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こころのいろ  作者: 如月心
第6章 知らない色を、知るために
32/69

2幕 一人ぼっちのキャンバス

 ――皆は優しい。とっても優しい。どうしてこんなにも優しいのだろうと、最近はずっと思っている。

 初香先輩と海老名先輩はいつもと変わらず明るく接してくれて、美月ちゃんはいつも以上に親身になってくれる。

 それはとてもありがたいことで、それを疑問に思うことはとても失礼なことだと思う。


 ……だけどどうして、こんなにもその優しさが辛いんだろう。


 ペンを持つ。しかしその手は震える。結果、絵を描くことが出来ない。

 文面に起こせば当然のこと。手が震えればまともに線は引けないもの――今までは、()()()()()震えることはなかった。

 ……どうしてこんなことになってしまったのだろうと、毎日泣きながら思っている。どうして毎日がこんなにも辛いのだろうと、ずっと考えている。


 絵が描けないことが、こんなにも辛いことなんて知らなかった。今まで当然のようにしてきたものだから、これからもそうであって当然であると、思っていた。

 ……理由なんて、本当は分かっている。でもこれは誰にもどうすることなんて出来ない、私だけの問題。私の気持ちは私にしか分からない。だから誰も私を、見つけてくれない。


 ――ならどうして、私は一色に縋っているんだろう。


 ……一色くんは毎日、私のことを迎えに来る。いつも通り無表情で、でもどこか優しげな表情。もしかしたら、無理をしているのかもしれない。それでも私は、一色くんが迎えに来てくれる日は、どれだけ部活に行きたくなくても付いていく。できる限り遠回りをして、部活動の時間を縮めてでも……一応は顔を出していた。

 一色くんが迎えに来なければ決して自分から足を運ぶことはないかもしれない。……だけど一色くんは欠かさず、毎日私を迎えに来た。

 筆もペンも持てない私のために先輩たちは絵を描かない企画を考えてくれる。もしくは、私一人が絵を描く必要のない企画を、限られた知識の中から絞り出す。


 ……皆が私を想って気を遣ってくれていることは分かる――でもそれが、私はどうしようもなく嫌だった。それが無理に気を遣っているのではないかと、思ってしまう。

 ――誰も踏み込んでくれない。当然だ。私が誰にも踏み込んでいないのだから。


「水無月、頭痛は大丈夫か?」


 ……私の隣の席に座る一色くんが、心配そうにそう言ってくれる。皆と同じで気を遣っているのは明白なのに、どうして彼の言葉は嬉しく感じてしまうんだろう。

 分からない。分からないけど、彼がいるから今はまだ、部活に行ける。ペンが握れなくても、ここに来ればいつか――


『――君の作品には魅力がないねぇ。技術も未熟で、僕がこれまで見てきた作品に遥かに劣るものばかりだ』


 ――止めて。そんなことを、思い出させないで……っ。


『線は歪んでいて、色も濃淡のバランスが悪い。君は中学三年間の間、一体何を勉強してきたんだね』


 分かってる。自分の絵がダメなことは自分が一番よく分かってる! だから、これ以上は何も言わないで……っ! 私から、大事な絵を――取らないで!!


『君が描きたいものが不明確だね。ただ授業の単位が欲しいだけなら、そう言いたまえ。見ていて不快だ』


 ――私のことを何にも知らない癖に、そんなことを言わないで!!

 ……楽しい記憶が、薄れていく。色がどんどん水で薄れて、淡くなっていく。思い出すにつれて、手がまた激しく震えていく。

 ……分かってるよ。どうしてこんなことになっているなんて、わかっているよ!!

 でもどうしようもないの! 私にはどうすることも出来ないのに――どうしてみんなして、私の大好きなものを、貶すんだろう。私が本当に描きたいものは――


『こんなもの、お前の本当に描きたいものじゃないだろう!!』


 ……本当に、その通りだった。


『お前の描く世界は、もっと美しいもののはずだ! なのにこの絵から、何も感じないんだ……っ。色も、美しさも』


 彼は、一色くんは、私に踏み込んでくれた。誰もが貶すばかりだった私の絵を認めて、そう言ってくれた。


『お前の描く、色を見せてくれよ……っ』


 ――見せたいよ……ッ! 

 他の誰でもない、()()()()()見せてあげたいよ! でもそれは出来なくて、だから辛いの!

