5幕 あと一歩先に進めない
一色たちの通う虹陸芸術専門高等学校のクラスは、コース毎に振り分けられているわけではない。クラスは全コースからランダムに振り分けらているのだ。よって一色のクラスには自分と同じ漫画コースの人物もいれば、音楽コースや美術コースの人物がいる。これは校訓の「優れたものは視野の広いモノから生まれる」というところからきているらしい。
要は色々な芸術に携わるものと一緒に行動し、価値観をぶつけ合うことで新しいものを生み出そうと、研鑽しようという考えだ。
話を戻そう。一色のクラスも違わず、この学校においてクラスとコースは同一ではない。一色の所属する漫画コースは比較的大人しい人物で構成されていることが多いが、しかし他のコースの人物層は多種多様である。特に全体的に音楽コースは騒がしい人物が多い。
普段は一色が一切絡まないような者たちである――しかしあろうことか、最近彼らが一色に絡むことが増えているのである。
「おはよー、一色くん。見たよ、今日あの貴音先輩と登校してたでしょ! いやぁ、まさか一色くんがあの貴音先輩の牙城を陥落させるとは思ってもみなかったよ!」
「一色さん、雪彦先輩とは遊びだったんですか?」
「一色も皆でカラオケ行こうぜ! 俺ら音楽コースの腕前を見せてやんぜ!!」
――このように、ほぼ美術部のせいである。
一年生の間でもやはり雪彦と美月は有名で、特に音楽コースの学生たちから絶大な人気を誇っているのだ。教師人気とは反比例し、なんだかんだで。
そんなこともあり、美月と雪彦が組んでいるバンドは、この学校の数多あるグループの中でも飛び抜けた人気を誇っている。意外にも。
そのような二人が気に入っている共通の後輩である一色もまた、少しばかり有名になってしまったというわけだ。
特に新学期が始まってから彼らの猛攻は激しく、一色は何とかやり過ごすことで手一杯なのであった。
「――はぁ、どうしてこんなことになってしまったんでしょう」
「そんなに悲観するようなことでもないんじゃないかな。良いことじゃないか、友達が増えて」
「友達じゃないです。クラスメイトです」
昼休み、渡邊と漫画室で昼食を食べている(逃げてきた)一色は、少しばかり功垂れるながらそう文句を言う。それを微笑ましく思う渡邊は、にこやかな笑顔を浮かべている。それが余計に腹立たしいと一色は感じていた。
「でも別に嫌というわけではない、と僕は思うけど……予想するに、恥ずかしいのかな?」
「……深読みしないでください。単純にうるさいのが嫌いなだけです」
「とか言って、実際には親しげに話しかけられて嬉しかっただろう?」
「…………そんなこと、ないです」
「はは。そういうことにしておくよ」
渡邊は不敵に笑いながら、コーヒーをコクリと飲んだ。
そんな彼の手元には一束の紙があった。それは一色の描いた漫画のプロットであり、一色がわざわざ昼休みに渡邊の元に赴いた本当の理由はそれだ。二学期から始まる漫画コースの課題地獄の一つを早速終わらせた一色は、担当教員である渡邊にそれを見せに来たのである。
「……ふむ」
渡邊は談笑を中断し、一色のプロットを熟読する。一色としては渡邊から何度も指摘をもらうことが目に見えているからこそ、こうして早々に課題を見せに来たのだ。
渡邉が読んでいる間、一色はとても長い時間が過ぎるような気分を味わっていた。渡邉は普段、もっとサラサラと目を通す。故に一色の感じているものは決して勘違いではなかった。
……そうして読み終わり、紙を机にトントンとして体裁を整えた。
「――うん、面白い。これならすぐにでもネームにした方が良いね」
……それは、一色の思惑は良い意味で外れたのだった。
「そ、そうなんですか?」
「……不満かな? それとも僕が何にでもいちゃもんをつけるような男に見えたかな?」
「いえ、そういうわけではないんですが……自分的にあまり自信があったわけじゃないので、驚いたっていうのが本音です」
