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こころのいろ  作者: 如月心
第6章 知らない色を、知るために
37/69

7幕 忘れてしまった大切なモノ

 ――知らないうちに、涙が溢れ出ていた。


 貴音先輩から聞いた話は、決して壮大な話でもなければ特別性もない、家族の愛の話であった。

 ……水無月のお母さん、水無月繭七さんの生前、どんな人物であったのか。どんな想いで娘と接して、そして最後まで幸せであったこと。それを聞くと、どうしようもなく涙が溢れ出てしまうのだ。


 俺との関係性は全くなくて、ただ話を聞いただけだ。それでも話を聞いただけで、どれだけ水無月繭七さんが優しく、家族を想っていたのかが理解できた。

 ――水無月の絵の原点は、彼女の母親にあったのだ。始まりは本当に些細なものだった。母を想って絵を描いて、それが褒められてそれを続けた結果、絵を描く事が大好きになった。


 何故なら絵は母を笑顔にしてくれたから。自分の楽しんで、母を想って描いた絵が人を笑顔にする。それを水無月は自分の経験談で語っていたのだ。

 ……それを知って、俺は胸が苦しくなる。


「……水無月にとって、絵は掛け替えのないもので、だからこそ……絵が描けないことが、辛い」

「そうだ。虹にとって繭七さんとの思い出そのものなんだ。絵を介して繭七さんと心を通じ合わせて、そして成長してきたもの。今の虹を作り上げてきたものは、絵そのものなんだ」


 ……絵。そこにある意味はたぶん、多岐に渡る。母親の愛情や絵を描くことの意味。それら全てを統合して、絵という概念が今の水無月を形成したのだ。

 絵は人を笑顔にする。それは彼女の経験を元に言っていた言葉だ。辛い現実の中にいた母親が、最後まで笑顔にしてくれたもの。……それが、母を想って描いた水無月の絵だったのだ

 それが水無月の原点であり、そして――笑顔の原点なのだ。


「水無月の事情は分かりました。……でも話はここからですよね?」

「もちろんだ。今の虹の事を話すには、まずはこのことを話す必要があった――ここから話すのは、繭七さんが亡くなってからのことだ」


 ……俺はゴクリと喉を鳴らした。

 少し不安があった。もし今の彼女の状態が、母親の死が関係しているのであれば、何をどうすればいいか分からないからだ。

 すると貴音先輩はその心を読んだかのように、こう言った。


「先に言っておくが、今の虹の状況と繭七さんの死は、直接は関係していないぞ?」

「……そうなんですか?」

「当然だ。繭七さんは最後まで幸せの中で亡くなったんだ。あの人は棺の中でも微笑んでいたくらいだ――無論、根底には繭七さんとの思い出があるから無関係とは言えないよ」


 そう先に俺の不安を取り除き、貴音先輩は「ふぅ」と息を吐いた。

 ……そして話し始める。


「繭七さんが亡くなって、それはもう虹は泣き喚いたよ。もちろん私も大号泣だった。……しばらくの間、二人で悲しんで、そして私たちは前を向けた――繭七さんがどれだけ私たちのことを愛して、大切にしてくれているか知っていたからな。私たちがただ悲しんで、足踏みをする。……そんなこと、繭七さんが望むはずがないからね」

「……その後、水無月はどうなったんですか?」

「――笑顔だったさ。もちろん悲しみはある。もう会えないというのは辛いからな。だけどそれでも鮮明に思い出せるくらい、記憶に刻まれているんだ。繭七さんと過ごした楽しい記憶が。……悲しくはあっても、前に進めるさ」


 ……そのことに少し安堵する。

 でも、つまりこれから水無月に何かが起きるということだ。それが分かり切っているから、気分は落ち込む。

 それでも……先輩は話し続けた。


「虹は順調に成長したよ。小学校を卒業して、私と同じで中等部に入学した。既に賞を幾つも貰っていたから、ストレート合格だったよ。期待の新入生で、しかも性格も良く可愛いと来たもんだ。それはもう虫が寄ってきてな」

