十三
宿題もろくにせぬまま夏休みが終わった。ありふれた日々を過ごしている余裕はなかった。俺の生活はあの日記に支配されていた。
善次はあの日、雪になりそうだと言った。俺は何も考えずにそうだなと答えた。ただ、それだけだった。俺からすれば何の気のない些細なことが、善次にとって大きな意味を持ち、行動に移させた。そういう事実が――正確に言うと、事実である可能性の一つが、最後の日記を読んだ直後、俺の目の前に浮かんでいた。
善次は、自分の意思で死んだ。彼の死に纏わるぼんやりとしたものが形を成し始め、確実性を持ち始めた。そうなると、再び疑問が浮かぶ。一体、どうやって?善次がどうして死ぬことを選んだのか、どうやって死んだのか、はっきりとしたことは、あの日記からはわからなかった。
死は当人だけの経験である。死の経験は日記には記されていない。死人に口は無い。語られるはずがなかった。
答えのないどうしてに圧迫された精神は、その働きを止めた。ぼんやりとして、何も考えられずに時間だけがただ過ぎていった。ただ過ぎて行ってくれるのを有り難く思った。でないと、永遠にこの空間に取り残されそうだった。
そうしているうちに夏休みが終わって、俺は暗澹たる気分のまま学校へ行った。俺の気分とは没交渉に他の生徒の夏休み前の当たり前の日々の続きがあった。俺一人が日常から爪弾きにされている感覚だった。
空虚――それが相応しい言葉だろう。何者とも関係を持たず、宙に浮いている感覚に陥った。ふらふらと浮いて、どこかへ――
そういう感覚を認識した時、海人に家に来ないかと誘われた。彼の弟達が俺に会いたいと言っていると聞いた。その言葉が耳に、頭に、そして身体中に妙に響いた。それで俺は行くと答えていた。
久しぶりに訪れた海人の家は何も変わらない。海人と彼の弟の紅緒と周とホットケーキを作って食べた。彼らはそれをポンデリングというドーナツに似ていると言った。俺はそのドーナツを知らなかった。どんなものだろうと思った。
ホットケーキを食べた後はアニメを観た。観ながら、俺は気づけば笑っていた。自分が笑っているという事実が不思議だった。
紅緒が善次はどうしているのかと聞いた。俺の意識は日記に戻された。ここにいてはいけない気がした。帰ると言うと、海人が送っていくと言った。俺はそれを拒絶しなかった。何故かは自分でもわからなかった。
帰り道、海人に俺のことが好きかと聞いた。海人は面食らった顔をしていた。おかしな事を聞いたと思う。それでも、海人は好きだと真面目に答えた。
「それじゃあ、善次のことは?」そう聞こうと思った。けれど、聞けなかった。聞くのが怖かったからではない。善次の名前を口にすると、泣いてしまいそうだったからだ。
それだから俺は全然関係のない話をした。すると海人は明日買いに行こうと言った。明日、が妙な響きを持って聞こえた。
海人の家には当たり前の日常があって、その中に俺を含んでくれていた。そういう時間が俺の心に平穏をもたらした。
次の日の放課後になって、俺と海人は、海人の家の一駅先にあるミスドに向かった。昨日の帰り道に何気なく口にしたら、海人が買いに行こうと言ったのだ。
そこには色々なドーナツがショーケースに並んであった。チョコレート、クリーム、それらを眺めて、美味しそうだと思った。食べたいと思った。
海人がトレーとトングを取って、ショーケースからポンデリングという名前のドーナツを取っていった。ドーナツは他にもチョコレート、黒糖、砂糖のコーティングがかかったもの、色々の種類があった。海人は買うものを決めてあるのか次々と取っていった。
「他に食べたいのある?」
そう言われショーケースをきょろきょろと眺めた。すると、ある文字が目に入った。瞬時に俺の頭には善次の顔が浮かんだ。
「エンゼルクリーム?紅緒と周はカスタードの方が好きなんだ」などと言いながら、エンゼルクリームという穴の空いてないドーナツとその隣の全く同じ外見のカスタードクリームもトングで掴み、トレーに移した。
海人の家へ着くと、昨日とは違って彼の弟達が玄関まで駆けてきた。
「ドーナツ!」
「おかえり、だろ。まったく……」
海人はそう言いながらもドーナツの詰められた箱を紅緒に渡した。
玄関に上がって奥の台所の椅子に座った。昨日、ここで海人の作ったパンケーキを食べた。今日はここでドーナツを食べる。
海人は食器棚からグラスを四つ出した。その内の二つに粉末のココアを――それは牛乳で溶けるタイプのものだった――入れ、「琥都くんもココアでいい?」と聞いた。俺が頷くと、海人は三つめのグラスにココアをいれ、それらに牛乳を入れてかき混ぜている。
紅緒と周は二人並んでドーナツの入った箱を開いて中を覗いていた。二人はよく似ていた。海人も似ていた。彼らは兄弟だから。
もう一度海人に視線を戻す。彼は冷蔵庫からペットボトルのブラックコーヒーを出して、残りの空のグラスに注いでいる。善次が海人と二人でコーヒーを飲んだと日記に書いてあった。善次もコーヒーを飲んでいた。俺はそれを見たことがない。
それから、買ってきたドーナツを皿に出して、それぞれ四等分して皆で食べた。こうしていると、善次とケーキを半分に分けて食べたことを思い出した。ついでに、善次はいつも俺に大きい方をくれたということも思い出した。海人は一口食べる度にコーヒーで流し込んでいた。それを見ていると、飲んでみたいという欲求が俄かに湧いた。それで、海人に「ちょっとくれよ」と言った。
