4幕 ホントの気持ち
虹陸芸術専門高等学校は、二十時を過ぎると全校生は否応なく下校させられる。その大体が運動部の学生なのであるが、その中にひっそりと混じって下校している生徒がいた。
……一色千尋である。漫画コースの作業室でギリギリまで作業していたのだろう。その顔には明らかな疲労が見えた。
一色は校門を過ぎた――その時であった。彼の前に人影が二つ、立ち塞がる。一色は足元に伸びる人影を見るため顔を上げると……
「やぁやぁ、ちひろん」
「おぅおぅ、千尋ぉ」
「……先輩たち」
そこには、海老名兄妹が背中合わせになりながら、それぞれ腕を組んでいた。
そんな二人を前にして、一色は少し後ずさる。しかしすかさず海老名兄妹は一色に詰め寄った。
「まぁ、言いてぇことは山ほどあるが」
「それはさておき、とりあえず~」
「「面、貸してもらおうか?」」
声を合わせてそういう二人に対し、一色が逃げる術はなかった。
「これって所謂拉致監禁ってやつですか?」
あれから一色は、海老名兄妹に強制連行された。その行先は彼らの自宅である。あれから両腕をそれぞれ初香と雪彦に掴まれた一色は、成す術もなく彼らの自宅に連行され、軟禁されたしまった。流れを大まかに説明すれば、これくらいだろうか。
今は雪彦は自分の部屋の椅子に腰かけて足を組んでいて、一色は彼のベッドの上に座らされている。初香はその隣で座っていた。
居心地は……悪いに決まっている。
「あ、ご両親の許可はバッチリと取ってるよ?」
「和那ちゃんが多少厄介だったけど、お菓子で何とかなったぜ!」
「……和那、お菓子でお兄ちゃんを売ったのか」
久しぶりの先輩たちの暴挙に、一色は懐かしさすら感じる反応を見せる。それを見て、初香も雪彦も目を丸くした。
「……思っていたよりも普通だな。もっとどんよりしていると思ってたわ」
「こんな嬉しくない歓迎されて、どんよりもしていられませんよ――たった二週間じゃ、先輩たちも変わりませんね」
「そりゃあそんなすぐすぐ変わってたら苦労しないって話だよ~」
「変わらねぇから鬼には近づけないとも言うな!」
何故か指でピースを作り笑う初香。一色はため息を吐いた。
――しかしその目的は分かり切っている。というより、それしかないと一色は理解していた。だが確認は必要で、一色は二人に話しかけた。
「それで、どうしてこんなことを?」
「分かってるくせに聞くなよ」
「まぁ、一応確認で」
「……んじゃ、率直に。お前、どうして二週間も部活サボってんだよ」
雪彦の部屋のベッドに座る一色に、彼はそう尋ねる。
「サボってはないです。貴音先輩にも連絡をした通り、漫画の課題に追われていました」
「それじゃ通用しないよ~? それでもちひろんは一週間に一度は顔出していたでしょ。これで何にもなかったとは言わせないよ?」
今もなお言い逃れしようとする一色に、初香は追及を重ねた。
ニコニコと、しかし初香は一色を追い詰める。一色は追及から逃れようとしてか、視線を彼女から避けるが……それをさせるほど、初香は素直ではなかった。
一色は嘆息し、そして……
「……分かりました、本音を言います。顔を出さなかったのは、偶然ではなく、俺の意思です」
「やっと白状したなぁ。……虹ちゃんのことか?」
「……はい」
少し躊躇いを見せるものの、一色は頷いた。それを受けて、雪彦と初香は素直に驚いた。彼らとしては、その言葉を聞きだすにはもう少し時間がかかると思っていたからだ。
しかしどのような心境の変化なのかは初香でさえも理解できない。
一色がすぐに答えたことで、三人の間に静寂が生まれる。二人としては一色に事の次第を聞き出したのだが、中々聞き出すことが出来なかった。
……その時、また意外なことが起きた。
一色が作った静寂の空気を最初に破るのは二人ではなく、
「俺が部活に行くことが、部活動全体に影響を及ぼすと判断して、行くことを控えていました」
