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こころのいろ  作者: 如月心
第7章 雪溶けの空には虹がかかる
46/69

7幕 世界の最果てで、幸せを……

「――疲れた」

「あはは、お疲れさまだね」


 高原の隅の、大きな木の木陰にレジャーシートが敷かれている。その上に一色と水無月は腰を下ろしていた。

 一色は子供たちの面倒から解放され、ようやく一息ついていた。対する水無月は特に疲れている様子もなく、とても上機嫌な笑みを浮かべている。


 一色は非常に不公平さを感じているものの、しかしこれは彼自身の面倒見の良さによる結果だ。

 身から出た錆、というのは少し違うだろうが――少なくとも悪いことではない。


「子供って体力が底なしだって久しぶりに実感したな。……和那がインドアで良かったって思う」

「でも和那ちゃん、最近では学校でもお友達が増えてきたから、いつかは」

「止めろ、想像したくない」


 少なくとも和那が友達を家に連れてくることはあまりないだろう。

 何故? そんなものは簡単で……兄を取られる可能性があることを、和那は自分からしない、したたかさを持ち合わせているからだ。


「……少し遅くなったけど、昼食にしよう。予想以上にお腹が空いた」

「一時間くらい遊んであげてたもんね」

「……まぁ、喜んでくれてたから、嫌じゃなかったんだけどな」

「ふふふ……」


 一色の横顔を見て、水無月は微笑んだ。

 ――最後、子供たちは一色と水無月に対して満面の笑みでお礼を言った。もちろん保護者の親たちも、だ。


 特に一色には子供たちはとても懐いていて、子供によっては泣き出す子もいた。

 それを受けたのだから、一色も嫌なはずがない。むしろ妙な満足感さえ抱いていた。


「一色くんは意外と幼稚園の先生とか、小学校の先生とかが向いてるんじゃないかな」

「……知らない」


 一色は顔を背けてそう言った。


「この話題は不毛だ。ほら」


 今すぐにでも話題を変えたいのか、一色は鞄から昼食の入ったケースを取り出す。藁で出来た品のあるケースで、その中には……


「サンドイッチに、洋風おかずだ」

「完全な洋風も、たまにはな。あと最近素晴らしい洋風弁当を見て、作りたくなった」


 先日、咲良が渡邊のために作ったと思われる弁当の中身を見て、一色は今日の献立を決めた。

 ……サンドイッチはハムとスライスチーズを挟んだものや、ポテトサラダが挟んだものがあるなど、種類は豊富。中には生クリームと果物が挟んでいるものがあった。


 おかずの数々は、実に分かりやすいものばかり。ハンバーグや唐揚げなどの定番をはじめ、アスパラガスやトマトなどの野菜もしっかりと入っている。良く見るとコールスローも入っていて、水無月は手の込みように驚いた。


