6幕 笑顔の原点
少し長めです。
幼少期の頃、水無月虹には幾つかの習慣めいたものがあった。習慣というべきかは些か考えものだが、とにかく自分の中に絶対的な決まり事が幾つかあり、それを毎日こなすことを信条としていたのである。
一つ、朝昼晩、決してご飯を残すことなく平らげる。
一つ、学校に行ってとにかく友人たちと楽しんで思い出をたくさん作る。
一つ、大好きな絵を毎日好きなだけ描き続ける。
……そして最後の一つ。それは、
『ママー!!』
……毎日、母親の元に行くということであった。
『こらこら、病院は走ったら駄目だよ? 本当にもう……虹はお転婆さんだね』
『おてんばさんって、なーに?』
『男の子に負けないくらい元気ってこと』
水無月虹の母――水無月繭七は、そんな娘を微笑みながら優しく撫でた。
……繭七は病弱で、一年の半分は入院生活をしているほどに体調を崩しやすかった。だからこそ水無月は母の病室に毎日通うことが日課であった。看護婦から陽だまり親子と呼ばれるほどに仲が良く、常に笑顔を浮かべていることが印象的だろうか。
子供らしいのが、彼女の信条の全ては、母親に褒めてもらうためのことであるところだ。学校のことを話すと繭七は楽しそうに笑い、娘の成長を見ると褒め殺しにするのが、繭七という母親の特徴だ。
……水無月は母の笑顔を見ることが大好きであったのだ。その逆に母は水無月の笑顔を見ることが大好きであるから、お互いが相互的に笑顔になるという関係。それが水無月親子の最大の特徴であっただろうか。
『それで、今日はどうだった? 楽しかったかな』
『うん! みつきちゃんがでっかいカブトムシつかまえて、クワガタムシとけんかさせてたよ!』
『そ、それは……美月ちゃんはわんぱくだね、相変わらず』
『えへへ~』
母の膝に座りながら、頭を撫でられて嬉しそうに笑うのもお決まりだ。
――そしてもう一つ、お決まりがある。
『ママ、きょうはね、カブトムシとクワガタムシをかいたよ!』
それは、毎日入院生活で退屈している繭七のために絵を描いて、それをプレゼントするというものだった。
画用紙にクレヨンで描かれた絵を繭七に渡すと、彼女は意見が欲しいのかウズウズとしていた。
『虹、また上手になったね? これは……美月ちゃんと虹が虫さんに乗って戦っているのかな?』
『うん! こうがクワガタで、みつきちゃんがカブトムシ!』
『虹は虫さんより小さいのに、美月ちゃんは遥かに大きいね』
『だって、みつきちゃんのほうがたぶんつよいから』
子供ながら設定が細かい娘の絵に対し、繭七は良く苦笑しながらも驚かされたものだ。
……心無い大人は子供らしい拙い絵だと言うかもしれないが、繭七は娘の描く絵が大好きであった。自分のために楽しんで描いてくれたその絵を見ると、自然と笑顔が溢れるのだ。何より大切なのが、楽しんで描いたというところ。
そうして自然な笑顔を浮かべる。すると不思議なことに、とても体調が良くなった。体調が良くなれば退院が出来て、娘と接する時間が増えるから、良いことばかりである。
『虹は絵を描くのが上手だねー』
『えへへへ、そうかなー?』
『そうだよ! これなら将来は画家さんかな!? 可愛すぎる画家……うん、新聞の見出しはこんな感じで売りだそうかな』
『……? ほめすぎだよ、ママー』
幼い水無月は気付かないだろうが、少し大人らしくて汚い考えである。
……何はともあれ、幼少期の水無月は毎日が楽しくて仕方がなかった。
大切な幼馴染や友達と学校で遊んだり勉強した後で、母の元に行き、たくさん甘えて可愛がってもらう。毎日描いている絵は日に日に上手くなっていき、母親以外にもたくさんの人が彼女を褒めた。
しかし水無月にとって最も嬉しいことは、繭七に褒めてもらうこと。そして笑顔を浮かべてもらうことだ。
……繭七は、そんな娘に無償の愛を捧げ続けている。
――彼女もまた、毎日がどうしようもなく幸せであった。毎日顔を見せてくれる娘、身体が弱く妻としての責務を全うできていない自分を甲斐甲斐しく支えてくれる夫がいる毎日に感謝していた。
傍から見れば彼女は可哀そうに映るかもしれない。実際にそう言われたこともあった。
『そんなに若いのに可哀そうに……』
『いえいえ、そんなことないですよ――毎日の幸せを噛みしめて、昨日よりも笑顔で過ごせる。それはきっと、誰よりも恵まれている証拠だから。だから私は辛くなんてないんですよ?』
繭七は、必ずそう断言していた。
愛する娘と夫が自分を想ってくれている。そんなありふれた幸せを恐らく、世界中の誰よりも享受していると自称するほどだ。
だからこそ彼女は最後に決まってこう言う。
『私は世界中の誰よりも幸せだよ!!』
――そんな彼女には、一つの趣味があった。
それは、娘が自分のために描いてくれた絵を大切に残して、それを一つのアルバムにするというものだ。高級感溢れるアルバムのバインダーに水無月の絵を入れて、また入れて行って少しずつ分厚くなっていく。水無月は褒められることがあまりにも嬉しいのか、日によっては何枚も絵をくれるものだから、アルバムは一つに収まらない。
その全てが、繭七を笑顔にする魔法の道具であった。
