8幕 追憶を重ねて
今回はちょいと長めでございます
二人でその山道を歩くのは、これが二回目であった。一度目は一色の歓迎会の時であったか。
その時も二人は手を繋いで登っていた。……しかしあの時は水無月が危なっかしくて見てられないという理由があったため、そうしたのだ。
……水無月は前回とは最初から違って眼鏡をかけていなかった。
「初香先輩、絶対に狙っていたと思うんだ。眼鏡をポーチの中に入れてないんだもん」
「……まぁあの人だからな」
そもそも最初から手を繋がない選択肢はなかったのである。荷物に関しては初香が用意したのだが、その中に水無月の眼鏡が入っていなかった。
日常生活ならばいいが、足場のあまり良くない山道となると、足元が見えないのは危険だ。だからどうなっても一色と水無月が手を繋ぐしかない。
――実は、これは初香が用意した保険である。一色が臆病風に吹かれて、手を繋げない場合の手段として初香があらかじめ仕込んでおいたのだ。
「水無月、ペースは大丈夫か?」
「うん、平気。……一色くんが合わせてくれてるから」
普段は妹と歩いているからか、他の人とペースを合わせるのが上手なのだろう。
そんな山道を歩きながら、二人は会話をしていた。
「前に登った時は、水無月がペースを考えていなかったからな。体力ない癖に」
「……良く覚えてるなぁ」
「自分が覚えていない風に言うな。絶対覚えてるだろ。目が泳いでるぞ」
一色は的確に見抜き、指摘する。
「……あの時は俺も美術部に入って間もなかったから、そんなに話さなかったな。俺からは」
「慣れてなかったからだよ、でも今は……」
「そうだな。今は、違う――自分でも、変わったと思うよ」
一色はしみじみと思いながら、そう言った。
――それは水無月の目から見ても明らかな事実だ。……一色は変わった。口数は今も多い方ではないだろうし、表情の変化がそこまでない方だろう。
だけど昔の彼は、笑わなかった。安らかに笑うことはほとんどなかった。
「変わったのは、皆がいたからだと思う。俺の中で美術部って場所が、居場所になったんだ。先輩たちは親身で、たまに……頻繁に面倒くさいけど」
そこだけは譲れずに、言い直すと、水無月はクスリと笑う。しかしすぐに間髪を入れず話し続けた。
「俺は先輩たちと仲良くしてもらって、嬉しかったんだ。先輩と後輩とか、そんな垣根を超えて……友情、みたいなものを感じてさ」
美月とも、雪彦とも、初香とも、それぞれが違う接し方とはいえ、交流を重ねた。時には怒られたり、諭されたりした。だけどそれはいつも彼らが一色のことを想ってしてくれていた行動だ。
「……でも、その中心にいたのは水無月だ」
「わ……私?」
「そうだ。……水無月は美術部の中心だって、ずっと思ってた。それは今も変わらないよ――だけど俺は、水無月に自分勝手な理想ばかりを押し付けていた」
水無月は優しい女の子で、誰よりも絵を楽しそうに描いていて、その描く世界は美しい。彼女の描く世界は自分に色を見せてくれて、怒ることなく自分に道標をくれる存在だ。
……そう彼はずっと思っていた。
「それがダメだって気付けるようになったのは、成長なんだと思う。気付くのが本当に遅かったけどさ」
「…………」
歩きながら、水無月は一色の方を見つめた。その横顔は水無月には向いておらず、前を向いていた。
「水無月は、自分のことをそんな風には思わないと思う。……根本的に俺と水無月はそっくりだから、分かるんだ。きっと自分に自信がなくて、怖がりだから。だから無意識に殻を作って、閉じこもって――殻を作っていたことに気付いて、思い悩んで、心が傷ついてしまう」
「……うん、一色くんの言う通りだよ――私はずっと罪悪感ばっかり。一色くんとのこともそうだったし、今もそうだよ」
「……でも、どうにもできない苦しさも、知ってるよ」
「それは……」
自分から頼れることの出来ない辛さを、一色は知っている。彼自身がそうだった。
誰かにヒビを入れてもらわないと手を出せず、その手も引っ張ってもらわないと中から出ることも出来ない。
「……私は、雛鳥がすごいって思う」
すると水無月は、唐突にそう言った。
「雛鳥が?」
「うん。雛鳥は生まれてくる時、自分で殻を突き破るから――飛ぶ時も、自分から飛び出せて、いつか一人でどこかに飛んでいく。……私には、真似できないから、すっごく羨ましいよ」
