六
休みの日は嫌いだった。何もする事がなく、一人きりでいると余計な事ばかり考える。
壁が四方から迫ってくる代わりに、今度は神経が四方に向かって落ち着かない。少しの物音に耳が過敏に反応し、ザワザワする。何も考えないようにしようと努めるけれど、それは意味をなさず、常に気が立っている。何かで平生を得ようとするが、その何かは善次しかいないとわかっていた。
善次は善次しかいない。けれど、その善次は死んでしまった。これ以上、新たな善次を知る事は出来ない。俺は永久に空虚なままなのか?何かないのか?何か……
その時、至る所に善次のいた本が頭の中に閃いた。少しでも善次に近いものに触れたかった。あの子に言って貸して貰おうか?彼女なら絶対にいいよと言う。善次に似て、自分よりも他人を優先する子だから。
そういえば昔、善次の家で本を読んだ。善次の部屋には大きな本棚に彼の読んだ本が収められてある。
あそこに、善次がある。俺はもうこの先得る事のない彼を補うために、立ち上がった。そして、慌ただしく靴に足を入れ善次の家へと走り出した。
善次の家の着いて、インターホンを鳴らした。すぐには出なかった。留守なのかと引き返そうとしたところで、叔母さんの声がした。
「はい、どなた?」
その声からいつもとは違う、焦りを感じたのは俺の気のせいだろうか。
「あの、人見です」
「……琥都ちゃん?ちょっと待ってね」
鍵の開く音がした。扉を開けたのは叔母さんではなくて、背の高い見知らぬ男だった。細面にやや吊り上がった目は善次と似ていた。が、その目や髪の色は深い黒色をしていた。
男は振り返って「じゃあ、また」と言った。奥にいる叔母さんは視線だけでそれに答えた。その行為から親密さを感じ取った。善次の父親だろうか?
その男は、すれ違う時、俺を見て一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに愛想の良い笑みを浮かべた。
「こんにちは、琥都ちゃん」
叔母さんの声に俺は、中へと入った。手を離した扉は一人でに閉まった。
「……こんにちは」
「今日はどうしたの?」
「本を――善次の本を貸してもらえませんか?」
「本?」
おばさんはきょとんとしていた。
「あの、昔善次の部屋で一緒に本を読んでいてーーそれで、懐かしくなって」
「ああ、そうだったの。まあ、とにかく上がって」
叔母さんはいつもの優しい笑みを浮かべて、俺を迎え入れてくれた。叔母さんの後に続いて家の中へと足を踏み入れた。
「あの、さっきの人はーー?」
叔母さんは悠然と振り返った。そして「主人の弟よ」と言った。
「そう、ですか……」
小学生の頃、頻りにこの家に出入りしたが、俺はついぞ善次の母親以外の人間を見る事がなかった。それが、今になって目にする事となるとは思わなかった。
「時間はある?お菓子を頂いたの。良かったら召し上がって。誰も食べないから……」
俺は促されるままに、キッチンの椅子に座った。用意をする叔母さんを横目に、俺は改めてこの部屋の中をぐるりと見渡した。正面の壁には大きな戸棚があって、高価そうな食器がきちんと収められている。右端の段にココアの缶などが並ぶ中にコーヒーを入れるのに使う器具が並んでいた。
「叔母さん」
「なあに?」
「あれは――?」
俺は棚に並んだ器具を指さした。叔母さんは俺の指の先に視線をやった。
「ああ、あれは善次が使っていたの」
俺はその言葉に目を丸くした。ここではいつも俺と同じでココアを飲んでいた。彼がコーヒーを飲んでいる所など見た事がない。
「善次はコーヒーを飲むんですか?」
「そうね――朝もだし、勉強中も飲んでいたわね。あの子、こだわりが強くってね、いろいろ器具を揃えていたの」
そう言いながら、叔母さんはケーキとココアを机の上に置いた。俺は善次の事なら何でも知っていると思っていた。それが今眼前に知らない善次が見えて、呆然としていた。
「善次はーー他に何が好きでしたか?」
叔母さんは「そうね」と言って顎に手をあててちょっと考え込んだ。その仕草は生前、善次が考えている時にする癖と同じだった。
「あの子、何でも美味しいって言うから、特にこれが好きっていうのは……」
「で、でも、いつもチョコレートとかケーキとか出してくれたじゃないですか。あれは善次が好きなんじゃ――」
「ああ、それはーー」
叔母さんはフッと笑った。優しい笑顔だった。その顔が余りに善次に似ていて、血の繋がりを強く感じた。
「あなたが好きだから。あなたの来る日に用意しておいてって言うのよ」
「それじゃあ、嫌いなものは?ほら、善次は人参が嫌いだったじゃないですか」
「あら、そうなの?あの子、そんな事言ったことないけど……ごはんも残したりしなかったし」
俺は呆然としていた。俺は自分が思っている以上に善次の事を知らないだけじゃない。
「ありがとうね」
「え?」
「善次と仲良くしてくれて」
