1幕 代償
「症状を鑑みて、恐らくストレスによるものであると考えます」
主治医は淡々と話す。しかし言葉の端々でそれが無理があるようにも聞こえる。
「過度のストレスを溜めこんだ結果、それが肉体に影響を及ぼした……良くある話なんですよ。スポーツの世界ではこのようなものをイップスと呼ばれることがあります。精神的な原因で身体に支障をきたして、思い通りのプレーが出来なくなる運動障害のことでして。それに極めて症状が似ています」
それを、彼女は黙って聞いていることしかできなかった。
「……しかし、水無月さんの担当を長年していましたが、こんなことになるなんて……彼女に聞いても無言の一点張りなんです。せめて、原因さえ分かれば処置のしようもあるんですが……医者として恥ずかしい話です。患者の危機の中で、客観的視点から話すことしかできないなんて」
しかし、それは仕方ないことだ。何故なら直接的な怪我や変化ならともかく、それは心因性を伴う治療は極めて難しいものなのだから。
「心因性のストレス症候群の一種であるとも考えられます。ただ、前例を僕は数件しか知りません。いずれもそれは一過性のもので、原因もはっきりしていましたからすぐに戻りましたが――もう既に二週間、症状が止まっていない。こういった問題は時間が掛かるほど余計にストレスを感じてしまいます。……特に水無月さんの場合は」
ストレス症候群の中にはバーンアウト症候群というものがある。主に勤勉で真面目な頑張り屋さんに見られるもので、努力を続けているのに結果が出ないときに、気力がなくなって体にも症状を感じるようになるものである。厳密にいえばそれも違うのだが、状況は似通っていた。
「私として考えられる原因は一つです。ですが、それにしても突然すぎる、直近で何かがあったとしか――貴音さんは、何か知りませんか」
美月は、医者にそう尋ねられた。
……美月はその質問に、答えることが出来なかった。彼女も根本の原因を知ってはいないからだ。
「要因は、幾つもあると思います。その要因が、きっと重なり過ぎたんです」
「……だとしたら、事態は深刻です。今まで毎日していたことが全くできなくなった――人はできないことにストレスを感じてしまう。水無月さんにとってのそれは、絵……ですよね」
「……はい」
……彼の診療所で、一人訪ねて来た美月は頷く。そこには水無月はいない。彼女ただ一人だ。
「……一応、知り合いの心療内科の医師は紹介しました。だけど彼女はそれを頑なに拒否して、ついに私のところにも来なくなってしまった……まるで自分の内を誰にも話したくないとでも言いたいのか。それ故に本音を吐露することがないから、結果としてストレスを抱えてしまう。……ここ半年近くは、彼女は本当に楽しそうに色々なことを話してくれていたのに」
「それは、間違いありません。虹は、嘘偽りなく楽しんで美術部の活動を謳歌していました。それは自信を持って断言します」
「……ならば、申し訳ない。私が出来ることは、君から話を聞いてアドバイスをしてあげることしかない――彼女の問題は彼女自身か……それか、彼女が本当に信じる君……いや、君たちしか、どうすることも出来ないと思います」
「……はい」
普段ならば力強く頷く美月の声音が、今は弱弱しかった。……理由なんて、考える必要もない。嘘が苦手で素直な彼女が、この世界で一番大切な幼馴染のことに、自信を持てない。それはつまり――彼女には、水無月を救える自信がないのだ。
どんな言葉を掛けたとしても、それが水無月に届いているのかわかりやしない。彼女が出来るのは、こうして水無月の主治医に話を聞きに来るしかできないのだ。
「貴音さん、どうか気を病まないように。それを水無月さんが知ると、責任を感じて余計なストレスを感じてしまいます。だからこそ、今は彼女に出来る限り普段通りに接してあげてください。……それで解決するとは、到底思えませんが」
主治医が苦虫を噛みしめる表情を浮かべる。彼も苦肉のアドバイスなのだ。本当ならば解決に向かわせるアドバイスをするのが医者の役目だ。しかし彼が出来るのは、せめてもの現状維持の手段のみ。
……それも、極めて効果に期待できないものだ。それでも何もしないよりは良い。
――美月は拳をギュッと握りしめる。ただ一人、幼馴染のことを想い……自分の情けなさに、表情を歪めるのであった。