「……本気、出したね」

「ああ、今日は四時起きだった」


 そもそも水無月が連れ出された時間が朝の七時過ぎであることを考えれば、当然だろう。


「一色くんの手際だったらもう少し眠れたんじゃないの?」

「――二人分、ならな」

「…………聞いてごめんね。考えれば分かることだった」


 水無月はそれ以上問うことはなく、手始めにサンドイッチを手に取って、一口食べる。


「ポテトサラダがチーズと合わさって……おいしぃよぉ」


 水無月は見事に破顔する。

 ……おいしいものを食べると笑顔になるという説は真実であり、一色は水無月に見えないようにガッツポーズを浮かべる。


 彼と同じく料理上手な水無月に認められるのは、彼としても吝かではないということだ。

 ――二人分にしてはそれなりに量があったのにも関わらず、三十分ほどするとお弁当は空になっていた。

 一色も空腹であったし、何よりも水無月がとても良く食べたのだ。

 ……最近はあまりご飯も食べていなかった水無月だが、今日はそれが嘘のように食べた。彼女自身もそれに驚いている。


「……久しぶりに身になるモノを食べた気がするよ――ありがと、何から何まで」

「感謝はいいから、先にすることがあるだろ?」

「あ! ごちそうさまでした!」

「……お粗末様。喜んでもらえて、早起きした甲斐があったよ」


 一色はそう言いながら食べ終わったものをケースに戻し、そのまま鞄にしまう。

 ……水無月はふと、レジャーシートの上で横になった。


「――楽しいな、今日は」


 そして、しみじみとそう呟いた。

 ……紛れもない本心だ。彼女は今日、嘘偽りなくこのデートを楽しんでいた。自分の置かれた状況を一瞬でも忘れることができていた。


 だから、一色には感謝をしてもし切れない。

 水無月のことを考えて、思って立てられた計画だと思うと……水無月は涙が出そうになるほど嬉しくなった。


「……ね、一色くん」

「なんだ」


 水無月は一色の名前を呼ぶと、彼は優しくそう聞き返した。


「嘘みたいなくらいに、本当に楽しいの。自分が絵を描けないのが本当は夢なんだって思っちゃうくらいに」

「…………」


 一色は彼女の言葉に、反応することが出来なかった。


「でも、夢はこっちなんだろうなぁって。今、思ったの」

「……夢なんかじゃ、ないさ」


 一色は水無月の右手を掴む。


「一色くん?」

「……夢なんかで、終わらせないよ。絶対に」

「……ありがとう」


 水無月は感謝の言葉を口にした。それを聞いて一色は、


「――まだお礼を言うのは早いぞ。だってデートは、まだまだ終わりじゃないんだからな」

「……は、恥ずかしくないの? なんか、いつもの一色くんじゃないみたい」

「いつもの俺、か。……そうだな。いつもの俺なら、こんな恥ずかしいことは口にしないな。そもそもデートなんて言葉、使わないか」


 一色はそう指摘されて、可笑しそうに笑う。

 ――この笑顔もそうだ。水無月の知る一色は、こんな笑顔を浮かべたことは、ほとんどない。


 こんな純粋な笑顔を見たのは、夏の合宿のときに一度だけだ。それ以外では含み笑いと微笑くらいしか浮かべないほど、一色は表情変化が乏しい。

 ……だけれど、一色はこのデートで良く笑う。


 良く笑い、良く話す。その笑顔の数々はとても彼の元のとは思えないのだが――水無月はそれが、とても自然な笑みと受け入れた。


「……無理、してないよね?」


 水無月は、不安になってそう聞いた。

 ……無理をさせていると、彼女は思った。そう思うと途端に自己嫌悪が彼女を襲い、そして表情が暗くなる。

 それほどに不安定な水無月に、一色は「はぁ」と溜息を漏らした。


「俺がそんなに器用に思えるか? 特に感情とかの部分で」

「そ、それは……得意じゃ、ないよね?」

「当たり前だ。作り笑いとか、やろうと思っても出来ないさ」


 一色は肩を竦め、水無月の隣で寝転んだ。


「そんな風に器用なら、水無月を傷付けることはなかったよ」

「一色くん、まだ気にして……」

「当たり前だろ? ……それに、そんなに器用に仮面を被ってたら――」


 言葉が詰まる。それは思い付かないわけではなく、ただ、口にするのがはばかられる。


「きっと、水無月に向き合うことなんて出来っこない」

「……っ」


 それでも一色は、言葉を水無月に伝えた。


「私は……何も、話せてないよ?」

「奇遇だな、俺もお前には何も話していないな」


 水無月が涙声でそう言うと、一色はそう言い返す。

 ――自分を否定する言葉を並べたところで、一色はそれを許さない。否定をするなら肯定を重ねて上塗りして、彼女を正当化するだろう。

 どうしても水無月は理解に苦しむ――どうして彼は、自分にそんなにも優しいのだろうと。


「本心って、言葉にするのが難しいと思う。俺もそうだし、水無月も――いや、みんなそうだ。誰だって怖い。……すごいよな、先輩たちって」


 一色は、美月を、雪彦を、初香を思い出しながらそう言った。


「あんなに本心から向き合ってくれる人がいるのに、それでも俺は逃げてた。真っすぐに目を合わせることが出来なくて、言葉下手に言い訳して……それでも呆れずに、首根っこを捕まえてくれるんだ」

「首根っこを掴んでくれる……」

「そうだ。あの人たちは見捨てないんだ。大切だと決めた人は、何があっても離さない。目には見えないリードを無理やり引っ張って、抱きしめてくるんだ――本当にそういうところを、俺は尊敬するよ」