「あの子、全然友達が出来なくってね。普通は友達と遊びに行ったり、家に連れて来たりするものでしょう?そういうのが全然なくって――勉強ばかりさせていたから、心配だったのよ。でも、琥都ちゃんが来てくれて、あの子明るくなった。だから、本当にありがとう」
叔母さんはそう言って頭を下げた。嘘だと思った。善次に友達がいない?そんなはずはなかった。彼は皆から好かれていた。それに、礼を言わなければならないのは俺の方だった。俺は善次と叔母さんに、随分助けられていた。食べ物を与えてくれた。
「俺の方が……」
「きっと善次も天国であなたに感謝していると思うの」
叔母さんはそう言って微笑んだ。その顔を見た瞬間、何だか妙な感じがした。陶器のようなーー作り物のように感じられた。
「あの、善次の部屋を見てもいいですか?」
俺は逃げるように椅子から立ち上がった。
「ええ、いいわよ」
先を歩く叔母さんの後を追って、階段を上がって行った。見慣れた景色だった。あの頃と変わらない。善次の部屋の前に付いた。叔母さんがドアを開いた。
開かれたドアの先ーー壁紙や天井は変わらない。大きな本棚もある。懐かしい。全てが懐かしかった。あの頃と変わらない。ただ、そこに善次がいないだけだった。
俺は徐に本棚に近づいた。あの頃は背伸びをしても届かなかったのに、今では手を伸ばせば届く。
まず目についたのは聖書だった。善次が毎晩読んでいたものだ。その隣には懐かしい本があった。昔、善次と一緒に読んだ画集だ。手に取って、ページを捲って行く。ある一ページでページを繰る手を止めた。天使の絵が描かれている。そうだ――俺は、この絵の天使を見て、善次を天使のようだと思ったのだ。
本棚には他にも懐かしい本があった。トム・ソーヤの冒険、ハックルベリー・フィンの冒険に、王子と乞食、それらに並んで知らない本も紛れていた。不思議な少年、人間とは何かーーどれも作者はマーク・トウェインだった。俺がこの部屋に訪れていた時は、これらの本は無かったように思う。
見知らぬ本はまだあった。そこには、俺の知らない善次がいた。背表紙を眺めていると、隣で叔母さんが話し出した。
「あの子ね、あなたの話ばかりするの。亡くなる少し前も、あなたの事を話していたわ。クラスが違うからあまり会えないけど、廊下で偶に見るんだって。かっこよくなってるって言うの」
叔母さんは懐かしそうにそう語った。善次の事を過去の事として話している。叔母さんの言葉に俺は違和感を覚えずにはいられなかった。机の上に視線を逸らした。そこには、教科書や参考書があった。きっと、そのままにしてあるのだろうと思った。
善次は俺の話をしていたと言った。が、三年の夏あたりから、俺は善次と会話らしい会話をした覚えがない。俺の事を特別に思ってくれていたのか、俺の名前を出すのが適当だったのか、知る由もない。善次に他に親しい友達がいたかさえも知らなかった。
「良かったらその本貰ってちょうだい」
「え?いや、そんなの悪いです」
「いいのよ。置いておいても誰も読まないから。ほら、だって難しいじゃない?私、よくわからないのよねえ。それに、コトちゃんなら、善次もそう言うと思うの」
「いいよ、琥都ちゃんにあげる」
頭の中で善次の声がした。懐かしい声だった。
「何か袋が必要よね。ちょっと待っていて」
叔母さんは部屋から出て行った。一人になって、何気なく机に触れた。引き出しを開いた。一冊の手帳らしきものが入っていた。表紙を開く。そこには何も書かれておらず真っ白なページに罫線が引かれているだけだった。ページを繰ると、裏には善次の字があった。
「四月六日」
日付と数行の文字ーーそれは日記だった。俺はそれを手に身体が石のように硬直して動く事が出来ずにいた。階段を上がる音がした。その音はだんだん大きくなっていった。俺は咄嗟に、その日記をズボンのポケットの中に入れて、慌てて引き出しを閉めた。そして戻って来た善次の母親を何食わぬ顔で見た。
叔母さんは紙袋を手に持っている。上等な紙袋だった。
「これに入るかしら?」
「十分です。ありがとうございます」
「今度来る時は、来る前に電話してちょうだい」
突然来た事を咎められているのだと思い、俺はしまったと思った。礼儀を欠いていたと後悔した。
「ケーキを焼いて待ってるわ」
叔母さんは続けてこう言って、にっこり笑った。咎められていると思ったが、彼女の口調は優しかった。俺はその姿に聖母マリアを見た。あの頃と変わらない。善次の母親は変わらず善次の母親だった。
それならば善次は?俺の知らない善次を見た。善次は変わったのだろうか?俺は礼を言って紙袋を受け取って、一先ずマーク・トウェインの本を何冊かを取り出して紙袋の中に入れた。袋を一杯に詰め終えた後、もう一度本棚を見た。
見知らぬ本ーー俺の知らない善次がそこにはあった。俺は善次の家を後にして俺の家に帰る事にした。その最中、ポケットの中の日記をずっと意識していた。