一色本人であった。
彼の言葉に雪彦は元より、初香も言葉を失う。
……当然だ。むしろ二人からすれば、彼が部活にこないことで盛り上がりに欠けると考えていたのだ。それが、彼は自分がいることで部活動に支障を及ぼす――つまり美術部の雰囲気を悪くしていると言っているようなものだ。
「お、おいおい。そんなこと、あるわけねぇだろ! お前、それ本気で言ってるのか!?」
「本気ですよ。俺がいない日といる日では明確な差があります。だから」
「――だから、ねぇって言ってるだろ!!」
……雪彦は椅子から立ち上がり、一色の元に近づいて彼の胸倉を勢いよく掴んだ。そして自分の方に引き寄せて、怒声に近い声でそう叫ぶ。
「待って、お兄ちゃん! そんなことしても何にもならないよ!」
「離せ、初香。いい加減、こいつの自分が悪い、自分が悪いには愛想尽かしてんだよ!!」
顔を真っ赤にして怒る雪彦を初香は必死に止めようとするも、彼は止まらない。今なお一色の胸倉を掴んで離さず、彼の目をじっと睨んでいた。
……そんな真っすぐな視線に耐えらず、一色は俯く。
「……何を考えてそんな結論に至ったのかは知らねぇよ。でも、誰一人としてそんなこと言ってねぇだろ。誰もそんなこと、思っていないんだよ」
「……そんなの、分からないじゃないですか」
「――分かるんだよ、大馬鹿野郎」
雪彦は拳を彼の額に、コツンと宛がった。
……痛みは一切ない。だけど一色は、――どうしようもない痛みを、頬に感じた。頬を伝ってそれは心にまで到達する。
その痛みの正体を解明しようとする中、雪彦は続けざまに諭した。
「俺も初香も、美月も……虹ちゃんだって、そんなこと考えねぇよ。お前だって本当は分かっているんだろ? 誰もお前を邪険に思っていないことくらい――俺らはそういう好き嫌いの我慢が全員、もれなく下手くそなんだよ」
好きならば好き、嫌いならば嫌い。それがはっきりしているからこそ、雪彦は一色に真っすぐな好意を示すのだ。
――例えば美月と雪彦ならば、本当に邪険に思っているならば、口にするだろう。初香はそもそも相手にしないだろう。
そして水無月ならば……きっと、何があろうと近づきすらしなくなる。
「それでも自分が美術部に不要だとか抜かすんなら、それは俺たちの好意を蔑ろにしてるのと同じだぞ――どうなんだ、千尋」
……一色は依然と俯いたままだ。
――どうして、自分を責めないのだろうと。彼はそんなことを考えていた。
雪彦は声を荒げようと、諭そうとしても、決して彼を否定して責めることはしなかった。一色の事を考えた上で自分の気持ちを真っすぐにぶつけているのも、全ては彼を尊重しての行動。
……悪いのは自分であるということは、どうしようと覆らない。
……彼は、知っていた。
「そんなの……」
自分が信じた人たちが、どれだけお人よしであるかを。こんな自分といつも対等に、大切に思ってくれているということを。
ただの部活。
人生の中のたった一年にも満たない関係。
それでも、彼らはまるで一色のことを自分のことのように考えて、助けようとする。それを当たり前のようにすることが出来るほど、優しい人達だということを、彼は。
一色千尋は――
「知っているに、決まってるじゃないですか……っ」
――それが彼の心を感情的にさせるのだ。
「皆がそんなことを思っていないことくらい、最初から……分かってます。でも俺がいたら、水無月は笑顔じゃなくなるんです……っ。美術部は……木漏れ日の美術部は、水無月の笑顔がないと始まらないんです。……だから俺は、あの場所から――」
誰よりも、一色があの居場所を守りたかった。水無月がいて、美月がいて、雪彦がいて、初香のいる。そんな美術部という自分にとっての心の底から大切と思う居場所を、守りたかった。
でもその方法が分からない。分からなくて、縋ろうと部室に行き……そして知った。