 一色は初めて、彼らに対して尊敬という言葉を口にした。

 ……思っていたことは多々ある。むしろこれについては常日頃から思っていて、そして逃げていたことに罪悪感を持っていた。


「それを今、俺はお前にしてるってわけだ」

「……首輪で繋いでるの?」

「そうだな。今はその手綱は俺が持ってる」


 一色は左手を上げて、あたかもそこに手綱があるかのように持つ仕草をした。


「……逃がさないから。だから逃げられると思うなよ」

「――しつこいね」

「知っての通り、美術部員の条件はその面倒臭いしつこさだからな」


 大自然の中で寝ころびながら顔を見合わせる。笑い合い、言葉を交わす。

 ……一色は先に上半身を起こして、鞄の中からあるものを取り出した。


「……その手綱の一つがこれだ」

「これって――」


 水無月もまた起き上がり、一色の手にあるものを見て……目を見開く。

 それは、クリアファイルだった。少々分厚さのある、それの正体を水無月は知っていた。


「結局見せずじまいだったからな。この機にそろそろお前に見せないと、渡邊先生に単位を落とされる」

「――漫画」


 それは、一色が最初に水無月に見せると決めた漫画だった。

 状況が悪化し、見せる機会を失っていた一色の漫画は、確かに完成していた。あまりにも時間が空いたため、更にトーンなどで手を込めて、完成度はより上がっている。

 水無月は一色の手からそれを受け取る――しかし、中身を見ることに躊躇していた。


「……見る資格が、あるのかな」

「――水無月以外に誰がその資格があるんだよ」


 何しろ、彼女のために描いたのも同然の作品だ。一色は呆れた口調でそう言うと、その場で胡坐をかき、身体ごと水無月の方を向けた。

「前にも言っただろ。最初に水無月に読んでほしいって。……この作品を一番待ち望んでくれていたのは、渡邊先生でもなく、水無月だと思う」

 一色の言葉に背中を押されて、水無月は恐る恐るクリアファイルから原稿用紙を取り出した。

 一枚目には作品を象徴する一枚絵が描かれている。そこには主人公と思われる男の子と、ヒロインと思われる女の子が、小さな子供たちに囲まれて笑顔を浮かべていた。


「……前と、全然違う。最初にプロットを見た時は、子供たちの詳しい設定なんて……」

「ああ、色々と変わったんだ。前にあったのは世界観とか、主人公の設定とかそれくらいだったから。だからこれは、水無月の知っているものとは違うと思う」


 水無月はゴクリと息を飲み、ページを捲った――そこから広がっていた世界は、一色の言う通りのものだった。




 ――寡黙な主人公には、一つの秘密があった。いや、それすらも秘密に出来ないことが主人公の秘密。

 何故なら彼は、自分の心を隠すことが出来ないからだ。彼はいつでも思ったことが周りに声として聞こえてしまう体質を持っていた。思ったことを口にしまうことは、周りの人間が良しとするはずがない。


 排除、排斥、批判、差別……そんな理不尽な世界の中に生きてきた主人公は、それでも腐らなかった。彼の親はとても正しい人たちで、どんなことでも正しいことを口にしてしまう主人公を正しく育てた。

 だからこそ主人公は真っ当な心を持ち合わせ、ダメなことはダメと言い、理不尽に負けずに前だけを見続けていた。


 ……そんな主人公には、役割がある。それは身寄りのない子供の世話をするという役目だ。そして主人公を必死になって支えるのは、彼と年の変わらない少女だった。

 少女はあまり器用とは言えず、どちらかと言えば空回りが多い。失敗ばかりで周りに疎まれることが多く、面倒臭がられるような女の子。


 しかし決して努力を怠らず、決して下を向かなかった。




「……あはは、やっぱり好感が持てるな、このヒロインの女の子」

 水無月は序盤を読んで、笑いながらそう称した。しかしすぐに物語に意識が集中する。




 ――ある日、そんな主人公とヒロインの前に新しい子供が預けられる。

 その子供の瞳には光は灯っておらず、ずっと下を向いているような子供だった。人と視線を合わせることが出来ず、他の子どもと仲良くすることを拒否していた。


 主人公はその子供に向き合う。どうしてずっと下を向いているのだ、と。

 しかし子供は口を開かない。口を開くことが出来ないのだ。


 その子供は生まれながら声を出すことが出来ないという。喉に障害を持ち、そのことで手ひどい虐めを受けていた。これで耳が聞こえなければ罵詈雑言を聞くことなく成長できただろうが……状況は残酷で、彼は人一倍、聴力に優れていた。


