八
俺は学校でも休み時間に、時には授業中にも善次の本を読んでいた。今読んでいるのはマーク・トウェインの不思議な少年。
少年達が話しているところに突然、自身を天使と名乗る少年が現れた。彼の名はサタンという。真新しいきちんとした服を着た美少年で、感じの良い顔をしているとあった。俺は読みながら、善次の顔が頭に浮かんでいた。
彼は果物やパン、菓子を何もない所から出してみせるといった奇跡を次から次へとやってのける。少年達は彼に魅了されている。
が、この少年はーー自身を天使と名乗る少年は、自身が粘土から作り出した小人を「指の先でひねりつぶして、ぽいと投げ捨てたあとは、軽くハンカチで指先の赤い血を拭きとった」。
その一文には、残酷さと気品が含有されていた。
彼は人間を軽蔑し、あらゆる言葉を使って罵っていた。その軽蔑は哀れみに近いものだった。馬鹿だから仕方ないさといった具合に。それでも、少年達は彼が好きだった。
俺は彼の振る舞いを見て、こんなの天使なんかじゃないと思った。俺の頭には、天使といえば善次みたいな人間のことだというイメージが出来上がっていた。サタンは容姿こそ善次と似ていても、これは天使じゃない。
天使は、まず善い行いしか出来ない。圧倒的な力で魅了するのではなく、誰に対しても親切で、自分の事よりも他人の事を気にかけ困っている人を助け、どんな人間も受け入れ、あらゆる罪を許す器量がある者のことを指すのだと思う。
「何読んでるの?」
文句をつけながら読んでいると頭上から声がした。顔を上げると海人が立っている。彼は首を傾けて本の表紙を覗いている。
「不思議な少年?琥都くん本好きだっけ?」
「これはーー」
善次の本だと言おうとしたその瞬間、ある光景が脳裏に浮かんだ。それは善次の家で三人で映画を観た時のことだった。
「あの、さ。昔、善次の家で映画観ただろう?何を観たか覚えてる?」
正直、あまり期待はしていなかった。が、俺の予想とは裏腹に彼は滔々と話し出した。
「覚えてるよ、ターミネーター2でしょ、ゴーストバスターズにマイ・フレンド・フォーエバーにそれから……」
俺は海人の記憶が鮮明なのに驚いた。それで、「何で覚えてるんだ?」と聞いた。
「だってアメリカ映画ばっかりだったじゃん。坂下がーーそれか叔母さんが好きなんじゃない?廊下にゴールデンゲートブリッジのポストカードが飾ってあったり、ルーニー・テューンズのフィギュアとかたくさんあったじゃん。あれ全部アメリカのだよ」
あのアニメなら何度も観た。けれど、それがアメリカで作られたものだったとかは知らない。だって日本語だったし。
「海人は、よく知ってるんだな」
「まあ、僕も映画は好きだし……」
俺はこうも認識の差があるものかと、ちょっと落ち込んだ。海人が映画が好きな事を知らなかった。観た映画の題名どころか内容も殆ど思い出せない。そもそも俺の家にはテレビがなかった。善次と会うまでは映画など観る機会がなかった。
善次と海人は同じものが好きだった。二人は、気が合ったのだろうなと思った。
その日の授業が終わって家に帰ると、読みかけの本を読み進める事にした。
少年は神父に良心とは何か尋ねた。神父は「善と悪を区別する能力」と答える。
善と悪という字を目が捉えた瞬間、またしても善次の顔が浮かんだ。至る所で善次を思い出して、ちょっと苦しくなった。
サタンは突然少年の元に現れる。そして一緒に来るように言う。「どこかへ行くとするかな」という言葉に少年はこう答える。
「どこだっていいよーー君といっしょなら」
その言葉に俺の目は先に進む事を止めた。俺はかつてそう思っていた。小学生の時、俺は善次以外に友達がいなかった。中学一年の時もそうだ。俺はずっと善次と一緒だった。他の者と会話した事なんて、授業の時くらい。自ら声をかけた事など一度もなかった。
善次さえいれば、後はどうでもよかった。彼さえいれば、満たされていた。それが、いつから善次がいなくとも平気になっただろう?
