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こころのいろ  作者: 如月心
第4章 対向車線の二人
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4幕 水無月虹、お泊り事件

 何故こうなった。一色はそう思うしかなかった。

 水無月からのお願いは一色の許可よりも先に和那の快諾によって決定したのだ。水無月によく懐いている和那が拒否するはずがなく、なおかつ小動物のような目の二人にお願いされて、一色が断れるはずもなかった。

 一色は水無月に理由を聞くと、どうやら今日は水無月の家には家族が不在とのこと。一人でご飯を食べるのも味気ないと思っていたところだったらしい。

 ……そして今。買い物を済ませ、一色家にお邪魔している水無月。今は体育祭で汗を掻いたということもあり、これまた何故か一色家のお風呂を借りているのであった。和那も水無月と一緒にお風呂に入っており、その間に一色は夕食の準備をしていた。


「……どうしてこうなった」


 鍋に蓋をしてシチューを煮詰める。一色はその間に洗い物を済ませ、二人がお風呂から上がるのを待った。今なお、何故この状況になったか理解できない一色だが、水無月に対して疑問を抱いていては疲れることは目に見えている。何故なら一色にとって最も謎多き美術部員は彼女であるからだ。

 ……ガチャリと脱衣所の扉が開く音がした。ペタペタと歩く音がして、リビングの扉が静かに開いた。


「ごめんね、一色くん。色々とわがまま言っちゃって」

「こんなのあの人らに比べたらわがままに入らないよ。それに和那も喜んでるみたいだし」

「こーちゃんとのおふろ、たのしかったよ!」


 ……最近ではすっかり子供らしく明るくなった和那を見て、表情が綻ぶ一色。

しかし一色は水無月に視線を向けることができなかった。その理由は、彼女の現在の格好にある。

 水無月は一色のスウェットを借りて着ているのだ、やはり少し大きい。一色もあまり体格が良い方ではないが、やはり男子と女子では体躯に大きな差があった。

首の穴から肩が少しばかり露出が激しいため、一色は彼女の肩からブランケットを被せた。


「あ、ありがと……」

「別にいいよ――夕食までもう少しだから、和那の相手をしてもらってもいいか?」

「うん! よ~し、和那ちゃん! 何して遊ぼっか!」


 一色からの願いを受け、水無月はやる気なのか腕まくりをして和那に抱き着く。すると和那は少し考えるように人差し指を唇に押し当てて考える。

 そして思いついたのか、トランプのカード束を小物入れから取り出した。


「これ!」

「トランプね! よし、じゃあ七並べを」

「――インディアポーカー!」


 ……まさかの選択に水無月は固まる。

 ――インディアポーカーとは、プレイヤーにそれぞれ一枚ずつカードが配られ、自分以外のプレイヤーのカードだけが見えるということが前提のゲームである。相手の手札を見て勝負をし、強いカードの方が勝つというゲームだ。要は完全な心理ゲームであり、少なくとも和那の年代の子供がするようなものではない。

 普通に考えれば高校生の水無月が圧倒的に有利なゲーム。……しかし水無月の記憶には、ピクニックの時に体感した敗北が脳裏にこべりついているのだ。

 しかも和那は水無月だけでなく、合宿の時に初香、美月、雪彦、咲良までもを心理ゲームで完封しているほどに強いのである。


「か、和那ちゃん……ほ、ホントにするの?」

「うん! これね、おにいちゃんがおしえてくれたゲームの中で一番すきなんだよ? こーちゃんとしてみたい」


 純粋な笑みが怖いというのは、きっと今の和那のことを指すのだろう。それを見て水無月に同情的な視線を送るのは一色であった。

 その間に一色はせっせと夕食の準備に取り掛かる――途中で聞こえてきた少女の叫び声や涙声は敢えて聞こえないふりをするのは、彼なりの気の遣い方である。


○●○●


 完全敗北、略して完敗。精一杯の抵抗を虚しく、対抗すら出来ずに無残に散りゆく敗北を指す言葉だ。

 そんな言葉を贈るべき水無月虹は、一色家のソファーで灰になっていた。


「……こーちゃん、よわっちぃよ」

「はうっ!!」


 更なる追い打ちをかけるのは、一色和那である。

 ――それはもう和那無双であった。水無月が心理ゲームに滅法弱いというのもあるのだが、それに差し引いても和那が強すぎた。ポーカーフェイスと頭の回転速度は天晴れで、水無月が付け入る隙などあるはずもない。

