3幕 海老名初香は後輩想いである
「こ、これがお前にとっての可愛い、か――さ、流石だな!」
「う、うるさい!! ならばお前が描いてみろ、雪彦!!」
その日の部活は、初香案の出来る限り可愛い生き物を描こう、というものだった。普段ならば活動に意味を成しているのだが、今回に関しては絵がどうこうという話ではない。
如何に皆で賑やかに活動できる、というのが主題であるのだ。
最近の美術部の雰囲気は冷え切っている。主に一色と水無月が気まずい雰囲気を作っていることが原因の一つだ。気まずい原因を知らない美月たちがどうにか頭を捻って出した結論が、いつも通りの美術部の雰囲気を流れで作り出そう、である。
……その予定であったのだが、待てども一色が来ることはなかった。予定があって部活に参加できない場合、一色は必ず部活前に連絡を入れる。それか部員の誰かに言伝を頼むのだ。
それがないということはいずれは顔を出すと思われるが、それにしても遅い。一度雪彦が教室に様子を見に行ったのだが、彼の学生鞄は教室にあった。
恐らく渡邊先生に呼び出されたか何かだろうと考えた雪彦はそれ以上は探さずに部室に戻り、そしてその流れで部活動が始まったのである。
「美月ちゃんって絵は上手いけど、昔からお洒落とか可愛いとかからはかけ離れているからねー」
「こ、こぅ~……」
恨めしそうに顔を真っ赤にして虹を睨む美月。
――雰囲気は比較的、普段の美術部に近しいものだ。今日の水無月は最近とは違ってコンクールの絵の作業ではなく、皆の輪に入って楽しそうにしている。
……だが、その中で初香はどこか納得がいかない表情でいた。
「――ちひろん、遅いね」
……初香がそう言うと、一瞬教室が静かになった。
――そう、千尋がいない昔の美術部の雰囲気なのだ。美月と雪彦と初香、そして中等部から時々遊びに来る水無月の四人で活動していた半年ほど前の美術部の雰囲気が、そこにはあった。
それがどうしようもなく初香は納得がいかなかった。
「……そうだな。教室には鞄はあったし、連絡もないからなー。ちと心配だ――もしかしたら、あの鬼に絞られてるんじゃ」
「だったら早々に切り上げる前に渡邊先生のところ寄ればよかったじゃん」
「お、お前な……俺にとってそれは苦行のことなんだぞ?」
「安心しろ、私もだ」
雪彦と美月がそう同調する。
……初香の視線が一瞬、水無月に向かう。水無月はどこか落ち着かない表情を浮かべていた。
「心配だね、こーちゃん」
「はい……あ」
初香は水無月にそう尋ねると、彼女は反射的にそう言った。
……例え気まずくなっていても、心配なものは心配なのである。それは表情に出ていて、初香はそれを見抜いた上で話しかけたのだ。
水無月の反応を見て、初香は満足げにニンマリと笑みを浮かべた。
「安心した。こーちゃんがちゃんとちひろんのことも考えていて」
「それは……当たり前、です」
しゅんと、声が小さくなるが、水無月はそう肯定した。
これには美月も雪彦も驚きながらも、嬉しく感じた。
「……半分は私のせいだから。だから……っ」
水無月は少しばかり眉間に皺を寄せ、そう話す。
「……虹、わかっているのなら自分を責めなくても良い――さて、サボり者を捕獲に行くか」
美月はニヤリと笑いながら他三人にそう言うと、雪彦と初香は同じような表情を浮かべた。
「よぅし、最初に一色を捕まえた者があいつを自由にできる権利を獲得だ!! 異論は認めん!」
「ちょ、美月ちゃん!? それ一色くんの了承得ていないよね!?」
「んなもんはいらない! ほら貴様ら、行くぞー!!」
「――はん、お前に負けていられねぇよな!」
部室を飛び出して行く美月と雪彦。それを見守る水無月と初香は互いに顔を見合わせた。
「……私たちはゆっくり探そっか」
「は、はい、そうですね」
