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こころのいろ  作者: 如月心
第5章 淡く薄れた水彩絵の具
29/69

5幕 決して想いは交わらない

 一色は漫画を描く。

 自分の思い描いた世界をひたすら原稿用紙に描き殴る。彼自身、こんなにも漫画を描きたいと思って描いたことはなかった。

 ……ずっと自分の中で残り続け、引っかかっていたものの一つの正体がわかったから。だからこんなにもやる気に満ち溢れているのだろうと、自分の心の中で思う。

 ――今ならば、あの時、水無月が言った意味が理解できた。キャラクターが勝手に動いて、物語を活気づいていく。それを一色は今、実感できた。

 ……自分の作品に自信を持ったことはない。それは今も変わらず、不安だらけだ。

 それでも今までの作品と一つ違うことがある。それは決して技術の話でもなければ話のレベルの話でもなく

 ――一色自身が、この作品を好きだと思っていることだ。

 きっと、誰よりも自分の作品を好きだと思って、楽しんで描いている。傍からみれば鬼気迫った雰囲気で描いているのかもしれない。

 だが、彼を知る人が見ればきっとこう断言するであろう――活き活きしていると。

 ……その姿を見ていた渡邊は、彼に言葉を掛けずに静かに見守っていた。今、自分が言葉を掛けるのは彼の邪魔になると理解しているからだ。


「……すみません、漫画コースの渡邊です。今日の教室の使用時間の延長をお願いしたいんですが……ええ、もちろん僕が責任を持って監督します」


 ただ彼の知らないところで、微力ながらも渡邊は出来る限りのことをしていた。そして彼の近くに寄っていく人影が一つ……


「千尋、差し入れおいておくぞ~」

「……ありがとうございます」


 雪彦は夜遅くまで活動をしている一色に差し入れを持っていく。作業には体力と共に糖分が必要だ。ついでに彼の様子を見に行っているのである。彼も微力ながら、自分に出来ることをしていた。


「んで、調子はどうだ?」

「眠たいです」

「はっ、だろうな――ってことでエナジードリンクも買ってあるから」


 それは一度飲むとあまりにも強烈な味に目が覚めると言われる、曰くつきの清涼飲料水だ。一色はそれを取り出して見つめる。


「……嫌な予感がするんですけど」

「良薬は口に苦しって言うだろ? 辛いのは一瞬だから」

「いや、まって――」


 抵抗も虚しく一色は瓶に入った飲み物を飲み干す。眉間に皺を寄せるも、吐き出すことはせず時間をかけて少しずつ飲み込んだ。


「……気分は?」

「最悪ですけど、一応目は覚めました――ありがとうございます、覚えておいてくださいね」

「感謝なのか恨めしいのかどっちだよ!」


 恐らく、そのどちらもである。

 ……しかし雪彦は中々教室から出て行こうとはしない。彼から少し離れたところに座り、ニヤニヤと一色を見ていた。


「……なんですか、やりにくいんですけど」

「まぁそう言うなよ。お前が漫画描いてるとこ、見たことねぇから気になるだけだ」


 ニカッと笑う雪彦の純粋な好意を、一色は無下に扱うことが出来るはずもない。「仕方ないですね」と呟いて、再び原稿に集中した。

 カリカリと、鋭いぺン先が原稿用紙を削る。ペン先のインクが跳ねて、一色の頬を黒く染めるものの、一色は一心不乱でそのことに気付かない。

 雪彦はそんな一色を見て、


「楽しそうだな」


 彼の初めて見せる姿に、真新しさを感じていた。




 部室に響く音は大きく分けて二つ。

 絵を描く音と、そして……初香の騒がしい声だった。今日も今日とて、初香は騒がしく、水無月を巻き込んで部活を楽しんでいた。


「今日の企画は――ドドン!! 瞬間記憶だよ!!」

「しゅ、瞬間記憶?」

「そう、絵を数秒間見て、その絵をできる限り再現するの! 背景とかキャラクターとか、色々用意してきたから楽しそうでしょ?」

「……そうですね」


 初香は出来る限り部活に赴き、明るく元気に活動していた。彼女とて授業の関係上、放課後の全て、美術部にいるわけではないが、それでも企画を考えては、部員を巻き込んで活動をしている。自分の役割を全て理解している初香だからこその行動だった。