あの日、水無月が自分のいない美術部で楽しそうにしている声を聞いて、一色は決めたのだ。自分が例え傷ついても、美術部に行ってはいけないと。
「俺が去って水無月がいつもみたいに笑顔になるなら、それが良いに決まってるって……そう決めつけて、逃げたんです――どうしたら、良いんですか……? 俺は、分からないんです。水無月にどう声をかけていいか、何が正解なのか……。どれだけ考えても、答えは見えないんですよ……っ」
上がっていた顔が、次第に俯きに変わっていく。
彼は心の内を隠すことなく言い尽くした。全ては自分本位で考えた、自己中心的な考えばかりだと、一色は今になって思う。
怖い。次に雪彦と初香が一色に何て言葉をかけるのか。一色はそれが怖かった。
――そんな風に複雑に考え、俯く一色を温もりが包んだ。
「……や~っと、本音。言ってくれたね」
「え、え、海老名先輩? 何をして」
「ん~、良い子良い子してるんだよ~?」
初香は一色を抱き寄せて、その頭を撫でた。
まるで赤子を抱くような表情で抱き締めてくるものだから、一色は動揺してしまう。しかし初香は抱擁を止めようとはしない。
「ったく、ここまで言わせるのに苦労かけさせやがって」
「あー、お兄ちゃん、私のちひろん取らないでよねー」
雪彦は悪態をつきながら、一色の頭をわしゃわしゃと撫でまわすと、すかさず初香がそれを止める。
「も、もしかして先輩たち……わざと――」
「んなわけあるか! 想定外で予想外だよ。俺もまさか人生で初めて胸倉を掴む相手がお前になるなんて、思ってもいなかったからな!」
「全部アドリブだよ。おかげで私が出る幕がずっとなくてハラハラしたもん」
よく見ると、雪彦も初香も安堵の表情を浮かべていた。
……不安に決まっている。大切な後輩が傷ついているのを知っていて、どう言葉をかけていいかなんて分かるはずがない。本音を聞き出すには正攻法なんてものはなく、言葉をぶつけ合うのみだからだ。
初香は一色の頭を撫でながら、納得のいった表情を浮かべている。
「でも、そっか。あの時、ちひろんは部室での会話を聞いていたんだね。そりゃあ、勘違いしても仕方ないよ。むしろたくさん考えて、それで出した答えだったんだね――ごめんね、辛い思いさせちゃって」
一色が部室に来なくなったあの日、部室の前にあった数滴の水滴。その正体が一色の涙であったことに気付いたからか、余計に初香の不憫に思う気持ちは大きくなる。
……一色は初香の言葉を否定しようとするが、
「辛いって、そんな――」
……一色はそれを否定することはできない――辛かった。本心がそう思ってしまった。
目と鼻の先に部室があるのに、入ることのできない辛さ。中に広がる輪の中に自分が入ることのできないもどかしさ。
あの時、部室の近くで泣いてしまったのは……もう行くことが出来ないと思ったからだ。初めて出来た居場所に縋ることのできない苦しさを知ったとき、彼は自分が誰よりも美術部を大切に思っていたことに気付いた。
……大切に思っているからこそ、苦しみを我慢できた。壊さないように上手く立ち回った――そう思っていた。
「ちひろんは、頑張ったよ。色々と考えすぎてちょっとだけ間違ったかもしれない――でもその気持ちはちゃんと伝わったよ。私にも、お兄ちゃんにも」
「はは、偶には可愛げがあるじゃねぇか、千尋」
「……もう、大丈夫ですからっ」
いつまでも抱き締め続ける初香を払いのけ、一色は二人から距離を取る……ものの、すぐに距離を詰められる。二人とも気持ちの悪いほどの笑顔を浮かべているものだから、一色は小さな悲鳴を上げてしまった。
「こっち来ないでください、顔見ないでください」
「いやいや、千尋の赤面とかレア過ぎて無理な話だ」
「むふふ、これは初香さん、変なものに目覚めそうになっちゃうよ」
なお這い寄ってくる二人に、一色の抵抗は無意味の一言であった。