……そう、一色は今回のプロット、自信がなかったのだ。
今回一色が考えた話は、普段の彼からすれば作風を大幅に変えたものだ。普段はリアリズムを第一に考えた、現実世界に忠実な言わば「真面目な漫画」を描いてきた。しかし今回の作品は趣向が大きく変わり、非現実を舞台にした面白可笑しな世界観を作り上げた。
「そうなんだね。……僕はこの話は好きだよ。寡黙なのに自分の考えが駄々漏れな主人公と、やることなすこと失敗ばかり。でもそれを繰り返しながらも努力を怠らないヒロイン。そんな二人の死後の世界を舞台にしたシリアス&コメディな物語。一色くんらしさも残りつつ、今までの君にはなかった色が付いた作品だと思うけどね」
「……だからこそ自信がなかったんです。設定に理論的説得性はなくて、どちらかと言えば感情論が先走る作品です。だからそこを突かれると思っていたんですが……」
「まあ確かに、死後の世界があるなんて科学的根拠は誰も知らないだろうけど――でも漫画っていうのは、現実にないものを描いてこそだと思う」
渡邊は一色のプロットを眺めながら、目を細めてそう語り始める。
「もちろん現実にある問題を描いて、社会に対して問題提起をするような作品も存在しているよ。それが劣っているとも思わない。非常に現実的な考えがあり、それを作品にすることが出来るというのは素晴らしいことだと思う――だけど元来の漫画っていうのは、現実では起こりえないこと。または起こってほしい理想を描くものなんだ」
「……理想、ですか」
「そう。だから作品制作っていうものは時間を忘れて没頭してしまう。だって作者が息を吹き込む作品は、自分の理想を思い描いた面白いものなんだからね。そして自分で作り上げた作品はまさに子供さ。そして子供は親の想像に反して驚くほどに成長していくものだ。……一色君は自信がないと言うけど、なら君はこの作品が嫌いかい?」
「……いえ。自分が少なからず魔良いと思ったから先生のところに持ってきました」
一色がそう伝えると、渡邊はニコリと笑顔を浮かべた。
「それなら僕からは言うことはないさ。君が描きたい通りに描いたら良い。きっと良い作品になると思うよ。君が君らしく君らしくない作品を楽しんで作る――それが答えさ」
渡邊は一色にプロットを手渡した。一色はそれを受け取ってじっくりとそのプロットを見返す。
世界観を死後の世界にしたのは、一色自身がシリアスな展開が得意であったからだ。しかしただシリアスなだけでは作品全体が重くなり、結果読み手側が辛くなる。だから主人公とヒロインを出来る限りシリアスからは遠ざけた人物像にして、コメディーとシリアスを混ざり合わせたのだ。
一色の頭の中には少しずつ作品の全体像が見えてくる。しかしそれ以上は実際に手を動かしてみないことには進まないだろう。そう考えた一色はプロットを鞄の中にしまった。
「ここからはまた自分で考えてみます。近いうちにネームを持ってくるので、それを読んで判断してください」
「待っているよ」
渡邉は笑む。
「しかし、本当に良い話を描けるようになったね」
「……あまり、褒めないでください」
「はは、事実を言っているだけだよ。僕はひとえに、美術部の影響であると思っているけだ……どうだろうね?」
「……知りません」
そんな会話を交わしている中、一色はふとあることを思い出した。
「……教室での水無月ってどんな感じですか?」
「――へぇ、気になるかい?」
一色が珍しい質問を投げかけてくるものだから、渡邊は少し含み笑いを浮かべてわざとらしくそう尋ねた。
「なんですか、その顔は。完全に俺をからかおうとしている顔、してますよね?」
「そんなことないよ。単純に僕は好奇心からそう聞いているのだからね。でも、やっぱり一色くんは水無月さんか。意外と貴音さんとか海老名さんに転びそうだけど、王道は外せないよね」
「…………あの、本当に変な解釈は止めてもらえますか?」
