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かつて天使と友達だった  作者: 梔子
第三章 日記
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 何かしなければという急く思いはあっても実際に何をすれば良いかは思いつかなかった。


 実のところ、琥都くんが涙を見せたあの時、僕はかなり動揺していた。彼が泣くのを見たのは初めてだったせいもある。が、それ以上に彼が泣くような人間だと思わなかった。


 普段は何を言われても動じないから、怖いとか悲しいとかそういう泣くほどの感情を待ち合わせいないと思っていた。それだから、彼が涙を見せた時、戸惑いと焦りが俄かに起こり立った。


 何かせねばならないはずだった。それなのに僕の頭はその何かを思いつかずにいた。


 彼が涙を見せたあの日から、彼にどう声をかければいいかわからない。落ち込んだ彼の助けになるのか、励ましになるのか、立ち直る手立てになるのか皆目検討もつかない。


 そんな空っぽな頭の僕は、ただいつも通り、休み時間と帰りを共にすることしか出来なかった。話す時にこんなに話す内容に気を使うのも初めてだった。


 今も帰り道、歩きながら、何を話すべきか考えていた。


「そういえばさ、もうすぐ受験だね」

「……そう、だな」


 僕が話しかけても、相槌を打つくらいで、彼から話し出すことは滅多になかった。何となく、気まずい。


「一緒に行こうね、駅で待ち合わせしてさ」


 不意に彼は立ち止まった。一点をぼんやり見つめている。視線の先には何もない。


 時折、こういうことがあった。側にいるのに、彼との繋がりが断たれたような、不意に琥都くんの意識はここではないどこかへ行った。


 それは無気味だった。が、それを感じさせないよう僕はわざと調子を弾ませて、「どうかした?」と彼を現実に呼び戻そうと試みた。


「いや……俺、高校行けんのかな?」

「大丈夫だよ!難関校受けるわけじゃないんだし――」


 坂下みたいにと言いそうになって、慌てて口を閉じた。言葉には気を付けなければならない。余計な事を言って、これ不穏な空気にしてはいけない。僕は口を閉じた。もうすぐ、駅に着く。ここで琥都くんとはさよならだ。


 このまま、琥都くんを一人きりにしたくない。口を動かすのを止めると、今度は頭を働かせた。昨日みたいにファミレスかそれとも僕の家に誘おうかと考えていると琥都くんは「じゃあな」と呆気なく言ってのけた。


「あ……うん、また明日……」


 僕が言い終わるよりも先に彼は僕に背を向けて歩き出した。僕はそんな彼の背中をその姿が見えなくなるまで見続けていた。もしかすると、このまま永久に会えなくなるかもしれない。そんな不吉な予感さえあった。


 このまま琥都くんを失ってしまいそうな気がした。彼はフラフラして頼りない。風船のように紐から手を離せばそのまま空に浮かんで取り戻せない感じがした。


 だから次の日、学校で彼の姿を見つけるとほっと胸を撫で下ろした。良かった、生きてる。落ち込んでいても、心ここにあらずでも、生きている方がいい。


 ただ、出来る事ならば前みたいに話したい。どのプリンがいいか、真剣に語っている彼がみたい。あれが食べたい、これがしたいと自分の思いのままに振る舞っている彼に戻って欲しい。


 どうすれば前の琥都くんに戻るのだろう。前みたいに話してくれるようになるのだろう。いつになったら彼が彼自身を取り戻す事が出来るのだろう。


 どうにかしたくて、でもどうにもならないのが頭ではわかっていて、切なかった。

 

 彼の発言や行動、浮き沈みする気分に僕の調子は左右された。琥都くんに出会ってから、僕は彼に狂わされてばかりだった。彼に出会う前の僕には到底戻れない。


 そんな不安定さを抱えたまま僕らは高校生になった。


 入学式の日、張り出されたクラス表を見た。幸運にも僕は琥都くんと同じクラスだった。が、初めて同じクラスになった中学二年の時のような喜びは起こらなかった。ただ、安堵があるだけだった。あの時は可能性があった。美しいものの側にいられるかもしれない。話せるかもしれない。友達になれるかもしれない。それが今はーー


 視線を琥都くんに向けた。彼はきょろきょろと辺りを見渡していた。まるで誰かを探しているように。


 新しいクラスでも中学の時と同様、進んで彼に近づく者はなかった。彼を恐れていたからではない。あの頭突き事件は疾うに風化していた。


 皆が彼に近づかないのは、それは彼があまりに美しかったから。これは僕の独りよがりの理論ではない。


 彼は綺麗に成長していた。年を経るにつれ、美しさを増した。骨格は成長していた。が、主張することなく細い線のまま、ただその長さを伸ばしていた。骨の成長に肉が追いつかず、皮膚が引っ張られている。子どもとも大人ともつかぬ身体つきだった。尤も、背は然程伸びていないようだったが。顔つきも少し丸み帯びていた頬が角度を急にし凛々しい顔つきになった。


 彼からはただならぬ感じが漂っていた。そんな彼に誰も近づこうとはしなかった。だからといって彼は一人きりでいたわけではない。彼はこれまでにない行動を取り始めた。彼の方から他人に近づいたのだ。