「先輩、話が脱線してます」


 先輩が明らかに不機嫌な表情を表に出してそう言うから、俺はそう指摘した。

 ……このパターンは話が脱線する流れだから、先に先手を打ったまでだ。


「あ、あぁ、すまない。ともかく、虹の画力というものは非常に高いものだったよ。当時、あいつと同じで絵画コースをメインに進めていた私も、敵わないほど入学当時で既に素晴らしい才能を持っていた」


 先輩も絵画コースであったことに驚きを隠せないが、俺は続けて話を聞く。


「……ただ、中学生になってから、虹に変化が現れた。最初は私も特別、不安には思っていなかったんだが――虹の視力が、悪くなったんだ」

「視力……」


 一色は水無月の視力が悪いことを知っているため、納得する。普段は掛けていないものの、必要に応じて彼女が眼鏡を掛けていることを知っているからだ。


「最初は気のせいだと思っていたらしいけど、日に日に視力が低下していった。生活に支障を来すほど視力が落ちてから、虹は初めて眼鏡を作ったんだ。……だけど眼鏡を作ってもすぐに目が悪くなって、その度に合わなくなって新しく新調し――それが何度も重なった」


 ……ふと風が吹く。その音がこれからの話を不安にさせる。そう――ここからは水無月の問題についての話になる。その確信があった。


「流石に可笑しいと思ったよ。しかも、虹の絵にも少し変化が出始めたんだ。例え視力が悪くなろうと、絵を描くには支障はないと思っていたけど――違ったんだ」

「違った?」

「そう……最初に、線の引き方が変わった。今までと同じように線を引いているのに、真っすぐ引けなくなった。それの理由は、視界が時折歪んでしまうからと虹は言っていたよ」


 ……水無月の線が妙にあやふやな理由が知るも、貴音先輩の話はまだ続いた。


「そして色の付け方が少し変わったんだ。それまで塗っていた方法と同じのはずなのに、明らかに色の塗りが本来の虹のもとではなくなった。いつもなら繊細なグラデーションを作っているはずなのに、メリハリの強いものになってしまったんだ」

「……そう、なんですか? でも水無月の色のバランスは、そんなに悪いものじゃ……」


 それは俺がどうしても理解できない部分であるから、そう聞くしかなかった。だけど、少なくとも白と黒でしか分からない俺でも、水無月の色の濃淡のバランスは悪くないように思えた。

 それを聞いて、貴音先輩は分かっていたように返答した。


「それは虹の努力の結果だ。これまでの経験で線は無理でも色の劣化は結果としてカバーできた――でも、流石にその状況はおかしいものだった。だから意を決し、虹は眼科専門の医院に足を運んだ。それで……」


 貴音先輩が一瞬言葉を詰まらせるものの、意を決したように、


「……色弱であると、診断された」


 ――貴音先輩がその言葉を言った瞬間、俺の頭の中にその言葉の意味が巡った。……信じられるはずがない。

 もし本当にそうであるのならば――水無月はそんな状況の中で、いつもあれほどの笑顔を浮かべていたということになる。

 ……その辛さが、気持ちが、痛いほどに胸に突き刺さった。


「……水無月は、どれくらい見えていないんですか?」


 そのことが知りたくて、俺はそう先輩に問い詰めた。


 ――色覚異常は、俺にとっても根底に関わる問題だ。だからこそ、彼女の症状の程度が知りたかった。


 ……色覚異常と言っても、その症状には差がある

 モノを見る、その行為には三つの要素がある。モノを鮮明に見ることの出来る視力や、視野といったもの、そして最後が色を認識するための色覚だ。それがあることで人は初めてモノを正しく認識することが出来る。 


 ……人の目の網膜には視細胞と呼ばれる機能があり、それが視力、視野、色覚を司っている。

 ――全ての色は、光の三原色の赤、緑、青を組み合わせて作られている。普通はそれを全てに認識することが出来るが……色覚異常はそれが出来ないのだ。


 例えば俺は非常に稀な、三色覚のうちの二色が欠けている全色盲である。だから色を判別することが出来ないのだ。

 水無月は色覚異常の中でも色弱と呼ばれるものだ。俺とは違い、三原色のいずれも欠けてはいない――ただ、三つの色のいずれか、もしくは複数の視細胞の機能が欠けてしまっている。