 それでも水無月にだって年上としての意地がある。楽しい夕食を過ぎた後も果敢に和那に挑み続けた。しかし結果は同じ――しかも最悪だったのが、夕食の片づけを済ませた一色がゲームに参加したことであった。

 一色兄妹との勝負で水無月が勝利できるはずもなく――そして現在に至るというわけだ。


「強いよぉ……虹さん、もうここから動けません……私のことは、クッションだとおもって踏んで座ってくれて良いから……」

「何馬鹿なことを言ってるんだよ。ほら、起きろ。人には得手不得手があるんだから、そんなに落ち込まなくても」

「――五十四回全敗とか、笑うしかないよね、あはは」

「……ッ」


 笑うのを全力で我慢する一色。腹筋に力を入れ、唇を噛んで痛覚によって何とか堪えた。

ふと一色は時計に目を向ける。

 ……あまりのんびりとしていい時間ではない。既に時計の短針は十を指している。外は既に真っ暗で、女子高生を一人で帰すには問題のある時間だ。そもそも高校生の一色が外に出るのも法的に駄目な時間帯である。


「水無月、時間がやばいから、そろそろ帰る支度をしないと」

「いいよもぅ……私は一色くん家のクッションになるからぁ」

「…………」


 全力でソファーから投げ飛ばしたくなるが、一色は何とか我慢する。

 ……珍しくも強情な水無月にこれ以上何かを言うのは得策じゃないと考えたのか、帰すことを諦めるのだ。現に顔をソファーに埋めて動こうとしない。

 幸い明日は休日で、泊まって行っても問題ない――倫理面を考慮しなければの話であるが。しかし一色には雪彦が持ち合わせていない鋼の理性が備わっている。しかも最も大切に愛でている和那の目があるのだがら、一色が奇行に走るはずもないのだ。


「……はぁ。分かった、泊まっていいからクッションになるのは止めろ」


 一色が折れると、水無月は埋まるのを止めて一色を方を見て、にへへ、と締まりのない笑みを浮かべた。

そんな水無月を見て仕方ないと思う一色も彼女に甘いものだ。一色からすれば和那を扱うようなもので、どちらかといえば妹のようなものなのだろう。


 一色は水無月を横目に見ながら、いつもよりも静かな和那を見た。すると和那はうつらうつらとしていた。無理もない。兄に合わせて早起きをした上に、日中はずっと外で応援をしていたのだから。

 一色はカーペットの上でアヒル座りで首をカクッ、カクッとしている和那を抱きかかえる。すると和那は甘えた声音で寝ぼけながら彼に抱き着いた。


「出た、一色くんのお兄ちゃんスタイル」

「なんだよ、お兄ちゃんスタイルって」

「ふふふ、それはね、一色くんが偶に見せる圧倒的包容力の全般を指す言葉だよ! 水無月さん命名のね!!」

「……広めたら泣かすからな」


 ――随分と仲が良くなったものだろう。最初の頃に比べれば一色の態度もかなり自然になったものだ。

 きっかけは……やはりあの合宿での出来事が大きい。


「渡邊先生の弟子に怒られるのは嫌だなー。これは私だけの胸の中に閉まっておくよ」

「そうしてくれ。俺は和那を部屋で寝かしつけてくるけど、水無月はどうする? もう寝るか?」

「ううん。もう少し起きてるよ。話し相手、付き合ってね?」

「……風呂あがってからな」


 一色はそう言うと、和那を自分の部屋のベッドに寝かせ、自分の寝間着と下着を持って出ていく。和那は自分の部屋を与えられているにも関わらず、基本的に兄と一緒に寝ている。よってあまり自室を使っていないため、ある意味では客間ほどに綺麗に整頓されているのだ。

 ――一色は風呂を済ませて、タオルで髪の毛に滴る水気を拭いながらリビングに戻った。すると彼の鼻腔に少しばかり甘い香りがくすぶった。その匂いは記憶に新しいもので、一色はすぐにその匂いの正体に気付いた。