そして、立ち止まって一色の手を引いた。一色は立ち止まり、彼女の顔を見ると……水無月は言った。
「……一色くんのことも、羨ましいんだ」
「……俺が羨ましい、か。……なんでそう思うんだ?」
一色はそれを無下に否定することもなく、優しげな表情で問う。
「だって……私と違って、前に進んでるから――変わったのは前に進んだからだよね? でも、私はずっと同じところで止まり続けているから。だから、前に進めた一色くんが、羨ましいよ」
それは、本音だ。水無月は一色のことが羨ましかった。
――それがどうしてなのか、水無月は自分でも理解していた。
「ずっと、一色くんに親近感を持ってたの。性格も性別も違うのに、一色くんといると、気分が楽だった――似てるって、本当はずっと前から分かってたの」
水無月は当初から一色に親しげに接していた一因を、自分から話した。
……他の誰もが思っている以上に、水無月は自身のことを理解していた。どうして一色に妙に親身になってしまう理由も、分かっていたのだ。
「一色くんが何かを隠しているんじゃないかって、思ってた。でも、それは自分と同じだから――だから気が楽だったの。私は、そんな風に、ずっと一色くんに依存してたんだよ……っ」
似ているから、自分のことを分かってくれる。だから彼に親しげに話しかけて、仲良くしようとして、自分を肯定してほしかった。そう水無月は、懺悔するように一色に言った。
「――怖く、なったの。一色くんが前に進んで、私は一人だけ、取り残されたような気がして……」
「…………そうか」
それでも、そんな事実を話されても、一色は表情が崩れない。
――いわば彼女は、自分が一色を利用していたと言っているのだ。自分の心の安定のために一色を利用していたと。
……一色もそういった意味である暴露と認識している。認識している上で、彼は表情が崩れなかった。
「周りに色々な人がいるのに、友達だってたくさんいるのに――一人ぼっちだって、一人取り残されてることが怖くて……それを言うのも、本当は怖いんだよ」
「……そっか――だったら、つくづく気が合うな」
一色は水無月の言葉を聞き、それを受け止め――笑顔を浮かべながらそう言った。
自分の悪いところを認めているからか、その表情は少し苦笑いも含まれている。その笑顔は、水無月を受け入れるものだ。
「え……でも、一色くんは、前に」
その予想外の反応に、水無月は言葉を失う。
――水無月は一色に苦言を言われると思っていた。少なくとも、彼が受け入れてくれるとは思っていなかった。……受け入れて欲しく、なかった。
ここで一色に否定されることで、水無月は罰を求めていた。そうしたら罪の意識が少しは軽減されるからだ。
一色は繋がっている水無月の手を、少しだけ強く握る。
「そう、進んだよ。でもそれは、情けないとは思うけど自分の力じゃないんだ」
一色の背中を押したのは、決して彼自身ではなかった。
それは美月であり、雪彦であり、初香であり、和那であり、咲良であり、渡邊の手だった。どれもが彼を知り、支えたいと思った人たちの手によって押し出されて一歩進み、そこから彼の意思で歩き出した。
「俺もずっと思っていたんだ。この世界は広いのに、一人だけ取り残されているんだって。誰も自分のことなんて分かってくれないから、無表情って仮面を被って、本音を言わず、ずっと殻に閉じ篭っていた」
それのどこが水無月と違うんだ、と一色は言った。
「雪彦先輩は胸倉を掴まれて、怒ってくれた。海老名先輩はたくさん気を遣ってくれて、それでも受け入れてくれたよ。渡邊先生は嫌われ役をしてまで諭してくれたっけ。そして貴音先輩は――泣いて怒られて、喝を入れてくれた。そうして俺はやっと、俯くのを止めて、目の前の世界を見たんだ」
一色はそう言って、山道の先を見ると、そこには山の頂上が見えていた。一色は水無月の手を引いて歩き始める。
「そろそろ山頂だ。続きは、そこで話そう」
一色は水無月の返答を聞くことなく、歩き続ける。そこでようやく無言の時間が生まれ、二人は黙ったまま山頂まで歩いていった。
――山頂の展望スペースには陽が照らされていて、とても綺麗だった。太陽が照らすのはそこだけではなく、虹北高原全体を覆っている。