 だからこそ、色を細かく認識することが出来なくなってしまっているのだろう。そこまで理解した上で、俺は聞いたのだ。

 どれくらい見えていない、かと。


「……赤色の判別だよ。青色は赤色ほど酷くはないが、昔に比べれるとあまり見えないらしい」

「赤と青が弱まってる……だから水無月はあの時――」


 ――それを聞いて俺は思い出した。

 俺が美術部に入って間もない頃、活動の一環で行ったリレー絵画。その時に水無月は自分の番になって朱色を使う時に貴音先輩にそれを取ってもらっていたこと。合宿の時、一緒に線香花火をしている時、花火の光を見ながら「淡い」と表現したこと。


 ……その全てが繋がった。水無月はずっと誰にも言うこともなく、俺たちと共に過ごしていたんだ――辛いに決まってる。それなのにあいつは弱音を最後まで見せず、そして限界を迎えてしまったんだ。


「……そんなことも知らず、俺はあいつに、あんなことを言ったのか……っ」


 水無月と口論になってしまった時、彼女に言った言葉の数々を思い出して、今になって自分が許せなくなった。好きなように絵も描けず、ストレスの渦中で一人で戦っていたあいつに、俺はなんて言った?

 ――俺は、何一つ水無月を見ていないじゃないか……っ!!


「……知らなかったんだ。それに私からすれば、あの問題は一色も悪いが虹も悪いよ――そうだな。このままだとお前が自分ばかりを責めてしまうから、どうして虹が色弱を患ってしまったのか。そのことを話そうか」


 ……そんな自己嫌悪に陥っている時、貴音先輩はそれを見通した上でそう提案した。


「……水無月の症状は、後天性ですよね」

「ああ。昔の虹はしっかりと色の判別が出来ていたからね。……これについては、本当に正解かどうかも分からない。だけど私や虹の主治医の先生は、あいつの色弱は心因性によるものだと思っている」

「心因性……過度のストレス、ですか?」


 色覚異常の大多数は遺伝によるものだ。もちろん後天性の症例もある。それは目の病気によって引き起こるものが多いけど――心因性も少なからず存在する。

 そもそも人の心は解明できない。だから心が体にどんな影響を及ぼすのかも現代の科学では完全な解明は難しい。

 それを踏まえて、水無月のストレスを考えた。


「……ストレスの感じ方は人それぞれです。でも水無月が一番ストレスを感じるのは――きっと、絵のことですよね?」

「その通りだよ――そう言われれば、繭七さんが亡くなったのも一因しているかもしれない。でも私は、繭七さんのせいだとは何があろうと思いたくないんだ」


 ……その気持ちは最もだろう。特に水無月の母と密接な関わりのあった貴音先輩がそう思うのも当然であり、きっとそれは水無月も同じだ。

 これ以上は、俺の中では答えが出ない。だから俺は貴音先輩に尋ねた。


「……教えてください。どうして水無月が色弱になったのか。あいつのストレスの原因を――お願い、します……っ!」


 俺が頭を下げてそう願うと、貴音先輩は頷いた。

 そして――先輩は話し始めた。その表情は寂しさに満ち溢れていた。


●○●○


 水無月繭七が亡くなってから二年後、水無月虹は虹陸芸術専門学校・中等部に入学した。

 ……当初の彼女は信じられないくらいに涙を流した。この世界で一番大好きな母親が亡くなってしまったのだ。しかも、自分を抱きしめながら。その最後を看取った彼女は、一生分は泣いたであろう。

 そして泣き尽くして――前を向いた。


 幼いながらに理解していたのだ。繭七がいつまでも自分ために泣いて、足踏みをしていることを望んでいないと。

 繭七は最後まで笑顔だった。つまり、最後まで幸せだったのだ。それを知り、水無月は泣くことを止めた。


 ……彼女への想いは、その二年間の間にあった、大規模に開かれた絵のコンクールにぶつけた。

 生前の母への言葉を絵にして、今の自分の気持ちを一枚のキャンバスの上に描いたその作品は、全国で優秀作品に選ばれて、ささやかながらも騒がれたものだ。


 そうして中学生に進学した水無月は、母を想いながらこう語ったものだ。


『絵は人を幸せにするよ! もうね、とびっきりの笑顔にしちゃうよ!!』


 ……同じ中等部の三年生になった美月に対し、そう語る水無月の笑顔はかつての繭七に瓜二つだった。


『なんだ、虹。繭七さんみたいなことを言うな』

『え、ホント!? ママみたい!?』


 そうやって美月に言われると、水無月は何よりも嬉しかった。大好きな母親に近づいているということは、水無月にとっては何とも比べることの出来ない最上級の褒め言葉なのである。