それを見ただけで自然と心が温かくなり、笑顔を浮かべてしまう魔法のアルバム。親馬鹿であると幾ら言われても、彼女はそれを常に断言するのだから、言った側は苦笑いを浮かべる他ない。
……そもそも水無月が繭七のために絵を描き始めたのは、本当に偶然であった。
――入院生活を退屈に過ごす母親のために、子供ながらに水無月は何かしてあげたいと考えた。そのために色々なことをしたものだ。
美月を巻き込んでお笑いの真似事をしたり、アイドルの真似をして歌を歌ったり……繭七は何をされても楽しそうにしているのだが、しかしそれが本当の笑顔とは思えなかった。
ある日、水無月は授業で母親を描いた。そしてその日も母親の病室に行き、それを自信なさげに母親に見せると――繭七は、とびきりの笑顔を浮かべて喜んだのだ。
それから水無月は自分が母を想い絵を描けば、喜んで笑顔になると思い、毎日絵を描き続けた。
どれだけ絵を描こうが飽きることはなく、それどころかいつの間にか絵を描く事が何をするよりも好きになった。
……そんな水無月は幼稚園を卒業し、小学生になる。しかし彼女の習慣は変わらず、毎日母の元に通っていた。
『ママ、やっほ』
『虹~、やっほ』
年を重ねる毎に水無月は母に似てきたものだ。絵も都度、上手くなっていく。それは誰の目から見ても明らかであった。
そして水無月が小学生の三年生になる頃には明確に結果が形で出始めていた――絵で表彰されることが頻繁になったのだ。
『実は、ママにほうこくがあります!!』
『報告? え、もしかして好きな人が出来たとか?』
『ち、ちがうよ! 虹が好きなのはママとパパと美月ちゃん!!』
下世話なことを悪戯に言う母に水無月は怒る。
水無月はランドセルから一枚の丸めた紙を出し、それを広げて繭七に見せた。
『ひ、表彰状!? え、しかも金賞って――すごいじゃん、虹!』
『えへへ~、そうでしょ~? ほらほら、こうの頭は空いてるよ?』
素直に驚く母を他所目に、水無月は頭を撫でることを要求しているのか、繭七に頭を突きだしていた。しかし……繭七は口元を抑えて、そして――
『……そっか。本当に、虹はすごいなぁ』
涙を、流した。もちろん水無月は突然母が泣き出したものだから、慌てふためいた。予兆もなしに突然母が泣き出したとすれば、子供だったら取り乱すに違いない。しかも水無月は涙とは痛みや悲しみから来ると思っていたから、母が自分の絵を見て悲しくなったと思った。
『ママ、ごめんね!? こうが何かしたなら、あやまるから! だから、その……泣かないでよぉ』
そしてついにはつられて泣いてしまうようでは始末に負えない。そんな娘を見て、繭七は「あはは」と笑った。
『ごめんごめん、別に辛いから泣いているわけじゃないんだよ? なんていうか、感慨深いというか――嬉しいから泣いちゃったんだよ』
……繭七は娘を抱き寄せて、優しく抱きしめた。泣いている娘をあやすように背中を艇感覚撫でながら、彼女は思っていることを素直に言った。
『私はさ。虹にお母さんらしいことを何にも出来ていないのに、虹は元気に成長してて。私のために描いてくれた絵はたくさんの人に認められて、それがどうしようもなく嬉しいんだよ』
繭七は心底そう思いながら娘を抱きしめ続けると、水無月はムッとした顔になる。
バッと繭七から離れ、そして
『ママは世界一のママだよ! 何もしてないなんて、そんなことないよ!!』
病室なのに声の大きさなど気にせず、水無月はそう繭七にそう言った。
『ママがいつもほめてくれるから、こうは絵をかくのが大好きになったんだよ? ママじゃなかったら、こうはこんなにがんばれなかったもん! だから、だから!!』
『――ごめんね。また泣かせちゃって』
繭七は言葉に詰まり、大粒の涙を浮かべる水無月を強く抱き寄せる。衝動的な行動だった。
……あぁ、こんなにも娘は自分のことを母親だと思ってくれている。それが繭七はどうしようもなく嬉しかった。
絵が上手くなるに連れて、水無月は成長していった。線が綺麗に引けるようになるに連れて身体は成長していき、色を上手く塗れるようになると心がどんどんと豊かになっていく。そんな娘の姿を見るのが大好きで、繭七の手元のアルバムは膨れ上がるように大きなものになっていた。
――しかし、彼女は悟っていた。その大切な宝物が増えていくに連れて、自分の残された時間が短くなっていることに。
ふと窓の外を見ると、そこには枯れ始めた大きな木の、その枝先が見える。その枝葉の一枚がカサリと地面に落ちた。
……自分はそう長くは生きられない。今、手の中にある温もりをあと何度感じることが出来るのだろうと考えると、どうしようもない気持ちになる。それは何年も前から感じていたことだった。
入院生活が本当に辛くて、自分は明日にでも死んでしまうのではないか。そうすれば自分の愛する家族と二度と会えなくなってしまう。そう考えると、笑顔は日に日に減っていった。
そんな時だったのだ。娘が繭七のために絵を描いて、それを見せてくれたのは。
……きっと水無月は、それがどれだけ母の心を救っていたのかを知らないだろう。
――それからというもの、繭七の毎日がとても充実した。笑顔は娘につられるように笑顔が増えていき、いつしか自然な笑顔を浮かべるようになった。