「お風呂あがったんだ、一色くん。ごめんね、勝手にキッチン使っちゃって」

「構わないよ。……あのミルクティーか?」

「うん! キッチン見てみたら材料が全部揃ってるみたいだったから」


 少しだけ不思議そうな顔をする水無月。一色はそれを聞いて水無月から視線を逸らし、リビングの机の上に置かれたマグカップを手に取った。


「……これ、美味しかったから偶に家でも作ってるんだよ」

「え? ……あ、だから材料全部揃ってたんだ」

「……悪いな。勝手にレシピ使って」


 一色は罰が悪そうな顔でそう謝罪すると、水無月は首を左右に振る。


「むしろあのレシピを気に入ってくれて嬉しいよ。そんなこと言ってくれるのは一色くんくらいだもん」

「そんなことは……あるな」


 一色は謙遜して否定しようとするが、彼の頭に浮かんだ美月や初香、雪彦などといった面々があまり生活力がある人たちではないため、素直に頷く。


「でも、そっか……一色くんがそんなに水無月印のミルクティーを気に入ってくれたなんて、鼻高々だよ」

「和那もめちゃくちゃ気に入ってるからな。でも中々この味を再現できなくて……」


 一色は水無月の作ったミルクティーを一口飲んで、相変わらずの安心する温もりにほっこりと落ち着く。しかしそんな一色の様子を見守るようにニコニコ笑顔を浮かべる水無月。一色は異様な居心地の悪さを感じ、目を瞑り、顔を彼女から逸らしながらゆっくりとミルクティーを味わった。

 ……時計の進む音が静かな室内に反響する。一色は何か目的がなければ自分から発信することはなく、水無月も声を出さなければ無言が続くのは当然だ。


「……一色くん、今日はご両親はいないの?」

「ああ。うちの両親はこの時期になったら作品制作で徹夜続きだから、自分たちのアトリエに引き籠るんだよ」

「そっか……ねぇねぇ、一色くんからも偶には質問してよー」

「…………俺にそういうのを求めるなよ。ったく」


 しかし言われてみれば確かにそうである。一色はコトンと机にティーカップを置くと、見計らってか水無月が詰め寄ってくる。ソファーは二人掛けでただでさえ近い上に距離を縮めれば、美月に言わせれば不健全な距離になる。

 しかし水無月の距離感に慣れつつある一色だ。彼は知らないだろうが、水無月との間で少しばかり噂が立っているのであるのだが……そういった噂話に疎い一色が知ることはないだろう。


「最近、両親が俺に聞いてきたんだ。学校は楽しいかって。それで俺が変わったとか何とか言ってきてさ。……自分では分からないけど、そんなに変わってるのかなって思って」

「なるほどね……。っていっても、私は一色くんのことは五月からしか知らないからね。すごく話しやすいし、私のわがままにも付き合ってくれるから……あはは、優しいしか分からないや」