はにかむ初香に苦笑いを浮かべる水無月。二人は美月と雪彦とは違い普通に部室を出た。
……その時であった。
「……ん?」
部室を出て少し歩くと、水無月は目と鼻の先のところの床に小さな水滴に気付いた。部室と隣の教室の境目の、ちょうど部室の入り口からは見えない位置にある小さな空間。その壁際に近いところに水滴はあり、水無月はその近くによってしゃがみ込む。
「どしたのー、こーちゃん」
「……いえ、どうしてこんなところに水滴があるのかなって思って」
「水滴? ……あ、ホントだ」
今日、美術部以外で特別棟の三階を使っている部活動はない。普段の活動で絵の具を使う時に水を汲むことはあるが、今日はスケッチブックを使った活動だったため、水を使っていないのだ。
その不自然な水滴を見て不思議そうにする水無月だが、……初香はそれを見て、少し目を細めた。
「…………」
「どうしたんですか、初香先輩」
「――ううん、なんでもないよー。幾らなんでも考えすぎだと思うし」
初香はそう言うと、先を歩く。
「こーちゃん、早く行こうよ。美月ちゃんたちに先越されたら、ちひろんが玩具にされちゃうよ!」
「……初香先輩が先に見つけても玩具にしますよね?」
「え、もちろん」
「……あはは」
水無月は初香に小走りで駆け寄る。
そして隣に立って少し歩き……
「…………ん」
――先ほどの水滴の落ちていた方を見返すために振り返った。
何がそこまで気になるかは、正直水無月にも分からなかった。だが、無視して良いものかと、何故か思ってしまうのだ。
そんな、まるで第六感のようなものを感じながら、水無月は一色を探す。
その日、一色から連絡が来ることも、彼が見つかることはなかった。
――そしてそれから二週間の間……一色が部室に来ることは、一度もなかった。
○●○●
一色が美術部に来ないようになってしまった。それに部員が気付いたのは、実に一週間が過ぎてからであった。そのきっかけとなった初日こそ連絡はなかったものの、それ以降は美月の元に毎日連絡が来た。
曰く、漫画の進行は悪く、授業の課題が追いついていないということらしい。無理もない。漫画コースを仕切る渡邊を初めとして、それ以外にも新しい才能を育てようという教員が多いのが漫画コースの特徴なのだ。渡邊の授業以外でも漫画の授業はあり、それぞれで課題は出る。
それでも、一色は新学期が始まって一週間に一日も顔を出さないということはなかった。それなのに、一週間も来ないことに、美月は不安を隠しきれていなかった。
……水無月と気まずくなっても来ていたのに、どうして今になってこなくなったと思ったのだ。
「……おかしい!!」
「う、うるせーよ。なんだよ、いきなり近づいてきて」
教室で悠長に音楽を聞いていた雪彦に近づき、美月は彼の前の席にドスンと座って机を叩き、そう言った。
突然のことに雪彦は驚きを隠せないが、律儀にイヤホンは外していた。
「どうもこうもあるか。一色が突然来なくなることが変だ」
「漫画が忙しいんだろ? それにちゃんと毎日連絡来ているわけだから、別に深い意味は……」
「それは分かっている。でも、それでも最近はほとんど毎日顔を出していただろ? 虹と雰囲気が最悪なのに……どうも、引っかかるんだ」
美月は頭を抱える。彼女がこうも考え込むことが物珍しいのか、雪彦も彼女と同じように考えてみることにした。
――それが一色が来なくなって一週間後の出来事だ。
そして今、二週目に入った。
「「――絶対におかしい!!!」」
「ちょ、二人とも何? え、何なの? あ、ごめんね、彩華ちゃん。うちの馬鹿が騒がしくて」
教室で友人と談笑していた初香。その前に、教室に揃って乗り込んできた美月と雪彦が、声を揃えてそう言ってきたのだ。
突然のことで彼女の友人もドギマギとしている様子だ。
「初香ちゃん、私、席外した方が良いですか?」
「あ、ごめんね? 気を遣わせちゃって」