だからこそ、繭七は断言するのだ――幸せであると。
季節は過ぎる。冬を超えると、体調が一時的に良くなったからか、一度退院することになった。久しぶりの母の退院に喜ぶ水無月は大はしゃぎだ。
子供としてはあまりわがままを言わない水無月は、この時だけはわがままを言えた。わがままにしては可愛らしいものばかりであるが、それでも彼女にとってはわがままだ。
――水族館に遊園地。虹北高原。普段遠出を出来ないから、とにかく家族で遊びに出掛けた。
一日中はしゃぎ続けた水無月は夜になる頃には寝落ちしてしまうのも可愛らしい。
……そんな娘を優しく見守る繭七と滝色。娘を真ん中に挟み、川の字を作るのも彼女が退院する場合の恒例だ。
『繭七、身体は大丈夫か?』
『……うん。虹の元気に充てられて、私も元気になっちゃうくらいだよ』
夫の滝色は妻を労わってそう尋ねるも、繭七はそう返した。
……嘘だ。明らかに顔色は良くない。だけど繭七は少しでも長くこの生活を続けたいから、身体に鞭を打つ。
滝色はそれに気付いていた。だけど彼女の想いを尊重する彼は、決して彼女を止めることはしない。
『……多分、長期の退院はこれが最後だと思う』
『……ッ』
繭七はいつも通りの声音で、そんな衝撃的なことを言うものだから、滝色は表情を歪ませた。
『……嘘は、よしてくれ。そんなことを急に言われても』
『嘘じゃないってことは、滝色くんが一番よく知っているよね。滝色くんだけは私の嘘に毎回気付くんだもん』
図星であるから、滝色は何も言えなくなる。
――言う通り、そんなことは理解していた。普段の彼女なら少なくとも体調を第一に考え、こんな連日出かけるなんて無茶はしない。それを今回はするということの意味。滝色だってそんなこと、とっくの昔に気が付いていた。
『……こういうことを言うのは不謹慎かもしれないけど。私は、そんなに怖くないんだよ』
繭七は娘の頬を片手で覆いながら、そう言った。
『もちろん一日でも多く滝色くんと虹の三人で一緒にいたいとは思っているよ。……でもそれはたぶん、長くは続かないと思う――だから私は後悔したくないの。少しでも多く皆との思い出を作って、一秒でも長く一緒に笑顔で過ごしたい』
『……本当に、繭七のそういうところは、昔から変わらないな』
『人はそんなに簡単には変わらないんだよ? ……って言っても、私の場合は変わって戻ったというのが正しいけどね』
繭七は布団に寝転がり、暗い天井を見る。
『――虹が私をいつもの幸せな繭七に戻してくれたの。虹の絵が、私を笑顔にしてくれた。だから、私は怖くなんかないよ。……この子の絵は人を笑顔にする力がある。誰にも描けない、虹だけの色を描けると思う』
『虹だけの色、か。……繭七語録を聞くのは久しぶりだな。昔はよくわからない持論を良く話してくれていたのに、最近は全然だったから忘れてたよ』
『良くわからないってひどいなー。割と的を射ているつもりだけどね』
『――そうだよ。良くわからないけど、でもどうしてか納得してしまう。それが繭七の言葉の凄いところ。……そんな繭七に育てられたこの子が、良い子に育たないはずがないさ』
滝色は娘の前髪をすぅっと梳きながら、話す。昔のことを思い出しながら話す滝色の瞳からは、一筋の涙が流れ、それが次第に止まることなく雫となって落ちていく。純白のシーツに涙が波紋を作った。
『駄目だね。覚悟をしていたから、君の前で泣かないと思っていたのに……っ』
『……ありがとう。私のために、泣いてくれて』
――あぁ、なんて自分は幸せなのだろう。自分を大好きでいてくれる娘がいて、自分のために泣いてくれる夫がいる。そんなありふれた幸せが、彼女の心を温もりの色で染めた。決して寒色に染まってなるものかと、今一度、心に決めた。
『あ、でも一つだけ心残りがあるなー』
『……何かな。俺に出来ることがあれば、何でも言ってほしい』
『流石にもう無理があるかな? ……だから心残りって言うんだよ』
繭七は自分のお腹を摩り、少しだけ寂しげな表情を浮かべた。
『……虹ね、ずっと妹が弟が欲しいって言ってるんだよね。……ね、無理でしょ?』
『そ、そうだね。……俺も繭七も子供好きだから、本当はもっとたくさん子供を作りたかったな』
『んー、でもそれだと虹はこんな風には育たなかったかもしれないから、複雑だね』
先ほどまでの雰囲気は一変し、二人は久しぶりに、娘を挟んで夫婦水入らずの会話を楽しんだ。あと何回こんなありふれた会話を交わせるか分からない。だから一秒、一コンマさえも無駄にしないように……噛みしめるように、その時間を楽しんだ。
『……そろそろ眠ろうか』
『うん。……あ、ちょっと待って――滝色くん。私、一つだけ約束してほしいことがあるんだ』
『……約束?』
『うん。とっても、大事な約束――……』
繭七は少しだけ間を置き、そして……そのことを滝色に言った。
言われた滝色は少しばかり驚きを隠せないものの、すぐに彼女の言葉の意味を理解し、頷く。
『分かった。必ず、繭七との約束を守るよ』
『……ありがと。ちょっと辛いかもしれないけど、お願いね?』
繭七はそう言うと、電池が切れたように布団に倒れ込んだ。一日の疲れが一度に来たのか、程なくして完全に夢の中に入っていった。
