6幕 期待と不安
ネームを描いては消して、また描いては消す。一色はそれを何度も繰り返していた。ここ数日間、その同じことを繰り返していた。
どんな話を描こうとも一色は納得できない。何度も熟考して、その上で大まかに完成しても、それがどうしても完成形には見えなかった。そうして自室のゴミ箱の中には何枚ものくしゃくしゃに丸められた紙が積み重なり、山を作り上げた。
「……はぁ」
自室にて、机に向かう一色はため息を吐いた。既に短針は十二の数字を過ぎており、夜中と言える時間帯である。そんな夜中に机の豆電球だけをつけて作業しているのだが、完全に行き詰っていた。
「おにいちゃん、まだねないの?」
「……悪い、起こしたか」
和那は少しばかり寝ぼけた目を擦りながら、上半身を起こして彼を見つめた。
一色は椅子から立ち上がってベッドに腰かけ、和那の頭を撫でる。
「……しゅくだい、たいへんなの?」
「そうだな。宿題に納得がいかないから、ずっと悩んでいるんだよ」
「……もう何日もそんなかんじだよ。おにいちゃん、むずかしい顔してる」
和那は一色の頬を両手で掴んでふにふにと揉むように触る。……一色は顔を触れられ、自分の頬が強張っていることに気付いた。
……渡邊にプロットを見せてから大よそ二週間。あれから作業は一向に進んでいなかった。
他の漫画コースの学生は渡邊の審査を通っていないことがほとんどである。少なくともプロットが通ってネーム作業に進めないのは一色くらいのものだ。
……この二週間、一色はそれまで毎日行っていた部活にもあまり足を運べていなかった。三日に一度程度は軽く顔は出すが、すぐに漫画の課題の方を優先してしまっているのが現状である。
そのせいで必然と誰かと会話をする時間も減り、気が滅入ってしまっていた。
「ほら、俺ももう寝るから、和那も早く寝ろ。和那が寝るまでは起きてるから」
「うん」
一色は机の上の豆電球を消して、ベッドに入って和那を寝かしつけるために頭を撫でる。元々眠かったのだろう。和那はすぐに心地よい寝息を漏らし始める。。
「……良くも悪くも、やっぱり俺にとっての創作意欲はあそこだから、行かないとダメなのか」
……その時だった。タイミングを見計らったように一色の携帯電話に着信が入った。画面に表示されているのは初香である。一色は電話が長くなることを察し、和那を起こさないようにそっとベッドから出て、リビングに向かった。
「もしもし、一色です」
『こんばんはー。夜中にごめんね、ちひろん。今、大丈夫?』
「珍しいですね。こっちのことを気遣うなんて」
一色は思ったことをそのまま口にすると、初香は案の定の反応をする。
『やっぱり最近、ちひろんは私のことを小馬鹿にしてるー!! 私だって気くらい使うよー!!』
「冗談ですよ。……で、何か用事があったんじゃないですか?」
一色は怒る初香を宥めるように取り繕う。初香も納得こそしていないが、あまり電話を長引かせることも本意ではないのだろう。すぐに本題に入った。
『まあそのことは今度じっくり話すとして……。あれだよ、最近ちひろん忙しくてあんまり部活に来てくれないから、調子はどうかなって心配になって』
「……すみません。出来る限りは行こうとしてるんですけど、今の作業が煮詰まってて」
『ちひろんって作業は淡々とこなしてそうだけど、滞ることもあるんだね。なんか意外~』
「先輩も十分失礼ですよ」
『お互い様だね♪』
一色は非常に物申したくなるが、自分も先ほど失礼なことを言ったばかりなので声に出さないようにした。
しかしこうして先輩を心配させて、なおかつ電話まで掛けさせてしまったのは思うところがあったのか、電話口に向けて話し始めた。
「煮詰まっているんで、明日は部活に行きますよ。今週は出来る行こうと思います」
『そっかー。うんうん、やっぱりちひろんがいないと皆、中々物足りなくてねー』
「……そんなことはないでしょう。俺は話しかけられないと話しませんし、黙々としてますし」
『ええー、それが良いんだけどなー。それにちょっかいかけたら、欲しい反応とツッコミくれるからすぐくと楽しいよ?』
「……明日からスルーしても良いですか?」
『……別に良いけど、たぶん無理だと思うなー』
何が無理なのか、どのようにして無理にするのか。それが非常に気になるところであるが、怖くて聞けない一色であった。