 ……そうか。どうして私が一色くんに縋っているのか。


「……うん。大丈夫だよ」


 それは彼が、私に踏み込んでくれたから。私の絵を好きだと言ってくれたから。

 それを理由にして――ただ一色くんに迷惑をかけている。それを分かっていながら、どうすることも出来ない。

 そんな中途半端な自分が、どうしようもなく……


「――大っ嫌い」


 ……ポツンと、涙が零れる――周りに皆がいるのに、私は一人きりだった。


●○●○


 水無月は美月が送っていき、一色と雪彦と初香は共に帰りの電車に乗っていた。

 そこには普段ならば会話があるだろう。しかし今日は、一向に誰も話そうとはしなかった。

 ……そんな中、ポツリと初香が口を開く。


「……どうすることも、出来ないのかな」


 電車の窓に頭をコツンと乗せながら、初香は小さくそう呟いた。


「こーちゃんはずっと一人で泣いてて、私たちは部活に居る時に騒ぐことしかできないなんてさ」

「……でも、俺たちに出来ることはそれくらしかないだろ」


 そんな弱音を吐く初香に、雪彦は「ふぅ」と息を吐いた後でそう言った。


「でもそんなの、何にもしてあげていないじゃん」

「何をすればいいかもわからないのに、何をするって言うんだよ。中途半端な優しさは、こーちゃんを余計に傷つけることになるんだぞ」

「そんなの!! ……そんなの、やってみないと、わかんないじゃん……」


 初香は車内であることを忘れて声を荒げてしまうも、すぐに声音は弱々しくなる。そんな初香の肩を抱き寄せて、雪彦はポンポンと頭を撫でた。


「俺だって、心苦しいよ。だけど見つからねぇんだ。俺らはこーちゃんのことを知らなさすぎる。今の状況だって、美月から聞いたものでしか分かっていないんだ」

「……美月ちゃんは、何かもっと違うことを知っているのかな」


 初香はそういうと、雪彦は重く頷いた。


「たぶん、な。美月は虹ちゃんとは幼馴染で仲が深いから、たぶん知ってる――それでもあいつも何も出来ないくらいに、この問題は深刻なんだと思う」

「……美月ちゃんでも踏み込めないなんて、そんなの私たちじゃ」

「――ったく、珍しく可愛げがあると思ったら、落ち込んでる時とかさ。兄冥利に尽きねぇぞ」


 ……二人の会話を静かに聞いている一色は、車窓から見える空を見ていた。

 外は暗く、空には満天の星が見える。都市部から遠く離れたこの地域は、こうした些細な景色が美しい。

 ……この空を見ていると、思い出すのは合宿だ。合宿の夜にした花火。あの時はこれよりも綺麗いな夜空であったか。


「貴音先輩なら、言いたくても言わないことがあると思います」


 ……合宿の時、一色は美月と自分のことについて話したことがある。浜辺で一色が何かを隠していることを察した美月であるが、彼女は一色のことを尊重してそれを聞きだそうとはしなかった。

 ――そんな美月だからこそ、おいそれと水無月の根本に繋がる話をしようとは思えない。特に今回の一件は水無月の弱みに繋がるからだ。……それを水無月が望んでいない限り、美月は話したりはしないだろう。

 無論、知っている場合の話である。


「……だからせめて、俺には俺のできることをします」

「また自分が悪いとか、言うんじゃないだろうな」

「……俺がしたいから、そうするだけです」


 一色は雪彦の目を見据えながらそう言うと、彼は「そうか」と呟き、それ以上は何も言わなかった。……雪彦の質問に答えているわけではない。何故なら彼は、自分が全て悪い、ということを否定はしていないからだ。

 ――実際に今でも思っている。全てではないにしろ、一色が彼女の変化の大きな原因の一つであるということを。

 ……そう思っているからこそ、一色は自分に出来ることをしなければならない。それは、


「(そうじゃなきゃ、自分で自分を許せないから)」


 ――使命感という名目の、強迫観念のようなものであった。

 責任を感じているからこその行動。以前と大して変わらないようにも思えるが、実際には内情が全く異なっている。

 前は一色と水無月の喧嘩に、周りが介入する余地は少なからずあった。だが今回の問題は当人たち以外は立ち寄ることが出来ない。だからこそ、初香や雪彦には何が出来るのかさえ思いつかない。