滝色はそれを確認すると、眠る……のではなく、布団から出る。そして眠っている愛する家族を見つめ、名残惜しくも部屋から出ていった。
『……っ。駄目だ。何を諦めているんだ』
滝色は涙が溢れそうになるのを何とか止めて、自分の書斎へと向かった。そして自分の机の上に山積みになっている本の一冊を手に取る。
……それは医学書だ。本格的な医療に関する本があれば、健康のための本、更にはオカルトめいた本などが山積みになっている。
――自分がこんなことをしてを無駄かもしれない。しかし滝色はそれでも諦めることが出来ないのだ。
……繭七は子宮頸がんであった。発見された頃には既に病床は進行してしまっていた。ステージ3にまで進行していて、現在はもう末期状態であったのだ。
それでも滝色は諦めきれなかった。事実、余命宣告がされた末期状態から奇跡的な回復を見せた実例がある。それがある限り、滝色は何があろうと諦めることはなかった。
繭七が退院した時のために料理を勉強し、健康に良い食事を用意できるようにした。時折吸っていた煙草を止めて、自分が先に倒れてしまわぬように自分の健康面も大切にするようになった。そして病は気から、ということで彼女の前では絶対に弱音を吐くことなく、いつも明るく彼女に接した。
……どれだけの医者に相談したかも忘れてしまった。
そして今も、誰も知らないところで妻のために努力を重ね続けた。
――…………
季節は、またも巡る。春を過ぎた頃に繭七はまた入院生活に戻った。今回の退院期間は非常に長く、家族でたくさんのことをしたものだった。
その中でも特に嬉しかったのは、娘が小学校四年生に進学した日に家にいれたことであろうか。いつもは病室で水無月が来て報告してくれるのを聞いていたばかりであったからか、ここ最近で最も嬉しかったことがそれだ。
それでも満たされることはない。恐らくこの満たされない欲求は、一生かけても満杯にならないものであると繭七は思った。
……いつもの病室で娘を待つ。たまに看護師と雑談をしたり、長い入院生活で仲良くなった人たちと会話はするが、しかし一番楽しい時間は水無月と接する時間であった。
しかし、いつもの時間になっても娘は来ない。そのことに繭七は少なからず不安に思う。もしかしたら道中で事故にあったのではないか。そう思うと気が気でなかった。
『……たぶん、滝色くんにはいつもこんな思いをさせてるんだろうな』
――しかし、彼女の心配はある意味では杞憂に終わった。
いつもの時間から少し経った時、病室の扉が開いた。そこにいるのは娘ではなく……
『あれ、美月ちゃんだ』
『えっと……こんにちは』
そこには最後に見た時よりも少し背の大きくなった美月がいた。その手には丸まった画用紙が握られていて、美月はお辞儀をして病室に入っていく。
『どうした? 一人で来るなんて珍しいね』
『その、虹が熱を出してしまって。……それでもあいつ、ママのところに行くって言うから、この絵を私が届けるのと引き換えに無理やり寝かせたよ』
『そっか。……良かった、事故じゃなくて』
しかし体調不良というのは、それはそれで心配であった。
『たぶんもう熱は下がってると思うから、大丈夫!』
『って虹に言えって言われたんでしょ?』
『うぐ……繭七さんにはお見通しなんだね』
『もちろん! だって虹のお母さんだからねー』
繭七は誇らしげに胸を張ってそう言った。
……そして美月を手招きする。
『美月ちゃん、こっちにおいで。せっかく来てくれたんだから話し相手になってよ』
『良いけど……私で務まる? 虹じゃないし……』
『何言ってるのー。美月ちゃんも私にとっては娘みたいなものでしょー? このこの~!』
繭七は美月を捕まえたように抱き締めると、美月はジタバタとした。
『ちょ、やめ、今日体育で汗臭いよ!』
『ふはは、匂いフェチの繭七さんには関係ないよ!』
無論、美月も抵抗するがそれも空しく、弄られるのであった。
『……美月ちゃんも大きくなったね。今年で六年生だっけ?』
『はぁ、はぁ……そうだよ。来年は中学生!』
『そっか、中学生かぁ~。……時が経つのは早いものだねぇ』
『繭七さん、ちょっとおばさんみたいなこと言ってる』
『――え、なんて? 私、耳が遠くなったのかな? 美月ちゃんの言ってる意味、よく分からないなー』
美月が軽はずみに言った言葉に対し、繭七は過敏に反応する。笑顔にも関わらず感じるプレッシャーに、美月は素直に頭を下げた。
『ごめんなさい、何でもないから、この私の頭を握る手に力込めないでぇ!!』
『うふふふ、分かればいいの♪』
繭七はいつの間にか握っていた美月の頭から手を離して、彼女を解放した。美月は安堵したのか「はぁ」っと息を漏らし、近くのパイプ椅子に腰かける。
『……美月ちゃんはどこの中学校に行くとか決めてるの?』
ふと、繭七は気になったことを聞いてみた。
普通であれば近くの公立の学校に行くのが普通であろう。しかし時折中学から私立に通う子供も少なからずいるのだ。
すると美月は足元に置いてあるランドセルから厚紙のパンフレットようなものを取り出した。
『うん、私はここに行こうかなって思ってる』
『なになに――虹陸芸術専門学校・中等部。へぇ~……美月ちゃんは虹陸に行きたいんだね。ちょっと意外かも』