一色は水無月を一望できるところまで連れていく。そのとき、以前に座った岩の横を通り、少し懐かしさを思い出した。
「……おぼろげにしか見えないけど、綺麗」
「ここまで雲一つないからな」
……少し二人でその光景を見る。
山頂から見える景色は、角度によって様々な顔を見せる。程ないところには湖があり、その湖の水が太陽光に照らされ、反射して綺麗な景色を作り出している。緑豊かな自然は光で照らされることで緑を際立させていた。
……水無月の目には、確かにそう映った。
「……まだ話したいことがたくさんあるんだ」
その景色を見ながら、一色は水無月にそう言った。
「話さないといけないことも、あるんだ」
「……話さないと、いけないこと?」
「ああ――その前に、水無月に謝らないといけない」
一色は水無月の手を離し、彼女の方を正面を向いて立つ。そして頭下げて――
「――水無月の過去のことを、貴音先輩から全部聞いた。だから、ごめん。勝手に水無月の大切な思い出を、根底に関わることを聞いてしまって……ごめん」
「……一色くん」
頭を下げる一色を見て、水無月の中に、とある感情が芽生えていた。
怒っているような感情といえば、それは違って。悲しい感情とも違う。かといって嬉しいというものでもなく……
「――本当に、一色くんらしいね。言わなくてもいいのに、わざわざ謝ってくれるなんて」
――しょうがないな、と思う。それは美月に対して抱く感情であった。
……そう、言ったのは美月だ。だから一色は謝る必要はないし、そもそもそれを言う必要もない。
しかし一色はそれを生真面目に、本人に頭を下げて謝った。……一色らしい行動に、水無月の胸は何故だかトクン……、という音が反響した。
「……一色くんなら、良いよ。どっちにしろ、私は自分では話せなかったと思うから」
「――いや。そういうわけにもいかないよ」
許すと言う水無月に対し、一色はそう制した。
「え? ……私は怒ってないし、これで何かしてもらいたいとか思ってないよ?」
「水無月が良くても、俺が良くない」
一色は頭を上げて、頑固にもそう言った。水無月はその反応に少し困る。
水無月は、自分がどうすれば良いか分からないからだ。水無月が返答に困っていると、一色はすかさず話し続けた。
「水無月から直接聞くんじゃなくて、幼馴染から又聞きしたんだ。そんなの卑怯だろ。俺は……卑怯者にはなりたくない」
「が、頑固だねぇ……だったら、どうしてくれるの?」
譲らない一色に、水無月はそう尋ねた。すると一色は、視線を彼女から景色の方に向ける。
「……そうだな。それに見合った行動は、残念だけど俺の中には一つしかないよ――水無月は、この景色はどう見える?」
「え?」
その一つを言うことなく、そう尋ねてくるものだから、水無月は反応が遅れる。
一色と同じく虹北高原を見下ろし、そして思ったことを言った。
「……綺麗だと、思う。細かいところまでは見えないけど、色々な色が光で綺麗に見えて――これまでで一二を争うくらいに、綺麗な景色だよ。これで虹が見えたらもっとよかったって思えるくらいに」
「……そうか。水無月には、そう見えるんだな」
一色はそう言って、一度目を瞑った。
――今から話そうとすることは、彼の根底に関わることだ。それを話すには勇気がいる。とても大きな勇気によって、不安を跳ね飛ばさないといけない。
……そんな時に、彼は水無月の涙を思い出した。
絵が描けないようになった時の彼女を、そして美月から聞いた話による、水無月の原点を。
誰よりも笑顔で、絵を楽しく描く水無月を思い出すと――自然と口は動いた。
「俺の目には、そうは……映らないんだ」
「……それは、人それぞれ感じ方はあるから」
水無月は一色の言ったことを、そう解釈する。水無月らしい気遣った解釈の仕方だ。
しかし一色は首を横に振る。
「感じ方じゃない。見え方、なんだ。俺には他の人が見る景色が、世界が全く理解できない」
「理解、できない?」
一色は、頷いた。
「――この世界は、色で満ち溢れている。でも、俺はそれが、分からないんだ」
かつて心で思った言葉を口にして、一色は目を細める。水無月はそれを聞いて、目を丸く見開いた。
「だって、俺には――色が、見えないから」