例えば女子高生などは恋愛話などの浮ついた噂に過敏で、同性間でそういった話をすることにかけては凄まじいトーク力を発揮する生き物である。一色は渡邊にある種、それと似た感覚を感じ、完全に引いていた。
「……おっと、失礼。恋愛漫画が好きな手前、こういった浮ついた話は大好物でね。それによく咲良と君たちを話題に話しているものだから、一人で盛り上がってしまったよ」
「ちょっと今、聞き逃せないことを聞いたんですが――」
「ああ、教室での水無月さんね。とても良い子だと僕は思うよ。僕としてはもう少し手が掛かってもいいと常々思っているくらいにね」
一色の指摘を完全にひらりと交わすところでこれ以上話してくれないと察した一色は、軽くため息を吐いた。
「水無月らしいですね。でも先生、水無月もそれなりに手は掛かりますよ?」
「あの水無月さんがかい? それは面白いことを聞いたね。僕には皆目見当も付かないよ」
「合宿の時なんて良い例じゃないですか。和那にちょっとそっけなく接せられただけであの様です。何とかフォローをしましたけど、フォローしなければどうなっていたことやら……」
「あはは……なるほど。確かに言われてみればそうだね。あれは一色くんからすれば世話が焼けたね」
だがそれは一色だったからこそであると渡邊は思った。しかし彼はそれを一色に言うことはなく、笑顔のまま一色の話を聞くことにするのだった。
「全くです。昨日も一昨日の夜も手が掛かりましたしね」
「そうか、昨日も一昨日の夜も……ん? 一昨日の夜?」
一色の話す内容に対して「うんうん」と頷いていた渡邊であるが、しれっと漏らした一言に引っかかる。渡邊もまた非常に頭が良く回るタイプの男だ。即座に一昨日の夜についてのことを思いついたのである。
……一昨日の夜といえば、体育祭の後である。今の一色の発言を聞いた渡邊はすぐさま真実にたどり着いた。
「本当にしょうがないから世話を焼いているんです。そこのところはしっかりと理解してくださいよ、渡邊先生」
「オッケー、少し待とうか。今、教育者的にあまり聞き流してはいけないような話が聞こえたけど、それは僕の聞き間違いなのかな。昨日の夜って、体育祭の後のことだよね?」
「…………あ、…………聞き間違いですよ」
「今明らかに間があった上に、あっ、って言っただろう!」
渡邊にしては非常に今回は珍しく狼狽えていた。
それもそうだろう。渡邊の受け持つ生徒の中でも一際真面目で誠実な生徒である一色が、あろうことか女子生徒と一夜を共にしたと考え付けば、例え冷静過ぎる渡邊であろうと狼狽する。
しかもそれが同じく真面目で優秀な自分のクラスの生徒である水無月であるのだから尚更だ。
「……あ、そういえば俺、クラスメイトに呼ばれてるんでそろそろ行きますね」
「ちょっと待って、そんな見え透いた嘘を付かないで事情を説明して――」
それを嘘と決めつけるのは非常に失礼極まりないが、しかし一色は渡邊の追求から逃げるように部屋から飛び出ていくのであった。
残される渡邊は、一つ気付いたことがあった。
「……一色くん、この部屋から出ていく時はいつも逃げてる気がするよ」
何故だか一色がこの漫画の準備室から出ていくときは、どこか逃げるように退出するということであった。
「玲、あなた私の家に原稿を忘れて……どうしたの、そんな悟ったような顔をして」
ふと渡邊だけの準備室にひょこっと彼の恋人であり保険医でもある咲良が入ってきた。手元には封筒があり、その中身は漫画の原稿である。しかし室内に入ると、そこにいるのは普段とは別な表情を浮かべている渡邊であるから、咲良も呆気を取られている様子だ。
渡邊は咲良の登場に気付き、薄く微笑みを浮かべてこう言った。
「……最近の若者は、進んでいるね」
「は?」
ここにまた一つ、勘違いが生まれてしまったのだった。
○●○●
渡邊の元から去った(逃げた)一色は、変な勘違いをさせていないか不安になりながらも自分の教室に戻っていた。既に一色の嫌な予感が的中しているのだが、今の彼にはそれを知る由はないのである。
