6幕 何も見えていなかった
……一色はあれから、すぐにある程度の冷静さは取り戻せた。焦る気持ちを押し殺し、彼女を抱えて保健室に連れて行った。
不幸中の幸いと言うべきか、既に養護教諭である咲良は出勤していた。多少の驚きを窺わせる咲良に、一色は事情を説明し、水無月をベッドに横たわらせる。
そこでようやく一息ついていると、咲良は一色に水無月の状態について説明をした。
「……呼吸は安定しているわ。だけど少し熱があるかしら。目の下の隈を見る限り、睡眠不足ね。たぶん食欲不振で朝食も食べていないわ。あとは頭痛が合わさったことと、感情的になって頭に血が上ったことで倒れてしまったのでしょう」
流石は大人で、咲良は慣れた手つきで水無月の状態を把握する。
的確なその判断に一色は驚いた。
――養護教諭としての知識からある程度の予測を立てながら話すのは一色も疑わない。しかし、咲良はそれでは予想しようがない。
できるとすれば――咲良が最初からそのことを知っている場合だ。
「……どうして、そこまで詳しく分かるんですか。睡眠不足や食欲不振の予想はできても、頭痛である判断はできないですよね」
「……それは」
一色の鋭い指摘に、咲良は言葉を詰まらせた。
「……可笑しいと思っていたんです。高等部に入ってすぐなのに、水無月が咲良先生のことを知っていて、しかも愛称で呼ぶ仲にまで発展していることに。……保健室なんて、ほとんどの学生が滅多なことがないと使わないのに」
「……そこまで指摘するってことは、大体察しているみたいね――そうよ。水無月ちゃんは高校に入学してから、高い頻度で保健室に来ているわ」
咲良は一色の予想を肯定し、そう言った。彼女に自分の考えを肯定され、そこでようやく一色の頭の中にあった疑問のいくつかが晴れる。
「……体育祭の日、水無月は誰よりも早く帰ったのに、最後まで残っていた俺と同じ時間まで学校にいました。その時は特に気にしませんでしたが、あれも」
「……そう。たぶん水無月ちゃんのことだから、私と世間話していたとか言っていたかもしれないけど、実際のベッドで寝ていたわ――頭痛がマシになるまで」
――一色の頭の中で、点と点が繋がったような気がした。
あの日、水無月は柄にもなく身勝手をした美月を叱りつけた。いつものように優しく叱りつけるのではなく、どちらかといえば八つ当たりのように美月が逃げれないようにだ。普段の水無月を知っている分、あの時は一色は彼女の異変に気付いた。
「……あの日は美月ちゃんに酷い言い方をしたって、後悔しながら来たわ。……それ以外だと、最近は特に昼休みに来ることが多かったわね」
「……どうして、そんなにも。いったい水無月に何が――」
聞こうとするも、一色は幾つかのことを思い出した。
――五月、一色の歓迎会の日にピクニックで山登りをしたときに水無月と話した会話を。眼鏡をあまりつけたくないのは、つけた後で頭が痛くなるからということを。
そして今の頭痛というキーワード。そして最近、彼女に見舞われていた状況の全てを。
……ストレスと頭痛。この二つのキーワードから導き出される答えは一つ。
「――偏頭痛、ですか」
「……そう。彼女は症状が酷い偏頭痛持ちよ」
一色の答えは正しかった。
……だが、それと同時に新たな疑問が生じる。最近ならばストレスの原因ははっきりしているから、頭痛など肉体に影響を及ぼしても不思議ではない。
だが咲良は、偏頭痛持ちだと言った。それはつまり、水無月の偏頭痛は一過性のものではなく長期に渡って抱えている問題だということだ。
「……咲良先生は、水無月がいつ頃から頭痛に悩まされているか、知っていますか?」
「ええ。確か……中学に入ってからって聞いているわ」
「中学、から」
……つまり、水無月は中学から何らかのストレスを抱えていたというわけである。
ストレスは生きている上では避けては通れないものだ。だが一色には水無月が、常に楽しそうに生活をしているようにも見えた。
……だからこそ、彼女がストレスに悩まされていることも、偏頭痛を患っていることも、未だに信じることが出来なかった。
――もしもそれを隠すために、彼女がいつも笑顔を浮かべていたのだとすれば。それを考えてしまうと、一色は胸が異様なほどに締め付けられる感覚に囚われる。彼はその感覚の正体が分からない。