 何度も嘘をつかれ、傷付けられて心はとっくに壊れてしまっていた。誰にも心を開かないのは、誰のことも信じることが出来ないからだ。

 しかし主人公はそれを知る由もない。何故ならその子供は話せないから、事情を知る由がない。


 ――主人公は、ヒロインは毎日その子供に話し掛けた。何気ない会話を何度もして、その度に笑顔を浮かべた。

 主人公は嘘をつかない。彼の声は常に聞こえていて、その本心を常に子供は聞き続けた。

 どれほど拒絶しても、主人公は常に子供と仲良くしたいと思っている。他の子供が泣いた時には心から慰めて、元気になると彼も元気になった。


 次第に声のない男の子は心を開く。その手を彼の手に伸ばそうとも、しかし寸前のところで引っ込めてしまう。それは裏切られた時の恐怖で、簡単には心が開けない。

 それでも、二人の大人は優しく待ち続けた。自分から来てくれるのを、心を開くのを願い、待ち続けた。


 ……ある日、声のない男の子は二人の元から逃げ出した。家出ともいえる事態に、主人公は焦る。

 主人公は町中を走り、子供を探し続ける――……




「……怖かったんだ。この子は、信じることが怖かったんだ。また傷付けられるって思うと、それなら近づかない方が安心できるって」

「……そうだな。だけど本当は、信じられる、心から自分を思ってくれる存在を求めていたと思う」


 水無月と一色は、まるで自分のことのようにそう語り合う。そして視線を原稿に戻した。




 ――子供を最初に見付けたのは、ヒロインだった。

 どこかの公園で一人、隅で体育座りをしている子供に、ヒロインはゆっくりと近づく。子供はビクッと怖がるものの、ヒロインは負けじと彼の隣に座って話し掛ける。


 ……ヒロインも、痛みを知っている。それは怪我から生まれる肉体的苦痛ではなく……精神的苦痛だ。

 身体に付けられた傷はいつかは治る。だけど、心の傷は中々癒えることはないと、ヒロインは語った。その上でヒロインは子供を肯定する。


 あなたは何も間違っていない。間違っていたのは、あなたの周りの世界。……そして、私たちの世界だと。一緒に涙を浮かべながら、ヒロインは子供を抱きしめてそう語った。

 子供は泣く。声なき声で、嗚咽を漏らす。それをひたすら受け止めていると、主人公は公園にいる二人の元に到着した。


 その汗だらけの顔を見て、子供は自分がどれだけ心配を掛けたのかを理解した。だけど彼には謝る術が思いつかない。


 すると主人公は――子供を叱った。心配で死にそうだったと、不安で苦しかったと。


 声では怒っている癖に、主人公の心の中はそんな子供を大切に思う心でたくさんだった。それを聞いて、子供はより泣いた。主人公に抱き着き、その服を涙でびしょびしょに濡らした。

 ……泣きつくし、子供は主人公とヒロインと手を繋いで家へと帰る。家に帰ると、騒ぎを知った他の子どもたちが声の無い子供に近づいた。


 怯えるも、それは子供を心配する声ばかり。


 ふと、ヒロインは手で空に何かを描き、それを声のない子供に見せた。それを見て、目を見開く。


 ――それは、手話だった。これまでその子は、通じないと思って手話をしたことはなかった。それを見たヒロインは、手話を猛勉強し、少しだけできるようになったのだ。


 それを受けて、子供はヒロインと、そして主人公にある手話をする。それは――先生、ありがとう。そう伝えた。




「……うぅぅ」

「お、おい、泣くなよ」

「だ、だって、だってぇ~……あれ、まだ続きがあるの?」


 物語に感動し、水無月は涙を流す。

 だが、物語はまだ終わらない。残り数ページがあった。キリの良いところで言うならば、ここで終わりであるが……しかし水無月は確かに、まだ知っている情報が出ていないということに気が付いた。

