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かつて天使と友達だった  作者: 梔子
第三章 日記
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 部屋に一人でいるのが堪えられない。何もしていなくても、常に胸が圧迫されている感があった。見えない何かが四方から迫ってきて、俺を押し潰そうとしていた。


 特に夜が恐ろしかった。暗闇にいると、自分がどこにいるのかわからなくなる。迷子を恐れる子どものように不安になる。それで、布団に入っても俺は電気をつけたままにしていた。


 暫くすると、そんな俺の思いとは没交渉に母親が電気を消した。母曰く、電気代が勿体無いとの事だ。


 隣の部屋にいる母はまだ起きている。襖の隙間から僅かに明かりが漏れている。幼い頃は眩しくて目を背けていたたあの光が、今ではそれを見ると安心した。


 善次が死んで二月ばかり経った時、中学の卒業式を迎えた。善次のいない卒業式。式の間、俺は善次の事ばかり考えていた。


 高校は地域の者が多数通う、普通科に入学した。高校の入学式、写真を撮るのに名簿の順にニ列に横に並んだ。俺は無意識に善次を探していた。何故だかいる気がしたのだ。


「コトちゃん、久しぶり」


 遠慮がちに微笑む彼の顔が目に浮かんだ。風が吹いた。桜の花が枝から離れて宙を舞う。先程まで眼前にあった善次の顔が忽然と消えた。桜の花はひらひらと回転しながら、地面に落ちる。


 何をしていても、その全てが「善次のいない」と形容される。自分の中に空白が出来たような感じがした。自分の足で立っているという感覚がない。膝に力が入らなくって、不意にぐにゃりと折れそうになる。始終落ち着かなくて苛々する。何かでこの空白を埋めなければ、立っている事が出来ない。


 気が急いて、俺は手っ取り早く何かを得ようとした。誰でも良かった。この空虚さを埋めてくれるのならば。


 俺は何かを求めて歩き出し、とにかく、目に付いた人間に手当たり次第近づいた。初めに声をかけたのは本を読んでいる子だった。彼女は休み時間に誰とも話さず一人で本ばかり読んでいた。


 次に声をかけたのは手作りのクッキーをクラスメイトに配っていた子。その次に声をかけたのは美味そうな弁当を食べていた子。


「いいな」


 そう口にすると彼女らは憐れみの心を持ってして、物乞いに施すように優しさと欲しいものを与えてくれた。俺は彼女らに求めた。充足を、安寧を、かつて善次が俺に与えてくれていたものを。


 昼休みの時間になると、彼女は誰もいない空き教室に行く。俺はその後をつける。


 彼女は椅子に座って本を開いた。僕はその隣の椅子に座った。そしてパンを頬張る。幾度となく繰り返された事だった。


 俺は早々にパンを食べ終わると、横から彼女の開いているページを覗いた。


「幸福な王子……」


その本のタイトルを口にしてみた。俺の声に反応して彼女は顔を上げた。黒の長い髪が胸の辺りで揺れる。


「読んだ事ある?」

「いや、知らない。面白い?」


 控えめに笑った。その笑い方を見ると嬉しいような、泣きたいような不思議に感覚になった。


「人見くん、初めて話した時も同じこと言ってたよね」


 人見くんと呼ばれると、妙な感じがした。が、そのままにして「そうだった?」と言った。


「びっくりしたから覚えてるもん。まさか、あの人見くんに話しかけられるなんて」


 彼女は手にしていた本を開いた。俺は彼女の肩に頭をもたれかけた。


「どこか読んで聞かせて」


 俺は彼女の長い髪に顔を埋めた。シャンプーの匂いがした。彼女のこもった声を聞いていると、安心した。目に見えない何かに包まれ、守られているような感覚になる。


 ある町に幸福な王子の像が立っていた。幸福な王子はつばめに自身に施された装飾を貧しいものの元へ届けてくれと頼む。サファイアの目、刀の柄のルビー、それから全身を覆う純金の箔ーーそれらを全て分け与えてしまい、王子は何もなくなってしまう。


「人に与えてばかりで、自分は何もなくなって、そんなの全然幸福じゃない」


 彼女が話してくれている途中で俺は口を挟んだ。納得いかなかった。俺はその王子をまるで善次みたいだと思った。人のことばかりで、自分の事は顧みない。彼女はそう言う俺を見てにこりと笑った。


「あなたはもうめくらにおなりです、ですからわたしはいつまでもあなたのおそばにいましょうーーつばめは王子の足もとで眠りました」


 側にいたつばめもやがて死んでしまう。華奢な装飾を失った王子を見た人間が乞食も同然だ、役に立たないと幸福な王子の像を下ろして炉で熔かした。けれど、彼の鉛の心臓だけは熔けなかった。それで、つばめと同じ塵の山へ捨てられた。