「……恥ずかしいから止めろ」

「でも、一色くんっていつもはすっごくクールなのに、時々熱意が凄いことがあるよね」


 水無月からそのような評価を受けて、一色は首を傾げる。それは予想していたものとはかけ離れたもので、そんなことを言われたのは初めてだった。


「熱意って、俺とは対極の言葉だろ」

「……ううん、そんなことないよ。一色くんは自分が思っている以上に熱意を持ってる男の子だよ」


 何を根拠にそう言っているのかは分からないが、水無月からそう断言されては自分から否定しようがない。否定しようがないし、何よりも気恥ずかしかった。

しかし、また無言が生まれる。一色は何か話題を手探りに探し――ふと、思いついた疑問を水無月に聞いた。


「……水無月さ。今日、調子悪かったのか?」


 今の水無月は放課後の時とは違っていつも通りの彼女らしい立ち振る舞いであった。美月に対する物言いも普段とは明らかに違っていた。

それを加味して、一色は水無月が調子が悪いと結論を出したのである。


「……調子、悪いつもりじゃないんだけど、一色くんの目から見たらそう見えちゃったのかな」


 水無月は脱力する。肩の力を抜いて、そのまま真横にいる一色の肩に頭をコツンと乗せた。その距離の近さと行動に、流石の一色も動揺した。


「み、水無月……?」

「……ごめんね。ちょっと今日は疲れちゃったから、今だけ一色くんに甘えてもいいかな」

「…………」


 一色は動揺を隠すように水無月から視線を外し、彼女を受け入れる。幾ら水無月の距離感が近いと言えど、こんなことをされるのは初めてなのだ。


「(でも……なんか、いつもと違う気がする。水無月はこんな甘え方はしない。どうして水無月は――こんなにも不安そうな表情をしているんだ)」


 一瞬だけ見えたその表情は、どこか拠り所を求めているような、不安に満ちた表情であったのだ。普段の天真爛漫な水無月からは考えられない。

 ほんの少し手を動かせば触れ合える距離にある二人――だけど一色は、水無月と例えようのない何かの壁を、距離を感じていた。


「……美月ちゃんにいつもより怒ったのは、羨ましかったからだよ」

「羨ましい?」


 水無月がポツリと漏らした言葉は、またもや意外なものだ――ふる何故なら、一色が美月に抱く感情と、水無月の抱く感情が同じだったからだ。

一色からすれば水無月が美月にそう思う理由が見当たらない。一色にとっては水無月とある種の、羨ましいと思う人の一人なのだ。


「美月ちゃんは強いんだよ。わがままなところもあるけど、なんだかんだで皆の中心で楽しそうにしてる。正義感があって、愛嬌があって……だから、余計に強く当たっちゃったの。あれだけ勝手なことしてたのに、それでも美月ちゃんだからって許されるのが。……誰もそんなに怒ってないことがイラついたんだよ」

「……本当に――いや、そうだな」


 一色は、一瞬何かを言いかけると、それをやめる。

 理性ではないものが、その言葉を水無月に向けて話すことを止めたのだ。

 ――本当にそれだけか。そう聞こうとして止めた。彼の本能が止めたのだ。それを言ってしまったら、何か取り返しのつかないことになってしまうような気がしたのだ。

 だから一色は水無月にそれ以上は踏み込まず、ただ彼女の言葉に頷いた。




 それから一時間ほど二人はその距離感のまま世間話を続けた。当たり障りのない会話を続けていたためか、次第に水無月の声は小さくなっていき、そして


「すぅ……」

「……寝たか」


 自分の肩の上で眠る水無月を見て、一色は少しため息を吐いた。息が詰まる、とまでは言わないが、居心地が悪いのは確かだった。いつの間にか一色は彼女の顔色を伺いながら話していたため、どこか気疲れのようなものを感じていた。

 一色は水無月の身体を支えながらから離れて、そっとソファーに寝かせて毛布を掛ける。


「……気のせいだよな」


 水無月は疲れていただけだ。そう決めつけて一色は渇いていた喉を水で潤す。……ふとポケットの中に入れていた携帯電話が震えた。


「……うわ」


 画面には雪彦の名前が表示されていた。ただでさえ今は疲れているのに、ここで雪彦の相手をするのは少し躊躇いがあった。

 そんな風に躊躇っていると、すぐに彼からの電話が切れる。いつもならば一色が出るまでしばらくは電話をかけ続ける雪彦にしては珍しい行動だ。


「……なんだ? 雪彦先輩だけじゃなくて、海老名先輩と貴音先輩からも電話が来てるな」


 着信履歴を調べると、ここ一時間で数件の電話が来ていたのだ。つまり何か緊急の連絡があったということだろう。

 一色はすぐに雪彦に電話を掛ける。


「もしもし、雪彦先輩ですか? すいません、ずっと連絡気付かなくて」

『いや、俺も遅い時間にすまんな』


 数コールで出た雪彦は、あまり焦っている声色ではなかった。


「何かあったんですか? 海老名先輩と貴音先輩からも電話が来ていて」

『あぁ、なんか美月から連絡があってよ。虹ちゃんがまだ帰って来てないって騒いでてな。虹ちゃんからは心配しないでって連絡があったらしいけど、夜中に探しに行くって聞かなくて』

「……ちなみに雪彦先輩は今どこにいるんですか?」

『美月の家でこいつを止めてるところだよ、ってお前暴れるな!! 初香、そいつをもう縄で縛ってろ!!』

『あいあいさー。美月ちゃん、観念しなさーい!』

『うぉぉぉ、やめろぉ! 私は、私は虹を探しに行くんだぁぁぁ!!!』


 ……電話越しに聞こえてくる馬鹿みたいな会話で、今向こうがどんな状況になっているかが簡単に予想できた。

 しかし水無月から連絡が来ているにも関わらず探しに行こうとする美月に、一色は苦笑いを浮かべた。しかし美月らしいとも思う。幼馴染の様子がいつもと違っていたこともあるのだろうか。