 ……一色がそれでも何とか思いつくのは、当事者の一人であるからだ。


「……無理だけは、しないでね?」


 初香は一色を見つめながら、不安の滲む表情を浮かべてそう言う。一色は顔を合わせず、ただ静かに頷くだけだった。

 ……だから彼は気付けなかった――彼の表情から、笑顔が無くなっていることに。そしてそのことを誰よりも顕著に気付いている存在に。

 そう……彼らは、似た者同士だ。


○●○●


 ……一色の生活は変わった。何がどう変わったのかといえば、それは彼の行動の中心が水無月となった。

 最初は放課後だけであったものも、今では朝、昼と彼が水無月と会わない時間はない。最初は放課後だけであったものが、昼休みも同じように一緒にいることが増えた。特に何かを話すわけではないが、水無月は一色の傍を決して離れないのだ。そして部活終わり、彼女を家に送る機会も増えた。

 ……そして今日、ついに朝、彼女を迎えに行くことになったのだ。

 それは先日、美月が夜に彼に電話を掛けて来たことから繋がっている。


『すまない、一色。実は明日、朝一でバンドの練習があって……今の状況で無責任というのは分かっているが、部活に顔を何とか出しているのも仲間に無理を言っているんだ。だから朝、出来れば一色に虹を迎えに行くのをお願いしたくて……すまない』

『そんなに謝らないでください。むしろ先輩たちが今から年末にかけて忙しいのは知っていますから』


 新年が始まってすぐに音楽祭があることを知っているため、一色はそう言った。


『先輩は自分のしないといけないことに集中してください。水無月のことは俺が気にかけていますから』

『……ああっ、頼む』


 ……電話口であったものの、その声が涙声になっていることに、一色も気付いていた。水無月の状態を誰よりも苦しく思っているのは自分ではなく、美月であることを知っていた。

 ――そんなことがあり、一色は途中下車をして水無月の家に向かう。時間にしては普通に登校するよりかは遥かに早い時間帯だ。

 閑静な住宅街を歩いていく。朝が早く誰もいないからか、自分自身の足音がやけに耳に響いた。そうして歩いていると、次第に水無月の家の前にたどり着く。

 彼女の家は所謂普通の家で、表札には立派な文字で「水無月」と刻まれている。その斜め前には「貴音」の表札があった。

 しかし彼女の家を前にして立ち止まる。インターホンを押そうとするも、手が止まってしまった。


「……こんな時に照れなんていらないだろ」


 わずかばかりの少年らしさを振り切って、一色はインターホンを押した。押してから数秒経つと、水無月の家の扉の玄関の鍵が開く音がする。


「……えっと、君は?」


 ――そこにいるのは水無月ではなく、スーツを着ている中年男性であった。中年と言えど見た目は若いように伺える。その目はどこか水無月に通ずるように男性にしては大きい。


「おはようございます。自分は水無月の……虹さんと同じ部活の、一色と言います」


 一色は挨拶をする。家から出てきた水無月に似ている男性。そのことから彼が水無月の父親であるということを察したのだ。

 丁寧に挨拶をすると、彼は少しばかり驚いた表情を浮かべるも……すぐに水無月と同じような柔らかい笑顔を浮かべた。


「あぁ、君があの一色くんか」


 あの、という誇張に少しばかりの引っかかりを覚えるも、一色は続けて事情を説明した。


「……貴音先輩が今日は朝練で虹さんを迎えに行けないと連絡をもらって、彼女を迎えにきました」

「なるほど。それはわざわざすまないね――申し遅れたけど、私の名前は水無月滝色(たきいろ)。虹の父親だよ。虹はまだ寝ていてね」

「……そうですか」


 いつも通りならば彼女が起きていても可笑しくない時間帯であるが、今の彼女の精神状態を考えれば仕方のないこと。一色はそう感じ、納得する。


「……立ち話もなんだ。上がって虹を待つかい?」

「でも、お邪魔じゃ……」

「あはは、虹もさんざん君の家にお邪魔になっているんだろう? 遠慮をすることはないさ」

「…………知っているんですね」


 意外と自分たちの情報が筒抜けであることに一色は苦笑いを浮かべると共に、何気に水無月が彼の家に泊まったことを知っていることに冷や汗を掻く。

 一人娘が見ず知らずの男の家に泊まるということを父親が知っている。普通に考えれば父親が怒り狂うこともあり得る話だ。

 ……しかし滝色はそんな反応を見せることはなかった。


「そんなに委縮することはないよ。さっきも言った通り、君のことは虹や美月ちゃんからよく聞かされているからね。信頼たる人物であると認識しているよ。それにお泊りの件も虹からしっかり連絡をもらっていたからね」