 新しいクラスに馴染めず、一人きりで本を読んでいる女生徒がいた。彼女は彼女の世界に籠って、外に意識を向けない。


 何の前触れもなしに琥都くんはその女生徒の颯爽と近づいていった。彼女の前の椅子に横を向いて座り、右腕を彼女の机の上に置いた。


 その女生徒は突然視界に入ってきた彼に驚いて一瞬肩を震わせたが、何も起きていない風を装って本を読み続けている。


 琥都くんは身を乗り出した。彼女は反対に身を逸らした。


「何読んでんの?」


 彼女は俯いて琥都くんの声から逃げようとした。けれど彼は引く事なく反対に彼女の顔を覗き込んだ。


「誰の本?」

「ワ、ワイルド……」


 流石に無視する事は出来なかったのか、か細い声で答えた。


「面白い?」

「ま、まあ……」


 琥都くんは「ふうん」と素っ気なく言った。聞いておいて、然程興味のないようだった。


「どんな話?」

「どんな話って……」

「俺さ、字読むの苦手なんだよ。だから教えてよ、どんな話か」


 その女生徒は困り切っていた。眉を下げ、口元には助けを乞うような哀れっぽい笑みを浮かべていた。その顔は、初めて琥都くんを家に招いた時、彼が「善次も行くだろ」と言った後、坂下が僕に見せた顔を思い起こさせた。


「ちょっと、琥都くんやめなよ。困ってるじゃん」


 僕は本能的に彼女から琥都くんを引き離した。彼は何故僕が止めるのかわからないといった風に真っ直ぐに僕を見た。


 彼はそれからもこの行動を止めなかった。声をかけるのは大抵女生徒だった。誰もがどこかに坂下を潜ませていた。笑った顔が坂下に似ていたあの女生徒を始め、ある者は頬から顎にかけてのラインがやつれる前の坂下に似ていた。またある者は白い肌と色素の薄い髪を持っていた。


 琥都くんは坂下にしていたように、彼女達に無遠慮に近づいた。そしてこういう言葉を投げかけた。


「何読んでるの?」

「何食べてんの?美味しい?」

「それ、自分で作ったの?すごいね」


 最初は戸惑っていた彼女達も次第に気を許し始めた。そして本の内容を話し、持っているお菓子を与え、琥都くんのためにお弁当を作ってくる生徒さえ現れた。


 ああ、だめだ。人見琥都を前にすると皆こうなる。彼を前にするとーー彼に見つめられると、何でもしてあげたくなるというか、出来る限り親切にしてあげたいという気になるのだ。人見琥都は彼の魅力を最大限に発揮していた。


 彼は何も持っていないかのように振る舞う。だから、自分の持っている物を彼に分け与えねばという、母性を擽る。


 琥都くんはそうやって彼女達に近づいた。そして、彼女達に近づくと、僕と距離が出来始めた。


 昼休みも、彼女達と昼食を取るようになった。放課後も彼女達と話して、僕が取り入る隙がない。


 かつて、琥都くんと坂下が親しいのが気に食わなかった。けれど、坂下の代わりを探して、プレイボーイのごとく誰彼構わず近づくのはもっと嫌だった。これなら、坂下がいた時の方がましだ。


「琥都くん、帰ろうよ」

「悪い、今日は一緒に帰れない。家に呼ばれてんだ」


 「今日は」ではなくて「今日も」の間違いだ。今の琥都くんは死ぬ前の坂下に似ていた。坂下もだんだん僕らから離れて行って、終いにはーー


 僕は妄想振り払うべくわざと明るい声を出した。


「誰の?」


 彼は視線でその人物を示した。「あの子。ケーキ作るんだって」彼は唇の右側だけを上げて笑った。歪な笑みだった。


 きっと名前も覚えていないに違いない。何度も家に来ているのに、僕の弟の名前さえ覚えていないのだから。


「善次も来るだろ」


 頭の中でこんな声がした。けれど、現実では何も言わず、彼はさっと僕の前を通り過ぎて行った。


 誰でもいいんだ。それなら、どうして僕ではいけない?どうして僕を頼ってくれないのだろう?ずっと側にいるのに。


 少なからず僕は彼に苛立っていた。苛立っているのに、彼を突き放せないのは、彼が美しかったから。それと、もう一つ。彼から危うい感じがしたから。苛立ちよりも心配が勝っていたのだ。このまま放っておいたら、坂下のように永久に僕の前からいなくなってしまうような気がしてならない。


 僕はある行動に出る事に決めた。それは、必ず琥都くんの意識をこちらに向けられると確信を持っていた。


「ねえ琥都くん」


 次の日の放課後、彼が坂下の亡霊の元に行ってしまう前に彼を捕まえた。琥都くんは僕の目を見た。彼は暗い目をしていた。かつて見つめられたいと思っていた目とは、その色をかなり変えていた。


「どうした?」


 僕は息を吐いた。そして、真っ直ぐに彼の目を見た。

 

「坂下の家に行こう」


 僕は二度と口にしたくないと思っていた名前を平然と口にした。坂下の名前を出せば、琥都くんが反応するとわかっていたから。


 僕は坂下を頼らざるを得なかった。それが正しいことなのかわからない。けれど、僕はどうしても幽霊を捕まえようと架空の世界へのめり込んでいる彼を現実世界に連れ戻したかった。


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