一色は彼女を安心させるために雪彦に伝言を頼むことにする。


「水無月はうちにいるので、安心してくださいって言っておいてください」

『――おい、ちょっと待て。千尋よ、つまりあれか? 虹ちゃんは今、お前の家にいるのか?』

「ええ、そう言っているでしょ」

『……ちなみに今、何してるんだ?』

「話していたら眠くなったみたいで、今はソファーで寝てますよ」


 ……何か取り返しのつかないことを言っている気がしないでもないが、別に嘘偽りを言っているわけではないため、一色は事実を淡々と話した。


『待てよ、虹ちゃんって家に帰らずお前の家に行っているわけだろ? 寝間着も替えの服もねぇじゃねぇか』

「それはまぁ、俺のスウェットを貸してるから……あ」


 一色の第六感が、それ以上は危険であると告げた。しかしながら妄想力が逞しい雪彦が相手では既に手遅れである。


『――つ、つまり今の虹ちゃんは下着をつけず寝てる……っ。てめぇ千尋!! 羨ましすぎるぞ、変われ!!』

「は? いや、あんた何を言って」

『なんだよその青春の甘酸っぱい一イベント! お前ばっかりズルいんだよ、こんちくしょー!! 俺なんて、俺なんてぇぇぇ……』


 ……本気泣きをしている雪彦。そんな彼の電話を今すぐにでも切りたくなるが、ここで切ってしまえば間違った情報が最も知られたくない二人に伝わることは間違いない。


「落ち着いてください、雪彦先輩。先輩が想像しているようなことは起きては…………いないですから」

『なんだよ、今の間は!! さては何かあったな!? あの鉄壁のガードの虹ちゃんが陥落したのか、貴様!!』

「だから落ち着いてください……! 口調が若干貴音先輩みたいで…………っていうか鉄壁ってなんですか?」


 水無月を見ていると、鉄壁という言葉が引っかかる。一色からしてみれば水無月は異様なほどに距離感が近く、人懐っこいという認識しかない。どちらかといえば和那の方が鉄壁という言葉が似合うと思った。


『何って、言ったままだろ。虹ちゃんが男子に近づくとか滅多にないんだぞ。俺でも今みたいに仲良くなるのにどれだけかかったことか……――って話を逸らすんじゃねぇ!!』

「…………」


 とりあえず電話口でなお吠える犬のことはさておき、一色は考える。

 今、それほど彼女が雪彦に対して友好的に思っているかは些か疑問を感じる一色であるが、しかし言われてみれば一色は「美術部における水無月」のことしか知らないのも事実であった。

水無月のことを知りたい一色としては、非常に興味深いこと。

とりあえず一色はこの電話を早急に切るために、切り出した。


「ともかく先輩、驚くくらいに健全ですから心配しないでください。あと、何があってもあの二人には水無月が泊まっている事実は伝えないでくださいね」

『え…………あ…………ま、任せろ!!』


 ……その妙な間に、一色はブルッと寒気に襲われる――そのとき思い出した。数分前まで騒がしかった雪彦の電話口から、美月や初香の声が聞こえてこないことを。少し前までは()()()()()()()()に二人の声が聞こえていたのである。


「……先輩、もしかしてこの電話をスピーカーモードにしていますか?」

『…………ま、まさかこんな会話になるとは思ってもいなかったからな。すまん』


 一色がその答えに辿り着いたのは当然だろう。しかし一色は少しばかり焦る。何が不味いのかといえば、小悪魔と魔王を同時に相手をしないといけないからだ。


「……一つだけ教えてください――二人は今、どんな表情を浮かべていますか?」

『……美月が魂の抜けた顔で、初香は確実に悪巧みを考えている顔をしててな』

「そうですか――覚えておいてください、雪彦先輩」

『え、ちょ、お前何を言って』


 雪彦が何か反論をする前に一色は電話を切り、そのまま電源を落とす。そして頭を抑えて休日明けに訪れる面倒事に頭を悩ませるのであった。


「……考えても仕方ないか」


 一色はソファーで穏やかそうな顔で眠っている水無月を見て諦めに近いため息を吐いた。


「俺にはお前が良く分からないよ」


 ふと一色の頭に色恋沙汰の可能性が芽吹くも、それは確実にないと思った。

 ……水無月が一色に対して望んでいるものがそんなに分かりやすいものではないと、感覚的に一色は感じていたのだ。正体は一色には分からないが、少なくともそれだけは断言できる。