「ううん、良いんです――失礼します、先輩方」
丁寧な口調で微笑を浮かべながら席を立つ彩華と呼ばれた女子生徒。彼女に鼻の下を伸ばすのは何を隠そう、海老名雪彦である。
無理もない、清楚な雰囲気に整った容姿、スタイルも整っているといういわば大和撫子を体現した少女なのだ。
「あ、お兄ちゃん。彩華ちゃんに手を出そうものなら、私の全てを出し尽くしてでもお兄ちゃんをこの世から排除するからね」
「こ、こえぇよ!! そんなつもりねぇから!! ……でも名前まで綺麗だな――って、美月、その拳を下げるんだ!!」
話の腰を折るに折る雪彦にイラッと来たのか、美月がブルブルと拳を震えさせていた。彼はすぐにでも土下座をすると思わせるほどに頭を下げる。
「……それに彩華ちゃんは大切な想い人がいるからねー。ざーんねん♪」
「…………あの子に想われる男子は、それはもう果報者だな」
美月はしみじみしながらそう呟いた。
「――そだねー、まごうことなく、果報者だねぇ」
意味ありげにそう呟く初香は、少し小悪魔の時の笑みであった。
「……んで、お二人さん。私が親友と楽しくお話している中を割いてまで来たってことは、よっぽどのことがあったんだよね? ぶっちゃけ意味わからないし、詳しいこと、教えてくれるかな?」
「詳しいも何も、千尋のことだよ。幾らなんでも二週間で一度も部活に来ないのはおかしいだろ」
「あー、そのことかー。むしろ二週間経たないと分からなかったの?」
……鋭い一撃が、雪彦を抉る。
「ということは、初香は既に気付いていたのか?」
「当たり前だよ。むしろ気付くのに一週間もいらなかったなー。鈍感なお兄ちゃんならともかく、普通の人なら二日三日あれば気付くでしょ?」
更に鋭い一撃が、美月と雪彦に突き刺さった。
美月がその変化に気付くのに確信を持てたのが一週間、雪彦が二週間である。対し初香は二日三日で気付いていたのだ。
……ならば次に考え付くのは、それだけ早く気づいていながら彼女が何もしていなかった、ということである。
美月はそれを尋ねた。
「初香はそれで、何かしたか? 一色に」
「何かって……うーん、それがどうにも捕まらないんだよね。作業をしているのは本当らしくて、基本的に漫画コースに用意されている作業部屋に篭っているらしいから。あ、ちなみにこれはこーちゃん経由の渡邊先生情報だよ」
「……そうか――って、虹?」
意外な名前が出て、美月はそう復唱してしまう。
「そう。そんなに意外かな? たぶん私よりもこーちゃんの方が先にちひろんが来ないことを気にしていたよ?」
「……そうか。虹が……。初香はあれから一色に会っていないのか?」
「ま、そうなるねー。時々教室を覗きに行くけど、絶対にいないんだもん。作業室に行くのも、他の生徒もいるから気が引けるしさー。初香さんも手詰まりなのです」
「お前が手詰まりなら、俺らじゃどうしようもないな……ったく、あいつは何してんだか」
「…………」
雪彦がそう言うが、初香はどうにも一色が自分たちを避けているようにも感じていた。それに渡邊が全く動いていないことにも違和感を覚えているのだ。
一色が徹底して見つからないようにしている、としか思えない。学年は違えど同じ校舎で全く出会えないことの方が珍しいのだ。何より、同じ学年の水無月でさえもしばらく一色を見ていないと言う。
「まー、今は気長に待つしかないんじゃないかなー。大丈夫だよ。たぶん、しばらくしたらふらっと現れると思うよ」
「……そうだと良いのだが――」
その時、美月の携帯電話が震える。彼女は画面を開けると、そこには一色からのメッセージが届いていた。
『今日も部活を休ませてもらいます』
その一文だけが書いてあった。
一色に課題で休むのは仕方ないと言ってしまった手前、美月もあまり強く部活に出ろとは言えない。ただ、彼女たちの想いとしては一色は既に美術部の欠けてはならない仲間の一人だ。
