと話すのを止めた。嬉々として、俺の名前を呼んだ。俺は彼の態度が不思議だった。いつからか、俺達の側にいた。善次が死んでからも、俺の側にいた。海人はどうして俺の側にいるのだろう?
善次の日記を読んでから、行動に裏がある気がして、何か目的があるのかと考えてしまう。海人の家には何度も行った。そこには、彼の弟達がいた。彼の両親とは顔を合わせた事が無い。けれど、彼らからは、仲の悪さは感じられなかった。
「なあ、海人」
「なに?」
「善次って賢かったよな」
「え……まあ、そうだね」
「授業で、間違えた事なんてなかったよな」
海人は「たしかに」と同意した。が、すぐに「あ……でも」と否定した。
「三年の時さ、琥都くんはクラスが違ったから知らないかもだけど、氷見っていたじゃん。英語の」
「ああ」
「当てられてさ、答えられなくて――で、その時機嫌悪くってさ。ものすんごく怒られたんだよ」
「答えられない?」
「うん、なんかぼーっとしててさ、机の上に別の教科の参考書が載ってて、それで氷見が怒って、ねちねち嫌味言ってたんだよ。ほら、まあ、受験前だから皆もそうしてたんけどさ。何か、気に食わなかったんじゃない?」
氷見の機嫌が悪いのも嫌味を言うのもいつもの事だった。が、善次が怒られるのは、普通ではなかった。俺の知らない善次を知っている。続けて、「あのさ、善次って何が好きだったか覚えてるか?」と尋ねた。
彼の眉がちょっと迫った。質問の意図がわからないと言った風だった。
「何がって、例えば?」
「ほら、食べ物とかさ……」
「食べ物なら、二人ともよく食べてたじゃん。ホットケーキとか、ココアとか」
俺も知っている事だった。やはり、善次は他の人の目から見てもそう映っていた。その事実に安堵していた。すると、海人は「あ、でも」と遮った。
「休みの日にさ、偶然坂下と会ってカフェに入ったんだけど……坂下、コーヒー飲んでたんだよね。ちょっと意外だったな」
また、知らない善次が現れた。叔母さんも善次がコーヒーを飲んでいたと言っていた。ついでに「でも、坂下のことなら琥都くんの方が知っているでしょ」とさらりと言ってのけた。俺は海人の言葉にぴしゃりと打たれた。知らないんだ。俺は何にもわかっていないんだ。そう、胸の内で呟いた。そして、苦しくなった。
知らないのならば、知ろうとしなければならない。俺は家に帰ると引き出しから日記を取り出した。この日記は恐ろしかった。けれど、知るためにはこれを読むより他はなかった。昨日の続きから読み始めていった。
「七月二十四日、今日は放課後に琥都ちゃんと足永くんとファミレスに行った。琥都ちゃんは相変わらずデザートばかり頼んでいた。足永が呆れていた。琥都ちゃんはファミレスに行くのは初めてだと言っていた。はしゃいでいて楽しそうだった。僕も友達とファミレスに行くのは初めてだ。まるで、夢みたい。毎日がこうだったらいいのにと思う。明日は塾だ。考えただけで今から気が重い。
八月三日。足永くんは僕の事が嫌いみたい。僕といるとあからさまに不機嫌な顔をする。そして目を合わせない。言葉も、素っ気ない。僕のどこが嫌なんだろう?何がいけないのだろう?どこを直せばいい?僕も足永くんと仲良くなりたい。今日、偶然足永くんに会った。それで、カフェに誘ってみた。コーヒーを飲んでいるのが意外だと言われた。そうかなと思った。僕の好きなものも嫌いなものも、きっと人にはわからないのだろうなと思う。僕が本当の事を言えないせいだ。別に、どうでも良い事だけれど。うまく付き合えないのは、足永くんだけでなくて、大抵は面倒事を押し付ける人達で、お願いされる事はあっても対等な関係を築くことが出来ない。都合の良い人間止まりだ。良い人いたいから、それでもいいのだけれど、少し淋しい。断って、誰かを不快にするよりは、僕が我慢した方が良い。そうすれば、全部うまくいく。
八月四日。うまく笑えない。頬が引きつっている感じがする。僕はどれほど醜い顔をしているだろうと不安になる。鏡の前で笑ってみる。その顔は平生と変わらない。それなのに、人を前にすると顔が強張って笑えなくなる。何かがおかしい。疲れているのに眠れない。身体は眠りを求めているのに、頭がそれを拒絶しているかのようだ」
俺はこの日記を疑って見ていた。善次の書いたものだとは理解はしているが、心のどこかで嘘だと思っている自分もいた。言わば半信半疑でこの日記を読んでいた。それが、ここに書かれてある事は本当かもしれないと思い始めたのは、断片的に記憶に残っている彼の姿と重なった時だった。
いつの日だったか、顔色が悪いことがあった。具合が悪いのかと尋ねると平気だと言って笑った。その時の乾いた笑い声を思い出した。善次の表情に翳りがあった。そんなことに、俺は今更気がついた。