「『町じゅうでいちばん貴いものをふたつ持ってきなさい』と神さまが天使のひとりに言われました」


 天使という言葉に、出会ったばかりの頃の善次を思い出した。善次は天使のように美しく、良い性質を持っていた。


「そこで天使は鉛の心臓と死んだ小鳥を神さまのところへ持っていきましたーー」


 俺はこの話を聞いて、この王子を不憫だと思った。また哀れにも思った。


 彼女はページを捲った。ページには「ナイチンゲールとばらの花」とあった。


「ナイチンゲールって?」

「鳥だよ。日本語だと小夜啼鳥っていうの」

「サヨナキドリ?」


 彼女は動画サイトで「ナイチンゲール」と検索した。動画には褐色の羽の小さな鳥が映っていた。小さな口をパクパク動かして鳴いている。その鳴き声は高く可愛らしい。綺麗な声だと思った。


「『赤いばらを持ってきてくださったら踊ってあげましょうと、あのひとは、言ったんだ』若い学生は叫びました。『ところがうちの庭には赤いばらなんかどこにもありはしない』

ウバメガシの木の巣からナイチンゲールがそれを聞いて、葉のあいだから顔を出して、首をかしげましたーー」


 学生は赤いばらの花さえあればと嘆いている。ナイチンゲールはその学生のために赤いばらの花を探す。しかし、赤いばらの花はどこにもない。


 学生の部屋の窓の下のばらの木に頼む。すると赤いばらが欲しいのならば、胸の血で染めなければならない。棘に胸を押しつけ、心臓を突き刺さなければならない。即ちそれは死を意味していた。


「命は誰にとってもたいそう貴いもの。でも恋は命にもまさるもの。それに人間の心臓にくらべたら、小鳥の心臓などなんでしょう?」


 その言葉を聞いた時、何故か善次の顔が眼前に浮かんだ。


 ウバメガシは最後に歌ってくれとナイチンゲールに頼む。


「あなたがなくなってしまったら、とてもさびしくなりますから」


 学生はその鳴き声を聞きながら、鳥には感情がない、自分を犠牲にしようとはしないなどとほざいている。

 

 ナイチンゲールは自身の血で赤のばらを生み出した。学生は望んでいたばらの花を手に入れた。けれど、赤のばらの花を手に入れても、学生の恋は実ることはなかった。学生は怒ってばらを投げ捨てた。


「恋なんて、なんとばかばかしいものなんだ」


 こんな言葉を吐きさえした。あの花が一羽の鳥の犠牲の上にあったものとは知らずに。


「じゃあ、この男のために死んだのに、こんな風に捨てられちゃ、全く無駄じゃないか」

「花は捨てられてしまったけれど……でも、誰かがそれを見てーーそれを美しいと思うならば、そこには価値があるんじゃないかな」


 チャイムが鳴った。彼女は本を閉じる。「人見くんって、優しいよね」と言った。


「どうして?」


 尋ねても、彼女は微笑むばかりで、何故そう思うのか答えなかった。


 五限の数学の間、俺はさっきの話が頭から離れなかった。貧しいものために自己の装飾を全て分け与えた王子。愛するもののために自身の命をばらの花と変えたナイチンゲール。有り得ない。けれど、善次ならばやりかねない。善次も、彼らのように何か他のもののために死ぬ事の出来る人間だと思った。


 その日の放課後、今度は別の子にカップケーキを作るから家に来ないかと誘われた。俺は考えるまでもなく、二つ返事で行くと答えた。


 彼女の家は学校から歩いて十分程のところにあった。両親は仕事で帰るのが遅いらしく、家には誰もいなかった。俺はケーキを作る彼女の後ろにぴたりとくっついて、その手つきを見つめていた。


 クリーム色の液体をカップに注ぐ。八分目まで注がれたそれらは電子レンジに入れられ、熱さられる。俺は電子レンジに張り付いて、ケーキが焼けるのを待っていた。だんだん膨らんでいくのが面白かった。後ろでくすくす笑う声がした。


 焼き上がったカップケーキを食べ、腹が満たされる。腹が満たされると瞼が重くなった。腹の皮が弛むと目の皮が弛むとはまさにこの事だ。


 俺はごろりと横になって、彼女の腿の上に頭を乗せた。そうして目を閉じる。彼女は僕の髪を指で梳いている。 


「人見くんの髪、サラサラだよね。いいなあ」


 俺は違和感を覚えて、閉じた目を開いた。彼女は「どうかした?」と首を傾げた。


「なあ琥都って呼んでみなよ」

「え?」


 目をパチパチさせた。そして遠慮がちに、「こ、琥都くん……?」と言った。


 俺はそれを聞いて漸く腑に落ちた感じがした。それでまた目を閉じた。こうしていると、気が急かない。空虚さを忘れた。善次の家にいた時のような心地になった。が、それも長くは続かなかった。