「色が……見えない――……」
水無月は、一色の告白に言葉を失い、呆然とする。
――驚いて当然だ。そんなこと、誰も思いもしないだろうから。何より一色が頑なに隠していたことあ。知る由もないだろう。
予想の違わぬ反応に、一色は水無月の顔を見た。
「……水無月のことを知って、水無月が俺のことを知らないのは不公平だ――だから話すよ。自分のこと。この目のことや、俺が昔、何があって、どうしてこんな性格になったことを。それを全部、水無月に話したい」
「…………」
水無月が何かを考えているのか、何も考えることが出来ないのか。それは一色にも分からない。しかし一色は水無月に尋ねた。
「――聞いてくれるか? 少し長くなるけど」
「――うん。聞かせて。一色くんのことを」
水無月は、一色の質問にすぐに答えた。
真面目な表情で、真剣な声でそう言った。それが一色には考えてくれていると思うことが出来て、話す決心がついた。一色は口を開く。
――そうして話し始めた。
○●○●
「色覚異常って言葉と意味は、水無月も知っていると思う」
「……うん、私はお医者さんに色弱って言われたから、ある程度は知ってるよ」
俺が最初にそう尋ねると、水無月は肯定した。あらかじめ聞いていたことだから確信はあったけど、一応の確認だ。
「俺は、先天性の全色盲なんだ」
「せ、先天性の全色盲って、つまり……」
「ああ――つまり俺は、生まれてから色というものを見たことがない」
俺の言った真実に、水無月は驚きを隠せないようだ。……当たり前か。俺も水無月が色弱であると聞いた時、相当驚いたから。あの時の俺は、今の彼女のような反応をしていたはずだ。
「このことを知っているのは関係性の近い人で言えば、家族と一人の幼馴染と……それと、渡邊先生だけだ」
「……渡邊先生、が?」
「ああ――あの人の洞察力もすごいよ。初めて授業で会って、その授業の終わりに呼び出されて、聞いてきたんだ。君の見える世界は、他の人とは違うようだね、って」
……最初のオリエンテーションの時に感想文を書いた時だ。感想文は漫画の事に対してや、色彩についてのことが書かれていて、俺はその色についての感想が書けなくて、白紙で出して、そして呼び出された。
……それであの人は俺の秘密に気付いたんだ。
「知ってると思うけど、俺の親って芸術家でさ。色々なことをしてるんだけど、やっぱり子供には自分たちの好きなものを知って欲しいらしくて。……良く俺を連れて美術館とか絵画の個展に連れて行ってくれたんだ――まだ物心も付いていない時の俺は、自分の見える世界が普通だと思ってたから、そのことにに気付くことがなかったんだ」
そう、自分が人とは違うと気付いたのは、幼稚園に通い初めてすぐだった。
「親はたぶん、気付いていた。俺に目が色を認識できないことくらい、分かっていたんだろうな。ある時を境にめっきり、そういうところに連れて行ってくれなくなったんだ……ずっと幼稚園に通わせようとしてなかったんだけど、仕事が忙しくなって、そうするわけにもいかずに、結局通うことになった」
「……幼稚園に行かせたくなかったのは」
「想像通りだよ――幼稚園にはお絵描きの時間があるだろ? クレヨンで絵を描いていたんだけど、その時に同じ組の子に言われたんだ。……変な色づかいって」
……絵を描くのは好きだったから、そいつと喧嘩になった。特に自分の親が絵を仕事にしているから、変なプライドもあった。
その時は先生は俺ではなく、悪口を言った子供を叱った。だけどその時に言われたことに疑問を抱くようになった。
「少しずつ、自分と周りの違いに気付き始めた。自分が良かれと思って描いた絵が、いつも馬鹿にされるんだ。そして、いつも馬鹿にされるのは色の使い方――自分は、色とも思っていなかっよ。だって俺にとって、色なんてものはないから」
……その時のことを思い出して、少し辛くなる。
「――赤色はどれだ? そう聞かれて、赤色は何って思った。色々な色のことを聞かれて、毎回意味が分からずに、聞いたんだ。色って何のことってさ」
「…………っ」
水無月が、自分のことのように辛い表情を浮かべる。……きっとその後のことが想像できたんだろう。