「……本来、合宿に同行してくれるのは渡邊先生だけでした。でも渡邊先生は自分には全員を乗せる車がないと言って、咲良先生も同行することになりましたよね。あれも、本当は水無月のことがあったからなんですか?」
「……流石ね。そこまで分かっているなんて……。一色くんの言う通りよ。私が合宿に参加したのは、水無月ちゃんがもしもの時はすぐに対応できるようにするため。本来の玲の車はあの時、私たちを乗せてくれた車よ」
「……どうして、そのことを言わなかったんですか?」
……一色はそう聞かざるを得なかった。
――本当は分かっている。水無月の性格を考えるならば、そのことを伝えようとしない理由は明確だ。何故なら、いらない心配を掛けたくないから。だからずっと隠していたのだろう。
……咲良は口を開く。
「それはきっと、一色くんが良く分かっていることよ――この子はすぐに自分に溜めこんで我慢するから。……だけど、倒れるなんてことは初めてよ」
「……っ」
「……一色くんはまた自分を責めようとしているみたいね」
咲良に図星を突かれ、一色は唇を噛みしめる。
「図星みたいね。まあ、あなたに全く関係がないっていうのは嘘になるわ――ごめんね。少し玲から君の話を聞いてしまっているの」
「いいえ。渡邊先生にも迷惑をかけているので」
渡邊は信頼を置ける人にしか、おいそれと話すはずがないということを知っているから一色は咲良を攻めることはしなかった。
「……普段、ここに水無月ちゃんが来た時は大抵、私に何があったのか教えてくれるわ。だけど最近来たときは違ったの――決して一色くんと何があったのか。どんな風に思っているのかを口にしなかったわ。きっとあなたを理由にしたくなかったのね」
「……それは」
自分が良くない状況でも、水無月は一色のことを考えていた。愚痴の一つくらい漏らしても悪くないのに、水無月はそれをしなかった。それを聞いて、一色は何も言うことが出来なかった。
「私にも何が何だかわからないけど……それでも、今回倒れるまでに至ったのには、あたなのこととは別に何かしら要員があるはずよ。それを知らないうちは、無暗に自分を責めないては駄目よ――自分を責めることで、あるいは水無月ちゃんも責任を感じてしまうもの」
……まさに今回のことである。自分一人で考え、一人で答えを出した結果、部活に行かなくなった。それを水無月のためだと思っていて、実際にはそれで水無月が必要以上に罪の意識を感じてしまった。
咲良はそれを見抜いた上で、そう言ったのだ。
「……一度、一色くんも水無月ちゃんも腹を割って話すべきかもね。あと頭を冷やすこと。特に一色くんは感情的になったら本当に言いたいことは言えなくなるタイプでしょう?」
「そ、それは……そうですけど」
「……とりあえず、今は一色くんが水無月さんの近くに居てあげて。私はお家に連絡してくるから」
咲良はそう言うと、電話を持って保健室から出て行ってしまう。
……一色は鉄パイプの椅子を水無月の横たわるベッドの側に置き、座って彼女を見つめる。額に乗せている濡れタオルが温かくなっており、一色は水でそれを冷やして、もう一度彼女の額に乗せた。
「ご、めんな、さい……っ」
――ふと、水無月の手が何かを掴もうと、何もない虚空に伸びていた。寝言で悲しそうに謝罪の言葉をくちにして……それを見て、一色は反射的にその手を取ってしまう。
……すると水無月は安心したように一色の手をキュッと握った。
「……ごめん、水無月。俺は、こうしてやることしかできない」
一色は両手で水無月の手を包み込む。
その間……水無月は安らかな表情で、眠り続けた。
○●○●
「……ん。あれ、ここは……」
ふと気づくと、天井が目に入ってくる。蛍光灯が白い光を灯していて、彼女の鼻腔を薬品のような独特な匂いがくすぶった。
「あら、起きたのね。おはよ、水無月ちゃん」
「……さーちゃん先生。あ、ここ、保健室」
水無月はあれからしばらくして目を覚ました。しかしまだ思考がついてこないのか、ボーっと周りを見渡していると、咲良がいることに気付く。
「どうして私、ここで……」