「そ、そうですか……」


 一色の思考を先読みした滝色がそう言うと、一色はホッと胸を撫でおろした。

 ……そして滝色の提案を呑み、水無月家の敷居をまたぐことにする。

 一色は水無月家のリビングに通される。普段から水無月がこまめに掃除しているのか、外の外観とは裏腹にとても綺麗であった。何より目が光るのはシステムキッチン。水無月が普段料理しているであろうキッチン周りはとても収納と掃除が行き届いていた。


「コーヒーでも飲むかい?」

「いえ、申し訳ないです」

「自分の分のついでさ。それとも紅茶の方がお好みかな?」

「……なら、コーヒーでお願いします」


 一色がそう言うと、滝色は笑みを浮かべてコーヒーを淹れる。豆から拘っているのか、コーヒー豆の香ばしい匂いが一色の鼻腔をくすぐる。待つこと数分弱。

 そして一色の前にコーヒーカップが置かれた。


「……ミルを使って豆から淹れているんですか?」

「昔からの習慣でね。生活面はダメダメだけど、これだけは昔からしていたんだよ。実家が喫茶店をしていたことも関係しているのかな」

「…………」


 一色は出されたコーヒーを砂糖などは入れずに一口飲む。すると途端に口に広がる苦み。そしてその後で感じる香ばしいコクのような旨味であった。

 中々普段は味わえない美味しいコーヒーに一色は少しばかり目を見開いて驚く。


「美味しいです」

「口にあったようでよかったよ――虹を起こしてくるから、待っててもらえるかな」


 水無月の部屋に向かう滝色の背中を見送る一色。そしてすぐに彼が自分のコーヒーを淹れていないことに気付く。


「……あの人、水無月の父親だな――飲み物で驚かされるな、水無月家の人たちには」


 以前の合宿で水無月が振る舞った紅茶を思い出し、一色はふとそう呟くのであった。

 ――一色は何もすることがないため、部屋を見渡す。特筆することもない平凡な家庭のリビングだ。あるとすれば家族写真の入った写真立てと花が窓際に置かれていることくらいだ。

 ……一色は立ち上がり、その写真立てを手に取る。

 そこには幼い頃の水無月、そして今よりも若い滝色ともう一人――水無月によく似た綺麗な女性が映っていた。


「……水無月の母親か」


 その推測は正しく、写真に映る女性は水無月の母親であった。今の水無月を成長して大人びさせた容姿をしていて、彼の目から見ても容姿が整っているように思える。違うところがあるとすれば目元当たりか。そこは滝色から遺伝したのだろう。