『まぁ冗談は置いておいて……ちひろんあんまり来ないからみんな物足りないって顔してるよ。ほら、私が連絡してきた時点でお察しでしょ?』
「……誰の差し金ですか?」
『えっとね、美月ちゃんとお兄ちゃん。あと虹ちゃんだよ』
「全員じゃないですか」
『だから言ったでしょー? みんな物足りないって』
そこまで言われてしまえば、行っていないことに軽く罪悪感を抱いてしまう。美月や雪彦は基本的にどうでも良いことは頻繁に連絡してくるのに対し、このような真面目な心配の時は自分から連絡できない困った性質をしているのである。
そういう意味では初香はふざけた連絡をしてくるが、心配する連絡もしっかり出来る少女なのである。そういうところが憎めない部分ということは一色も理解しているが……
『むふふ~、そつなく後輩を気遣う私って良い先輩でしょ~? ほらほら、褒めてくれてもいいんだよ~? そのノリで初香ちゃんって呼んでみよう!』
「そういうことを言うから海老名先輩はダメなんです」
一色はそう切り捨てると、おもむろに電話を切る。携帯電話をポケットに入れて自室に戻り、部屋の扉を開けた時、丁度メールの受信を知らせる音が鳴った。
大体の検討がついている。一色は画面を操作してメッセージを確認すると……
『明日、お話しできるのを楽しみにしてるからね♪ 楽しみで夜も眠れ――』
最後まで読むことなく、一色は携帯電話を閉じる。
「……あざとすぎるから」
初香が小悪魔な笑みを浮かべている様子を想像して、柄にもなくイラッとする一色であった。
○●○●
初香からの催促もあり、一色は放課後になると真っすぐ美術室に向かった。他の漫画コースの生徒の大半は漫画室に直行するのであるが、ネーム作業で止まっている一色はそこに行ったところで、何も変わらないと判断した。
特別棟に入るや否や、後ろから肩を組まれる。一色に対してそのようなことをする人物は少なく、更にその体格から誰なのかを判断したのか。その人物の顔を見ることなく話しかけた。
「暑苦しいです、雪彦先輩」
「おいおい、お久しぶりの先輩に対してそれはないだろ?」
雪彦は快活な笑みを浮かべて爽やかにそう返す。
「……お久しぶりです。先輩とは一週間ぶりぐらいですね」
「おうよ」
三日に一度は部室に行っていた一色であるが、実は雪彦と会うのは一週間ぶりだった。部室に毎回全員が揃っているわけではなくかった。一色が部活に顔を出した時にたまたま雪彦が不在である、ということが続いたからだ。
「先輩は作業……音楽コースは練習ですね。練習は大丈夫なんですか?」
「音楽コースは最悪、追い込まれてから本気を出せば問題ねぇからな。絶対的に時間が必要なサブカルチャーコースと美術コースに比べたら、うちはまだ楽な方だよ」
「なるほど……だったら何で俺が部活に行った時、雪彦先輩だけいなかったんですか?」
「は? そりゃ、お前……デートが、立て続けにな?」
「…………あぁ、そうですか」
「お前絶対興味ないだろ。そこそこ長い付き合いだから俺も流石に分かってきたぞ」
まさにその通りである、海老名雪彦。
……と、そんな下らない会話をしながらも一色と雪彦は部活に向かった。
「雪彦先輩と貴音先輩が部活に来れるのは分かったんですけど、海老名先輩は大丈夫なんですか? 俺も人のことは言えませんけど、アニメーションは漫画以上に絵を描かないといけないはずですけど……」
「あいつのことを心配しても無駄だ。兄の俺が見た限りでも、あいつは要領が良いからな。ちゃっかり人の見てないところでやってるタイプなんだよ、あいつ」
「……流石に兄は妹のことを良く理解しているんですね」
「お前だってそうだろ? まあうちの初香はお前のところの和那ちゃんと違って可愛げがないけどなぁ」
何気に一色と雪彦は兄同士であるという共通点を持っており、だからこそ意外と気が合うところがあった。
しかし一色は雪彦の言ったことに苦笑いを浮かべた。
「可愛げはありますけど、俺も最近は甘やかし過ぎてるんじゃないかって思ってます。最近は特にあいつの甘え方が尋常じゃないんです」
「……あれ以上か?」
「ええ、あれ以上です――とうとう自分の部屋は物置と言い始めました。俺のプライベートな時間はあいつが眠ってからの数時間だけです」
「…………互いに妹には苦労するな」
「全くですね」
妙なところで共感しあうのも、一色と雪彦との兄同士の絆である。
……部室の扉は開ききっていた。つまりそれは、誰かが既に来ているという証拠である。