「え、これ?コーヒーだよ?飲めるの?」
俺は頷いた。が、飲んだことはなかった。海人から差し出されグラスを受け取って、恐る恐る口につける。グラスを傾けて口に含んだ。
「にっが……」
「だから言ったのに……」
海人は呆れた声を出した。俺をグラスの中の黒の液体をまじまじと見た。善次はいつもこんなものを飲んでいたのかと思った。俺はグラスを海人に返した。そして、善次のことを考えた。善次のこと、叔母さんのこと、彼の叔父のこと、それから、海人のことを。
善次が彼らに抱いた善次の疑いがどこまで本当かわからない。もしかすると本当かもしれない。でも、全部善次の思い違いかもしれない。
もし思い違いだとしたら?もしも、善次が思い違いから死んだのだとすれば、それは余りに悲しいことだった。虚しく、哀れなことに違いなかった。
本当に自殺したのか?自殺だとしたら、結局のところ一番の要因は何か、何が善次に死を決意させたのだろう――と考えたところで、急に内臓が圧迫されるのを感じた。「雪になりそう」という言葉を、その言葉に込められた意味を思い出したのだ。理由はわからない。けれど、最後の一押しをしたのは、俺かもしれない。
暗い気分に支配されそうになった時、誰かが俺の名前を呼んだ。声のする方に顔を向けると、海人が怪訝な顔をして俺の顔を覗き込んでいた。その顔には心配の色が表れていた。
「どうかした?」
「いや、何でもない」
俺は何でもない風を装った。考えることを放棄した。ドーナツを口に放り込んだ。ポンデリングは確かに昨日食べたホットケーキに似ていた。甘いと思った。美味しいと思った。
俺は暫くの間、穏やかな時間を過ごした。そうして家に帰った。帰る時、海人はまた送っていくと言ったが、俺はそれを断った。何となく、一人になりたい気分だった。いや、一人になりたいというより、善次のことを考えたかったから。
一人、歩きながら、善次のことを考えた。どうやって死んだ?本当に自殺だったのか?単に偶然かもしれない。わからない、わからない、わからない……俺は首を振った。考えるのは疲れる。疲れることはしたくない。
けれど、わからない中で確かなことがある。善次は死んだ。その事実だけは確かなものだった。覚えている限りで最初に死んだのは祖母だった。祖母が死んで、その次は善次が死んだ。母は俺よりも先に死ぬだろう。海人と俺はどちらが先に死ぬだろう。
俺はこの先どうしていくのだろう?将来が、想像がつかない。いつも誰かに依存して、いい加減で、のらりくらりと生きている。そうしていれば楽だった。楽な方が良かった。だから、もう考えるのを止めればいい。そうすればまたいつも通り楽に生きられる。海人の家に行って、彼の弟達とお菓子を食べて、アニメを観て、それで十分だった。今のことだけ考えて、先のことは考えない。それでいい。それでいいはずだった。それなのに、何か落ち着かなかった。
「どうして?」
善次の声がした。これは善次に度々言われた言葉だ。言われる度に俺は困らされた。善次はいないのだから、俺を悩ませることはない。それなのに、善次のどうしてが聞こえる。そして、俺を立ち止まらせる。本当にこれでいいのかと。
足を止めて、空を見上げた。九月といえども、太陽は容赦なくその光を放っている。眩しい。目を細めた。善次は良いやつだったから、きっと天国に行ったのだろう。もしも、天国があればの話だが。
良いやつ……あの日記善次は、良いやつと片付けるには余りにも複雑な感情を持ち合わせていた。俺の知らない善次がいた。あの日記を読んでから、善次がわからなくなった。
わからないものほど、理解できないものほど、理解しようとする努力が必要――いつか善次が俺に言った言葉が蘇る。わかろうとする努力――俺はこの努力というものをしたことがなかった。
再び歩き始めて家に着いた頃には日が沈みかけていた。自室へ入り、善次の日記を開いた。偶然開いたそのページには「誰がわかってくれるだろうか、僕のこの心を。」と書いてあった。
その言葉は、わかって欲しいというよりも、どうせ誰もわからないという諦めがみえた。けれど、それを日記に書く善次からは、どこか諦めきれていないという感じもした。
「どうして?」
また、善次の声がした。俺はかつてこのどうしてから逃げ続けていた。今まで真剣に向き合ったことなど一度もなかった。
善次の死の理由を突き詰めるのも怖い。俺の知らない善次に向き合うのも怖い。わからないものから逃げたい。でも、と思った。日記に書かれた字を見た。それは彼の残した唯一の望みにも見えた。善次は生きている時、我儘どころか自分の意志を一度も口にしたことはなかった。他人のことばかり優先して、自分のことは後回しにしていた。誰も、そんな善次の望みを聞こうとしなかった。
俺は考えなければならない。わからないものを理解する努力をせねばならない。逃げていてはだめだ。
俺は初めて真面目にならなければいけない場面に直面していた。もし今、ここで向き合わなければ、この先も「どうして?」から逃げ続けるだろう。俺は「どうして?」を考えなければならない。それが今の俺に出来る唯一のことだった。
俺は机の上に乱雑に置かれた本を手にした。これは善次の読んでいた本だった。わからないと逃げていた本だ。わからないものほど、理解しようとする努力が必要――そう自分に言い聞かせて、本を開いた。