「覚えていないの? 朝、あなたは倒れて運ばれて来たのよ」
「倒れて――」
水無月はようやく倒れる前の事を思い出したのか、表情が暗くなる。
「……また一色くんに迷惑かけちゃったな」
「彼は迷惑なんて思っていないでしょうけどね――愛されているわね、水無月ちゃん。彼、休み時間の度にあなたの様子を見に来てくれてたわよ」
「……そんなんじゃ、ないです。一色くんは優しいから、私に気を遣っているだけで」
「そんな風に考え込むから倒れちゃうのよ」
「あはは……面目ないです」
水無月は力なく笑う。
……時計を見ると、既に昼休みの時間帯であった。水無月は急いでベッドから降りようとするが、咲良から制止を受ける。
「今日の授業は休むように教師には伝えているわ。お家に連絡したけど、繋がらなくてね」
「……お父さん、今は出張中で家にいないんです」
「っていうのを貴音ちゃんから聞いてね。だからここでしばらく休んで、彼女と一緒に帰宅するってことになったの。だから放課後まではここで安静にしておくこと――わかったわね?」
「……はい――美月ちゃんは、その……大丈夫ですか?」
「……聞きたい?」
咲良が苦笑いを浮かべながらそういうものだから、水無月は美月がどのような反応をしていたのか想像がつく。
「玲に来てもらって鎮めてもらうまではもう大変だったわ。今すぐ早退して看病するだの言い出してね。そんな能力ない癖に。彼女を保健室に入れるわけにもいかないし、教室前で中々格闘したわ」
「あはは……」
「……水無月ちゃん、頭痛はどう?」
咲良は水無月の体調面を心配してか、そう尋ねる。
……倒れる前に響いていたほどの頭痛は既にない。しかし未だに鈍痛があり、水無月はそのことを伝えた。
「大分マシになりましたけど、偶に痛みます。また少し休めばマシにはなるとは思うけど……」
「……とりあえずお腹が空いたでしょう? 軽くで良いから何か食べないといつまで経っても良くならないわよ?」
「でも、まだ食欲なくて……それに購買のものは味気なくて」
「……どうしたものかしら。食堂で料理をお弁当に詰めてもらおうかしら」
咲良は財布を持って立ち上がった。
「あ、お金は」
「病人は黙って寝てなさい、……こういうときくらいは人を頼るものよ」
咲良は水無月をそう諭すと、彼女に布団を掛けて保健室から退出する。
……話し相手がいなくなった水無月は倒れこんで、何かをすることなく天井をぼんやりと眺めた。
「……一色くん、どうして部室にいたんだろ」
……今更ながら、水無月はそのことを考えた。
――朝から部室でコンクール用の作品を描こうとして、早くに家を出て部室の鍵を取りに行った。しかし既に鍵は誰かに借りられていたのだ。そして部室に向かうと、そこには一色がいた。
……驚いて、何を話そうかが頭に浮かばなかった。そしてその結果、水無月は自分でも止めれないほどに色々と溜めこんでいたものを全て言ってしまった。
「……あの時、一色くんは何を言おうとしてたんだろ。それを聞かずに、変な事ばっかり口走っちゃったなぁ」
後悔と興味。その二つのせめぎ合いだ。しかし彼女がまずしないといけないのは、一色に迷惑をかけたことに対する謝罪と、保健室に運んで気を遣ってくれたことに対する感謝だ。
……今なら、一色と普通に話せるのではないか。そんな風にも思っていた。
「……でも、今日の授業に出なくていいのは、よかった」
――人知れずそう呟いたときであった。保健室の扉がガラリと開く。
水無月は咲良が帰ってくるには早すぎると思って、上半身を起こして入り口を見た。するとそこには――
「……っ。起きてたのか、水無月」
「あ……一色くん」
そこには巾着とポリ袋を持った一色がいた。
○●○●
時を少し戻して数十分前。昼休みが始まってすぐに、一色は水無月の元に向かおうとしていた。しかしその前に渡邊に呼び出されて研究室に行った。
「――話は聞いたよ。朝から色々と大変だったみたいだね」
「……俺は別に。すみません、それよりも俺、早く保健室に」
「まぁ、待ちなさい。まだ水無月さんは起きていないから、今行っても何もすることはないよ――ふむ」
渡邊は今すぐにでもここから去ろうとする一色を止め、彼を観察するように見つめた。