 ……母との思い出は水無月を健やかに、今も成長させている。もちろん寂しい気持ちは今もあるが、それでも水無月は前に進み続けていた。


 ――入学式では新入生代表に選ばれた。もちろん入学試験の成績もあるのだが、それ以上に小学六年生の頃に受賞したコンクールの優秀賞によるところが大きい。既にこの時から期待を一身に受けていたのだ。


 ……その期待を水無月は喜んで受け入れた。

 明るくいつも笑顔で周りを明るくさせる水無月は、すぐに人気者になった。成績も良好で、特に絵画コースの水無月の担当は彼女の絵を絶賛。天国で娘を見守る繭七も飛んで跳ねて喜んでいることだろう。


 そうして順調であった中等部一年生の最終学期。一年の集大成とも言える小規模なコンクールに、同じ学年の絵画コースを選択する生徒は応募した。しかし教師の独断で、水無月の作品だけを大規模なコンクールへと応募したのだ。

 それでも誰もが水無月の金賞を疑わなかったが……結果は、入選止まりであった。


 コンクールは入選者から佳作を複数、銅賞、銀賞、金賞を選ぶという方式だった。教師陣は多大な期待をしていたために、落胆を隠しきれなかった。

 ……しかし水無月はそれをあまり気にしていなかった。何故なら彼女は、絵は描く事で一番大切なのは楽しむことであると考えているからである。


 誰かを想って楽しんで描いた絵こそに本当の価値があり、それを誰よりも証明し続けてきたのは自分であるということを誇りに思っていたのだ。


『私、コンクール嫌いだなー』

『どうした、急に』


 ……だからいつしか、水無月はコンクールというものが好きではなくなっていた。


『どうして先生たちってコンクールに拘っているのかなぁって思ってさ。私の友達が凄く良い作品を描いてるのに、コンクールに落ちただけで凄く貶すの! 本当にもう、勝手だよね!!』

『……絵画コースの教師は皆、頭が固いからな。私の時もそうだったよ』


 才能のある子供には目を掛け、才能がないと分かれば冷たく接する。それがこの学校の美術系の教師に共通することだ。実はもう一つ、厄介なことがあるのだが……それはこのときの水無月は、知る由もない。


『絵を描くのは楽しいのに、あんなことを言われたら楽しくなくなっちゃうよ――よし、友達を誘ってお絵描き会をしよう!!』

『お絵描き会って、小学生みたいなことを言って――私も誘ってくれよ?』

『……美月ちゃんは同学年の友達と遊ぼうよ、少しは』

『うっ……わ、私にも遊ぶ友達くらいいるぞ!? ほら、雪彦とか……初香とか……』

『海老名兄妹だけ!?』


 そんな会話を交わして幼馴染は一緒に登下校を共にしていた。

 ……しかし、このときから既に水無月の目には変化が起きていた。


○●○●


『……彼女の作品、よく見たら線が雑ですね。それがきっと、入選止まりの理由でしょう』


 ――絵画系の教師は、水無月の絵を見てそう評価していた。

 確かに当時、水無月の描いた作品は線が、真っすぐに引いて然るべきところで少しズレていたり、歪んでいたりするところがあった。彼らはそれが彼女の癖だと言うが、水無月は昔はそれが出来ていたのだ。

 ……そう。それが水無月の著しい視力の低下の始まりであった。


 二年生に進学する頃、一年生時とは明らかに教師の水無月に対する態度が一変した。一年生の時の水無月の担当だった教師は、この学校の美術系の方針に嫌気が差し、コースを絵画から立体造形に移ってしまったのだ。その二年後、水無月が高等部に進学する頃には学園までも去ってしまった。