……しかしながら、懐かしいというべきか――そこにあるのは、約一か月ぶりの、いつもの美術部の雰囲気に近いものであった。
○●○●
「ひどい目に遭いました」
「「すみませんでしたー!」」
……悪ノリの過ぎた海老名兄妹は、あれから一時間後、一色に土下座をしていた。何故か彼の衣服に乱れている。それほどに二人の行動が行き過ぎていたということが顕著に表れていた。
「まあこれが色々と迷惑をかけた代償っていうなら、甘んじて受けますが」
「そんなんじゃないから! ちひろんが何にも言い返せないから弄ってたわけじゃないから!!」
「初香、やめろ。余計な言い訳していたら後が怖い。こういう時は誠心誠意、土下座を続けるんだ」
流石は土下座の達人、海老名雪彦。このような場面での対処法は心得ているようだ。
……しかし一色としてもこのまま土下座され続けられるのは本意ではない。というよりもどうして立場が逆転しているのかを不思議に思うほどだ。
「いい加減、顔を上げてくださいよ。こっちまで申し訳ない気持ちになります」
一色がそう言うと、二人は恐る恐る顔を上げる。一色が怒っていないことを確認すると、床に座りながら肩の力を抜いた。
「この感じ、久しぶりだったから我を忘れちまったよ。だけど、まぁ」
「私たちだけってのは、少しいただけないよねぇ~」
「……はい」
雪彦と初香が遠回しに伝えたいことを理解したのか、一色は頷いた。
彼は自分の言いたいことを少し頭の中でまとめて、それを二人に伝えた。
「俺と水無月の口論の結果が今です。俺は水無月にいつもみたいに笑って、楽しく絵を描いてほしい……それだけです」
「……違うよ、そこにはちひろんもいないと」
「……はい。だから、ちゃんと仲違いを解決したいです」
一色は素直に二人にそう伝える。すると雪彦はカッターシャツの袖を捲り、気合を入れた。
「おう、よく言った!! ……じゃあまあ、少し知恵を絞ろうぜ。ほら、三人寄れば文殊の知恵って言うだろ?」
「えー、お兄ちゃんじゃ知恵がなさ過ぎてちひろんと私の二人になっちゃうよ~」
「美月よりは断然マシだろ!!」
「「…………確かに」」
そこは否定をするところだ。
――ともあれ何をすべきかは明確になった。が、根本的なことが一つ残っている。
「……それで、何が原因で虹ちゃんと喧嘩になったんだ? 全部言わなくても良いから、きっかけだけでも教えてくれよ」
「それは……俺が、水無月の絵を見て、その感想を言ったんです。今だからこんな風に淡々と言ってますが、その時は感情が先走って、言わなくていいことまで言ってしまって……」
「ちひろんが感情が先走るって……。その絵って言うのは、虹ちゃんが部室で描いてる、あのコンクール用の絵のこと?」
「はい。それで水無月もいつもとは違う雰囲気になってしまって……お互いに感情的になって、不必要な言葉を並べたんです。俺も、水無月も」
「……なるほどねぇ。だけど虹ちゃんが絵の感想で怒るのか」
雪彦は一色の話を聞いて腕を組んで考える。
「んー、そこが私もピンと来ないんだよね~。そもそも虹ちゃんが怒るところを見たとこないっていうか……っていうか、虹ちゃんがまともに自分の作品を描いてるところを見たのも正直初めてだから」
「――待ってください、それって、どういうことですか?」
一色は初香の漏らした新情報に食いつく。
初香はまるで「知らなかったの?」とでも言いたげな顔をしながら、キョトンとしている。
「えっとね~、……虹ちゃんって絵を本当に楽しんで描くんだけど、コンクールとか画展とか、そういう公の場に自分の絵が置かれることをすごく嫌がるんだよ」
「……それは、初めて知りました」
「誰も口にしないからな。っていうか俺もつい最近までそれを忘れてたくらい、虹ちゃんは楽しそうにしていたからなぁ。あの子に関してはやっぱり俺や初香よりも美月の方が詳しいと思う」
「……一度、話を戻しましょう」
話が脱線したため、一色はそう言う。