 ……ちなみに美月と雪彦は――


「いやだぁぁ!! 私たちは美術部に行くんだ~~~!!」

「あんた、ライブがあと少しであること忘れてるでしょ!? ほら、海老名も行くよ!!」

「……はぁ、美月諦めろ」

「皆が私を待ってるのに裏切るなんてできるはずが――」


 ……雪彦もろとも、バンド仲間にいつも通り連行されるのであった。普段からある程度活動をしていればいいものを、ギリギリに追い込まれないとしない彼女の悪い癖がここでも発揮されるのであった。

 しかしそんなことは知らない初香と水無月は、二人きりで活動をする。


「瞬間記憶って、美月ちゃんと海老名先輩が苦手そうですね」

「そだねー、基本的に頭悪いからね、二人とも――じゃあ最初のお題はレインちゃんで……」


 初香がお題を出して、その画像を見せようとした瞬間だった。

 水無月は開けたスケッチブックに凄まじい勢いで鉛筆を走らせ、絵を描いていく。その迫力は鬼気迫るものを感じた。

 そして一分ほどしてスケッチブックに描かれているものは――


「画像、見るまでもないです!」

「す、寸分違わずレインちゃんだね……」


 流石の初香も、水無月のマニアチックな一面には苦笑いを浮かべる他なかった。

 

「じゃあ次は子供アニメのキャラの子犬のマオル君で」

「はい、出来ました」

「――お願いだから、せめて画像を見てから描こうね?」


 初香が誰かに振り回されることなど、一年に一度あるかないかの貴重な場面だ。


「……さ、初香先輩! 次はどんな可愛いキャラですか? 早く!!」

「つ、次は背景でゆっくり――」

「……可愛いキャラじゃないんだ」

「う、ウソウソ! 次はね、市のマスコットで」


 ――可愛いと称されるマスコットキャラクターを、水無月は寸分違わず表現できる。それはこの後の活動で完全に証明されたのだった。



 …………初香は用事があるとのことで先に帰った。部室には水無月一人が残る。

 普通ならばそこで帰るところだが――そして、水無月は、一人で絵を描いていた。

 誰かが来るまでの時間は日によってバラバラだ。毎日部活に来ている彼女とは違い、他の部員は顔を出さない日もある。今日は初香が最初はいたが、彼女が部室を去ってからは水無月一人だけが部室に残る。

 ……そんな日も、彼女は一人残って絵を描き続けるのだ。


「…………忘れてた」


 水無月は何かを思い出して、鞄の中からポーチと水筒を取り出し、ポーチから出した何かを飲み干した。

 そしてまた、苦しそうな表情で絵を描き続けた。



 それぞれの一週間は過ぎ去っていく。

 一週間最後の夜――一色は、自室にて最後の仕上げをしていた。一週間、寝る間も惜しんで描いた漫画の原稿が机の上に積まれている。後先を考えずにただ漫画に打ち込んだのは、思えばこれが初めてではないかと思っていた。

 その背中を嬉しそうに眺めるのは、和那だ。更に言えばその日家に乗り込んできた初香と雪彦もいた。

 海老名兄妹がいるというのに、室内は静けさに包まれていた。

 そして――


「……完成、しました」


 椅子から立ち上がり、原稿の束を持った一色は、苦笑いを浮かべながら、目を半眼にしながらもそう伝えた。


「お疲れー!!」


 それまで我慢をしていたのか、初香は一色に抱き着こうとした。最近はあまりしていなかった初香のスキンシップである。

 しかしながら、そんな彼女よりも早く一色に抱き着く存在が一人……和那である。

 ……ここ数週間、一色がずっと元気なくいたことで中々甘えることが出来なかった。更に元気が出たと思った最近はずっと漫画に打ち込んでいたため、中々兄に甘えることが出来なかったのだ。


 我慢の限界を迎えたのか、無言のまま一色に抱き着く。一色はそれを抱き留めるのだが……


「はは、和那……ちょっとお兄ちゃん、疲れて――」

「ちひろん!?」


 しかし、その次の瞬間、一色は崩れ落ちた。それに気付いた雪彦はすぐに一色の身体を支え、彼の状態を確認した。

 しかし心配とは裏腹に、一色は


「すぅ……すぅ……」

「……安心しろ、眠ってるだけだ」


 ――琴切れたように安らかな表情で眠っていた。……活動限界であったのだ。ここ最近徹夜が続き、集中力を切らさずに作業していたのである。

 雪彦はゆっくりと彼をベッドに寝かせた。


「……普段は大人びてるけど、こいつも寝顔はまだまだ子供だな」

「二歳しか違わない癖に上から目線~。ねー和那ちゃん? うちの馬鹿兄貴がちひろんのことを馬鹿にしてるよ?」

「……ゆきひこくん、きらい」

「…………馬鹿にしてないから、嫌いって言わないで、和那ちゃん」


 取り繕うも、和那は兄を馬鹿にした人間を決して許さないのであった。

 ――準備は整った。初香は一色が倒れたことで落としてしまった原稿をページを合わせてまとめ、それを封筒の中に入れる。それを一色の机の上に置いて、電気を消した。今は休日の昼でまだ外は明るいが、このまましばらくは起きてこないと踏んだのだろう。