繭七は少し驚いていた。
この辺りでは虹陸芸術専門学校とはそれなりに有名な学校である。田舎にある本格的な芸術を学べる学校で、美月の家からでも電車で一時間超は掛かる学校。大体が虹陸で通称される学校で、実は水無月が興味を持っている学校でもあった。
『意外ってどういうこと?』
『いや、だって美月ちゃんって体育会系って思ってたから、てっきりスポーツの強い学校に行くものだと思ってたよ。あれでしょ、地区の陸上大会を昔から荒らしまくって優勝をもぎ取って、全国大会に行けたのに面倒だからってサボってる常習犯でしょ』
『人聞き悪いなっ! あれだよ!? 大体は虹との約束があったからだよ!?』
昔から天性の身体能力を持っていたこともあり、繭七が驚いたのはそこだ。事実、彼女の才能を見込んでスポーツ系の学校からスカウトが数件はあったのだが……美月はそれを全て蹴って、虹陸への進学を決めたのだ。
『……それで、どうして虹陸なの?』
『はぁ、繭七さんとはいつも会話が長くなるね――って、学校を決めた理由か。う~ん』
美月は唸る。理由、と言われれば深く考えたことがなかったのだ。
今になって美月は少し考えるも、すぐにピンと来たのか、繭七に返答した。
『やっぱり虹の影響かな。近くであんなに楽しそうに絵を描かれてたら、自分もやってみたくなるってものだよ』
『おっ、それはお母さん的に嬉しいことを言ってくれるじゃん』
自分の娘のことを出されて、繭七は心が温もる。
……娘が自分だけではなく、周りの人にも影響を与えているほどの子に成長したのが、途方もなく嬉しいのだ。
しかし、と繭七は思う。娘が興味を持っていることもあり、彼女も虹陸のことを調べているから色々と知っていることがあるのだ。
『ちなみに虹陸には入学試験で絵を描いたり歌ったり楽器を使ったりするけど、大丈夫なの?』
『――え』
……どうやら知らなかったようだ。
そう、虹陸芸術専門学校の中等部の入学には試験がある。とはいえ、それほどに難しいというわけではない。むしろ何も練習をしていなくても、原石であれば受け入れる方針であるから、才能が見え隠れしているようなら入学できるのが基本だ。
しかし絵に関しては少なからずある程度は描けるのは前提であるのだ。美月はそれを知らなかったため、冷や汗を掻く。
『知らなかったかー』
『で、でもある程度は描けるよ!? こう見えてもたまに虹に付き合ってるから!』
『……じゃあ大丈夫かな――それに美月ちゃんが虹陸に居てくれる方が私は安心できるしね』
繭七はホッとしたのか、そう言った。しかし美月は首を傾げる。彼女がどうしてそんなことを言っているのか理解できないからだ。
『どういうこと?』
『二年後、たぶん虹も虹陸に入学するからだよ。虹ってああ見えて意外と不用心だから、美月ちゃんに悪い虫が付かないようにしてもらいたいなーって思って』
『――それは任せて! いつもしてるから!!』
『……虹が仲が良い男の子が圧倒的に少ない理由はそれかー』
自分で言って少し後悔するものの、繭七は安心する。
『――ごほっ、ごほっ……っ』
……繭七は唐突に咳き込む。最近は特に多いのだが、そんなことを知らない美月は途端に心配そうな表情を浮かべた。
『ま、繭七さん、大丈夫!? な、ナースのお姉さん呼ぶ!?』
美月はナースコールのボタンを片手に焦りながらそう言うものの、繭七は苦笑いをした。
『ただ咳込んだだけだから、大丈夫だよ』
『で、でも今の、普通の咳じゃないよ! だって――ちょっとだけ、血が』
……繭七は上手く隠したつもりだったのだが、妙に鋭いところのある美月はそれを見逃さなかった――繭七が口元を抑えたハンカチには、少しだけ血が付着していたのだ。
それを知られて、繭七はやってしまったと思った。
『たまにあることなんだよね。だから看護師さんを呼ぶほどじゃないよ』
『で、でも……』
美月はそれでも心配そうな顔をする――美月は肝心なところで鋭いのだ。だから理由は知らなくとも、もしくはその時、察していた。彼女の身体が既に……限界を迎えていることに。
『……美月ちゃん、ちょっと例え話をしよっか』
すると繭七は、観念したような表情を浮かべてそう言った。
『例え、話?』
『そっ。……そうだね。もしもこのまま私が皆の前からいなくなったとします。それは私の意思とは関係なく、どうしようもなくね。そうしたらきっと虹は泣いちゃうと思う――その時、美月ちゃんはどうするかな』
『そ、そんなの……虹と一緒に泣いて、また一緒に笑えるようになるように――』
そこまで言って、美月は頭の中が真っ白になった。
――気付いたのだ。繭七がこんな例え話を自分にする意味を。美月は呆然と目を丸く見開いて、繭七に声を掛けようとする。
『ま、繭七さん? そ、そんなことないよね? 今のは例えばの話で、繭七さんは元気で……』
しかし、直前に見た繭七の吐血を思い出してしまう。
……繭七は苦笑いを浮かべていた――言葉はいらなかった。それが、彼女の返答であったからだ。
『そ、そんなのって……ッ』
美月は、子供らしく大粒の涙を零す。突然突き付けられた真実を受け止められないのだ。