「それを聞かれたのは、組の子供が皆いる時だったっけ。先生に聞いて、先生は俺を見て何も言わないんだ。……疑問に答えてくれなくて、代わりにその疑問に答えてくれたのは……子供だった」
――お前、色が分からないんだろ! 無色だな、お前って!! ……かつてあいつに言われたこと、付けられたあだ名を思い出した。
「俺は色の意味を子供に教えられた。俺が答えれたのは、黒色と白色だけだったんだ。当時は灰色って言葉を知らなかったから、答えられなくて――昔からあまり人付き合いが上手くなくて、友達が少なくてさ。それで付けられたあだ名が……無色だった」
「無色って、――」
……一度、自分のことを無色であると水無月に言ったことがある。それを思い出してか、水無月は口元を抑えた。
「一色と、色が無いことをかけて無色だとさ。……他の人と違うって分かってから、今思えば虐められるようになった。嫌なことを、毎回言われるようになったんだ」
「ひどい……っ」
「……子供だからな。無意識って、残酷なんだよ。それがダメなことだって分からないんだ」
……子供は正直な生き物だから、思ったことをそのまま口にした。幼稚園の頃はからかわれるだけだったか。あの頃は暴力なんてものはなかった。
「そして自分が色覚異常だって知り、余計に静かになったよ。あまり話さないようになって、仲良くしていた数少ない人も、大体離れていった」
「……ずっと、一人ぼっちだったの?」
水無月は不安そうに、そう尋ねた――答えは、否だ。
「いや、一人だけ。水無月にとっての貴音先輩のような幼馴染が、俺にもいたんだ」
――思い出す、昔の幼馴染のことを。
「その子は俺よりも一学年上でさ。いつも虐められる俺を助けてくれた。俺の目のことを知った上で受け入れてくれて、友達だって、好きだって言ってくれたんだ」
……それに救われていた。あの子にだけは心を開き、あの子の前だけでは笑顔を見せていた。
「家が近所で、幼稚園に行く前から遊んでいてさ。たぶん、親もあの子がいたから幼稚園に通わせようと思ったんだろうな。……何も言っていないのに、俺が虐められていることに気付いて、助けてくれたんだ」
「……優しい子、だったんだね」
「ああ。本当に優しくて、大好きだったよ。あの子が近くに居てくれたから、俺は虐めも耐えられた――良く一緒に絵を描いたんだ。俺が鉛筆で描いた灰色の絵を、いつも上手って言ってくれた。好きだって言ってくれた。……それが嬉しくて、絵を描くことは止めなかった」
「私と、一緒だ……」
……そう、一緒だ。だから水無月のお母さんのことを聞いて時は、俺は驚いたし、共感もした。
「水無月がお母さんを想って絵を描いていたのと同じで、俺も幼馴染を想って絵を描いてた。俺に漫画を教えてくれたのも、幼馴染で――俺にとっては、両親以上の理解者だった」
あの子は最後まで俺を肯定していた。
「……幼稚園は、狭いからすぐに虐められたら気付いてくれてた。……だけど、小学校はそうじゃなくて、気付けない時もあったんだ。俺はあの子が俺を助けることで逆に虐められるって思って、本当のことを言えなかった」
――上履きを隠されたこと、悪口を言われたこと、机に無色と書かれたこと、暴力を振るわれたこと。あの子が気付けないことを、俺は絶対に教えなかった。
それを水無月に言う。……口元を抑えていて、瞳が涙で濡れていた。本当に感受性が豊かだな。
「別に、虐められてても、どうでも良かったんだ。あの子が近くにいてくれれば、あの子が俺のことを肯定してくれるならそれで。……でもさ、あの子は俺が泣いていないのに、俺が虐められていつも泣くんだ」
「……分かるよ、その気持ちは」
「……そうだよな。水無月はあの子にどこか似てるから、そう言ってくれると思った」
――どうして泣いていたのかは、ついぞ最後まで分からなかった。だけど、今なら分かる。
……大切だからこそ、そんな人が傷ついているのに救えないことが辛いのだ。俺が一度も泣かないから、それが辛そうに見えて仕方がなかったんだろう。
感受性が強かったから、余計に。
「毎日、その子と遊んだよ。小学校四年生くらいまでは、それが続いた」
「――まで?」
「……ああ。それ以来、俺はあの子に会うことができなくなった」
今でも、それを思い出すと後悔が募る。
――思い出すのは、幼馴染の最後の涙。あの涙だけは永遠に忘れることが出来ない。