「結局渡邊先生は何も教えてくれなかったな」
一色が聞きたかったのは、雪彦に聞いたような内容であった。水無月が誰にでも近しいわけではなく、特に男子には絶対的な壁を張っている。そのことをどうしても確かめたかったのだ。しかし自分が漏らした爆弾発言のせいでそれも叶わず。
「(まさか自分から俺以外の男子とは話さないのか、なんて聞けるはずもない……っていうかそもそも、聞く必要もないから聞かなくても問題はない……けど)」
どうしても気になるのが人の性である。
……昼休みが終わるのにまだしばらくある。ここですぐに教室に戻れば、音楽コースの彼らに絡まれることが目に見えている一色は、どこかで時間が潰せないものかと考えた。
静かに過ごすのならばうってつけの場所は部室である。
一色がいるのは一年生の校舎だ。学校の学習内容の特殊性から、虹陸芸術専門高等学校は田舎ながらもかなりの学生数を誇っている。遠い他県から学生寮に入ってまで通う学生がいるほど全国的にも知名度がある学校で、一学年ごとの学生数も多い。そのためクラスは比較的多いのだ。
虹陸芸術専門高等学校の校舎は八つの棟とプールやグラウンドなどといった施設でできている。
一年生から三年生がいる校舎は三つあり、それらは学生棟と呼ばれていて、一年生、二年生、三年生はそれぞれ分かれて各校舎を使っている。
次に研究棟。これは教師に与えられている棟で、主に各分野の専門家たちのアトリエ的な意味合いが強く、一色が先ほどまでいたのはこの棟の渡邊ほ部屋である。ちなみのこの棟は一年生の棟のすぐ隣にあり、学校で一番端にある建物だ。
そして専門分野の授業を受けるのが授業棟が二つあり、その他には運動部が使うための部活棟と、文化部の部室や学生食堂がある特別棟がそれぞれ一つずつ存在している。
一色のクラスは一年棟の三階にあり、部室のある特別棟に向かうためには二階から続く連絡通路を通るのが一番早い。よって一色は一年棟の一階から二階に上がり、特別棟に向かうことにした。二階に上がり廊下を歩いていると、ふと水無月の教室の前を通りかかった。
教室の中は非常に賑わっていた。それだけで雰囲気の良いクラスであることはすぐに理解できて、水無月がいるクラスらしいと一色は思った。一色は水無月を目で探してみると、すぐに見つかる。
水無月は何人かの友人に囲まれながら笑顔を浮かべて話しているようだった。その相手は全員男子であるようで、人間観察に長けた一色はすぐさまその男子たちの顔を見て察する。
「(……こんなところ、貴音先輩に見られたら血祭りに上げられるんだろうな)」
むしろ自分が血祭りにあげられないことが不思議なものだと思いながら、一色は少し立ち止まって教室の中を見続けてしまう。
見て分かる通り、その男子たちは水無月に好意を持っている男子である。いずれも明るそうな、一色とは正反対の性格をしているのだろう。しかし一色はそれに注目することなく、二日前に雪彦に言われたことについてを注目していた。
「(……確かに、距離があるな)」
言われてみれば一目瞭然である。男子たちが水無月に対して距離を詰めるのに対し、水無月は一定の距離を保っていた。彼女の笑顔も言われてみれば作り笑いに近いものを感じ、彼らに対して壁のようなものを一色は感じた。その笑顔は美術部で見せる天真爛漫な笑顔ではなく、美月で言うところの外面的な笑顔に近い。
……どうしてだろうとが思っている時、ふと水無月は一色の方を見た。一色と水無月は目が合うと、水無月は途端に普段通りの笑顔になって席を立ち、クラスメイトに一言入れてから教室を出て、一色の元に小走りで向かってきた。
「こんにちは、一色くん! 珍しいね、一色くんが廊下を歩いてるところ、見たことないよ」
「失礼な。二階は普段は放課後以外は通らないんだよ、騒がしいし――それにしてもよかったのか? 友達と話していたんじゃ……」