 水無月はそれに目を通した。




 ――少年は苦しんでいた。正しいことを言えば非難される、この生きにくい世界に心が荒んでいた。

 信じても裏切られて、誰も助けてくれない現実。たった二人の理解者だった親も、理不尽な死を迎えて、もうどう生きて良いか分からなくなっていた。


 それでも彼は前を歩いていた。いつかは報われる。いつかは自分を分かってくれる、そんな人がいると。

 少年の目の前で、車が暴走している。彼の視線の先には、俯きながら歩いている少女がいた。

 このままではダメだ、少女が轢かれてしまう――少年は走り出した。途中、少女は顔を上げて車が来ていることに気付く。しかし彼女は動けない。


 少年の手が、少女の身体を押した。少女はいとも簡単に道路脇に倒れて――主人公は車に轢かれる。

 頭を強く打って、身体の感覚がなくなっていく。視界も狭まり、周りから声が聞こえるが、それも少しずつ小さくなっていくのを感じた。


 ……彼が助けた少女は、少年の近くに呆然と歩いてくる。そして腰を落として、彼の手を取った。

 その目には、光はなかった。

 主人公は思った――自分の人生、本当に碌なことがなかったと。他人という誰かに手を握られたことはなかった。


 少女の手から温もりを感じた。理解していたのだ、自分が死んでしまうことに。

 少年は出来る限りの笑顔を浮かべて、少女にこう思った――生きていてくれて、ありがとうと。

 その気持ちは、心の声となって周りに聞こえた。




 ――少女は生きている気力を失っていた。何をしても上手くいかず、誰からも認められない。人の十倍は努力をしても、それでようやく普通になるほど。

 それでも誰もが彼女を馬鹿にした。暴力を、暴言を毎日のように吐いた。彼女の心は傷付き、もう全てがどうでも良くなったその時だった。


 暴走した車が、少女を襲った。気付いた頃には車はかなり近くに来ていた……周りはそう思っていたことだろう。

 ……本当はもっと早くに気付いていた。だけれど少女は、気付かぬふりをしていたのだ。こうすれば死んで、楽になれると。そうすればもうこの苦しいことはないと。


 死を甘んじて受け入れようとした――その時、声が聞こえた。危ない、逃げろ。それは普通の声ではなく、何かくぐもった変な声だった。


 ……気付くと、少女は道路脇にいた。誰かに押し出されたのである。

 視線の先では人だかりができている。少女は呆然とそちらに近づくと――そこには少年が倒れていた。

 少年は焦点の合わない目で、何かを探している。そして少女を見付けた時――笑みを浮かべた。


 少女は彼の手を握る。何故かは分からないが、どうしても握らないといけない気がしたのだ。

 握ると、それは冷たかった。その時に理解した――自分が、この少年に救われたのだと。


 少年は高校生くらいだった。少女は小学生で、子供ながらに理解した。

 この少年が、死ぬのだと。自分のせいで死んでしまうのだと。それでも少年は、少女に笑顔を浮かべ続けた。


 その時に聞こえた。口を開けていないのに、彼の声が聞こえたのだ。


 ――生きててくれて、ありがとうと。


 そうして少女は、生まれて初めて……涙を流した。




「…………この男の子と、女の子って」

「――ああ。主人公と、ヒロインだ」


 一色は水無月の疑問に答える。水無月の目には変わらず涙が溜まっていた。……しかし、まだ終わりではない。

 残り数ページだけ、まだ続きがあった。




 ――生き残った少女は、それから信じられないくらいに明るくなった。


 生まれて初めて泣いて、そしてそれから彼女は変わった。不器用なのは変わらないが、それでも下を向く事がなくなったのだ。

 それでも自分を救った少年の姿を思い出す。高校生になっても、その最後の笑顔を忘れたことは片時もない。


 ――少女は少年のことを調べた。彼の出生から、それまでの人生の軌跡を全て。知って、共感して、そのことに涙した。あぁ、どうして自分が彼の側に居てあげられなかったのかと。居てあげれば、私たちは互いに救われていたのに、と。