「ともかく虹ちゃんが怒るってことは、千尋の感想は乏しくなかったってことか……なんだ、下手くそとか言ったのか?」
「……お兄ちゃん、最悪」
「ち、ちげぇよ! そんなこと思ってるわけじゃなくて――どうなんだよ、千尋!」
自分に思わぬブーメランが突き刺さりそうになったため、雪彦は千尋に語尾を強くして尋ねた。
「上手下手とか、そんなんじゃなくて……あの絵が水無月の絵に思えなくて、それを追求しました」
「……なるほどねぇ~。虹ちゃんは楽しんで描いてるから、絵の技術云々を言われるよりも根本的なものを言われる方が嫌だったのかもしれないね」
「……俺は、本当に楽しんで描いたものなのかと思って、それを言ってしまって……それで今に至っています」
一色は大まかに起きたことを話すと、二人とも難しい顔をしていた。理由は単純で――全く分からないのだ。
それはそうだろう。何せ情報が偏り過ぎているのだ。いわば一色側の事情を知っても、水無月側の事情を知らないと答えは出ない。むしろそれで分かるような問題ならば、一色は自分で答えを出せるというものだ。
つまり今回の争点になってくるものは変わらず……
「こーちゃんから話を聞かないと何も始まらないよね、これ。それはちひろんが考えに困るわけだ」
「って言ってもなぁ……虹ちゃんが口を割るとは思えないし――特に今みたいな誰にでも笑顔状態じゃあなぁ」
「……誰にでも笑顔?」
一色は雪彦が言ったことに首を傾げた。すると雪彦はハッと何かを思いついた。
「思えば千尋にだけだな。素で接してるの」
「……素、ですか?」
一色はなお、雪彦の言っている意味が理解できずに首を傾げた。
雪彦は察しの悪い一色を呆れ顔で見ながらも、丁寧に説明する。
「気まずいから話そうとしない。これが素じゃなくて演技だって言うのか?」
「……そういうことですか――じゃあ周りには演技で明るく接していると?」
「演技とまでは言わねぇよ。……だけど、虹ちゃんの今の笑顔は無理をしている笑顔だよ。周りに心配をかけたくないから、何かを無理して笑顔を振りまいている。……俺の知っている限りじゃ、高校に入ってすぐの頃はそんな感じだったと今なら思うよ」
「今なら、ですか?」
「ああ――昔はそれが虹ちゃんの普通だって思ってたからな。だけど、最近になって気付いたよ。あれは無理してたってことをさ。特にクラスメイトの前ではそれが余計にひどかったよ」
以前、、自動販売機に飲み物を買いに言った時、雪彦が見た水無月がそれだったのだ。美術部にいる間はまだ普段に近いものだったのだが、クラスメイトに向けている笑顔は別物だったのだ。
それが雪彦の言う、無理をしている笑顔だ。
「それがちひろんとの口論を経て戻った。ってことは、それだけこーちゃんにとって地雷みたいなものをちひろんが踏んじゃってことかな」
「……だろうな。だけどこれ以上は分からねぇよ。でも、分からないなら次は出来ることを考えるんだ」
雪彦は一色を真っすぐに見つめる。一色はその目を見て一瞬ビクッと身体を震えさせる。しかし次は決して逸らさなかった。
「問題解決は出来ねぇ。だったら次はこーちゃんを笑顔にするきっかけを作るんだ」
「それは私も賛成かなー? この問題、ちひろんが謝るとかどうこうじゃないと思うし。きっと、二人には二人なりの事情があって起きてしまった問題だろうからねー」
「……でも、どうやって笑顔にするって――」
一色はその時、ある光景を思い出した。
『――ワクワクするよ、すごく』
『可笑しいね。一色くんの作品なのに、勝手に頭の中に物語が浮かんじゃうよ。ダメダメ、これは一色くんの話なんだから、私が踏み込んじゃダメだよね』
『 また、完成したら見せて欲しいな。良いかな――一色くん』
初めて水無月に自分の漫画のプロットを見せた時。彼女は本当に心の底から活き活きとした表情を浮かべていた。一色の作品なのにまるで自分のことのように作品のことを好きと良い、そこから広がる物語を楽しそうに思い浮かべていたのだ。