……水無月虹に手が震える症状が現れてから早二週間の月日が経過した。依然として、それは回復の兆しすら見せず、彼女の心を――彼らの心を蝕み続けていた。
○●○●
水無月の症状は当初は筆を持つことに限定されていた。しかし時間が過ぎることにそれは絵を描けるもの全般に広がってしまった。
筆から始まったそれは、次は鉛筆、クレヨン、挙句シャープペンシルにまで及んでしまった。それがあれから二週間経過した現状である。
「……俺、水無月を迎えに行ってきます」
放課後、部室に一番最初に来るのは、いつの間にか水無月ではなく一色になった。一番最初の変化はそれだった。
「うん。ちひろん、お願い」
部室に来た初香は、一色の提案に頷く。初香は部活が暗い雰囲気になり過ぎないように必死になって盛り上げようとしていた。しかし水無月がいないところでは、こうしてめっきりと笑顔がなくなってしまう。
それでも彼女が来れば普段通りの初香に戻り、気を遣っている様子など微塵も見せないのだ。
……一色は特別棟を出て、一年生校舎に向かう。その二階にある水無月の所属する渡邊の教室に向かった。
「――水無月」
「……一色くん」
一人ポツンと席に座る彼女を発見し、声をかける。すると彼女は特に表情を浮かべることなく、静かに一色の方を向いた。
「……どうしたんだ。もう誰もいないぞ」
「うん。……ごめんね、毎日迎えに来てもらって」
「……いいよ。今日は部活、行くか?」
「……うん。せっかく迎えに来てくれたんだから、行くよ」
――迎えにこなければ行かなかった。暗にそう言っているようにも思えた。だからこそ一色は毎日のように水無月のところに行く。例え拒否されようとも、それだけは彼は止めようとは思わなかった。
普段ならば美月が行くところなのだろうが、美月と雪彦は二日に一度しか部活に顔が出せない。一か月後に今後に関わる音楽祭があるからだ。それでも練習終わりに必ず部活に寄っていた。
……水無月は立ち上がらない。だから一色はいつも彼女の手を握り、部室に連れていく。その際に水無月は一色の手を決して離さない。
――彼女の笑顔は徐々に消えていった。最初の一週間は、それでも健気に明るく振る舞おうとしていたのだ。しかし時間が経つに連れて手の震えは悪化していく。絵が描けないことが水無月にとってどれだけ深刻なことか。それは彼女にしか理解できないことだ。
「……これ、水無月の分のノート。先生が同じだから、多分大丈夫だと思う」
「……ごめんね」
「だから良いって。気にするな」
鉛筆やシャープペンシルも握れないから、必然的に授業のノートも取ることが出来ないのだ。だから一色は水無月の分の授業ノートを書いている。それで水無月が責任を感じても、一色は仮に状況が違う時でも同じことをしただろう。
……水無月の手は、部室に近づいていくにつれて、毎度握る手が強くなる。まるで部活に行くことを、身体が無意識に拒否しているようにも思えていた。
「一色くん、飲み物……買いに行っていいかな?」
「……ああ」
そして、少しでも部室に行くことを引き延ばすのだ。一色は水無月の申し出を断ることはなく、彼女を連れて自動販売機に向かう。その足取りはゆっくりだ。水無月に合わせているから、おのずとそうなる。
……二人の距離は近い。手を繋いでいるというのもあるが、水無月が拠り所を探すように一色に寄り添うのだ。
――だが、どれだけ距離が近くても、一色はその本当の距離が遠いことに気付いていた。……気付いていながら、自分にそれ以外で出来ることがないから、そうするしかできないのだ。
……飲み物を買うと、それを持って部室に行くことなくその近くのベンチで二人で飲む。そうして少しでもゆっくりしてから、ようやく部室に向かった。
「お待たせしました」
「――おっそーい!! ちひろん、こーちゃん、二人でいつも何をしてるのー!? もぅ、いつもいつも待たされて初香さんも寂しくて四六時中一緒にいちゃうよ?」
「ご、ごめんなさい……」
初香がいつも通りの騒がしさを見せると、水無月はそう謝って一色の後ろに隠れてしまう。
……一色以外の部員に余所余所しくなった。これも一つの変化であった。しかしそこで引いてしまっては普段の初香ではない。