ーーああ、そうだ。海人だ。海人と会ってから俺は江東とか他の人間とも話すようになった。けれども、その時は善次も一緒にいた。
三年になって、善次と海人とクラスが別になった。でも、江東とは同じクラスで……記憶が曖昧模糊としている。考えてもどうしようもない。俺は過去を思い出すために日記を開いた。
「六月七日。リビングのテーブルに一冊の本が置いてあった。また母さんが新しい本を買ったらしい。母さんは買った事に満足した、中々読み進めない。
本はメアリ・ヒギンズ・クラークの多分新刊だろう。前に『バッグスがこの本読んでいたの』って子どもみたいにはしゃいでた。その本は日本語に翻訳されていないものだった。読めないのによく買ったなと思う。
母さんは昔アメリカに留学してたみたいだけど、英語が読めないし話せない。読まないのはまだいいとして、その本を置き場がないからと言って僕の部屋に持ってくるのはやめて欲しい。」
「六月十日。今日の夕ごはんはマカロニチーズだった。食べると決まって胸焼けがする。胃薬を飲んでおかないと。鎌倉の祖父母の家で食べたごはんが恋しい。今の家に引っ越してから母さんはアメリカ料理ばかり作っている。大型のオーブンが使われない日はない。オーブンのムワッとした熱とあの独特の匂い。僕はあんまり得意じゃない。祖父母が生きていてくれれば良かった。そうすれば、ここに来る事もなかった。」
ああ、そうだった。善次は六年生の時に引っ越して来た。善次の家に行った帰りに、彼は前は鎌倉に住んでいたと言っていた。良いところだって、いつか一緒に行けたらいいなって、そう言っていた。いつかはついに来る事はなかった。
意外だったのは善次が同じ事を思っていたことだ。善次は祖父母が生きていてくれたらと思っていた。俺も祖母が生きていてくれたらと思う。
でも、もし彼らが生きていたら俺と善次は会う事がなかった。また、善次は死ぬ事はなかったかもしれない。
「もし」ばかり考えて、後悔が後を立たない。妄想が一人歩きして、目を向けなければならない現実から遠く離れていく。
俺は意識を過去の日記に戻した。海人と会ったのは二年の四月より後の事だ。俺はパラパラと捲っていった。
「四月十日。今日のお弁当はサンドイッチだった。弁当箱の蓋を開けた瞬間、うわあと思った。母さんはアメリカが好きだった。アメリカ人に憧れて、アメリカの料理をよく作った。
このサンドイッチは一方の面にピーナッツバターを、もう一方の面にイチゴジャムを塗って合わせてある。正直微妙だ。せめてどちらかにして欲しい。胃がムカムカして、一つ食べるのがやっとだった。だから残りは琥都ちゃんにあげた。」
よく食べ物をくれていたが、あれは善意からではなくて、要らないからくれていた時もあったのを知って、俺は驚いたと共に笑わずにはいられなかった。それは、天使のような善次にも人間らしいところが垣間見えたから。
「四月十八日。英語の授業の時、琥都ちゃんが当てられた。琥都ちゃんはあっさり『わかりません』と言ってのけた。そうしたら、氷見先生に詰められていた。けれど、琥都ちゃんは全く臆さない。『先生が面倒見てくれるんですか』と言った時にはひやりとしたけれど、ちょっと笑いそうになった。琥都ちゃんは強いな、すごいな。僕は到底ああなれはしない。
あの後、先生に残りなさいと言われていたけど、琥都ちゃんは帰ってしまった。怒られないかな。ちょっと心配。次からは一緒に予習しようと思う。」
読みながら、そんな事あっただろうかと思った。よく、覚えていない。でも、善次が英語の訳を合わせようと言ったのは覚えている。合わせようと言いつつも、俺が善次のを写しただけだったが。
「五月二十八日、足永くんの家に行った。足永くんは多分琥都ちゃんだけを誘ったのだろうと思う。少し、申し訳ない。同級生の家に行った事がないから落ち着かなくて、琥都ちゃんにくっついていた。おやつに出されたお煎餅が美味しかった。足永くんの家には漫画本が沢山あった。僕の部屋にある本は母さんの趣味だ。」
「五月二十九日。今日は琥都ちゃんと海人くんを家に誘った。母さんが張り切ってパンケーキをやいていた琥都ちゃんは相変わらず甘いものばかり食べている。足永くんは甘いものが嫌いだと言った。琥都ちゃんの好きな物を嫌いだと言ったのだ。
母さんに人の好きなものを否定してはいけないって言われてきた。だから、これまで相手に合わせて好きでないものも好きなふりしたり、嫌いでないものを嫌いなふりをした。