「……漫画」
一色は鞄の中から原稿用紙をガバっと取り出し、それを強く握る。
……そうして思った――どうしてこんな簡単なことが分からなかったんだろうと。
「何かな、それ」
「……漫画です。渡邊先生の授業の課題で、新人賞に送るための作品です」
「へぇ~……ちひろん、何でも言ってほしいな。それを今、取り出したってことは、何かに気付いたってことだよね?」
「……はい」
……そう、一色は気付いた――どうして自分が、どれだけのネームを描いても納得できなかったのかを。そして何度も水無月に作品についての相談をしていたのかも。
「……水無月は最初に俺のプロットを見た時、物凄い自然体な笑顔を浮かべてくれて……」
どれが自然体なのか、その定義は一色にも分からない。それでも、あの笑顔が作りモノでは本当の笑顔だということは分かった。
「本当に楽しそうにこの物語を思い浮かべて、その上で好きって言ったんです」
それがどれだけ嬉しかったことか。渡邊に認められるよりも水無月に作品を笑顔で見てもらう方が嬉しかったのだ。
「それから何度もネームを描いては納得が出来ずに捨てて、それを繰り返して、偶に水無月に相談して……」
それでも繰り返した。自分でも分からないほどに納得できないのだ。物語を活かしきれていない、その理由が分からなかった。
「――俺は、水無月に笑顔になって欲しかった。そんな簡単なことに気付けなかった。だからどれだけネームを描いても納得が出来なかった。この話では、あの時の水無月の笑顔にすることは出来ないから」
……そこまで言って、一色はふと思い返す。
この二週間、自分が何と向き合っていたのかを。水無月のことか、美術部のことか。
……きっとその両方と向き合っていたのだろう。そして向き合った結果、彼はどうしようもなく漫画に向かうしかなかった。
毎日のようにペンを握り、手の裏を黒く染めて睡眠時間まで削って漫画を描き続けた。
「……ちひろん、その漫画を読ませて貰ってもいいかな?」
初香は彼の手にある漫画を指して、そう言った。一色は不安な気持ちでそれを初香に渡す。
……自信があるわけではない。まだ完成はしていなく、作業中に何度も描き直したところもある。それが面白いのか、自信が持てないのだ。
初香と雪彦は、一色の漫画をじっくりと読む。数十ページに及ぶ作品。まだペン入れが済んでいないところはあるものの、下書きは終わっており、話の全体像は分かる。
……ペラペラと、ページは捲られていく。その速度は次第に早まっていく。終わりに近づいているのか。
一色は二人の表情が見えない。ただ不安を募らせながら、二人が漫画を読み終わるのを待ち続けた。
そして――読み終わる。初香はトントンと原稿の角を綺麗に合わせ、そして漫画を一色に返した。そして
「――すっごく、面白かった」
「…………え」
一色はそんな素っ頓狂な表情を浮かべてしまう。
一瞬、彼女が言った言葉の意味が理解できなかったのだ。しかし初香は、雪彦はそんな一色に構わず捲し立てるように話し続けた。
「むしろこれで自信ないってどんだけって話だよ。こんなの、普通に雑誌に載っても良いレベルだろ。絵も上手いし、何よりも話がすげぇ」
「あ、それ思ったよ! 非現実なのに妙にリアルなところがあるよね! たぶんそれはちひろんの良さがしっかりと描けているところで、基本のコメディーの話は読んでてほっこりして……なんだか、美術部のことを思い出しちゃうね」
「そ、そんなに、ですか? 俺にはその、分からないっていうか……」
絶賛の嵐に一色は戸惑いを隠せなかった。
――精神状態で言えば、最悪であった。この話を作って描いていた二週間は、一色は本当に辛かった。彼にとっての創作意欲の場である美術部に行けず、一人で黙々と作業していた。そんな中で面白い作品が作れるはずがないと思っているからこそ、信じることが出来なかった。