彼女は二人の後ろに回り込んで、一色もろとも水無月に抱き着いた。
「二人がそんなにくっついているなら、私もくっつくー!」
「いや、普通に止めてください。最近先輩が遠慮なさ過ぎてクラスで本当に勘違いされてるんですよ」
「付き合ってるって?」
「……愛玩道具にされてるって」
それは間違っていない。彼のクラスメイトはとても洞察力が高いと言えよう。
……しかしそんないつも通りの会話をしても、水無月は笑顔を浮かべない。それどころか一色の服を掴む強さに拍車がかかるだけだ。
「それで、今日は何をするんですか? 薄情な三年生二人は居ませんけど」
「いやぁ、後輩たちを放置してるなんて、本当に薄情だよねぇ~――今日はね、絵の設定を他人に考えてもらって、それを再現するって企画! もちろん設定を考えるのは想像力豊かなこーちゃんだよ?」
初香は水無月を指さして、ウインクをした後でそう言った。
「……ごめんなさい。私のことなんか気遣って」
「――なんかじゃないよ、こーちゃんだからだよ! もう、そこのところは間違わないでよね~。私はこーちゃんのことが大好きだからしてるの!」
初香はわざとらしく怒り顔になって、水無月の後頭部に軽くチョップを入れる。そして二へヘと笑って、その頭を撫でた。
「そんなに自分を卑下しないの。私、こーちゃんのそういうのはあんまり好きじゃないよ?」
「……はい」
俯きながらも水無月はそう頷いた。
……するとその時、廊下で走り音が聞こえる。足音の数は合わせて二つで、言うまでもなく奴らである。
「お待たせ、お前たちぃ! この俺が来たぞぉぉぉ!!」
「お前、私まで巻き込むな! 何故私までそんな恥ずかしいことを……」
安心して良い。美月も普段から大して変わらないことをしているのだから。
しかしそんな三年生二人を前に、一色と初香は白けた目をしていた。
「うるさい黙れ」
「消えちゃえ♪」
遠慮のない一色と初香の単純な暴言に、美月と雪彦はと言うと……
「はっ、お前らは普段からそんなだから、今更暴言吐かれたところで大したダメージねぇよ」
「ふん、私たちが成長していないとでも思ったか? 全く、考えが甘い。暗弱だよ、貴様たちは」
……ピクリと一色と初香の青筋が反応する。美月と雪彦は本当に愚かだ。一々一言、余計なのだ。一緒に組ませたら手を付けられない二人組を相手に、そのような煽るようなことを言うとどうなるか、身をもって知っているにもかかわらず言ってしまった。
「え、馬鹿なの? そもそも二人の成績、芸術分野以外は赤点ギリギリどころかアウトだよねぇ。毎回補修受けているのはどこの誰だっけ~。ねぇちひろん、そんな馬鹿はどこにいるのかな?」
「目の前にいるじゃないですか。先ほどから猿みたいに喚いて、覚えたてのちょっと難しい言葉を使って決め顔をしている、どうしようもないくらいに恥ずかしい二人組が」
「……あ、人間じゃなかったかー」
とても素晴らしい連携である。みるみるうちに二人は羞恥で顔を真っ赤にしていた。
……一色、初香、水無月。いずれも学業は優秀である。真面目な一年生組に、要領の良い初香。その優劣の差は明らかだ。
「せ、成績で人の価値を図るなど、やはり愚かだな!」
「成績以前に、学校での評価が物語ってるよね」
「……確かに」
今まで無言でいた水無月が、初香の率直な意見に同意する。
「こ、虹ぉ! お、お前まで私を……」
「水無月は事実を述べたまでです。悔しかったら学校での信頼を頑張って取り戻したらどうですか? 手っ取り早く、渡邊先生から」
「「ムリだ!!!」」
二人声を揃えて断定する。そこまで渡邊が嫌なのかと一色は思うも、二人の中の彼に対する苦手意識は、恐らく一生治らないだろう。それを不敵に笑っている渡邊の姿が目に映るが。
――こうして全員が揃うと、水無月も少しは元気を取り戻す。以前のような笑顔を浮かべることはないにしろ、少しは発言が増えるのだ。
雰囲気は一見すればそこまで悪くは見えない。しかし、その雰囲気は仮初のものだ。
……いつ何時崩れてしまうかも分からないもの。だから皆、それを必死になって守ろうとする。
――それが壊れてしまえば、その先がどうなってしまうか分からないから。
だから誰もが確信に迫ることを言えず、当たり障りのない言葉を並べ、日常を演じてしまうのだ。
6章の始まりです。