――自分が生まれてからずっと、物心ついた頃から近所に住んで、優しかったお姉さん。美月からすれば繭七はそんな存在であり、彼女自身が称したように第二の母親のような存在であった。
自分が世界で一番大切にしている幼馴染の母親で、美月自身も彼女のことが大好きであった。
……時には虹と一緒にこの病室に遊びに来たこともあった。家族間の仲が良く、水無月家と貴音家と合同で旅行に行ったり、バーベキューをしたりもした。
その記憶が美月の中で巡って、次々に涙が流れていく。
『嫌だよ、繭七さん……ッ』
『あぁ……また泣かせちゃったな』
こんな空気になったとき、自分は子供を泣かせてばかりだと恥じた。繭七はあれこれと考え、どうにか美月の涙を止める方法を思いつく。
繭七は美月の肩を掴み、俯きながら泣いている彼女と目を合わせた。
『――もっと強くなれるよ、美月ちゃんは』
……そんなことを、美月に言い聞かせるように言う。
美月は突然の言葉に涙が出るのが少し止まり、繭七を見つめる。
『美月ちゃんはとっても優しい子。男の子よりも喧嘩だって強いだろうし、私が太鼓判を押すくらい魅力的な女の子だよ。……そんな美月ちゃんだから、私はお願いしたいことがあるの』
『……お願い?』
美月は涙声でそう反復する。繭七はニコリと笑う。
――こんなことを子供に託すべきではないのかもしれない。それが美月の重荷になってしまうことがあるのかもしれない。
だけど繭七は知っていた。貴音美月という少女が、水無月のことを重荷に感じることがないことを。だから彼女は自分よりも遥かに小さい少女に願った。
『虹が泣いている時、隣で一緒に泣いてあげて。たぶんこれから虹は今までの人生で一番泣いちゃうと思うから、その時は一緒に居て、支えてあげて』
『……うんっ。約束する!!』
力強く、美月は頷いた。
……しかし彼女の話はまだ終わらなかった。
『そしてもう一つ――これから先、虹が更に泣いてしまうような悲しいことが起きた時。その時は……』
繭七は言葉を区切る。
……これはある意味で、美月にとっては前者よりも辛いお願いかもしれなかった。だけど繭七にとって一番大切なのは次のことだった。
だからそれを美月に言ってしまっても良いものかと、躊躇した。
――そんな時、美月の表情を見た。その表情は覚悟を決めた力強いもので、今の繭七にとって何よりも心強いものであった。
……だから繭七は口を開けた。
『――あの子が前に進めるように、見守ってあげて』
○●○●
夏が過ぎて、また冬になる。冬を越せば、また春が来た。
病室から見える景色は意外にも綺麗なものが多く、たまに水無月がスケッチして絵にしていることもあるほどだった。
――そんな病室に白衣を着た医者が、苦しそうな表情を浮かべて立っている。
『……水無月さん。本当に良いんですか?』
『はい。……もう、この病院を卒業しようと思います』
……それの意味を医者は理解していた。
――むしろ、これは奇跡的であったのだ。明日死んでも可笑しくない状態が何年も続いていた。病床が良くなったり、悪くなったりを繰り返して……生き永らえていたのだ。それを知るのは、医師だけ。それを決して彼女に言うことは出来なかった。
彼女が病室で見せる、不釣り合いな笑顔。それを見るたびに、奇跡は起きるのではないかと思っていた。しかし現代の科学では彼女を救うことは出来ないことを理性的に知っていた。
……そう長くはない。そう悟った繭七は、残された最後の時間を家族と共に過ごすことを決めたのだ。
それがどれだけの期間かは繭七にも分からない。一日か、それとも一か月か……もしかしたら一年かもしれない。
『先生には本当にお世話になりました。……でもごめんなさい。私は、最後まで夫と娘の近くにいたいんです』
『……分かっています。分かっていますけど――ダメだな。私は、本当に医者に向いていない』
医者は涙を流してしまう。命という現場で、何度も死を見てきた彼は、いつも涙を流してしまうのだ。それほどに患者一人一人を家族のように思っていた。
……そんな彼のいる場所だから、繭七はずっとこの病院に居続けた。都会の大きな病院ではなく、田舎にある小さな病院に居続けたのだ。
『……何の医学的根拠があるわけじゃないですから、戯言だと思って聞いてください――水無月さんがここまで存命出来たのは、きっと笑顔だったからです』
医者は、苦笑しながらそう言った。
『きっと私の施した医療などではなく、笑顔だったから奇跡は起き続けた。……水無月さんがここに来てから、病院はいつも笑顔が増えました。あなたを起点として、患者さん同士の交流は増えました。だから――最後まで、悔いのないように、笑顔で過ごしてください』
医者は、笑顔を浮かべてそう言った。繭七は涙を浮かべそうになるものの、医者の想いを受け取って、力強く頷いた。
『――はい!!』
……医者は繭七の鞄を持つ。彼女を玄関先まで見送るためだ。
玄関に向かうまでにたくさんの入院患者が繭七の元に駆け寄る。それらと最後の会話を交わすと、玄関先に到着した。
予定では滝色と水無月が迎えに来るはずだが、どうやら遅れているようだ。
『……実は私は、来月にはこの病院を去ります』
『え……ど、どうして』
『――ちょっと、耐えられなくなってしまったのです。それを見かねた友人が、実はこの辺りに新しい小さな医院を作るらしく、そこで働かせてもらいます』