「いいの。ただの世間話だったし、むしろ一色くんがこっちを見ていたことの方が気になるから」
……無意識ではあったが、気付かれていたようだ。一色としては見ていたことに気まずさを感じてか、水無月から視線を逸らしてしまう。
「でも、普段通らないのにどうして昼休みに? この方向だと……特別棟に何か用事があったのかな?」
「……時間が随分余ったから、部室でのんびりしようと思っただけだ」
「あ、なるほど――じゃあ私も付いていこうかな?」
一色の前に立っていた水無月は、クルリと回って特別棟の方に向かって一歩歩く。一色は状況が飲み込めずにその場で立ち止まっていると、水無月は顔だけ振り返って首を傾げてこう言った。
「早くしないとのんびりできなくなっちゃうよ?」
「あ、ああ」
どうして水無月と部室に行くことになったのか、一色には未だ理解できない。ただ一つだけ今の彼でも分かることがあるとすれば――教室の水無月に好意があるであろう男子たちの視線を嫌な意味で釘づけにしているということだけだ。
○●○●
昼下がりの部室は、とても良い風が入る。太陽光が丁度いい具合に室内に温めていて、しかし涼しい風が時折カーテン越しに吹き込むため、特別夏のような熱さを感じさせない。まさに秋を感じさせる良い気候だ。
一色と水無月が部室に入って何をしているかといえば、特に何もしていない。一色としては部室でネームでも考えようと思っていたのだが、水無月がついてきたのであればそういうわけにもいかない。
「でも良い感じに涼しくなってきたよね。都会だと物凄い熱さって言われてるけど、田舎はその点良いよね。自然豊かで涼しいから」
「…………そうだな」
今更ながら近い距離であると実感する。特に先ほどの同級生男子たちを見た後では余計だ。今までは水無月はこの距離が普通なのであろうと思っていた手前、そうでないと知った今では反応に困るのだ。
「秋といえば食欲の秋だだよね。この時期からは山菜が美味しいから、天ぷらとかが良いよねー。また今度一緒に作ろうよ!」
「……なんでその話題なんだよ」
「えー、だって私の周りでしっかり料理のお話しできるのが一色くんぐらいなんだもん」
彼女のクラスメイトが「だもん」なんて言葉遣いを聞いた日には、悶絶すること間違いない。
「(……距離の近さの意味なんて、水無月相手に考えるだけ無駄か)」
一色は息を軽く吐いて、彼女の話に乗ることにした。彼としても料理に関しては数少ない会話の種の一つだ。なおかつ今晩の夕食の献立を思いつくのであれば一石二鳥であると考えたのだろう。
しかし、その頃には水無月の興味は既に別のモノに移っていた。
「ねぇ一色くん、そのファイルの中身って何かな?」
水無月は机に置かれたクリアファイルをつんつんと指さして、首を傾げてそう尋ねた。
「え? ……ああ、これか」
一色はいきなりの話題の変化に一瞬反応が遅れたが、すぐにプロットのことであると理解したのか、紙の束をクリアファイルから取り出し、ペラペラとそれを捲る。
「漫画のプロット……って言っても分からないか。原案みたいなものだよ」
「原案……つまり一色くんの創作の源ってこと?」
「大まかにはそうだな。ここから所謂ネームってものを書いていくんだ。このプロットが漫画を描くにはかなり大切なんだよ――渡邊先生曰く、プロットに始まりプロットに終わる、だとさ」
渡邊の言いたいことはつまり、最初の思いつきやインスピレーションは最後まで残り続けるということだ。それが形を変えて作品を昇華させていくが、原型となった源は消えることがなく残り続ける。
故にプロットに始まり、プロットに終わる。渡邊らしい言い回しである。
「な、なるほど……絵画でいう下書きが漫画のネームで、プロットは……アタリって感じかな」
「アタリか、それか頭の中の設計図みたいなものだな、絵画で言えば。とにかくかなり大切だから、渡邊先生はこの作業にかなり綿密に添削をしてくれるんだよ。珍しいことに今回は添削なしだったけど」