 ふと、善次が死んだと聞かされた日の事が蘇る。蘇ると落ち着かなくなる。じっとしていてはいけないような、何かに急き立てられるように気が焦った。


「琥都くん、どうかした?」

「い、いや……何でもない」


 また、だ。何かが押し寄せてくる感覚に襲われ、じっとしていられなくなった。俺は片手を床について身体を起こした。


「ーー今日は帰るわ」

「そう?外暗いから気をつけてね」


 彼女は玄関まで俺を見送った。扉を出る時、ちらと視線を向けると彼女は手を振っていた。


 家へ帰ると母親が先に帰っていた。俺を見るや否や

「あんたこんな時間までどこ行ってたの?」と詰めた。


「……友達の家」


 それ以上は何も聞いてこなかった。元より会話の少ない家庭だった。祖母が死んでから一層顕著になった。お互いがお互いに関心がない。俺らの間には義務しかないと思っていた。


 ある日、唐突に海人に善次の家に行こうと誘われた時、俺は頭が真っ白になった。


「何で?」


 善次がいないのに、行く意味などあるのか?一体何をしに行くんだ?


「あれから、四十九日が過ぎたでしょ。仏壇に手を合わせに行こう」


 断る理由などなかった。善次の死というぼんやりしていた問題に直面せねばならなくなった。善次の家に向かいながら俺はどうして善次が死んだのか、そのことばかり考えていた。


 叔母さんはいつもの叔母さんだった。ココアを淹れてくれた。何もかもいつも通りで、けれどそれが不自然だった。


 俺は開口一番に不躾に善次の死んだ日の事を聞いた。叔母さんの口からは俺が知っている事以上のものは得られなかった。


 善次の仏壇は紫檀で出来ていた。それは、部屋の隅に隠れるように置かれていた。俺は仏壇に直面した。上段には掛け軸が、中段には黒に金で戒名が彫られた位牌、その隣に高坏があって、そこには林檎が載せられてあった。下段には左端に白の胡蝶蘭が活けられてある。そして仏壇の手前には早くに死んでしまって生を享受することの出来ないのを埋め合わせるかのように所狭しにお菓子が供えられてあった。


 彼の仏壇はこの部屋に少しも調和が取れていなかった。見ていると、何だか奇妙な感じがした。何故そう感じるかわからない。似合わない、相応しくないと感じた。それは俺がまだ善次の死を受け入れられていないせいなのだろうか?


 俺は海人に促されないと、動く事が出来ないでいた。何をしたらいいかわからなくなった。


 善次が死んで泣いている子がいた。皆、悲しんでる。善次は皆から愛されていた。愛されながら、死んでしまった。


「坂下みたいな良い奴は他にいないよね」


帰り道、海人にそう言われて、俺はハッとした。頭に浮かんだのは空白を埋めるために近づいた彼女達だった。何も考えずに、目につく人に近づいた。が、彼女達の顔、所作ーー思えば彼女達はどこか善次に似ていた。俺は無意識に善次に似た人をーー善次の代わりを探していた。


「坂下は坂下だけだよ」


 海人の言葉はまるで釘を刺しているようだった。俺は我に帰った。


 俺は、自分ではどうにもできないから、彼女達に縋った。彼女達に寄生し、養分を奪って生きながらえている、俺のしている事は寄生虫と変わらなかった。


 彼女達は皆優しかった。欲しいものを与えてくれた。けれど、違う。違う、違う、善次じゃない。気を紛らわせていたそれらは俄かに色を失った。どれも紛い物で、少しも彼に及ばない。


 善次を失った事で出来た空白は一時は彼女達で埋められた。が代わりに埋められたそれらは後から砂になってサラサラと崩れ落ちて行った。


 善次は善次しかいない。代わりになるものなどない。俺はそんな当たり前の事を、今更漸く理解した。どうしてもっと話しておかなかったのだろう。会いに行かなかったのだろう。今更、そう思ったって遅い。彼はもういない。


 俺はただ、善次に会いたかった。それで善次の面影を追いかけた。けれど、それらは何の意味もなさなかった。


 俺はこれからどうすればいい?どうすれば、この空白は埋められる?


 海人と別れ、一人きりになった部屋で、机に突っ伏していた。渦巻く感情に呑み込まれそうだった。それをどうする事も出来なくて、ただ机に寄りかかった。時間だけが過ぎて行った。


 パッと部屋の中が明るくなった。身体を起こすと、後ろには買い物袋を下げた母が立っていた。


「帰ってたの?電気もつけないで」


 母は床の上に無造作に投げ出された紙袋を手に取って中身を見た。それは善次の母親に貰ったクッキーだった。


「あんたこれ誰からもらったの?」

「善次の……」

「友達?ちゃんとお礼言った?」


 この時、俺は母親が善次を知らない事を知った。

引用文献

ワイルド著、西村孝次訳(2017) 『幸福な王子ーワイルド童話全集ー』、新潮社


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