 ――一色は写真に映る水無月を見た。幼い水無月は可愛らしく、なおかつその笑顔は幸せに包まれており、見ていて自然と笑みを浮かべてしまうものであった。

 両親に挟まれて手を繋ぐ水無月の笑顔は、今では見ることが出来ないもの。だけど一色はその笑顔と前まで自分たちに見せていた笑顔が変わらないものであると感じた。

 ……だからこそ、余計に胸を締め付けられる。


「――一色くん」


 声を掛けられる。一色は呼ばれた方を見ると、二階に続く階段の前に水無月がいた。

 既に制服に着替えている水無月は、笑顔を浮かべることなく彼の元に寄る。


「……ごめんね、迷惑を」

「迷惑じゃないから」


 水無月が言う前に、一色はそう指摘した。何度目かも忘れてしまったやり取りである。


「……うん」

「朝食、まだ食べてないんだろ。それまで待つから」

「いいよ。今日はお腹、空いてないから」


 水無月はそういうと鞄を背負い、彼の手を引く。それはまるで今すぐに家から出ていきたいと言いたいようなであった。

 ……そんな水無月に声をかけるのは、彼女の父親である。


「虹」


 名前を呼ばれて、水無月は足を止める。


「……今日は遅くなるから、帰ってきたら戸締りをしっかりするんだよ」

「……うん」

「それと――いってらっしゃい」

「……いってきます」


 それ以上、特に会話を交わすことなく水無月は歩みを進める。

 リビングを出る前、一色は滝色と目があった。

 ――そこにあるのは、寂しげな表情だった。その表情を見て、一色が美月や自分たちと同じであることを理解する。

 ……リビングから玄関に行き、靴を履いて外に出る。その時、一色はとある匂いに気付いた。祖父の家に行くときに漂うその匂いは……


「……線香の匂い?」


 小声でそう呟くと、水無月は彼の手を強く引く。

 ――バタリと、家の扉が閉まる。


「……早く行かないと、遅刻するよ」

「あ、ああ」


 水無月は更に一色の手を引いて通学路を歩き、駅へと向かう。一色は彼女のその態度が気がかりになりつつも、今はとにかく学校へと向かうのであった。


○●○●


 一人分多くのノートを取る。それ自体は大したことではない。しかし、それをしている理由を考えた時、一色の気は落ち込んでしまう。しかし今、自分が落ち込んでしまってはいけないと思っているからこそ自分の心に鞭を打ち、出来ることをしていく。

 それを続けている度に罪悪感が積み重なっていく。背負子に薪がどんどん積まれていくように足取りが重くなる。

 漫画の授業を受けていようとそれは変わらない。作業をしようと思っても、思い出すのは水無月の寂しげな表情だ。


「……一色くん」


 机の上に置いてある紙には一切の線が描かれておらず、それは一色が集中できていないことを如実に表していた。


「なんですか、先生」


 渡邊は一色に話しかける。特に驚いた様子はなく、席に座りながら顔を渡邊の方に向けた。その表情は普段とは違い、心配の色が明確に見える。

 一色はそれにすぐに気付いて席を立ち、準備室の方に歩いていく。少し前に課題を既に完成させた一色は特にすることがないのだ。


「悪いね、気を遣わせてしまって」

「いえ。先生ならいつかはって思っていたので」


 時期的にいずれ水無月についてのことで渡邊に話しかけられることは分かり切っているからか、一色は驚いていなかった。


「聞きたいことは、水無月のことですよね」

「……うん。ある程度のことは貴音さんからも聞いているから、心配になってね」

「それは、水無月にですか? それとも……俺ですか」

「――両方、だよ」


 そう言う渡邊は、拳を少し握る。それを見た一色は、渡邊が自分たちのことを本気で心配していることを理解した。

 そもそもそこについては疑っていないから、再認識、とも言える。


「……俺の心配は不要ですよ。今は何よりも、水無月について心配するべきです」

「もちろん心配はしているし、僕に出来ることならば何でもする考えだよ。……教室での水無月さんを見ていれば、嫌でもそうなる」


 普段、教室にいる水無月を知らない一色では知りようのない情報。一色はその情報を知れることならば知りたかった。


「……水無月は、教室でどう過ごしていますか?」

「どう、か。……笑顔は、日に日に陰っているよ。クラスメイトも当初は率先して話しかけに言っていたけど、水無月さんがどうにもそれを拒否しているんだと思う。だから話しかける人もいなくなっているよ」

「……先生がそこまで知っているのは、その生徒に相談されているからですよね」


 渡邊は一色の指摘に頷いた。


「彼らも動揺しているんだよ。いつも笑顔の中心にいた水無月が、突然笑わなくなってしまったこと。明らかに何か思い悩んでいるのに、それを自分たちに何一つ言ってくれないこと。僕のところに来た時にはどうしたらいいか分からないといった感じでね」

「そう……ですか」


 それでも水無月のことが心配である彼女のクラスメイトに、一色は如何に水無月が重要な存在であると思った。


「彼女に何をしてあげられるのかが分からないんだ。そしてそれは僕も同じ……彼女にどんな言葉をかけるのか、何をしないといけないか。何も分からないさ」

「……それが普通ですよ。俺だって」

「でも、しているんだよね。自分が出来ることを自分で考えて」


 渡邊のそんな声音を聞いたのは、一色も初めてであった。


 ……授業が終わり、一色は特別棟の漫画の部屋から一年生棟へと向かう。二階の渡り廊下から一年生棟に入り、一色は水無月の教室の近くを通った。

 窓から水無月の席を確認すると、そこには無表情で席に座る彼女がいた。いつもならば周りにクラスメイトがいても良いものだが、今に至っては遠巻きに彼女を見ていた。どう話しかけていいかわからない。渡邊の言っていた通りである。


 一瞬だけ足を止めるが、一色はすぐに自分の教室に足を向けた。

 ……その時、水無月は視線を廊下に向ける。一色の姿を確認すると、ガタンと立ち上がりそうになった。しかし……すぐに席に座ってしまう。


「……迷惑、かけるよね」


 ……その呟きは周りのクラスメイトにさえ届かない。それはもちろん、一色にも届くはずがなかった。

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