一色は先だって部室に入った。するとそこには美月と水無月がいて、既に部活動の準備をしていた。
「あ、一色くん!」
雪彦の姿には目もくれず(水無月は雪彦とも会うのは数日ぶりである)、一色の姿を確認して満面の笑みで近づいてくる。雪彦は一色の後ろで血の涙を浮かべていた。
しかしそんな雪彦を傍目に、二人は会話をした。
「今日は漫画は大丈夫なの?」
「そっちが行き詰まってるから、こっちに来たんだ」
「あ、そっか! ……後で良いから話さない? もしかしたらそれが作品に繋がるかもしれないし」
すると水無月は美月や雪彦に聞こえないように、ボソボソと小声でそう言ってきた。別に隠さなくても良いものを、と一色は思う。しかしその提案自体は魅力的なもので、すぐに頷いた。
「悪い、頼めるか?」
「うん!」
一色が素直にそう頼むと、水無月は快諾する。
……しかしながら、水無月の一色に対するこの協力姿勢は疑問を持たざるを得ないものだ。
一色からすれば水無月にしてあげたことも、何かをあげたこともない。むしろ逆に、いつも水無月に教えてもらって、助けてもらってばかり。義理堅い一色にとってギブ&テイクの天秤のバランスは完全にギブ。つまり与えられる側に振り切っているため、心のどこかで申し訳ないという気持ちが募る。
「何を二人でこそこそと話しているんだ? それと一色よ、部長である私に挨拶がまだだぞ!」
「あ、こんにちは」
「――軽いんだが!?」
いつものことであるが、美月の扱いが雑であることは言うまでもなかった。
……と、ここで一色はあることに気付いた。普段ならば自分と同じくらいのタイミングで来て、かつ騒がしい初香がいないことに。いつもの流れではここで初香が一色に抱き着き、それを華麗に避ける。それが美術部の恒例であった。
一色は美月に初香の所在を尋ねると……
「ああ、初香か。あいつは今日は休みだぞ?」
「…………はぁぁぁぁ、そうですか」
――催促した張本人が欠席という事態に、一色はこの日、一番深いため息を吐くのであった。
○●○●
部活動は滞りなく終わり、一色は水無月と共に喫茶店に来ていた。本来ならば雪彦と美月も付いてきそうなものだが……
『貴音ちゃーん? バンドの集まりサボって何してるのかな~?』
『雪彦。お前少し顔が良いからって俺たちのことを舐めてないか? 舐めてるだろ。聞いたぞ、昨日は家庭の事情とかじゃなくて女とのデートでサボっていたらしいな』
『ぶ、部活に勤しんで何がわる……おい、離せ! 私はまだ満足してな――』
『だ、誰から漏れたぁ!? もしかして――初香てめぇぇえぇぇ!!!』
部活が終わった直後に現れた額に青筋を立てた二人の男女が、美月と雪彦の首根っこを掴んでどこかへ連れていってしまったのである。その二人とは美月と雪彦の音楽コースのバンドのメンバーで、我が道を行く二人に悩まされている不憫な学生だ。一色は二人に深く同情した。
……どうやら美月と雪彦は、バンド仲間で練習の約束をしていたが、それを思い切り無視したらしい。バンド仲間があのような行動を起こすのは当然だ。
そしてその二人に情報を提供したのは無論、あの小悪魔だ。
……そうした経緯があって、一色と水無月は面倒事に巻き込まれることなく、喫茶店で会話の華を開かせているのだった。
「……初香先輩は流石だね。催促して来ないって、中々出来ることじゃないよ」
「褒めることじゃないけどな」
ちなみにであるが、今は件の初香について話していたところである。
「その辺の追及は明日するよ。最近は渡邊先生をお手本にしてるから、逃がしはしない」
「……何気に美月ちゃんたちが発狂しそうだね、それ」
苦笑いを浮かべる水無月。しかし彼女の興味は初香のことよりも、一色の作品の方に向かっていた。
視線が明らかに一色の鞄の中に釘付けだ。流石にそれはあからさま過ぎて、一色も困る。
「……そんなに気になるか?」
「え、ええ? そ、そんなことないよ? 別に一色くんとのお話しがつまんないとかじゃなくて……前からずっと気になってたから。……えへへ」
「……わかったよ」
一色は鞄の中から紙の束を取り出す。それは一向に進むことのないネームだ。描き直し続けたネームの束はかなりの量になっているが、その束の中には納得できるものは一つとしてない。
「それだけ描いているのに行き詰ってるの?」