 絵画コースの教師の中では唯一の良心と言われていた教師が近くにいないことで、水無月に待っていたのは――批判の嵐であった。


『水無月さん、そんなレベルで次のコンクールで受賞できると思っているのですか?』

『わ、私は楽しんで絵を描きたいです!』


 教師陣が水無月に厳しくしていたのは、賞を取って欲しかったからだ。学校として明晰ある結果を残したかったのだろう。しかしそれは水無月の価値観と見解の相違に他ならなかった。


 だから水無月は多少の反抗を見せた。何か言われた時には自分の内に秘める絵への思いを話すこともあった。しかしそれを真剣に受け止める教師などいるはずもなく――いつしか教師は認めるべきところも否定するようになった。

 ……水無月が本来得意とするものは色使いである。しかしそれすらも見当違いも甚だしい誹謗中傷で否定するのだ。


『……はぁ』


 二年の半ばを迎える頃には、見るも明らかに彼女のため息は増えた。しかしその隣には美月は居なかった。

 美月は既に高等部に進学しているため、どうしても時間が合わないのだ。彼女にも自分の予定や時間づくりがある。しかも当時、音楽の道か絵の道かで迷っていた彼女に、水無月を気遣う余裕がなかったのであった。

 美月にも相談できず、一人でいる時に水無月は溜息を吐く。


『おーい!』


 ふと、少し遠くから声がした。それは当時、既に交流があった初香であり、交差点を挟んで彼女は水無月を呼んでいた。

 水無月は呼ばれる方向を見るも、しかしそれが誰だか判別できない――昔はそのくらいの距離ならば誰だか分かっていたのにも関わらず、遠くが良く見えなかったのだ。


 ……その時に水無月はようやく自覚したのだ。自分の視力が、著しく悪くなっていることに。

 水無月はそれに気付くと、すぐに近所にある小さな眼科医院にいった。そこは昔、生前の繭七がお世話になっていた医者のいるところであった。

 程なくして医者は水無月の主治医になった。


『思春期を迎える頃から視力が徐々に低下……。水無月さん、例えば目の前が歪んだり、目の前がかすんで見えたりすることはことはないかな?』

『それは、たまに何ですけど……』

『なるほど……恐らくは加齢と共に発症すると言われている黄班上膜の可能性があるね』

『そ、それは失明とか、そういうものなんですか!?』


 もしそうなら絵を描けなくなる。その心配から水無月は声を荒げてそう言った。しかし医者は首を横に振った。


『もちろん可能性はゼロとは言えないよ。でもしっかりと異変を察知して検診に来てくれたおかげで、そうであるかもしれないということが知れた。基本的にこの病気は症状は軽くて、進行も遅いから、定期的な検診を受ければ、即時対応するよ。一番ダメなのは放置すること』


 医者は笑顔でそう伝えた。

 ――自分が救えなかった患者の子供。医者はこれが、自分に巡ってきた繭七に対する報い、もしくは恩返しのように思えた。だから人一倍、水無月に対して親身になのだ。

 ……しかし、彼には心療内科の知識はない。だからこの問題が、視力に関する問題だと認識してしまったのだ。


『そう、ですか。……ありがとうございます、先生』

『医者として当然のことをしているだけだよ――何か異変があったらいつでも僕のところに来て来てください。相談に乗りますから』


 更に、食生活と程度な睡眠を摂ることで自然治癒の可能性もあると付け加えた。

 ……その時は水無月は言っていないことがあった――最近、嫌に頭痛が続いていることを。


 彼女が偏頭痛を患うようになったのは、この頃からであった。最初は体調が悪いと思っていたのだが、生活に支障を来すほどひどいわけでもなかったため、水無月は気にしていなかった。

 それよりも彼女の中では、より大きな出来事があった。


 それは、幼馴染の美月と彼女の悪友である雪彦が新しく部活を設立したことであった。その顧問は元美術コースの、絵画コース唯一の良心だった教員だ。

 自由に楽しんで芸術作品を作る美術部で、これまで学校にはなかったものであった。

 中等部は原則として部活動をすることが禁止されており、水無月も正式に美術部に加入は出来なかったが、それでも割と高い頻度で遊びに行くことが増えた。


 当然中等部の校舎で作業すると効率が悪いため、二年生の活動はほとんどが美術部の部室ですることになっていた。夏にはそれから毎年恒例となる合宿を行い、有意義な時間を過ごした。