 そんな時、彼は祖母から聞いた。仏教徒である祖母は、死後の世界があると彼女に教えたのだ。だからこそ、少女を救った少年はそこで見守ってくれていると。


 ……それを聞いた少女は、希望に満ち溢れた。笑顔で学校に向かい、笑顔で授業を受け、屋上で祖母の作ったお弁当を笑顔で食べる。

 柵から空を見上げて、そして願った――もう一度、少年に出会えますようにと。


 途端に浮遊感が彼女を包み込む。昔、車に轢かれそうになった時とは違い、その時間が長く感じた。

 だが少女は笑顔のままだ。何故なら、彼女には希望がある。何故ならこの浮遊感の先にあるものは――何にも勝る、幸せという希望なのだから。



 ――舞台は主人公とヒロインに戻る。二人の頭には、ほぼ透明な天輪が浮かんでいる。

 そう、そこは死後の世界なのだ。死後、人々には役割が与えられ、その役割を全うすることで輪廻転生の権利を得て、そしてもう一度生を受ける。


 その役割は千差万別で、様々な役割がある。

 主人公とヒロインの役割は、深く傷ついた子供たちを世話して、そして希望を持たせる『先生』の役割。


 ……主人公は傷ついた子供たちを助けるためにこの役割を全うする――ヒロインは、そんな主人公を救うために、その役割を全うする。

 ただ、この世界には輪廻転生から外れる例外が一つだけある。それは……自殺である。


 自殺をした人間はこの世界で永遠の役割を与えられる。輪廻転生の権利はなく、一生死後の世界で役割を続けるのだ。

 ヒロインは主人公を見つめ、笑顔を浮かべる。そうして子供たちと主人公で手を繋ぎ、輪を作る。

 ――救ってくれた彼を救うため。彼がもう一度、生きる希望を持たせたいがために。そのために、彼女はこの世界にやってきた。主人公はそれに気付くことはなかった。


○●○●


 ……水無月は、全てを読み終わった。

 物語は基本的に温もりに満ち溢れた作品だった。とても心を痛めるようなエピソードがたくさんあるのに、それでも読んだ後に気分は悪いものではなかった。


「……そっか」


 そして水無月は、どこか納得したような表情を浮かべて、原稿の角を合わせる。そしてクリアファイルに原稿を戻した。


「――凄く、感動したよ。一色くんの伝えたい物語が、私の思い描いたものが、ここにはあった」

「……っ。そ、そっか」


 水無月からの感想を受けて、一色の緊張の糸が途切れた。

 ――他の誰でもない水無月からの感想に、一色はようやく報われるような気分を味わった。


 全ては彼女の、この言葉を聞きたいがために頑張ってきた。寝る間を惜しんで、これが水無月とのすれ違いをどうにかできるきっかけになれば良いと思い……それ以上に素直に読んで欲しいと願い、身を削って描いた。


 その緊張の糸が途切れたからか、シートの上に一色は倒れ込んでしまう。


「……ダメだ、頬、緩んでしょうがない」

「一色くん……」


 一色はこのままではダメだと、頭では理解していても……それでも満ち足りた充実感に支配されてしまえば、自分ではどうしようもない。

 しかし自分だけが満足をしているわけにはいかない。あくまでこれはついでで、本当の目的は他にあるのだ。……彼は自らの頬を叩くと、水無月は驚いて目を丸くする。


「……よし、切り替えた」

「別に、もっとニヤニヤしてくれてもいいのに」

「それだと示しがつかないし、後々それをネタに弄られそうだからな」


 ……水無月は笑顔を浮かべている。しかし、それでもどこか陰りが見えた。


 ――どうしてこんなに自分を思って行動してくれるのか、本当に分からないのだ。自分は温もりをもらってばかりなのに、どうして……何度目かも分からない自問自答が彼女の頭をめぐる。


 水無月はだからこそ、次の瞬間に笑顔を浮かべる。心配をさせないために笑顔を浮かべようとするが……それでも自然に笑えている気がしなかった。

 それを証拠に――


「……無理に、笑わなくても良いよ」


 一色はそのことを見抜いた上で、彼女の作り笑いを制した。


「……分かっちゃうんだ、一色くんには」

「俺じゃなくても、美術部の皆なら全員気付くよ」

「……うん、そうだね」


 水無月は一色の言葉に素直に頷いて、そして無理やりの笑顔を止める。残る笑顔は微笑み程度だが、一色の目にもそれが無理やりのものではないと分かった。。

 ……一色は腕時計で時間を確認する。元々お昼を少し過ぎた時間に昼食を摂ったからか、既午後二時を過ぎているようだ。

 一色はパッと立ち上がった。


「食事もとって体力も回復したから、そろそろ次の場所に行くか」

「……次はどこに?」

「俺も水無月も、一度一緒に行ったことのある場所だよ」


 一色は人差し指を空に向けると、水無月はそれで合点がいく。


「――虹北高原一の景色でも見に行こうか」


 そう、それは一色の歓迎会の時に二人で訪れた、山道の到達点。虹北高原が一望できる、虹北山群の頂上展望台であった。


今回のサブタイは7幕の本編で出てきた、ちひろんの漫画の仮タイトルです!

次回から物語は動きます!

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