四
放課後、学校を出て僕と琥都くんは坂下の家に向かうため歩いていた。
彼は俯いて、自分の足元許り見ている。ゆらゆらと歩く様はまるで何かに取り憑かれているようだった。その姿からは元気がないのが伝わってくる。が、彼は自分の意志で歩いている。彼は確かに行くと答えた。僕が無理に連れて来たわけではない。尤も、僕の言葉に半ば強制力があったのは否めないが。
僕が琥都くんを誘った後、坂下の家に電話をして、伺っていいか了承を得た。電話に出たのは坂下の母親だった。彼女は快く招き入れてくれた。
それで次の日、僕は琥都くんを連れて坂下の家へ向かっている。
電車に乗って、彼らの家の最寄りの駅にたどり着いた時には、外は蕭蕭と雨が降っていた。電車に乗る前は雨が降る景色はなかった。
細かい雨は建物を暈し、目に映るもの全てが霞んでいた。琥都くんは傘を持っていなかったので、僕の折り畳みの傘を二人でさして、僕らは坂下の家に向かって歩き出した。
中学生の頃に彼の家に訪れた時と景色はまるで変わっていなかった。あの時は前を歩く坂下と琥都くんを後ろから恨めしげに見ながら歩いた。
今は琥都くんと肩を並べて歩いている。何だか不思議な感覚だった。得意げにはなれない。が、それは坂下がいない事に対する悲しみのせいではないのは確かだった。
僕は隣を歩く琥都くんを見た。彼は坂下が死んで悲しんでいる。が、その悲しみを表したのは一度きりで、悲しみを表す代わりにおかしな行動を取っている。
思いを巡らせているうちに坂下の家の前に着いた。僕はインターホンを鳴らした。
玄関の扉がゆっくり開かれる。微笑みを浮かべた品の良い女性が立っていた。坂下の母親だ。前見た姿と変わらない。中へ入ると、玄関にはスリッパが二組並んで置かれてある。
「いらっしゃい。雨の中、来てくれてありがとうね。善次のために」
「いえ、こちらこそ突然すみません」
「さあ、あがって」
「お邪魔します」
僕は靴を脱いで用意されたスリッパに足を入れる。が、琥都くんは玄関に立ち尽くしたままだった。
「琥都くん」
彼の名前を呼ぶとハッとして、靴を脱いで家の中へと入った。彼女に続いて奥へと進んで行った。
「あら、足永くん肩のところ随分濡れちゃってるわ」
「ああ、これくらい平気です」
「だめよ。乾かしてあげる。ほら、貸して」
「すいません、ありがとうございます」
僕はブレザーを脱いで、坂下の母親に渡すと彼女は「すぐに戻るから座って待っていてね」と言って奥へと行ってしまった。僕らはキッチンの椅子に座った。外が雨降りだったせいか、部屋の中はいやに眩しかった。昔、ここで三人で座った。坂下の母親はパンケーキを焼いていた。琥都くんはそれを何枚も食べていたーー
これらの光景が眼前に浮かんできた。僕はそれらの記憶を懐かしいと思った。
暫くすると坂下の母親が戻って来て、今度はお茶の用意をし始めた。
「飲み物は何がいい?コトちゃんはココアよね。海人くんは何がいいかしら?」
あの時のように、坂下の母親は甲斐甲斐しく僕らを世話した。彼女の態度はあの頃と変わらない。一人息子が死んだというには、あまりにも普通過ぎるように感じた。わざと平生を装っているのだろうか?ドキュメンタリーやドラマで見るそれとは違う。それとも、実際はこんなものなのだろうか。
「本当にありがとうね、二人とも。善次のために来てくれて。あの子もきっと喜んでるわ」
僕は何と言うべきかわからない。落ち着かなくて、彼女の入れてくれた紅茶に口をつけた。湯気が出ているそれは温かいに違いない。が、今の僕にはその温度も味もわからなかった。
「おばさん、善次はどうしてーー?」
突然、琥都くんが口を開いた。僕は驚いて彼を見た。彼は虚な目で、けれど真っ直ぐに坂下の母親を見つめている。
「眠っているうちにね、死んでしまったの。突然だったのよ。朝になってもあの子部屋から出てこなくって。そしたら息をしていなくってね……」
彼女は僕達の向かいの椅子に座って、静かに当時の事を話し始めた。テーブルの上で組んだ手を伏し目に見ながら、小川を流れる水のように滑らかに語り続けた。
「お医者様が言っていたの、稀にそういう事があるんですって」
「そう、ですか……」
琥都くんは消え入りそうな声で呟いた。あからさまに元気がない。子どもを失った母親より、友人を失った彼の方がその死を受け入れられないといった風だった。
僕は居心地が悪くて、彼らから目を逸らして隣の部屋を見やった。隣はリビングでーー琥都くんを挟んで三人で座った白と水色のチェックのソファが見えた。その前には大画面の薄型テレビがある。その奥に視線を向けると、部屋の隅に――まるで棚に隠れるように仏壇が備えられてあった。それを見た瞬間、アッと思った。僕らがここに来た目的を思い出した。
「あの、仏壇にーー手を合わせてもいいですか?」
「ああ、そうね。善次に会いにきてくれたんだものね」
仏壇の前にはお供えのお菓子の入った箱が埋め尽くすように並べられてあった。僕は先に仏壇の前に座った。暗紫褐色のそれは座った時の僕と同じ高さだった。扉は開かれてある。手前にあるりん棒を持って、りんの縁を二回打つ。リーンと澄んだ音が響いた。そして手を合わせた。今は坂下に対して憎しみは抱いていない。同時に悲しいとさえ思わない。何の感情も持ち合わせていない。それなのにこうして悼んでいる所作をするのは側から見れば滑稽だろう。
僕は立ち上がり、琥都くんに譲った。彼は仏壇の前に座っても中々手を合わせなかった。暫くの間、不思議そうな顔で仏壇を見つめていた。
ややあって、思い出したように手を合わせた。琥都くんは今何を考えているのだろう?坂下の代わりを探して、それで空いた穴を埋めようとしている彼は、坂下の仏壇を前に何を思っているのだろうか?