 ……だが、それを教師が良しとするはずがない。


『水無月さん、君はやる気がないのか? 放課後、他の生徒が残って作業している中、君は高等部で発足された美術部なるものに参加しているらしいね。全く以て意味の分からない部活に入り浸って、何を考えているんだね』

『い、意味がないなんて言わないでください!! あそこは自由気ままに、楽しく作品を作るところで、ちゃんと製作もしています!!』


 水無月は美術部のことを否定されると、自分のことを否定されるよりも怒る。このときも、教師にここまで反抗的になったのだ。それを受けて教師は逆上するものの、水無月は決して屈することはなかった。

 ……芸術学校でより濃密な学習ができるにも関わらず、延長戦にさえならない美術部など必要ない。教師はそういうが、水無月はそうは思えなかった。


 水無月が楽しんで絵を描ける場所は、いつしか美術部くらいなものだった。そんな唯一の居場所を壊されてなるものかと、水無月は思っていた。


 ――そんな環境の中、迎えた二年生最後のコンクール。水無月は教師たちに目にモノを言わせたくて、作品制作に没頭した。寝る間も惜しんで絵を描いて、試行錯誤を重ねた。その結果、彼女は納得がいく作品を描いた。

 そうして臨んだコンクール。その結果は――落選であった。


『遊んでいるから、このような不出来で粗末な作品になるんだ! あれだけ目を掛けていたのに、こんな結果になって、分かっているのか、水無月!!』

『――』


 水無月は、何も言い返せなかった。しかし教師の罵倒は決して収まらず、他の科の教師に諫められるまで続いたのだ。

 だが、その言葉の一つに、水無月はひどく傷ついた。


『お前の絵には何の価値もない!!』


 ――それを言われて、泣き崩れた。

 その出来事を聞いた美月は怒りのあまり、職員室に乗り込み、怒りの丈をぶつけた。


『言って良いことと、悪いことがあるだろっ!! ふざけるな、離せぇ!!!』

『こんな屑、殴っても虹ちゃんのためにならないだろっ! 退学にでもなりてぇのか、馬鹿美月!!』


 美月が教師に暴力を振るいそうになるのを、事情を知らない雪彦は何とか止めたものだった。しかし水無月につけられた心の傷は深かった。




 ……その頃からか。もしくはもっと前からか。いつの間にか、水無月は――色でさえ、昔のように塗れなくなってしまった。

 三年生になったばかり、水無月は色弱を患った。生まれながらの先天性のものではなく、明らかな後天性であった。


 その時ばかりは美月は水無月と共に眼科の主治医の元に行き、事の顛末を話した。

 ……この時、主治医は自らの不甲斐なさを、またもや悔いた――彼女の環境や事情を、聞いていなかったのだ。症状だけで病名を明らかにし、医学的な対応が彼女の助けになると思っていた。

 しかし違った。水無月の問題は視力の低下でも、モノが歪んで見えることでもなく……心の問題であったのだ。


 ――三年生の頃の水無月は、周りに心配を掛けまいと笑顔で振るまっていた。ごく自然な笑顔に見えただろう。しかし美月は、それが水無月の本当の笑顔ではないと見抜いていた。


『虹、私の前で無理をするな』

『……無理じゃないよ。私は、前を向き続けたいんだよ』


 ……水無月は苦笑いを浮かべながらそう言った。

 あれから美月に助けてもらいながらも、水無月は努力し続けた。線を綺麗に引けないことはどれだけ努力しても改善することが出来なかったが、色に関しては改善されたのだ。

 もちろん昔ほど気持ちよく描けているわけではない。だがこれまでの経験と努力で、その時に描いている色を想像し、上手く塗れるようになったのだ。


 ……だが、それでも教師はおろか、同級生ですら褒めることはない。無論、特別上手な作品ではないからだ。


『絵は私の全てだから。だから何があっても、絵を描き続けたいの』


 そう言って水無月は美月よりも先を歩いていく。

 ――その背中は孤独だった。いつも周りに笑顔を運んでくるのに、水無月の隣には誰もいなかった。美月はそれを見て、自分の唇を痛いほど噛んだ。


『だったら……どうしていつもみたいに、絵の事を語らないんだよ……っ! どうして、笑顔を浮かべないで絵を描いてるんだ……っ』


 ……そんな美月も、彼女の隣に立つことは出来なかった。

 