医者は玄関先から、雲一つない満天の青空を見上げた。
『実はずっと前から、眼科医の資格の勉強をしていたんです。それを一年前に取得しまして。……眼科医として目の事で困っている患者と二人三脚で向き合っていこうと思います』
『……頑張ってくださいね』
『ええ――来たようです』
医者の視線の先に虹と滝色がいた。二人は急ぎ足で近づいてくる。
……そして医者に最後の挨拶を済ませて、三人は背中を向けて去って行った。その背中を見つめる医者は、願う。
『……あなたたちの将来に幸が来ることを、心からお祈り申し上げます』
そう願い、彼らが見えなくなるまでその場に立ち尽くすのであった。
――…………
――直近にあったのは、美月の卒業式であった。親族ではないものの、水無月家は総出で卒業式に参加した。
……美月は無事に虹陸芸術専門学校・中等部への入学が決まった。それを受けて水無月も進学先を同じところに決めた。
皆、卒業式に相応しく綺麗な服で臨んでいる。そして卒業証書を渡す順番が美月に回ってきた。
手の掛かる子供が卒業する方が、教師としては涙腺がくすぐられるものだ。特に美月は色々な意味で問題児であったため、各教師は涙ぐんでいた。それは観覧席の貴音夫妻も同じであり、父親に至っては号泣だ。
……証書を受け取り、自分の席に戻る。それが流れなのだが、美月は舞台上の上に登ったまま降りてこない。
――そしてあろうことか、演台の前に立った。それを受けて会場は少しばかりざわつく。
しかし美月はそんなことはお構いなしに、会場全体に届くような声でこう叫んだのだ。
『今まで、ありがとうございました!! ――約束、絶対に守るから!! だから、安心してください!!』
これまで六年間の感謝の言葉と、そして最後にたった一人に向けた言葉。それを受けて、繭七は涙があふれる。
『……うん。聞いたよ、美月ちゃん』
繭七は誰にも聞こえない声でそう呟いた。
そうして……卒業式は終わりを迎えた。
水無月家と貴音家はその日、少しばかり宴会めいた催しをして、楽しく過ごした。そこには繭七の退院祝いも兼ねていたのか、非常に盛り上がった。水無月家で開かれたのだが、水無月が眠る時間となったため、繭七は水無月を自室に連れて行って同じく横になる。
『美月ちゃん、最後まで凄かったね』
『そだねぇ。最後のあれで、先生たち全滅していたから』
美月の全力の感謝の言葉を受けて、号泣の渦に巻き込まれた教師陣を思い出し、繭七は苦笑いを浮かべた。
『……でも最後のあれ、なんだったんだろうね。美月ちゃんに聞いても全然教えてくれないし』
『……そうだねぇ。でもあれ、きっと大切なことだと思うなー。お母さんはそう思う』
娘の頭を撫でながらそう言う繭七の表情は、優しげなものであった。
『……虹は、将来は何になりたい?』
ふと繭七はそう漏らした。
――将来。きっとそれは、彼女が直接見守ることが出来ないことであった。だから彼女は、今、娘自身の口からそれを聞きたかった。
『将来の夢かー――私は、誰かを感動させられるような、そんな人になりたいなー』
『……ッ。そ、そっか――そっかぁ』
娘からふと出た言葉に、繭七は同じ言葉を繰り返す。
……それが夢ならば、水無月はとっくに叶えていた――何故なら今、繭七自身がそれを一身に受けているからだ。
今ではなく、昔からずっと彼女はそれを他の誰でもない水無月虹自身から与えられ続けている。
それを今、改めで実感したのだ。
『……あ、でも出来れば画家さんになりたい! 自分で個展を開けるくらいの凄い人!!』
『うんうん、虹ならなれるよ。……なれるよ、絶対に』
繭七は何度も頷く。
……これから先、娘の前に大きな壁が立ちはだかる日が来る。でも、それでも自分の娘ならばそれを乗り越えられると確信があった。
――繭七は知っている。水無月虹という少女が、実はあまり強くないということに。
だけどそれ以上に、彼女を支えてくれる人がたくさんいるということを。それは美月であり、滝色であり、そしてこれからの未来、彼女が関わるであろうたくさんの人々。
それだけの人徳が娘にはあると、繭七は知っているのだ。だから不安なんてない。後悔なんてない。
あるのは一つ――ただの願望だった。
『美月ちゃんの中学校の制服姿、可愛かったね』
それは娘の卒業式の姿を見たいということ。娘が美月と同じ制服の裾に腕を通し、中学生になる姿を見ること。
『たぶんこれから美月ちゃんはすっごい美人さんになるから、楽しみだなー』
それは娘が成長していく姿を見ること。今よりも背丈が大きくなり、誰もが羨むような可愛い女の子になっていくだろう。そんなときに口を大にして「この子は私の娘です!」と自慢げに話すのだ。
『そしたら多分、すごくかっこいい彼氏ができるんだろうねー』
……自分の娘が連れてくる交際相手も見たいものだ。きっと自分の娘は、美月のせいで中々男の子と接する機会は少ないのだろうが、もしも美月のお眼鏡に叶う男の子がいるのではれば、それは恐らく良い子であるのは間違いない。
そしてその子と交際して、いつかその子と結婚して、幸せな家庭を築いて――子供が出来て、お母さんになる。そうしたら繭七はお婆ちゃんになるわけだ。