「あの子は、引っ越すことになったんだ――理由は、親の転勤だって言ってたけど、たぶんそれだけじゃない。……あの子も、クラスメイトに虐められていたんだよ」
「――そ、そんなことって……っ」
水無月はその真実に、ついぞ涙を溢れさせた。
「……俺を最優先するばかりに、周りの友達とかを蔑ろにしててさ。俺はそのことを考えもしなかった――ずっと、自分ばっかりだった。あの子が虐められていることも気付かないで、おこがましくあの子の側に居たいって、思ってた」
そんな、大馬鹿野郎だ。
「全部知ったのは、あの子が去ってからだった。……ずっと、隠していたんだ、あの子も。心配を掛けたくないと思ってたんだろうさ」
「……そんなの、悲しすぎるよ」
「ああ、そうだな――悲しかったし、泣いたよ。そして、自分のことが、本当に嫌いになった」
俺は手の平を見つめ、そう懺悔する。
――この手を、あの子はいつも引っ張ってくれていた。千尋くんって嬉しそうに呼んで、俺が寂しそうにしていると、いつも抱き締めてくれた。
「大切な人を何も知ろうとしなかった。無償の好意にそれを怠って、彼女の辛さに気付く事さえも出来なかった」
「でも、それは」
「仕方ないって部分も、当然あると思う――それでもあの子は、いつも俺のことを見つけてくれていたんだ」
だからこそ、余計に最後の会話は胸に突き刺さって消えない。
「あの子は最後に、俺にごめんなさいって言ったんだ」
「……何に対して、なの?」
聞くのが辛いって顔をしている。水無月だって、それが良いこととは分かっていないんだろう。
「……私じゃ俺を守れなかったって。逃げてごめんなさいって。……自分も辛いのに、最後まで俺を責めないんだ。本当に、馬鹿だよ……、――俺はっ」
思い出すと、涙声に出てしまう。涙も溢れているのかもしれない。あぁ、最後まで我慢することは出来なかったか。
「誰よりも優しい子だった。俺はそのことを知っているのに、あの子の涙は、俺の代わりに流してくれていると思っていた――それがあの子の助けてって涙とも知らずにさ」
「一色くんは、悪くないよ……っ! 悪いのは、二人を虐めていた人で……っ」
「そう言ってくれると、思ってたけど――結果は、俺はあの子を救うことが出来なかった」
自分で言って、自分が情けなくなる。
「……それからだな。俺は、誰かと仲良くなろうと思えなくなった。だって、幼馴染一人も救えない奴が、誰かと仲良くなる権利なんてないと思ったから。……中学生に上がって小学校の連中とは別れたけど、そこで誰かと接することはなかった」
「……一色くん」
水無月が、俺の離していた俺の手をキュッと掴む。
「……それでも、絵を描くことは止めなかった」
「……どうして? そんなに辛いことがあったのに、どうして……」
どうして。……そんなもの、決まっている。もしも俺が絵を描くこと止めて、何もしなくなったらそれこそ――あの子に、合わせる顔がないから。
「――あの子が褒めてくれて絵を捨てるってことは、あの子との思い出や出来事を忘れることって思ったから。だから一日だって絵を描く事を止めなかった」
それしか、縋るものがなかったのだ。漫画や絵を描いている時は、色を気にする必要はなかった。誰に何を言われても、少しの間はそれで忘れられた。
その代わりにあの子ことを決して忘れられずに済む――忘れてはいけないことだから。絵を描いている時だけは他を忘れ、あの子のことだけを考えられたから。
「絵がうまくなることが、俺は辛かった」
……初めてだ。こんなことを、誰かに言うのは。
「上手くなっても、本当に褒めてほしい人は居ないから。あの子とは決して会えないから」
だからどれだけ上手くなっても満足せずに、我も忘れて練習していた。一度も楽しいと思ったことはなく、あるのはただの作業だけ。
「――それでも、俺は色が知りたかった」
「……色、を?」
……水無月はそう聞き返す。
「――こんな俺を、両親は大切に育ててくれた。そんな両親が愛する芸術には色があって、それは美しいものなんだ。……色を知らない俺は、ずっと一人ぼっちで世界に取り残されている。だから、色の美しさを少しでも理解できれば、恩返し出来るんじゃないかって。それが色を知りたい原点」