……彼がいないと、やはり締まらないのだ。元気に活動していても、どこか何時もよりも盛り上がりに欠けるということが多々あった。
「おかしな話だな。一番静かで話さないあいつがいないのに、どうにも物足りないと思ってしまうのが……」
「……そうだな。なんだかんだで最後にストッパーしてくれてたからな、千尋って。おかげで俺らが渡邊先生にお叱りを受けることもかなり減ったし」
「いや、それは自分で気をつければ済む話じゃん」
しみじみとしている二人に対し、初香は引き笑いを浮かべてツッコミを入れる。
「……はぁ、私、ツッコミキャラじゃないんだよねー。やっぱりちひろんがいないと、的確にツッコんでくれないから、面白くなーい」
それぞれに一色に対する、求めるものは違う。それは意外と凄いことで、それだけ一色が本当は人としての魅力に溢れた人間であることに他ならない。
初香が一色に弄りの対象やツッコミ役を求めていれば、雪彦は同性としての話相手や自身のストッパー役として求めている。美月は……一体彼に何を求めているのだろうか。些か疑問が残る。
……三人の間に、珍しくも沈黙が流れた。
「……待ってるだけじゃ、どうしようもないのかもしれないな」
美月はガタンと勢いよく立ち上がる。
「時には強引な手を使うのが吉というものだ。特にあいつには、それが正しい手段であると私は判断した――さぁ、行くぞ」
「ふっ、そうだなぁ――うっし、千尋のところへ」
「あ、二人、ちょっと待って」
初香の制止も聞かず、二人は初香の教室から飛び出して行こうとした――が、彼らの前に立ち塞がる存在がいた。
……背中にギターケースを背負う男と、髪の毛を凄まじく弄りながら、青筋が浮かばせて笑顔を浮かべている女である。
「へぇ……昼休みにバンドのセッションするっていうのを連絡していたのに、それを無視してどこに行くっていうのかなぁ」
「なぁ、雪彦さ。流石にそろそろ、俺も我慢が限界ってもんだぞ、お前ら二人の考えなさになぁ!」
「「や、やば」」
……美月と雪彦のバンドのメンバーである。悪鬼迫るその表情を見て、二人は逃げ出そうとするが……バンド仲間の男女にそれぞれ首根っこを掴まれ、いつもの如く引きずられていく。
「すまん、雪彦の妹。この馬鹿共を連れていくぞ」
「あ、好きにして大丈夫ですからー。むしろその二人いることでややこしくなりだし」
「てめ、裏切るのか!? 俺らの純粋な部活仲間を想う気持ちを踏みにじって!!」
「当たって砕けろは、私の信条には合わないのだよ、お兄ちゃん」
初香は二人が引きずられていく様を見送りながら、笑うのであった。
「……でも、あながち悪い手ではないんだよね」
先ほどはあんなことを言ったものの、初香は強引な手も考えていたのだ。ただ現状、問題をしっかり把握していないから、その手を選ばなかっただけ。
しかしこうも拗れてしまえば選択の猶予はない。
「……一肌脱ぎますかー」
初香はふぅっと息を吐いて、教室を後にするのであった。
○●○●
「おっじゃっまっしまーす♪」
初香が向かったのは、渡邊の研究室である。昼休みは大体ここにいるということを事前に本人から聞いていたのだ。
案の定、部屋には渡邊がいた。……それに加えてもう一人。
「おや、海老名さん。どうしたんだい?」
「海老名ちゃんが来るなんて珍しいわね」
そこには咲良の姿があった。渡邊と一緒にお昼を食べていたのか、机の上にはお弁当箱が二つ広げられている。それを見てついニヤニヤと笑うのが、海老名初香の代表的な性質だ。
「おやおや、お邪魔でしたかー?」
「……ホント、あなたは」
咲良は早速食いついてきた初香に対して頭を悩ませるものの、流石は渡邊。特に反応することなく、余裕の笑顔を浮かべていた。