「むしろお前の精神状態からは信じられないくらいの面白さだけどな。お前が描いたとは思えねぇくらいにコメディーは面白いし、シリアスのところはなんていうか……つい、涙ぐんじまった」
「え、私は普通に泣いたよ?」
「お、男は人前は泣けねぇんだよ! ……とにかく、これはめちゃくちゃ面白い!! それは間違いない!!」
二人の太鼓判を押され、一色は戸惑いながらも自分の原稿を見つめた。
――一色は気付いていないだろう。この漫画は、彼が望んだ世界になっていることを。それは無意識のうちに彼が自分で描いたものなのだ。
……美術部に行くことが出来ない。彼の一番の望みであり、楽しみであるそれが無理になれば、人は余計にそれを求めてしまう。特に一色は理性が強く、それを抑えてしまったのだ。
抑えてしまった欲望の行先……それが一色にとっては漫画だったのだ。
だからこそ、彼はこの二週間漫画にだけ時間をつぎ込むことが出来た。自分の叶えたいものを漫画の中で表現したのだ。
……美術部という、彼にとって心が安らぎ楽しくいれる時間。雪彦と美月と初香が騒ぎ、一色と水無月が巻き込まれながらも笑顔を浮かべるあの空間を――。
「……この主人公とヒロインって、ちひろんとこーちゃんにどこか似てるよ」
ふと、初香がそう漏らした。
「……そう、ですか? 俺は別に、意識していたつもりは……」
「ううん、似てる――分かんないけど、なんとなく。だって物凄く、私はこの作品に出てくる人たちに親しみを持てたんだもん」
「ま、お前はこの主人公ほど分かりやすくはないけどな」
……本音が周りに聞こえてしまう主人公。嘘をつけず、取り繕うことも出来ない代わりに絶対に曲がらない主人公だ。どこが似ているのだと、一色は思った。
むしろ彼にとってこの主人公は――理想だ。
「……理想だから、どこか似ているのかもしれませんね」
一色はそう小さく呟いた。
「私、これをこーちゃんに見せるべきだと思う。これを読んだら、たぶんちひろんの気持ちは伝わるよ」
「素直な俺たちがお世辞抜きで面白いって言ってんだ。自信を持て、千尋!!」
そう言って、一色の左右に挟み見込むように座る初香と雪彦。
――一色はそれを聞いて、一つ決心する。
「……約束したんです。水無月に、これが完成したら、見せるって」
……しかし、この作品は完成には程遠い。
「だからお願いします――あと一週間だけ、時間を下さい」
だから一色は、そう懇願した。
「……一週間、また俺は部活に一度も顔を出さないと思います。だけど今度は逃げじゃなくて――あいつと向き合うために、この漫画を完成させたいんです」
一色はそういうと、頭を二人に下げようとする――しかしそれは、二人の手によって止められる。
「後輩の頼み事に頭下げる理由なんてねぇよ――決めたんなら、突っ走るしかないだろ」
「そうだよ、ちひろん。ちひろんがしたいんだったら、私たちは全力で応援するよ! 応援しかできないけど、でもちひろんを絶対に信じる!」
「……雪彦先輩、海老名先輩」
「だから、お前がいないときの美術部の空気は任せとけ! ……って言いたいところだけど、俺もどれくらい行けるか分からないけどな」
「も~、お兄ちゃん、格好付かないな~」
苦笑いする雪彦に、初香はジト目でそう呟いた。
……一色の心は、言葉にしようもない温もりの気持ちで一杯になる。しかしここでいつものように「すみません」と言った日には、二人は怒り狂うだろう。
だからこそ、一色はこう言った――
「ありがとう、ございます……っ!」
「……おうよ! だから、さっさと帰って来いよ、馬鹿野郎」
「あ、出来たらこーちゃんの次に私に読ませてねー? これで私もちひろんの熱狂的なファンの仲間入りだね!」
お礼を言う一色に対し、雪彦と初香は少しばかり照れくさそうな顔で笑うのであった。