――そしてその思いは、いつしか色を知れば変われるんじゃないかって、そう思うようになった。
色を知れば、あの子に顔向け出来るんじゃないか。もしも会えた時、本当の意味で分かり合うことが出来るのだと思って……色を知ることに縋っていた。
「俺は自分のことが大嫌いだよ。平静を気取って、本当の気持ちをずっと隠してきた。踏み込みたくても、自分にはそんな資格がないって言い訳して、踏み込もうとしない自分が――最近は特に嫌いだった」
「…………」
水無月は無言で俺の言葉を聞いていた。自分のことも関係していると思っているからだろう。
しかし表情には仄かに罪悪感が見える。
「……俺は変わったと思うけど、根本的にはまだ自分のことが大嫌いだよ。きっとそれは、しばらくずっと変わらない」
「そんなの、その子が報われないよ……! その子は絶対に、一色くんが自分を嫌うことなんて望んでいない……って思う! 本当のことは何も分からないけど――最後まで一色くんを気遣っていた子が、そんな風に思うはずがないもん!」
「――」
水無月は、強い瞳と強い言葉で、そう断定した。
……こいつは、本当に。どうして自分のこんな状態なのに、人のことをそんなにも怒れるんだ。
あぁ、やっぱりだ。水無月は、どうしようもないお人良しで、優しくて……俺は思い描いていた理想は、理想なんかじゃないって断言できる。
「……ありがとう、そう言ってくれて、本当に嬉しい」
実際、あの子とはもう一度、会いたい。会って、謝って――前を向いて歩けるようになったことを、話したい。そして昔のことを思い出して、ちゃんと自分の気持ちを伝えて……また笑い合いたい。
そんな風に思えるようになったのが、俺は嬉しい。そう思えるようになったのは、美術部のおかげだから。
「――俺は、水無月を助けたい」
「……っ」
俺の中の水無月への想いの言葉は、「大切」という曖昧なものだ。だけど、もしも天秤の片方に水無月が乗ってた時、俺は彼女を選ぶと思う。
「水無月のことを知ったからじゃない。知らなくても、俺は水無月には笑顔を浮かべてほしいって、心の底から絵を楽しんで描いて欲しいって願ってる。だから、俺に出来ることは何でもするって、決めたんだ」
「――分からないよ……っ」
俺がありのまま、本心を言うと、水無月は声を震えさせてそう言った。
「一色くんが、どうして私のためにそんなに思ってくれるのも、分からないよ……っ。同情なんて、私はいらないの!」
……水無月の言うことは最もだ。誰かに哀れまれたところで、現実は何も変わらない。俺だって表面的な同情なんて、必要ないって思う。
でも、違うんだ。俺のこれは、決してそんな他人行儀なものじゃない。
「……同情じゃないんだ」
だから俺は、水無月に伝える。
「だったら、なんなの? 分からないよ……分からないことは、すごく、怖いの……!」
彼女の言う通りだ。分からないことは怖い。人が何かを知りたいのは、分からないことがとても怖いことだからだ。
……知りたくて。知ろうとして、でも俺は失敗した。きっとそれは水無月も同じだろう。
――俺が知りたいことは曖昧なことばかりだ。言葉では説明できないことばかりを知りたいと思ってしまう。
どうしてそんな風になってしまったのだろうと考えた時、思い浮かぶのは、ただ一つ。それは――
「――水無月だから、俺は救いたい。じゃないと、不公平だからな」
「……また、不公平?」
「ああ。……だけど、ごめん。ここから先は次の場所に向かってから話さないといけない」
……俺は一度、水無月の手を離した。自分勝手だけど、ここから先の話はどうしてもここで話してはいけない。
それに、時間も時間だ。そろそろ移動しないと、色々と裏で動いてくれているあの人たちに迷惑を掛ける。
「話したいことは、移動しながら少しずつ話すよ――だから、ついてきてくれないか?」
俺は、水無月に手を差し伸べた。……今すぐにでも聞きたいというのは、顔を見れば分かる。
――だけどごめん、これは譲れないんだ。
「……うん、分かった」
水無月は、恐る恐る俺の手を取る。その握る強さは今までよりも強かった。
そして、俺たちは向かう――このデートの執着地点に。
ようやく主人公が自分の秘密を話した……(物語も結構終盤に差し迫っています)