……初香はつい、渡邊に対して自分と同じものを感じた。互いに食わせ者である。
「冷やかしに来たのが目的じゃないよね? ……察するに、一色くんのことかな?」
「あやや、やっぱりバレますか?」
「まあ、そろそろ君が来る頃だと思っていたからね。貴音さんや海老名くんは来ないだろうから」
「流石によく分かってますねー――で、本題。ぶっちゃけ最近のちひろんはどうですか?」
初香は隠すことなく単刀直入にそう尋ねた。
「思っていたより直球だね」
「まあ勿体ぶる必要もないですしねー」
「その方が楽で良いよ。……それじゃあ質問の答えだけど、正直に言えば分からないよ」
渡邊の回答に、初香は予想外だったのか、目を丸くして首を傾げた。
「意外ですねー。渡邊先生ならビシッと答えてくれると思ってましたよ」
「僕を買い被り過ぎだよ。……分からないっていうのは、たぶん君の持っている情報と大差ないってこと」
「あ、なるほど。じゃあ聞き方変えますね。先生から見て、ちひろんは元気ですか?」
「……元気、ではないと思うよ。表情は普段とは変わらないけど、あれだけ自分を追い込もうとしている姿を見れば、流石にあれを元気とは言いたくないかな」
渡邊はコーヒーを口にしながらそう呟いた。
「自分を追い込んでる?」
「僕の目から見たら、の話さ。残念ながら僕は生徒として漫画を描いている一色くんしか知らないからね。普段から彼があんな感じかは分からないけど――何かを忘れたくて、作業に没頭している。僕の目にはそう映るよ」
……渡邊は儚げな表情を浮かべながら、そう初香に説明した。
「自分で自分を追い込む、何かを忘れるために――あぁ、思ったより拗れてるなぁ」
「……彼は毎日、学校が空いているギリギリの時間まで作業をしているよ。運動部が活動をしている時間と同じくらいだから、既に美術部は帰っている時間帯までね。だから会えないんだと思うよ」
「そんなに遅くまで……それは会えないわけですねー。たぶん、ちひろんのことだから朝も早く来ていることだろうし」
「……でもそんなに追い込んでたら身体に酷よ。きっと睡眠時間も減らしているんだろうし」
保健医としての観点から咲良が一色の心配をする。事実、一色は最低限の睡眠時間で学校を往復して作業をしているのだ。家でも変わらず作業である。
そんな状況を想像した初香は、表情は変わらずとも心配する気持ちは倍増した。
「まあ大体のことは分かりました。ごめんなさい、二人きりの時間を邪魔しちゃって」
「海老名ちゃん、それわざと言っているでしょ!? ……全く、大人をからかって」
「あはは、そういうちゃんとしてる大人だから、意外と初々しい反応してくれて満足ですよー?」
「はいはい、早く行きなさい」
咲良は初香を適当にあしらい、手で彼女を払う。
「ではでは、失礼しましたー! あ、何か新情報あったらよろしくです、渡邊先生、さーちゃん♪」
初香はあざとく敬礼のポーズを取りながら、研究室を後にする。最後の最後まで初香のペースのままだったからか、咲良は額を抑えていた。
「はぁ……だから、咲良先生でしょう。全くあの子は」
「まぁまぁ、海老名さんのことで一々反応してたらキリがないよ」
基本生徒の対応が上手な渡邊は咲良にそうアドバイスする。
……初香がいなくなり、静かになる研究室。それを見計らったように、咲良は渡邊の近くに寄り添った。
「……もう力抜いていいわよ、玲」
咲良は微笑みを浮かべる渡邊の頬に指を添える。その肌は少し冷たく、強張っていた。
「……なんのことかな」
「私の前でくらい力を抜きなさい――本当は罪悪感で胸がいっぱいなんでしょう? 一色くんのこと」
……ピシッと、渡邊の笑顔が曇った。次第に渡邊の笑顔は無くなっていき、思いつめたような表情を浮かべた。
「……僕もまだまだだなぁ。隠しきれてると思ってた」
「生徒を騙せても私を騙せると思わないで」