「……まああれだけのことがあった後だ。気にするなと言った方が無理な話だよね――君を呼んだのは他でもない。色々と隠していたことを謝ろうと思ってね」
「……別に、気にしていません。それに何となく引っかかっていた部分ばかりだったので、逆にすっきりしました」
「そうは言ってもね。……君がそう言ってくれるのだから、それは置いておこう――それともう一つ要件があるんだ。……僕の授業の課題、完成したそうだね」
渡邊は誰かから聞いたのか、そう尋ねる。
「……はい」
「そうか……完成したのか。ならそれを是非読ませてほしいんだけど」
「……すみません。あれは、誰よりも先に見せないといけない人がいるんです」
「――そうか。だったら仕方ないね」
はっきりとそう伝える一色に、渡邊はそう言った。
「誰に見せるとかは敢えて聞かないよ。……僕からの話はもうない。ほら、保健室に行きなよ」
「……はい」
そう言って、一色は渡邊の研究室から退出した。
……研究棟を歩く一色は、渡邊たち漫画コースの研究室を通り過ぎ、絵画コースの研究室の前を通りかかる。
その扉は開いており、中から声が漏れていることに気が付いた。
しかしそれなら足を止める必要はない。一色はすぐに保健室に向かうところなのであるが――
「しかし、水無月さんにも困ったものだね」
――彼女の名前が聞こえた時、一色は足を止める。瞬時に扉の近くに隠れてしまった。
……研究室の中には複数名の教師陣がいる。恐らくは絵画コース担当の教師だろう。そんな彼らから水無月の名前が出たため、一色は聞き耳を立ててしまう。
すると……教師陣は聞かれていることに気付かず、そのまま話し続けた。
「あぁ、全くですねぇ。積極性に欠けていて、出す課題も次第点以下のモノばかり。色が何たるかを全く理解していない。中学では何をしていたのか、疑いたくなりますよ」
……止めろ、と心の中で彼は思った。
「他の学生が放課後残って作業しているのに、彼女は毎回いませんから、そもそもやる気でしょ。聞くところによると、あの美術部に所属しているそうだから」
しかし、彼らは決してその口を閉じることはない。
「あぁ、この学校にとって全く意味のない部活ですね。美術コースでより濃密な学習をできるのに、どうしてわざわざあのような問題児ばかりがいる部活に入るのか……学生生活を無駄にしているとしか」
――腸が、煮えくり返るような怒りに囚われた。
何故、美術部のことを良くも知らない、上辺だけの情報しか知らない人間に、否定されなければならないと。
何故、自分の生徒のことをもっと良く知ろうとしないのかと。
――何故、自分に色を教えてくれた水無月の絵を、否定されなければならないのかと。
彼の指の爪が手の平に刺さるほど、彼は強く握る。拳が震えて、今すぐにどこかに発散したい気分であった。
一色はそれを必死で押さえようとする。モノに当たっては駄目だと、頭では理解しているからだ。
「え~っと、貴音に海老名兄妹、でしたっけ。あのような連中に挟まれて笑っているようなら、それこそ程度がそれまでということでしょうね。全く、中学の絵画担当が年々あの子はレベルが下がり続けていると言って――」
――我慢の限界だった。
ガン!! ……研究室の壁を思い切り殴ったような音が響く。それによって教師たちの会話は止まり、その音の響いた場所を見つめた。
……そこから、一色はふらりと現れた。
「き、君はなんだね? それよりも今の音はどういうつもり――」
「――一色千尋。漫画コースで一年生、水無月虹と一緒で美術部に所属しています」
……一色は低い声音で、淡々と自分のことを教師に教える。その目は敵を見るほどに冷ややかなもので、完全に堪忍袋の緒が切れていた。教師もまさか美術部員が近くにいるとは毛ほども思っていなかったのだろう。明らかに狼狽している。
「ま、まさか今の話を聞いて……」
「聞かれて、何か困る話でもしていたんですか? ……自分の生徒を馬鹿にするような、そんな話でも」
教師は何も言えず、ただ何をするか分からない生徒を前に、口をモゴモゴとさせていた。
――ふざけるな、と一色は言いたかった。何も知らない癖に勝手なことを言うなと。先ほどの発言を撤回しろと。可能ならば拳を振りぬきたかった。