気を悪くするんじゃないかと思って、どきどきした。けれど、琥都ちゃんは気にしていないようだった。
合わせなくてもいいんだ。嫌いと言っても嫌われないんだ。僕は本当は甘いものが得意じゃない。人参だって、嫌いではない。それを琥都ちゃんに言えないでいた。相手を不快にしないか、傷つけはしないかとか、そんな事を考えていたら本当の事が言えなくなった。そうしているうちに、何が本当かわからなくなった。
琥都ちゃんと足永くんは気兼ねなく話している。お互い遠慮なく言いたい事を言っている。それが出来るのが羨ましい。自然に話したいのに、僕はうまくできない。人と対等に付き合えない。難しい。」
善次はチョコレートもケーキも好きではなかった。善次は俺が好きだから、それを隠していた。俺達はお互いの事を何でも知っていると思っていた。何が好きで、何が嫌いかーーけれど、俺は何にもわかっていなかった。善次の俺を傷つけまいと取り繕った嘘を知って切なくなった。
他人のことばかり気にかけているのは善次らしかった。けれど、こんなに悩んでいたなんて……それに、俺は善次と海人の方が話が合うと思っていた。自分の想像と乖離が甚しくて、受け入れ難い。
「五月三十日。母さんがお弁当を作るのを楽しみにしているのは知っているが、今日は友達と外で食べるからと言って断った。それは嘘だった。ただ、何か別のものが食べてみたくなった。朝、僕は駅までの道にあるサンドイッチ屋さんに並んでみた。種類は色々あって悩んだけれど、ポパイという初めて見るのを買ってみた。ポパイとあるからホウレンソウが入っているのかなと思ったけど違った。でも美味しかった。」
「六月二十四日、今日は雨が降っていた。僕はいつも七号車の一番ドアの前で琥都ちゃんと待ち合わせした。ここからちょうど正面に歩道橋が見える。橋を歩いている人々を見ていると、落ちそうな気がして不安になる。に『落ちるぞ』と口にしていた。僕は元来恐怖や不安を感じやすい性質だった。例えば、天井に吊り下がる電灯を見ていると、それが頭の上に落ちてくる所を想像したり、交差点の前で信号待ちをしていると、目前を走る車へ飛び込んで、弾き飛ばされる所を想像したりした。
歩道橋を眺めていると、琥都ちゃんが来た。琥都ちゃんにひどい顔をしていると言われた。ここのところ、ずっと気分が悪い。食べた物が消化されずにそのまま胃に残っている感じがして気持ちが悪い。食べ物を口にすると吐き気を催す。どこか悪いのかもしれない。胃か腸か、それとも神経か。
琥都ちゃんに痩せたと言われた。それから顔色が悪いとも。琥都ちゃんは黄土色をしていると言っていたっけ。家に帰って鏡を真正面から見ると、確かに酷い顔をしていた。」
「七月六日。テストの点数が悪くて父さんに叱られた。僕は要領が悪いのかもしれない。期待してくれているのに、それに応えられない自分が嫌だ。ここ最近、眠れない日が続いている。ベッドに入っても、眠る事が出来ず、気づけば二時を回っている。そこから朝まで意識がないから、数時間は眠っているようだった。けれど、眠っていても、父さんに叱られる夢を見る。寝た気がしない。変な話だけど、時折、学校でも父さんの声が聞こえることがある」
「七月八日。今、叔父さんが家に来ている。父さんは当直で家にいない。母さんのすすり泣きをする声がする。
『また善次をひどく叱ってたの。あの人、怒ると怖くって』
ああ、と思った。僕がテストの点が悪くて父さんに叱られたのを嘆いている。
『私のせいだわ。あの子のこと、ちゃんと見てないから。勉強だって見てあげられないし』
『兄さんは昔からそういう人だったんだ。義姉さん、あまり自分を責めないで』なだめる叔父の声もする。嫌だ。こんなこと聞きたくない。ここにいたくない。」
またしても善次はまた父親に怒られていた。善次は誰が見ても優秀に違いなかった。それなのに彼は怒られている。それに、叔母さんが泣いているところなど想像出来ない。自分の事で泣いている母親とそれを慰める叔父。前に善次の家に行った時に玄関で見たあの人だ。
昔、善次の家に招かれた時、綺麗な家で、おいしいお菓子やごはんが食べられて、彼の家は天国みたいだった。そこで暮らす彼らの生活は幸福そのものに見えた。けれど、この日記の善次はちっとも幸せそうじゃなかった。
引用文献
マーク・トウェイン著、中野好夫訳(2017)『不思議な少年』 株式会社岩波書店