「……おやすみなさい、ちひろん」

「お前、ちょっと千尋の彼女っぽいこと言ってんだよ――和那ちゃん、どう思う?」

「……おにいちゃんはあげないもん」

「――おーにーちゃーん?」


 ……部屋の外でまた騒ぎ立てる海老名兄妹。

 ――一色はそれでも起きず、今は死んだように眠るのであった。


○●○●


 空気を入れ替えるため、窓を開ける。

 一色が久しぶりに部室に来て最初にしたことは、それだった。早朝、誰よりも早くに学校に来て、部室の鍵を職員室から受け取り、そのまま部室に向かった。

 漫画が完成し、すぐにでも部室に来たかったのだ。

 ……久しぶりの部室は、拍子抜けのように何も変わっていなかった。相変わらず美月たち上級生の画材は準備室から出したまま片付けておらず、椅子もところによって散乱している。水無月が普段使っている場所だけは整頓されていた。


「……俺の席も、ちゃんと綺麗にされてる」


 長い間、来ていなかったのにも関わらず、普段一色が使っている席は綺麗に整頓されていた。埃も被っておらず、誰かが掃除をしていたという証拠だ。

 無論、そんなことをする人物に心当たりはある。というより一人しかいなかった。


「本当に、あいつはなんでこう……」


 ひどいことを言った人間を気遣うなんて、水無月も人が良過ぎる、などと一色は思った。

 ……しかしながら一色は学校に早く来過ぎたことで時間を持て余す。最近だと休む暇もなかったため、何もしていないというのはどうにも気が引けたのだ。


「……そういえば、途中まで描いたのがあったな」


 自分が部活に来なくなる前まで描いていた絵が残っていることに思い出す。それは基本的に黒と灰色で描いた満天の曇り空を飛ぶ鳥の絵だ。どちらかといえば漫画的な手法で描かれており、雲の塗りが甘かったことを思い出す。


「何もしないのも癪だし……よし」


 一色は続きを描くことを決め、自分のキャンバスとイーゼルを取りに準備室に向かった――その時、廊下の方から足音が聞こえた。

 ……まだ普通の学生はほとんど登校していない時間帯だ。学校に来ているのは運動部くらいなもので、この特別棟は基本的に文化部が使うことがほとんど。特にこの三階に至っては美術部ぐらいしか使っている部活がないのだ。

 足音は次第に一色のいる美術部に近づいてくる。

 それは――


「……一色、くん」

「……水無月」


 ……水無月だった。

 彼女を視界にとらえて、一色は異様に緊張が走る。……こうして面と向かって話すのは一か月以上ぶりなのだ。顔を合わせるのは三週間ぶりで、どのように彼女と接すれば良いか、分からなくなる。

 ……ただ少し気になったのは、彼女の目の下の隈だった。


「……早いな、水無月」

「……うん。早起きしたから」


 早起きをしたという割には、しっかりと眠った気配が見えなかった。どちらかと言えば疲労が溜まっているようにも見える。

 ……しかし一色にはそのことを考えるよりも、自分の鞄の中。漫画のことで頭がいっぱいになっていた。


「……話すの、久しぶりだな」

「そうだね。同じ学校にいるのに、変なの」

「……部活、行かなくてごめん」


 一色はまずそのことを謝罪した。


「どうして謝るの? だって、授業の課題で忙しかったんでしょ? ……だったら一色くんが、謝る必要なんてないよ」


 水無月は可笑しそうに笑いながら、そう言った。


「……それとも、部活に来なかったのには、他の理由が……あったのかな?」

「……何、言ってるんだ」


 ――突然の問いかけに、一色は訳が分からずそう聞き返した。


「良いよ、無理しなくて――私があんな態度を取ったから、居づらかったんだよね? 私が一色くんに酷いことを言ったからだよね。……ごめんね、一色くん」

「待て、水無月! お前、何を言っているんだよ……。お前は何も悪いことなんて」

「――一色くんは私の絵の感想を言っただけなのに、私は一色くんに酷いことを言ったよ? 本当の事を言われて、カッとなって一色くんのことを考えずに、悪口を言ったよ……だから、一色くんは、部活にこなくなったんだよね……っ」