だが一色がそのどれよりも耐え難いことがあった。
「……自分の生徒が倒れたって、知ってるしょう。なのになんで、様子も見に行かないで、こんなところで心配もせずに生徒の陰口をたたいているんですか……ッ!!」
――それが、許せなかった。
ただの陰口ならば別にどうでもよかった。それは所詮、主観による意見に過ぎないからだ。だが彼らは教師である立場にも関わらず、生徒を心配する良心を持ち合わせず、あまつさえ一色にとっての大切な居場所を必要以上に罵った。
そして最も許せないことは、彼の言葉の通り、倒れている水無月を心配することもなく罵り続けていること。休み時間のたびに保健室に行っていたから、彼らが一度も保健室に顔を出していないことを知っていた。
「そ、それはだね、さっきまでその話をしていて、それで」
「――嘘を付くならもっとうまくついてください。ちゃんと目を合わせて、真摯に向き合ってください。それをしないのならあなたたちは、教師失格です」
一色は本人を目の前にして何も言えない卑怯者の焦る顔を見て、これ以上の会話は無意味であると理解したのだろう。興味を失くし、背を向ける。
……ただ一つだけ、彼らに言わずにはいられないことがあった。
「……あなたちが今までどんな精巧で緻密で、卓越された芸術作品を見てきたかは知りませんし、興味はありません。でも未熟だからと言って馬鹿にして、その本質も知ろうとしないのは愚か者は、もはや芸術家ですらない――水無月の本当の作品を見ていない癖に、勝手なことを言うな」
年上であるとか、教師であるとか……そんなことは今の一色には関係なかった。
何故なら今の一色が怒っているのは生徒としてではなく――一人の人間として、自分の大切な人たちのために怒っているのだから。
――それから一色は研究室を後にして、購買の前を通った時に、水無月が何も食べていないことに気付き、適当に昼食を購入した。そしてすぐに保健室に向かうと、その道中で咲良と鉢合わせになった。
「一色くん、もしかして今から保健室に行こうとしていた?」
「はい、そうですけど……」
先ほどのことがあってか、少し声に力のない一色。咲良は何かがあったなとは思ったものの、彼の手を見て察した。
「本当に気が回るわね――たぶん水無月ちゃん寝てると思うから、行ってあげて? 私はこのまま自分の昼食を食べてくるから」
咲良はそう言うと、手をひらひらとさせて彼の元を去る。
……一色は腑に落ちない表情を浮かべながら、急いで水無月の元に向かった。
――そして、現在に至る。
水無月はベッドから起きていて、彼の登場に目を丸くさせていた。咲良の予想に反して水無月はしっかりと起きていて、一色の登場に驚いている様子。それを見て一色は咲良先生がまたホラを吹いたことに気付く。
「起きて大丈夫なのか、水無月」
一色は出来るだけ平静を装って、水無月のいるベッドの側の椅子に腰かけた。
「うん。大分マシになったよ。……ごめんね、また迷惑を」
「……迷惑とか、思ってないから。だから謝る必要はないから」
「あ……うん、ごめんなさい」
「ほら、また謝った――謝るのは本当は俺の方なのに、どうしてお前の方が多く謝るんだよ」
謝ることが癖になっている水無月を見ていて、一色は可笑しそうに笑った。
「……ちゃんと、水無月と話したいんだ。俺の話を、しっかりと聞いてほしい」
そして、一色はそう真っすぐ投げかけた。
――もしかしたら、先ほどのことがあって少しばかり感情面に心が揺らいでいるのかもしれない。しかし一色はそれを敢えて良しとした。
……彼自身、自分があんなになるまで怒るなどとは思ってもいなかったのだ。これでまた美術部の悪評が変に広まる心配まであると考えれば、申し訳ない気持ちは少なからず存在する。
だが、それでも後悔はしていない。そしてこれからも後悔をしたくないから、話すのだ。
「……うん。さっきは私ばかりが話していたから、今度はちゃんと聞くよ」
「……何から話せば良いか、それもまとまっていないけど――」
一色は話す。どうして自分が美術部に行かなかったのか。行くことが出来なかったのか。行けなかった間、どんな思いをしていたのか。その思いで、何をしていたのか。