「……見ても、良いかな?」
水無月はいつもよりも真剣な表情で一色にそう訴えかける。
……渡邊から太鼓判を押されたからといって、一色がこの作品に未だに自信が持てずにいた。一色はどちらかといえば完璧主義者で、未完成のもとを親しい人に見せるのに抵抗があった。
どうせ見せるのならば完成品を見せて、そこから適正に評価してほしいのだ。だから水無月の申し出を断ろうと考えるも――彼女の顔を見て、止めた。
「……お願い、どうしても一色くんの作品が見たいの」
――どうしてか、その表情が自分と重なった。一色はそう思った。
自分が水無月の作品を見ている時の表情は自分では分からない。だが彼女の今の表情を見て、自分が普段こんな表情を浮かべていたということに気付いた。
……一色の手は無意識にプロットを水無月に渡していた。水無月はそれを受け取り、ページを捲る。
プロットには大まかな世界観と設定、人物のことやストーリーの詳細が描かれている。一色らしい丁寧な作りだ。
水無月はそれを真剣な表情で見つめ続ける。目は輝いていて、時折表情を綻ばせていた。
「…………」
渡邊に見てもらっていた時とは比べものにならないほどの緊張が彼に走る。担当教員よりも部員仲間に対して走るというのも可笑しい話かもしれないが、一色としてはある意味では良い機会だ。
普段は感想や指摘をもらうのは渡邊くらいなものなのだ。よって視野が狭いというのは一色も自分で納得する部分ではあるので、感性豊かな水無月に見てもらうのは丁度良いと考えるに至っていた。
「……すごいな。まだプロットなのに、どんなお話になるのかがすぐに想像できたよ」
水無月はプロットをギュッと胸で抱いて、目を閉じて想像しながら話す。
「想像って……その話のことか?」
「そうだよ。不器用な主人公が話す声や行動が頭に浮かんで、ヒロインの空回り具合が面白可笑しく展開されて……でもキャラクターは凄く自然に、動き続ける。この世界では皆が活き活きと生きているっていうのが凄く分かる。死後との世界っていう曖昧で止まっているはずの世界で進み続ける物語――ワクワクするよ、すごく」
「――」
……一色には思いも付かない光景であった。しかし今、水無月の頭の中ではそれが巡り巡っているのだろう。今の彼女の楽し気な表情を見ていれば分かる。普段、一色の目の前で、この部室で絵に向かっている表情と、物語を語る彼女の表情は同一のものであった。
……それも一色自身の作品で、こうして共感して思いを巡らせている――それがどうしようもなく嬉しくて、一色から言葉を奪っていた。
「……っ」
出そうにも声が出ない。きっと今、声を出したら涙声になってしまう。そんな確信がある。だから一色は声を出せず、ただ堪えていた。
喜びの感情を堪えるなど一色は初めてだ。……また新しい、初めてを知ることが出来た。そしてそれはやはり水無月が起点であった。
「可笑しいね。一色くんの作品なのに、勝手に頭の中に物語が浮かんじゃうよ。ダメダメ、これは一色くんの話なんだから、私が踏み込んじゃダメだよね」
水無月はうんうん、と何度も頷いてプロットをクリアファイルに戻してしまう。
……一色は、また一歩踏み出せない。
「(本当はもっと水無月の話を聞きたいのに……どうして踏み込めないんだ。どうして一言、教えてくれって言えないんだ)」
喉元を過ぎそうになるのに、音にならずに空を切る。水無月はそんな一色に気付かず、ただじっとクリアファイルに入ったプロットを見つめ続けた。
「また、完成したら見せて欲しいな。良いかな、一色くん」
「……ああ」
たった一歩、踏み込めば良いだけの話なのに、それがどうしようもできない。自分が望み過ぎてわがままを他人にぶつけることが、どうしようもできない。
一色はそんな自分がどうしても好きになれない。変われない自分に馬鹿野郎と、心の中で当り散らす。
……そして、水無月のお願いに対して、一言返すだけであった。