「……わかってるよ、御子――重なっているんだ。僕と一色くんが話した日と、彼が美術部に行かなくなってしまった日が」
渡邊は視線を下げ、声のトーンを落としてそう言った。
……それを渡邊が知ったのは、水無月に彼のことを聞かれた時だった。その時は彼女が何を言っているか分からず、一瞬の間、頭が真っ白になってしまった。
「一色くんが何を考えているのか、それは僕には分からない。だけど確実に言えるのは、僕との会話を経て出した結論が一因しているってこと。それでもし、美術部に行かないことになったんだとすれば――僕は、取り返しのつかないことをしてしまったんだ……っ」
渡邊の悲痛な後悔が、研究室に静かに浸透した。それは決して、生徒の前では見せない渡邊の顔。それを前にして咲良はただ、黙って彼の手を握りながら話を聞いていた。
「生徒を特別視してはいけないのに、僕は彼を特別扱いしてしまった。静観をするべきなのに、一色くんの心の中に土足で踏み込んで、荒らして、その結果がこれだ。……僕は教師失格だ。これでもし一色くんが」
「――馬鹿ね、玲は」
……それまで話を聞いていた咲良が、微笑みを浮かべながら渡邊のことをそう称する。
彼の手を両手で包み込むように握るその様は、子供をあやす母親のような仕草だ。彼は子供のように目を丸くして、咲良を見つめる。
「そんなことは、私よりも理性的な玲が誰よりも心掛けていたことでしょ。それでも玲が感情的になってしまった。……人間なら当たり前のことよ」
「それでも、教師は常に冷静でいなくちゃいけないんだ。生徒のことを第一に思って、その上で」
「……その上で玲は選択したんでしょう? 一色くんと向き合おうと。例え自分が憎まれる立場になってでも、一色くんを……水無月ちゃんを助けたいって、思った。それを否定する言葉を、私は持ち合わせていないわ」
咲良の言葉は続く。
「……玲の行動は決して間違っていなかった。だって、一色くんはこちらから踏み込まないといけない子だわ。玲の話を聞いて一色くんは、部活に行かないことを選択してしまった。……良いじゃない、それならそれで」
「――良くない!」
……咲良の言葉に、渡邊は声を荒げた。
「一色くんは、美術部に入ってから本当に明るくなったんだ! だから、それを捨てるのは彼の本意ではないんだ。……彼はきっと、自分の心に蓋をしている。自分だけが……傷つこうとしている」
「……そう。きっとそれは、玲だから分かることなのね――分かっていることだと思うけど、それでも言うわ。問題の解決のためのレールを私たちが組んで、それを生徒が準ずる。ええ、最も穏便な解決法ね。もしくは誰も傷つかないかもしれない」
咲良は、だけど、と続けた。
「……それでは、人は成長しないわ。子供だけじゃない、人は失敗を重ねて成長するの。それは誰よりも玲が分かっているはずよ。……私もあなたも、たくあんの失敗を重ねて今、ここにいる――でも私は今が幸せだって心から思っている。玲はどう?」
「……僕も、そうだよ」
「――昔辛かった。でも今は幸せ。それは成長を促す失敗を経たから。……一色くんは今、その成長の過程にいる。自分で何かを考えて、熟考して……そして間違ってしまった。なら次は、その間違いを正す番よ。それはきっと、玲の仕事でも私の仕事でもない」
ならば、それは誰がするべきなのか。
本人なのか、それとも……その答えは、ない。きっと一つではないのだ。
人の心に答えは一つではない。それを言ったのは他の誰でもない――渡邊玲だ。
「ありがとう、御子」
渡邊は彼女の目をしっかりと見て、そう言う。
「本当に、御子にはいつも救われてばかりだね」
「そうねぇ。……昔っから玲ってしっかりしているのに、偶にどうしようもなく不安定なところがあるもの。そこのところは、昔も今も変わっていないわ」