 独り言のように話す水無月の声色は、少しずつ涙声に変わっていく。

 その慟哭を聞いて、一色は彼女に言葉を掛けないと思った。しかしその言葉が思いつかないのだ。

 水無月はその間にも、懺悔の言葉を続けざまに吐露した。


「私、もうあんなこと絶対に言わないから……もう変な態度取らないから――だから、お願い。部活にこれからもちゃんと来て? 私も頑張るから。もっと絵を、頑張って描くから……っ」

「違うよ、水無月。俺が部活に行かなかったのは、そんなんじゃないんだ……っ。俺は部活を行っていない間、ずっと漫画を描いて」

「――一人で、いたんだよね?」


 ……一色の言葉が、小さな声で掻き消される。

 ――その時ようやく気付いた。自分がしていたことの間違いに。

 ……水無月も、ずっと罪悪感の中にいることから目を背けていたのだ。自分が悪いと一人で考え、それこそが自分の選択こそが最善だと心のどこかで思っていた。

 しかし、水無月はこんなにも追い詰められていたのだ。それを一色は今になって知った。


「私がみんなと楽しくしている時も、一色くんは一人でいたのに、私はそれを知ってる癖に何もしなかった!! 卑怯者だよ! 今、一色くんが部室に来てくれなかったら、自分から行くことも出来ないくらい弱虫なの!」


 水無月の溜め込んでいた後悔が、一度に流れ出る。

 少し間を置き、口を開いた。


「ごめんなさい……っ」


 ……水無月は謝る。

 何故、彼女は謝っているのだ。謝る必要なんてない。……一色は心の中でそう叫んだ。

 一色は謝ってほしくないのだ。自分が謝りたい、ただ許してほしいわけじゃないことと同じように、彼女に謝ってほしくなかった。

 何故なら一色は望んでいたのは――


「――ちゃんと、私、コンクールに作品、出すよ」


 涙ぐんだ声で、水無月は話す。


「あれからたくさん時間をかけて描いて、少しはマシになったと思うから……だから、お願い。……私を、私の絵を……一人に、しないで――見捨て、ないでっ!」


 ……何のことを言っているのか、一色には皆目見当も付かない。分かることは、水無月がどうしようもなく心を痛めているということだ。

 ――一色に何ができる。声を掛けようにも、言葉が思い浮かばない。彼女のことをここまで考えようともしなかったのだ。

 ……考えたつもりで、結局一色は自分のことばかりを考えていたのだ。

 漫画を描いて、それを水無月に読んでもらって笑顔になってもらう――とんだ夢見心地だ。それをするには、時間が過ぎ過ぎたのだ。


「……だから、ね? 一色くん、またいつもみたいに、楽しく、皆で美術部で活動しようよ。私も頑張るからさ」


 ――そうして、また笑顔を浮かべる。

 その笑顔は彼女が本来浮かべるものではなく……ここ最近、無理に浮かべている笑顔であった。


「一色くんに笑顔になってもらえる絵を、頑張って――」


 一色は水無月の顔を見ることが出来ず、俯いてしまった。

 ――その時であった。突然、バタンと何かが倒れる音がした。それは物体が倒れる音ではない。

 ……それと共に、水無月の声も止んでしまった。


「……水無月?」


 一色は顔を上げる。俯きながら目を瞑っていたから、状況を把握するためだ。

 そして


「みな、づき?」


 ――水無月を見て、目を見開いた。

 今まで水無月が立っていた場所に、彼女はいないのだ。一色の視線の先には水無月はいない。

 ……一色はゆっくりと顔を下に向ける。

 そこに水無月はいた。確かにいた。

 しかし……


「お、おい、水無月。どうしたんだ、水無月。なんで、そんなところで横になって――なんで、倒れて」


 ――水無月は、倒れていた。

 一色は度重なる突然の事態に、とうとう頭は回らなくなってしまう。ただ彼女に駆け寄り、肩に触れて彼女の名前を呼び続けた。


「水無月、おい、しっかりしろ、水無月!」


 ……呼びかけても、水無月は起きなかった。

 眉間に皺を寄せ、苦しそうな表情を浮かべて目を瞑って眠る。言葉は彼女に届かない。

 ――全ては、遅すぎたのだ。一色は選択を見誤ってしまった。

 ……そのことにはまだ気づくことが出来ず、部室には一色の声だけが響き渡る。


「水無月……ッ――」


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