彼は仏壇の前から動かない。坂下の母親はいつの間にかいなくなっていた。遠くでドライヤーの音がした。それで、僕の服を乾かしてくれているのだとわかった。
部屋の中には、僕と琥都くんと坂下の仏壇、三人きりになった。琥都くんは坂下の仏壇を見入っている。僕がいることなど忘れているみたいだった。また二人だけの世界に入っている。僕の取り入る隙はない。ああ、これはまずい琥都くんの意識が坂下に向いている。琥都くんを連れて行ってしまうーー
暫くして、坂下の母親が戻って来た。手には僕のブレザーがある。僕は服を受け取ると「あの、僕たちそろそろ帰ります」と切り出した。
「あら、もう帰るの?」
「はい、お邪魔しました」
僕は琥都くんの腕を引いて、早々に立ち去ろうとした。
「あ、ちょっと待って」
部屋を出る時、坂下の母親に呼び止められた。振り返ると彼女は仏壇の前に供えられたお菓子の箱をいくつか手に持っていた。
「これ、よかったらどれか持って帰って。家の人は誰も食べないから……琥都ちゃんここのクッキー好きよね。海人くんはお煎餅持って帰る?」
それらを紙袋に入れて僕らに持たせてくれた。琥都くんは差し出されたそれを受け取ったが、何を渡されたのかまるでわかっていないようだった。
彼女は玄関まで僕らを見送ってくれた。外はまだ雨が降っていた。坂下の母親が琥都くんに傘を持たせてくれた。相変わらず良い人だった。もしこの人に裏があるとすれば、僕は人間というものを何も信じられないだろう。
「気をつけてね。また、いつでもいらしてね」
「はい、ありがとうございます」
僕は頭を下げて坂下の家を後にした。琥都くんは幽霊のようにゆらゆら歩いている。彼がかなりの衝撃を受けている事は明らかだった。
「大丈夫?」
「ーー別に、何でもない」
「何でもないって感じじゃないよ。琥都くん、ちょっと変だよ。その、坂下が死んでから」
琥都くんは無論黙った。ここからどう展開していくか検討もつかない。けれど、坂下の死についていつまでも避け続けるべきではないと思った。
「海人はーー善次が死んでどう思った?」
鳩尾のあたりがヒヤッとした。「ーーどうって?」と切り返した。
「俺は、わからないんだ……善次が死ぬ前、暫く善次と会ってなかったんだ。でも全然平気だった。だから、死んだと聞いても初めは何も思わなかったんだ。何も思わないのに、何か落ち着かなくて……」
彼の言葉に僕は拍子抜けした。本当にそう思っているのかと疑って、彼の顔を見た。冗談を言っているようではない。けれど、正気だとすれば、彼は余りに自分の感情に鈍感過ぎる。
「ねえ琥都くん、泣くってことは悲しいってことだよ。坂下がいなくなって、琥都くんは淋しいって思ってるんだよ」
「ーー淋しい?」
その声は弱々しかった。彼は自分の感情をよくわかっていない。これまで、彼が何を言われても動じなかったのは、強いからでも気高いからでもなくて、自分の感情を理解出来ていなくて、反応を示せないだけだったのだ。
「そうだよ。クラスでも坂下が死んだと聞いて泣いている子がいたよ。皆、悲しんでる。当たり前の事なんだよ」
「だけど、善次が死ぬ前、全然会ってなかった。それでも、平気だった。淋しいって思わなかった」
「暫く会ってなかったとしても、二人はすごく親しかったじゃないか。暫く会ってなかったとしても、それがなかった事になるわけじゃないでしょ」
気づけば、雨が傘に跳ねる音がしない。雨は止んでいた。僕は傘を閉じる。気づけば僕らが別れる所に着いた。「じゃあーー」と別れを切り出す琥都くんの声を遮って彼の名前を呼んだ。
「坂下みたいな良い奴は他にいないよね」
琥都くんは顔を上げた。そして真っ直ぐ僕を見た。その目には揺らぎが見えた。が、気は確かである。
「坂下は坂下だけだよ」
だから、取り憑かれたように坂下の亡霊を探したりしないで。