「わ、悪いとは思っているよ」
「……でも、そういう肝心なところがお人好しなところは昔から変わってない、玲の魅力よ」
咲良は少し照れ臭そうにそう笑うと、渡邊も同じように笑った。
「それは君も同じだよ――咲良先輩」
「……ホントにあなたのそういうところも昔から変わってないわね。……渡邊くん?」
……二人は昔を思い出すように、そう笑顔を浮かべて会話を深めた。
――そんな研究室の扉の前で、初香はしゃがみ込んでいた。
「……そうだね、先生たち――それは私たちとちひろんがしないといけないことだよ」
初香は目を瞑り、自分に言い聞かせるように呟く。そして、しみじみと思った。
「――本当に、果報者だよ。ちひろん」
そう言いながらも、その表情は決して彼を責めるものではない。
初香は少しの間、余韻を楽しむようにその場所に座り続けるのであった。
○●○●
筆洗器の中の水に、筆を浸らせる。水分を十分に含んだ筆を次はパレットの上に落とし、絵の具と合わせて色の調節をする。出来た絵の具を筆に馴染ませ、そうしてようやくキャンバスの上で筆を走らせて、色を描いていく。
ペタペタと塗る音が聞こえたと思えば、すぅっと風を切るような音がする。
「…………」
そうやって、水無月虹は部室で一人、絵を描いていた。昼休みを返上して描くその絵は、授業の課題であるコンクールに出すための作品だ。
……そう、一色と口論に発展してしまった作品である。
――あれから水無月は、この作品を積極的に手を加えていた。それまでは隠れて作業をしていたのにも関わらず、一色との口論の後からは部活中の皆の目が向いている中でも構わず描いている。
……だが、その表情には笑顔の欠片もなかった。ただ黙々と筆を走らせ、どうして良いか分からないから何度も塗り重ねるだけ。今まで自分がどんな塗り方をしていたのだろうと考えようとも、どうしても思いつかない。
「……みんな、遅いな」
自分以外の部員が一向に部室に来ないものだから、ため息交じりにそう呟いてしまう。
「……分からないよ、一色くん」
……筆を持つ手が、少しだけ震える。
――水無月はずっと考えていた。どうしてあの時、一色が自分にあんなことを言ったのかを。普段冷静で優しく、自分のことを気遣ってくれる一色が、どうしてあのように声を荒げて問い詰めてきたのかと。
しかしその答えは分からなかった。あの日、家に帰って布団の中で考えても一向に答えは出なかった。
「(一色くんはどうしてあんなに悲しそうだったのか。それが分からないから、一色くんとどう接して良いか分からないよ)」
だから一色が部室に来ると、水無月は急に言葉数が減るのだ。それ以外なら無理をしてでも明るく接することが出来るのに、一色の前だとそれが出来なかったのだ。
だから、彼女は自分の作品を描くことにした。この作品を描けば、一色と向き合えると思っていたから。
……どうしても、あの時に一色が言った言葉の数々が引っかかるのだ。
「……まただ」
また、水無月の手が止まる。どうしても、先のイメージが出来ないのだ。
水無月は漠然としながら手を動かし、少しずつ形を作り出していく。そうして絵の完成形をどこかで想像し、それに向けて描き進めていくのだ。
……だが、ずっとだ。ずっと、その漠然は続いている。どれだけ時間を費やしても、彼の前で絵を描こうとも、何も進むことはなかった。
「……私らしさって、何? 私が本当は描きたい世界って……」
水無月はキャンバスに指を添わせながら、俯いた。
――ふと鐘の音が鳴り響く。水無月は時計を見ると、既に下校時間となっていた。
それとほぼ同時に、廊下の方から足音が聞こえた。
「……もしかして」
水無月はバッと立ち上がる。そして部室を出て廊下に顔を出すと――
「……虹、どうした?」
「……美月ちゃん」
そこにいたのは一色ではなく、美月であった。