そして、今回の件で自分が何が分かったのか。それを水無月に、話した。
彼女は度々表情を変化させながら一色の話を聞く。恐らく彼女の中で決めつけていたことと何らかの違いがあるのだろう。
――そうして一色は話そうと思っていたことを話し終えた。
「……そっか。一色くんも私も、お互いのことを考えすぎて、それですれ違っていたんだね」
「ああ」
……互いに、自分自身が全て悪いと決めつけて、自分で全てを背負い込むことで相手が感じる罪悪感を考慮していなかったのだ。そして二人とも、その反省をするかのように自分の作品に打ち込んだ。
一色は漫画を、水無月は絵画を。それぞれのやるべきをことをしていた。
だからこそつくづく思う。
「……性格とか、色々と真逆なのに、似てるな。こういうところは」
「あはは、私も思ったよ。……一色くん、漫画完成したんだね」
水無月は少し興味があるのか、尋ねた。一色は頷く。
「ああ。昨日の昼に完成して、そのまま今日の朝までずっと寝てたよ。おかげで身体はまだ痛くてさ」
「……また、落ち着いた時に読ませてもらって、良いかな」
「……ああ。そのために描いたんだ」
本来の予定とは大分異なってしまったが、と内心では思った。一色はその流れで、まだ話していないことを話す。
「俺がずっと自分の漫画に納得できなかったのは……一番最初に水無月が見せた笑顔が忘れられなかったからなんだ」
「……忘れられなかった?」
「ああ。俺の作品なのに、まるで自分の作品のことのように楽しそうに話を想像して、話してくれた水無月の表情に。あの表情を見たいから、俺はずっと納得できなかった。だってあれじゃあ、水無月を楽しませることも笑顔にすることも出来ないからさ」
一色が恥ずかしげもなくそんなことを言うものだから、水無月は顔を真っ赤に染めてしまう。
……後で彼は自分の言ったことを思い出して、羞恥で悶えるだろう。しかし今はそんなことは構わず、自分の思いを水無月に伝えたかった。
「……生まれて初めて、夢中になって漫画を描いた。描いてる間、時間を忘れるくらい楽しくてさ――だから一番最初は水無月に、読んでほしい」
「……そっか――一色くんは、前に進めたんだね」
水無月は、微笑みを浮かべてそう言う。
……だが、何故だろう――一色はその微笑みから、儚さを感じた。
「うん、今日の部活終わりに読ませてほしいな」
「……いや、今日はゆっくり安静にしておいた方が」
「――読みたいの! ……どうしても、すぐに」
水無月はベッドの上で、そう縋るような声を出した。
「……わかった。部活の後で……でも約束だ。無理はしないことと、体調が悪くなったらすぐに俺たちに言うこと」
「……約束するよ」
「……今日からはまた、部活に行くから。だからその……よろしくな」
「――うん!」
水無月は笑みを浮かべて、頷いた。
「……ところで一色くん、その包みは何?」
「あ、忘れてた。まだ何も食べていないと思って、水無月の昼食を買ってきたんだ。こっちは俺の弁当で……」
「――じゃあ、そのお弁当が食べたいなー……なんて」
すると水無月は、珍しくもそんなわがままを言う。
「構わないけど、大したものじゃないぞ?」
「いいの、それで――病人はちょっとぐらいわがままを言うのは許されるって、さーちゃん先生が言ったんだよ?」
……その会話は、久方ぶりの水無月と一色の、穏やかな会話であった。
……しかし水無月の距離が、異様に近い。今までも十分近かったが、今日はいつにも増して近いのだ。
「水無月、近いから」
「え、でも……そうじゃないと、ちゃんとお話しできないでしょ?」
水無月は一色を自分の座るベッドに座らせる。まるで恋人のような距離だ。そして一色の目を見て、安心したような表情を浮かべるのであった。
だが水無月のいうことは最もである――ちゃんと顔を見ないと、安心して話せるはずがない。
○●○●
その日の授業はなんとも身が入らないと表現するべきだったか。いや、言い方を変えよう――彼の心は昼休みに水無月に言った恥ずかしい台詞のせいで、羞恥で悶えていた。
確かに言いたいことではあったが、あんなものはまるで……愛の告白のようなものだ。無論、そんなものではないことは水無月も知っているだろうが。