 ――一色の目から見ても水無月虹という少女は魅力的な女の子である。しかし一色が件、思ったような恋愛感情を彼女に抱いたことは一度もなかった。


「(だけど……俺は水無月のことが目から離れない。いつも彼女のことを目で追いかけて、接したくなる。それを好きだとか、恋愛的に考えれば簡単なんだろうけど――違う。俺がこの子に求めているものも、そんな軽いじゃない)」


 水無月の眠るソファーの近くに腰を下ろして、一色は彼女の寝顔を見つめながらそう思った。


「……男の家で無防備過ぎるだろ」


 一色は和那を相手にするように、水無月の額を指で軽く弾いた。


「うぅ……痛いよ、一色くん……」


 一瞬起きているのかとドキッとするが、幸いそれは寝言であった。

 一色は吐息を漏らしながら座ったまま目を瞑った――一色とて、今日はいつもよりも体力を消耗しているのだ。瞼を開けようとするも、圧倒的な眠気のせいで次第に意識は遠のく。近くで水無月の規則的な寝息が眠気を更に助長した。

 そして一色は意識を手放す――その時、一瞬声が聞こえた。


「おやすみなさい、一色くん」


○●○●


 一色は休日明けの月曜日の登校日が、どうしようもなく億劫であった。その理由は言うまでもなく、体育祭後に起きた「水無月、一色家お泊り事件」である。この一件は既に雪彦のせいで美月と初香に知られてしまった。よって一色は下手な接触を避けたいなのである。


 お泊りだけならまだしも、その後日、水無月は一色と和那を連れて遊びに赴いた。その件も既に美術部の先輩面々に知られており(水無月が口を滑らせた)、まさに今の状況は八方塞がりというわけだ。


 しかし一色千尋は策士である。ここでいつもよりも早い時間に出るという選択肢もあったが、敢えてそれを外したのだ。何故なら敵にはあの小悪魔、海老名初香がいるからだ。美術部の馬鹿筆頭である美月と雪彦ならば騙せるが、残念ながら初香はそれを見抜いてくるだろう。しかし時間通りに出ると普通に美月や雪彦に遭遇してしまう可能性もある――ということで一色は遅刻ギリギリという選択を取った。


 普段は時間にゆとりを持って行動するのが一色であるが、敢えてそれを崩して、一色のルーティーンからは考えられないような行動をする。そのお蔭もあってか、知り合いには遭遇しなかった。

 

携帯電話には何件もメールが溜まっており、それは予想が外れたであろう三人からの連絡であろう。しかし一色はそれを決して読まず、電源を切って平和な登校を満喫していた。


 電車が普段美月が乗り込んでくる駅で止まる。しかしそこに美月がいないことが分かり切っているため、特に周りを見渡すことなく読書を嗜む。


 ……電車の扉が閉まると共に、一色の隣に誰かが座る。他にも席は空いているのにも関わらず、すぐ隣に座られることに疑問を抱き、一色は本から視線を外して隣を見た。


「やぁ、一色。グッドモーニング」

「…………」


 ――一色は本を勢いよく本を閉じ、席を立とうとする。しかし


「どこに行くつもりなんだい、一色ぃ。ほら、私とお前の仲じゃないか――なぁ、一色」

「ず、随分遅いご登校で……た、貴音先輩」


 ……逃げようとする一色の腕をガシリと掴むのは、普段は一色よりも早く登校しているはずの美月であった。美月は口角を無理やり吊り上げた不気味な笑みを浮かべており、一色はその迫力に負けて彼女の隣に座るしかなかった。

 隣に座ったのは良いが、しかし何を話せば良いか言葉の選択に躊躇する。彼女の笑顔が明らかに好意的なものでなく、水無月をも超える距離の近さは「お前を逃がしはしない」という心の声を物語っているのは明白だ。