「すまないな、今日はバンド仲間に捕まって行けなかった――初香と一色も来ていないのか?」
「……うん。二人とも来てないよ」
「そうか。……二人で帰るか?」
……水無月はコクリと頷いた。
水無月は部室に戻って筆洗器と筆を持って廊下に出る。後片付けだ。それを理解すると、美月は彼女の遣ったイーゼルとキャンバスを準備室に戻した。
部室の近くにある水道に行き、そこで汚れた水を流す。流水は以前よりも一層冷たくなっていて、少し痛いほどであった。
「……っ」
……水無月は頭を抑える。水の温度の低さで体が少し冷えてしまったのだろう。それが頭痛に繋がったかもしれない。
道具を洗い終えると、それを持って部室に戻る――と、その時、カランと道具を落とした。
「……あ――疲れてる、のかな」
水無月は両手の掌を開き、何度か開閉を繰り返す。
「……美月ちゃんを待たせたら悪いよね」
水無月は落ちている道具を拾って軽く水で濯ぎ、改めて部室に戻っていった。
学校を出て、しばらく駅に向かって歩き、そして電車に乗る。水無月と美月は近所に住んでいるため、帰り道は一緒だ。
……電車に乗って自分たちの最寄り駅で降車する。そして肩を並べて暗がりな住宅の並ぶ道を歩いていた。そこには普段のような会話はない。水無月が俯きながら歩いているからか、中々会話に発展しなかった。
「……今日は随分と、静かだな」
「そうだね。……ここらへんは、本当に何にもないから」
「周りのことじゃない。虹のことだよ」
「……うん。ちょっと、疲れちゃった」
水無月は素直に認めた。
「……なぁ、虹。お前は、このままで良いと思っているか?」
「……一色くんのこと、だよね――分からないよ、私も」
美月は頷いた。
「……私のせいだと思う。一色くんが部活にこなくなったのは。あれだけ冷たい態度を取ったんだもん」
水無月は自分を責めるように、そう呟いた。
「……やっぱりお前は変わらないな。自分のせいだって言うと思っていたよ」
「だ、だって……そうとしか思えないよ」
「仮にそうだとしたら、最初から来ないだろう? でも一色はしばらくの間、ほとんど毎日顔を出していた――それに律儀に毎日連絡してくるんだ。きっと自分がいかないことで虹が自分を責めてしまうって、そう思っての行動なんだろう」
「……でも、そんなんじゃないと、思うの。どうしてか分からないけど」
……実際に、美月の解釈はほとんど間違ってはいない。一色が美月に一応は連絡を毎日送っているのは、彼女の言う通り水無月が罪悪感を抱かないようにするためだ。
だが、彼が部活に顔を出さなくなった理由。それだけ軽視していた。
そして、その理由は水無月の言う通り、彼女が大きく関わっていることを。もしくは、多少は気付いているものの、水無月を気遣って断言していないのかもしれない。
水無月は釈然としていない表情を浮かべる。それを見て美月は……
「あまり気を滅入らせるなよ、虹。目の下に隈が出来るているぞ」
「……最近、あんまり眠れなくて」
「そんなのでは身体が持たない。きっと虹は色々と考えすぎなんだよ――どうだ、今日は私の家に泊まるか?」
美月がそう提案するも、水無月は首を横に振った。
「今日は良いや。お父さんが帰ってくるから」
「……そうか。なら親父さんによろしく言っておいてくれ」
「うん」
水無月は微笑みを浮かべて頷く。
――ふと水無月は思い出す。この道を、数か月前に一色と歩いたことを。あの時、一色は水無月に何色であるということを漏らした。
その時、水無月は自身のことを虹色の称した。
……それを思い出して、改めて水無月は確信したのだ。
「……私って、物凄く――中途半端だよ」
……そう、自分を自嘲するように呟いたのだった。
それを聞いて美月は何も言えず、ただ彼女の隣を歩く。二人の間に会話はなく、肌寒い風の音だけが響いた。