――それは幸せな未来なのだろう。それをただ、見たかった。
『――お母さん、泣いてるの?』
『…………え?』
娘に指摘されて、繭七は気付く。自分が涙を流していることに。しかもそれは止まることなく溢れ続けていた。
『……あれ、あれ? 涙、止まらないや。……ホント、最近は涙腺が緩いな』
『えっと――えい!』
……すると水無月は、繭七の頭を抱えて、彼女を抱きしめた。
――それは普段、繭七が娘に対してすること。安心させるために、可愛がるために、感極まってすることであった。
それを娘にされるというのは、親としては如何なものか。……しかし、娘に抱き締められて、繭七は安堵する。
『泣き止むまで、こうしてるからね? だから……好きなだけ泣いて良いよ?』
まるで自分の真似であると、繭七は思った。……それはそうだとも思った。
子供は親を見て育つ。繭七と滝色に育てられた娘が、愛情に富んだ子に育たないはずがない。
温もりを感じる度に、繭七の視界は暖かなものとなる。それはいつも娘が描いてくれた絵のように、心の空白を埋めてしまうのだ。
『ねぇ、虹』
『……なぁに、ママ』
繭七は娘に話しかける。すると水無月はまるで母のような声音でそう言い返した。
そして繭七は――
『――愛してるよ。ずっと、ずっと』
そう、彼女に言ったのだった。
……一分一秒でも長く感じたい。時間とはどうしてこうも、早く過ぎてしまうものなのか。楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。一度過ぎた時間は決して戻ることはない。だから出来なかったことを後悔する。決して後悔することなく、不安を感じることはない。
――分厚いアルバムは何冊にもなってしまった。それを見て、繭七はほくそ笑む。
『……今も記録更新中か』
『うん。虹が今でも毎日描いてくれるから』
……一人、娘の描いた絵のアルバムを見ている繭七に、滝色は話しかけた。既に複数冊になってしまったアルバム。水無月が幼稚園児の頃から始まる成長の軌跡を眺めていて、滝色は彼女の隣で同じようにそれを見た。
ソファーの上で繋がれる手。その薬指には指輪がしっかりと嵌められていた。
『でも小学生になってからレベルが違いすぎるよね。才能だね、やっぱり』
『はは。俺たちはあまり芸術には無縁だったのにな』
穏やかにそのような会話を続ける二人。
……アルバムを最初から見始めて、そして最後になる。そこに挟まれている絵は、水無月が金賞を取った絵であった。
家族が描かれた絵。細部までよく描かれていて、三人とも笑顔である。学校で出た課題で、テーマは家族。それを見て、繭七は滝色の手を強く握った。
『……ごめんね』
……繭七は滝色に身を寄せた。滝色はその時、感じ取った。……彼女の身体が、いつもよりも冷たいことを。
唇を噛みしめる。涙を堪えて、繭七の手を握り返す。
『そろそろ、虹も終業式、終わりだね。……帰ってきたら、また一ページ、増えて。……次は何を描いてくれるのかな……。今からすごく楽しみで、笑顔になっちゃうよ』
『……そうだね。またきっと、虹は繭七の事を想って描いてるから……凄く綺麗な絵を、描いてくれるよ……ッ』
声音が涙声になる。
『……そっか。そうだね――滝色くん』
繭七は彼の名前を、呼んだ。
『私は幸せだよ。……幸せの濃度が過多過ぎて、溺れちゃうくらいに……』
『なんだよ、それ……本当に良い回しが、独特だよ――繭七』
彼女の名前を、呼ぶ。本当に笑顔が魅力で、見ているこっちまで笑顔になってしまう。そんな妻を見て、滝色も笑顔を浮かべた。
……ガチャンと扉が開く音がした。玄関先には水無月がいた。
『ただいまー』
その手にはいつものように画用紙が握られている。そしてリビングの中に入ると、真っ先に繭七の方に向かった。
今日の絵は特に会心の出来で、きっと母も喜んでくれる確信があるから、すぐにでも見せたいかったのだ。
リビングに入ると、両親が肩を寄せ合っているのが見えた。それを見て割って入るのがはばかられるも、水無月は繭七に話しかけた。
『ママ、今日は凄いよ! たぶんママも気にいると思う!!』
水無月はランドセルを下ろし、繭七の前に膝をついて座る。そして画用紙を広げて繭七に見せた。
……繭七はゆっくりとした手つきでそれを受け取り、半眼の状態で見つめた。
――その瞬間、彼女の目に色彩豊かな美しい世界が入り込む。心がこの絵を美しいものであると認識し、自然と笑顔になった。
『本当に……虹の絵は、綺麗だね』
繭七は膝に絵を置いて、娘を片手で抱き締めた。滝色と繋ぐ手を決して離すことなく、二人の温もりを感じ続けた。
――眠くなる。途方もなく、幸せな温もりに包まれながら眠気に襲われた。
繭七は目を瞑る。何故だか次第に音が聞こえなくなった。だけど温もりだけはどれだけ経っても消えやしない。
『――幸せだなぁ。……滝色くん、虹……ずっと、一緒だよ……』
声が次第に小さくなる。
……もう、時間が来てしまったのだ。薄れていく意識の中、繭七はそれを実感した。
そして――最後まで笑顔で、大切な家族の温もりを感じながら……繭七は眠りについた。
自分の大切な人たち、皆の幸せを願って――……