 水無月は自室で一人、絵を描く。部活動でさえ絵を描かなくなってしまったのだ。遊びに行っては笑顔を浮かべて温かい雰囲気を作り出し、誰もが羨む雰囲気を美術部にもたらす。いつしか美術部は『木漏れ日の美術部』などと称されるようになった。

 ……だが水無月の元にはいつまで経っても木漏れ日は照らされない。


『コンクールの作品……はぁ、面倒だなぁ』


 頭痛が酷く、何のやる気も起きずにベッドに倒れ込むことが増えた。

 三年生の終盤。その年の四月からついに高校生なのにも関わらず、水無月は一人では笑顔さえ浮かべなかった。

 ……そして思い出すのは昔のことだ。


『私、どうして絵が好きになったんだろう』


 そんなことを口にする。

 思えば彼女が絵を楽しんで描かなくなったのはいつからだったろうか。水無月はそれを思い出せなくなっていた。それを考えようとすると、どうしても頭痛がするのだ。

 ……絵を描くことが、楽しくなかった。周りにはどれだけ強がっても、本当は自分でも分かっていたのだ。


 誰も自分の絵に共感してくれない。例えしても、それは表面的なものばかりで本心ではそうは思っていないと分かっていた。

 ……それでも毎日筆を握った。今でも色を塗ることだけは大好きだから。

 色弱で赤の認識が上手くできなくても、他の色を中心に色を塗ればいい。そう考えてキャンバスの前に立ち、またしばらくして止めてしまう。


 ――これまでなら何時間でも絵を描いてこられたのにも関わらず、だ。


『……虹。そろそろ夕食で――絵を描いていたのか』


 すると、水無月の父である滝色がノックの後、室内に入った。

 滝色は部屋の中に立てられているキャンバスを見て、彼女がそれまで絵を描いていたことを知る。

 ……近年仕事が忙しくなってか、中々娘との時間を取れないことを心苦しく思っていたため、滝色は心配していたのだ。


『わかったよ、パパ』

『……体調が優れないか?』

『うん。ちょっとだけ頭が痛いんだよ』


 ……娘がどんな状態かなど、滝色も知っている。だが彼は必要以上に娘の世話を焼くことはせず、いつも静観していた。

 だがこのときは少し違った。滝色は娘の隣に座り、そっと頭を撫でたのだ。


『……パパ?』

『懐かしいだろ。私はあまり撫でるとかはしないからね』

『そうだけど……どうしたの、急に』

『いや、今のお前を見ていたらちょっと思い出してしまってね――繭七なら、こうすると思ったんだ』


 ……その名前を聞いて、水無月は少しだけ表情を歪ませる――目元に溜まるのは涙だった。


『お前は繭七に似ているよ。あいつも本当に辛いときに限って一人で抱え込むんだ――そうして言うんだよ。これは私でしかどうにもできない問題だって』

『……ママらしいや』

『本当にね』


 滝色と水無月は少し笑った。

 ……ふと滝色は立ち上がり、部屋の外に出てしまった。そして背中越しに、娘に言葉を掛けた。


『――たまには繭七を思い出して絵を描いてみたらどうだ?』

『……ママ、を?』

『ああ。あいつ、きっと天国で寂しがっているからね。「虹の絵が来なくて毎日退屈ー」とか言っているよ。きっと』


 滝色はそう言うと、リビングへと降りて行った。

 ……水無月は最後の父の言葉を聞いて、ベッドから立ち上がった。


『……ママ』


 いるはずもない母を呼ぶ。そして筆を握ると……涙が零れ出た。


『もうちょっとだけ、頑張ってみる。だからお願い。……見守っていてね』


 ……そう呟いた時、鼻腔を線香の匂いが擽る。

 ――そして水無月は、三年生を修了し、そして……高校生になったのだった。

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