 結論、話せず動けず逃げられず、である。

 一色は何をすることも出来なかった。身体がぴったりとくっついているにも関わらず寒気が先決するというのが、何とも言えないものだ。


「あぁ、昨日実は眠れなくてなぁ。それで寝坊してしまったんだ」

「へ、へぇ……」

「ん? 私が何故眠れなかったのかを聞きたいか?」

「いえ、別に興味な――」

「――ん?」


 有無を言わさぬ迫力に一色は視線を逸らす。


「は、はい」


 そして小声で頷いてしまうのであった。何気に美月が一色に完全勝利した瞬間であった。

 美月は決して一色から目を離さず、不気味な笑みを浮かべながら


「いやぁ、私が世界で一番愛する幼馴染がな、噂によると男の家に泊まった上に、その後日にデートしたらしいのだよ。なぁ一色、これについてはどう思う?」

「…………独り立ちですね、水無月も。貴音先輩も幼馴染離れですの時期がやってきま」

「――どうやら貴様、死にたいようだな。表に出ろぉ!!!」

「今、表に出たら死にますから、物理的な意味で!」


 一色を羽交い絞めにして窓から外に出ようとする美月を、彼は必死に止める。勢いよく走っている電車から外に出るなど正気の沙汰ではない。……いや、そもそも公共の場では猫を被る美月が、周りの目を気にせずに騒いでいる時点で正気さなど皆無なのであった。


「落ち着いてください、貴音先輩。先輩が想像しているようなことは一切ありませんから」

「ふぅ、ふぅ……本当か? 本当に虹と何もないんだろうな?」

「ええ、もちろんです。そもそも俺にそんな器量があると思いますか?」

「……いや、お前は何気にちゃっかりしてるからな。だからこそ不安なんだ――本当に何もなかったんだな? 虹とソファーの上で物凄い距離で親密に話したり、あいつの身体に触れたり触れられたり、寝落ちしたあいつをベッドに運んだりなんてことはしていないんだな?」


 

 美月は機関銃のように連続で疑問をぶつけていく。一色はそれらを全て聞き、その上で――冷や汗を掻いた。

 実は彼女は全部見てきたのではないか。そうとしか思えない。

 何故なら その全てに当てはまっているからだ。ほぼゼロ距離で水無月と親密に会話をした時も身体が常に接触していて、なおかつ水無月からも何度かボディータッチがあった。寝落ちした水無月にデコピンをしたり、自分も寝落ちした後に起きて彼女を和那の部屋に連れて行ってベッドで寝かしたのも事実だ。敢えて付け足すなら、日曜日に和那と水無月の三人で出かけた時に、やたらテンションが高い水無月に手を引かれた時、しっかりと手を繋いでしまったことも追加しておこう。

 それらを思い出すこと一秒。これを表情に出してはいけないと認識した一色は、すぐに否定しようとした。


「もちろんそんなことはありませんよ。変ないちゃもんをつけないでくだ――」

「……嘘だな、目が泳いでいる」


 見事である。あっさり看破された一色は、これは面白いほどに内心では焦っていた。

 美月が妙に鋭い時があることは知っていたものの、この土壇場でそれが発揮されるなど毛ほども思っていなかったのだろう。

 しかし一色のポーカーフェイスはそれでも崩れない。


「……何を証拠にそんなことを。先輩のそれは言いがかりというものですよ?」

「ふっ、証拠と言ったな。犯人であるほどすぐに証拠を出せというんだ。それこそがお前が犯人である証拠だよ。語るに落ちたな、一色千尋」

「……やっぱり貴音先輩って馬鹿ですね。論理という概念が存在していません」

「な、なにをー!? 先輩に向かって馬鹿ってなんだ!!」


 変なところで沸点が低い美月は、これまた周りの目を顧みず一色に食って掛かった。

 ……それこそが一色の狙いであるということも知らずに。美月が反応した瞬間、一色は絶好の機会と確信し、ここぞとばかりに追撃を繰り出した。


「先輩のそれは所詮、野生の勘のような憶測に過ぎないんです。良いですか? たった今、露呈したのは俺が先輩が言ったようなことをしたという事実などではなく、先輩がただただ馬鹿であるということです。今の発言で先輩が大馬鹿であるということこそが、むしろ語るに落ちていませんか?」