……しかし、結局のところ根本的な彼らの喧嘩の種には触れることはなかった。それが少し気掛かりだけど、今後、水無月と向き合う中で考えていこうという結論を出したのだ。だが今回のこともある。あまり悠長なことはしていられない。
……一色としても、水無月には今まで通り、美しいものを楽しそうに描いてほしい。そのために彼のできることは何か。それをずっと考えていた。
……一色は一人、部室に到着する。部室は既に空いていて、彼は室内に入る。
「……朝とは逆だな」
「そだね。……ちゃんと来てくれたね、一色くん」
そこには既に、水無月がいた。しかもいつも通り、自分の部活のための用意をしている。
「お前な……今日は安静にしろって」
「私にとっての安静は、皆と一緒に楽しく絵を描くことだから。そのための準備は喜んでしたいよ!」
「……昼休みから顔を出してなかったけど、何も変わりなかったか?」
一色は一応の確認でそう尋ねた。彼としては体調についてを聞いたつもりだったのだが……
「……なにも、なかったよ。一色くんに心配させるようなことは、何にも」
「……水無月、何かあったのか?」
水無月が多少違和感のある反応を見せるものだから、一色はそう尋ねる。こういう時に踏み込まないことがどれだけ悪いことかを嫌というほど知ったため、一色は積極的に尋ねた。
――しかし、彼の追及は水無月に届くことはなかった。
「――こーちゃぁぁぁん!!!!」
「こぉぉぉぉぉぉぉおおお!!!」
……突如、部室内に響き渡る水無月の名を呼ぶ二つの大声。
可愛らしくも焦った声で名前を叫んでいるのは初香だ。
――怨霊の如し声の正体は、隠すまでもなく美月だ。
そんな二人は一色を跳ね除けて、水無月に抱き着いた。
「もう大丈夫なの!? 身体に異変は! もしかしてちひろんに変なことされた!? もしかして合意の上!?」
「むむむ、無茶をするな、私がなんでもするから今日は安静にするんだ、虹! さぁ!! っていうか一色、貴様弱みに付け込んでそんなことを!?」
「ふ、二人とも落ち着いて――一色くん、助けてぇぇぇぇぇぇ!」
二人の猛攻に対し、一色に助けを求める水無月。しかし一色は二人に跳ね除けられた結果、床に伏していた。
……そんな二人が突入して少しして、雪彦が部室に入ってくる。
「あぁ、やっぱりこうなったかー」
「……一応説明を」
「おう、んじゃ簡潔に――保健室に迎えに行き、いなくて焦って、そのまま部室に超特急」
「分かりやすい説明ありがとうございます――はぁぁぁぁぁ……」
ここ最近、一番大きなため息を吐く一色。跳ね飛ばされたことに対する報復は今後必ず行うことを心に決める。
……しかし、ここ最近のことを考えれば、今の状況は本当に久しぶりのものであった。
「……っ」
「あれあれ、千尋く~ん? ちょっと顔が赤いですよ~?」
「…………ぶっ潰しますよ」
「ひ、ひぃっ!!」
千尋の汚い言葉が低く雪彦に充てられると、彼はその背後に渡邊のような雰囲気を感じ取る。
――しかし一色は、雪彦の言う通り涙ぐんだ。自分が望んでいたものが、目の前にあったのだ。たったの一か月ほど前までは当然のようにあって、そして最近ではなかった光景だ。
そしてその輪の中に自分がいる――それがどうしようもなく、嬉しかった。
「……ほら、先輩たち。水無月が困っているので、そろそろ解放してあげてください」
一色は見えないように目元を服の裾で拭い、美月と初香を彼女から引き剥がす。すると彼女たちから、恋敵を見るような憎しみの目が向けられた。
「一色ぃ」
「ちひろん~」
「何でそんな親の仇を見るような目で俺を見るんですか。……本当にもう」
一色はそう言いつつも、それに懐かしさのようなものを感じてか、苦笑いを浮かべるのだった。
そして水無月を見ると……
「あはは……ありがと、一色くん」
彼女もまた、いつもと同じように苦笑いを浮かべているのであった。
「おいおいお二人さんよ~、あれだけすげぇ喧嘩していたのに、今は何目を合わせて通じ合ってるんだよ! 千尋てめぇ、羨ましすぎるぞ!!」
「やかましいです」
「適当に相手するな、真摯に相手をしろ!」