「……描いても描いても納得できないんだ。話の展開とか描写テクニックとか、そういう点は良いとしても……俺の考える話ではキャラクターを活かしきれないんだと思う」
「……読んでも良いかな?」
水無月は恐る恐るそう尋ねる。一色は一瞬それを躊躇うも、意を決したようにネームを水無月に渡した。
水無月は受け取り、それを近い距離で見つめるように読む。裸眼ではあまり視力が良くないと一色は知っているため、それについては触れずただ彼女が読み終わるのを待った。
一色がコーヒーを飲み切り、おかわりを店員に頼んだタイミングで水無月はネームから目を離した。
「……なんとなくだけど、一色くんが納得できないのも分かる気がする」
「……っ!」
水無月は真剣な表情でそう言うと、一色はハッとした顔つきで水無月を見る。
「水無月もそう思うか?」
「うん。なんとなくだけど、これを楽しく描いているとは思えない……かな? プロットを見た時と違って、世界が簡潔にまとまり過ぎているというか……ごめんね、言葉に出来ないや」
水無月はそう言うものの、一色は今の彼女の言っている意味が理解できた。
……ただまとまっているだけの作品。これならばプロットの方がまだ面白かったとさえ自分でも思っていたのだ。水無月の手元にあるネームは、言ってしまえば「今までの一色の作品」だ。今まで一色が描いてきた漫画。それは面白くないわけではないが、魅力に欠ける話と称され、そこから未だに抜け出せていない。
水無月もそれを感じ取り、その上で一色の悩みを看破したのだ。だから一色の関心は隠しきれなかった。
「でも、一色くんがこれを描いてる時って、多分楽しくやっていないんだろうなっていうのは、わかった。たぶんいつもみたいに難しい顔で考えているんだろうなって」
「……俺、いつも難しい顔をしているか?」
水無月に指摘され、不安になって一色はそう尋ねると、水無月は慌てた顔つきになった。
「ごめんね、別に悪口とかじゃないんだよ!? ……ただ、一色くんっていつもすごく頑張ろうとして、それで空回りしちゃうのかなって思ってさ。今回だってプロットはあれだけ自由な世界観を描いていたのに、ネームだと失速しているって感じがして」
水無月の指摘は、実に的確であった。彼女の言う通り、一色は常に作品と向き合っている。自分の作品を作ることに真面目に取り組んでいる。
そんな真面目な一色だからこそ、行き詰っているのだ。適当に考えるわけにはいかない。みんなに面白いと思ってもらえる、そんな素晴らしい作品にしたい。その思いが先決して、ただ面白い話を求めて何度も思考し、錯誤を重ねて……そして止まっている。
「……不安、なんだと思う」
ふと、本音が漏れす。
「自分がこれから描こうとする作品は、たぶん今までの自分にはないものなんだ。それを描いて、もしもそれが酷評されたり、否定されたって考えると……どうしようもなく怖くて、不安で」
一色の心の底に溜まり続けていた不安が、水無月に向けて発せられる。一色は彼女に顔も合わすことも出来ず、下を向いて話し続けた。
「……期待と不安って、どうしようもなく纏わりつくんだ。自分が自信を持って作った作品も、第三者には良くは見えないかもしれない。だから怖くて踏み出せない――」
まさに今の自分を象徴していると、心の中で思った。一色は自嘲のような笑みを浮かべて、顔を上げた。
「だから俺は水無月が羨ま――し、い」
顔を上げて、一色は言葉を失った。
水無月が優しそうな表情を浮かべているものだと思ったのだろう。水無月ならば自分の話を優しく受け止めて、その上で何か取っ掛かりになるような言葉をくれるのだと、そう思っていた。
……だけれど、その表情はこれまで見たものとあまりにも違うものであった。
――悲しげに一色を見つめ、まるで彼に縋りたいと願うような表情。今すぐにでも対面に座る一色に抱き着いてくると思わせるほど、不安な表情。
その表情を見て、言葉を失う。
一色は知らない――こんな水無月虹を。こんな不安に擂り潰されそうになっている彼女を。
「……みな、づき?」
……繋ぎ合わせたような声で、一色は水無月の名を呟くと、彼女は下唇を噛む。そして一度下を向き、
「……怖いものは、怖いよね」
再び顔を上げた時、その表情はいつもの水無月の笑顔であった。
「…………お店、そろそろ出よっか」
一色は、水無月の提案に頷き、喫茶店を出る。
……その心には、疑問が残り続けていた。