「む、難しい言葉を並べて私を揺さぶるつもりか!?」


 貴音美月よ、別に一色は大して難しい言葉は使っていない。

 ……しかしこれで勝敗は決した。結局のところ、美月に一色を言いくるめることが出来るほどの知力の口の強さもないのである。だからこそ一色は心の中でぼそりと呟く。


「(……暴力ゴリラ)」

「一色、今絶対によからぬことを考えただろ!?」

「いえ? ……そもそも先輩が言っていた言い分、完全に推理漫画の定番ですよね。現実とフィクションは見分けましょう」


 ――しかし、この野生の勘のような鋭さは油断が出来ないのも事実なのであった。

 一色は改めて、美月に初香のような小悪魔的側面がないことに感謝した。ここに初香がいれば確実に分が悪いのは一色であったからだ。


「あと、良いんですか? さっきから先輩、こんな公共の場で大きな声で話していますけど」

「…………え」


 美月はそこで自分の今の状況を認識したのか、間抜け面で間抜けな声を漏らした。車両には少なくとも人が乗っており、それらから視線を一身に集めていたのだ。その瞬間、美月は過去の担任である渡邊玲から受けた教育を思い出した。

 ……執拗なほどの正論による論破。自分が全て悪いのだと思わせられるような、まるでマインドコントロールの如き手法(限りなく彼女が全面的に悪い)を思い出して、美月は黙ってしまう。


「公共の場というのは市民全員に等しく与えられた場所です。そこで周りを考えずに当り散らすなんて、貴音先輩はそれでも高校三年生ですか」

「……お前、最近本当に鬼に近づいているぞっ。手法があの男みたいだ」

「それは良かったです。俺は先輩と違って渡邊先生を尊敬しているので」


 ふふんと鼻で笑う一色に対して美月は何も言えず、悔しそうに唸るほかないのであった。




 学校の最寄り駅に着き、電車から降りる。通学路を肩を並べ歩く二人であるが、およそ高校生でありがちな甘酸っぱい雰囲気は皆無であった。


「とりあえず心配しないでください。貴音先輩が想像しているようなことは起こっていませんし、俺が水無月に嫌がることなんてしないことは分かっているでしょう?」

「信頼はしているが、やはり大事な幼馴染だからな。目は光らせておかないと気が済まん」

「……そんなんだから水無月にちょっと面倒臭がられているですね」

「……………………そんなことない」


 どうやら自覚症状はあったようだ。

 しかし美月からそれ以上の追及はなく、雰囲気もいつも通りとなる。美月もこれ以上追及してボロが出ることを避けたいのだろう。

 いつも通りになってしまえば基本的に一色と美月は仲が良く、他愛無い会話をしながら登校していた。


「貴音先輩、一つ部活動のことで報告があるんですが、良いですか?」


 そんな中、一色はふと思い出して美月にそう尋ねた。


「報告?」

「はい。先輩も知っての通り、二学期から学校の全コースが作品制作で忙しくなります。それで漫画コースも例に漏れず制作がありまして……しかもうちの担当が渡邊先生だからか、その課題の量が凄くて部活に行けないことが多くなりそうなんです」

「……まあ渡邊先生は見かけによらずスパルタ教育だからな」


 そのことを身をもって知っている美月は顔を青くして何度も頷いた。

 ……一色の言う通り、渡邊の教育は説教以外でも思いのほかスパルタである。しかしそこには成長して欲しいと真摯に願う教師魂があり、だからこそ心を鬼にしているのだ。

 美月は嫌な記憶を振り払い、改めて一色に返答する。


「もちろん構わないよ。ただ来れる時は来てほしい、というのが本音だけどね」

「……はい」


 裏表のない美月の言葉に一色は不意に顔を赤くした。一色は美月のこういうところが卑怯だと常々思っているが、それ以上に一々初々しい反応をしてしまう自分が恥ずかしくて仕方がないのだ。

 しかし基本的にこういうとき美月は絶好の弄る機会を見逃す。よって一色が弄られることはなく、まさに不幸中の幸いと言えよう。


「漫画か……私も一色の描く作品を読んでみたいな」


 美月は思いつきでそう言った。


「俺の漫画……ですか?」

「ああ。作品はその人物の描きたい世界や人物像が反映されるものだからな。音楽でも絵画でも、芸術とは必ずしもそういう側面がある」

「……いつも渡邊先生にダメ出しされていますよ? 別に特出して面白いわけじゃなくて」

「関係ないよ。私は、一色の作品だからこそ読んでみたい」


 美月は格好良く笑みを浮かべながらそう言った。

 そこで一色は悟る。この人に遠慮をしていた方が余計にしつこく追及されると。だからここは覚悟を決めて、彼らしい言葉を言う。


「――また機会があれば」


 微笑みを浮かべる彼の表情は、満更でもないことは言うまでもなかった。

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