……雪彦は相変わらず、面倒な男である。
――そうして木漏れ日の美術部は元に戻る。
それぞれが自分の席に座り、今日の活動を美月から聞いた。今日は自分の作業をする日。一色は朝に断念した絵の続きをやることを決め、水無月も自分のコンクール用の作品をするようだ。
そんな二人を穏やかな表情で見る上級生たち。
一色は一度水無月の方を見る。彼女は準備を済ませて、今から作業を始めようと筆を手に取ろうとしていた。
それを確認して、一色も自分の絵に向き合った。
――カラン。何かが床に落ちる音がした。誰かが筆か何かを落としたのだろう。一色は特に気にすることなく、鉛筆でキャンバスに線を引いていく。
――カラン。また同じ音がした。手元がおぼつかないのか。
「…………あれ?」
次は声が聞こえた。間の抜けた声。何が起きているのか分かっていない疑問の声だ。
――カラン。カラン。カラン。カラン。何度も何度も、筆が床に落ちる音が続いた。
それは幾らなんでも可笑しいと、周りの視線がその音の元となっている場所に向かう。
「どうしたんだ、水無月。何をそんなに落として、やっぱりまだ調子が悪いんじゃ――」
一色はそれが水無月だと判断して、席を経って彼女の元に向かって……言葉を失った。
「あれ……可笑しいな――なんで、筆が持てないんだろ……っ」
水無月は、落とした筆をもう一度拾おうとする。……筆が掴めず、カランと落としてしまう。
「あ、握力が落ちたのかな……っ? もう一度――」
……水無月は、気付いていない。どうして自分が筆を拾っては落としてを繰り返しているのか。
それは決して握力が弱いとか、そんなものではない――そんなものでは、なかった。
「皆、ごめんね? すぐに静かにするから……っ」
「――虹、お前、もしかして……」
美月が、真っ青な顔でそう呟く。雪彦も初香も、何も言えない表情を浮かべていた。
……一色は、水無月の落とした筆を拾う。その筆は滑る要素は決してなく、ただの筆だ。
一色は、呆然とした表情で拾い上げ、彼女に筆を差し出した。
「あ、ありがと、一色くん。今からは気を付け――」
筆を受け取ろうとするとき、彼女の目に自分の手が映った。
――手が。小刻みに震えていた。
……水無月の手は、まるで筆を持つことを拒否するかのように、震えていたのだ。だから何度も筆を拾っては落とし、拾っては落としを繰り返していた。
そのことに気付いて、水無月は目を見開く。
「どう、して? なんで、震えが止まらないの?」
左手で右手を抑える。しかし震えは決して止まらず、どうしていいか分からない水無月は縋るような目で一色を、周りを見た。
「ねぇ、なんなのこれ……! どうして筆が、持てないの……!? 一色くん、その筆を私に――」
――カラン。その筆は、成す術もなく、部室の床に落ちて、転がっていく。
それを見て、水無月は――
「――イヤ」
……俯いて、左手で右手を強く握りしめる。
「こんな手じゃ、絵、描けないよ……っ!! どうして、どうして震えは止まってくれないの!? イヤ、イヤイヤイヤ!!! 絵が描けないなんて、絶対に嫌だよ!!!」
駄々っ子のように否定の言葉を繰り返す。それを見て、四人は何かをすることも、考えることも出来なかった。
ただひたすら、水無月の絶叫のような叫び声が、再び美術部に響き渡る。
「イヤ、だよ――……」
そうやって崩れていく水無月に、誰一人として……話しかけることは出来なかった。
――いつも通りの、木漏れ日の美術部に戻る? そんなもの、あるはずがなかった。
本当のことを話していない。一色千尋も、水無月虹も。根本のことを何も話してなどいなかった。
そして、誰一人として――彼女のことを、本当の意味で見ていなかったのだ。
水無月虹は優しい女の子。誰よりも楽しんで笑顔で絵を描いて、周りを笑顔にする。彼女と接する人間は水無月のことをそう称する。誰もがそう思う。
そんな表面的な部分だけで彼女の人物像を理解したつもりで、自分勝手な理想を押し付ける。
……それがどれだけ――彼女を追い詰めていたことも知らずに。
落ちた筆はゆっくりと転がり、一色の足元で止まる。ただ、彼らの頭には筆が落ちる音が何度も響くように残り続けていた。




