7幕 そのとき、彼は
暗がりの道を、意気消沈とした雰囲気でトボトボと歩く一組の男女がいた。その顔には生気はなく、もはや屍のような面構え。
……貴音美月と海老名雪彦である。音楽コースのバンド仲間に連れさられ(拉致され)、授業の課題の練習をさせられていた二人は、今しがた解放されたところだ。結論を言えば、約束を違えた美月と雪彦が完全に悪いのだが、しかしこの二人が素直に納得をするはずもない。
「渡邊先生も悪魔だが、あいつらも中々に鬼だな」
「だな。やっぱり俺らの憩いの場は美術部しかねぇ」
「全くだ。……あぁ、今日は虹とあまり話せていないのが辛い」
「はいはい、お前はいつもぶれないな」
雪彦は美月の戯言を手をヒラヒラとさせて払い、受け流す。美月の虹に対する愛につ火をつけてしまえばどうなるか、長年の経験で理解していた。
中学一年生からの腐れ縁だからこその勘。決して間違っていない。
「……虹ちゃんといえば、この前は千尋の家に泊まったって聞いたけど、あれはお前の中ではどうなって……いや、いいや。そんなに目で見るな、怖い」
雪彦が不用意に触れてはいけない話題に触れたものだから、美月の殺気が際立つ。芸術高校に通い、美術や音楽などの芸術に触れていて、かつ文化系の部活に入る少女が発する殺気ではない。それは達人が発するものと遜色なかった。
「雪彦くんは面白いことを言うね、あははは」
「だからもう良いって言っただろ! それとその女の子みたいな話し方は止めろ!」
「私は女の子だ!!」
……普段の行動を鑑みて、それは無理のある。
「……まあ冗談はさておこう。それにあまり怒っているわけではないからな」
「嘘つけ。泣きながら電話してきただろ。虹が、虹が帰ってこない、どうしよう!? って言ってたじゃねぇか」
「私がそんな女みたいな口調をするはずがないだろう!!」
雪彦の悪意ある物真似を見て、猿のように顔を真っ赤にして怒る。しかしその発言が自分の首を絞めていることにはまるで気付いていなかった。
「お前と話していたらいつも話の腰が折れる! お前は昔からいつもいつもふざけて」
「悪い悪い――で、怒ってないんだっけか? お前にしては珍しいよな。虹ちゃんのことなのによ」
雪彦は手の平を合わせて軽く謝り、そして本題に入った。美月は納得しているわけではないが、一度ため息を吐いてから話し始め、
「別に私は虹だからと言って、全てに口を出すつもりは毛頭にない。一色のことだってそうだよ」
「いやいや、今まで散々男関係で目を光らせてきたのは誰だよ」
「……奴らは虹を性欲の塊のような目で見ていたから、当然の制裁をしただけ」
その者たちが今は女性恐怖症に陥っていることは言うまでもない。彼女は当然、そんなことは知らないだろうが。
「……確かに、俺の目から見ても碌な男はいなかったけどよ。それにしたってお前は基本的には虹ちゃんに近づく男には、とりあえず様子見で睨みつけるだろ?」
「まあそれは否定はしないよ。何せ私、だからかな!」
「……そんな美月でも、千尋には最初から気を許していたよな。虹ちゃんと仲良くするのも容認してたし」
雪彦は横目で美月を見ながら、様子を窺うようにそう言った。
……雪彦の言う通り、美月の千尋に対する態度は他の男子たちとは一線を画したものであった。美月は虹に対する男子に対してもそうなのだが、自分に近づいてくる男子に対しても隔絶した距離を保っているのだ。
雪彦は腐れ縁であるからか、そう言った距離はないが……他は違う。しかし雪彦の目から見ても美月は一色に対して親しみを持って接していたのだ。
「……一色は警戒するまでもなく生真面目だ。お前みたいな劣情で女を見ているわけではないからな」
「その割には俺とは普通に話してくれるんだな」
「……慣れだよ。それにいつでも屠れる」
「……………………」
雪彦は美月がボソリと呟いた言葉に戦慄を覚える。雪彦が寒気を感じて鳥肌が立つ中で、美月は話し続けた。
「……うちは部活の勧誘に力を入れていたわけでもないのに、一色は部室の扉を開いた。私もお前も初香も動いていなかったのに、どうして一色が美術部に入ったのか。最初はそれが分からなかったけど、少ししてすぐに気が付いたよ」
「……千尋がうちに入った理由か。そういえば聞いたことがなかったな」
「あいつは自分からは恐ろしいほどに話さないからな――だけど私は、何となくだけど虹が理由だと思ったんだ」
駅前の改札に着き、二人は改札を抜けて駅のホームで電車を待ちながら話し続ける。
「虹ちゃんに惚れたととか?」
「……だったら今頃は既に辞めているさ」
何故辞めているのか。雪彦はすぐに理解できたため、問いたださなかった。
「……いや、惹かれたというのは正解かもしれないな。私にも細かいことは分からないし、一色がどういった理由で美術部に入ったのかも――でも間違いなく、一色を誘ったのは虹だろうな」
「……虹ちゃんが?」
「ああ。最初から虹は一色に親しげだった。異様に一色の話題を出してきて、話の中心が一色であったことも多々あって……あの野郎」
「お、落ち着けよ」
話しながら殺気を放つ美月を宥める雪彦。
……しかし雪彦はなるほどな、と納得した。言われてみれば美月の話は納得できる部分が多々ある。
理由はどうであれ、水無月が一色に対して気を許していたのは事実であり、、彼女が彼を部活に入った原因であったとしても不思議ではない。一色が部室に来るまで、美月も雪彦も彼に会ったことがなかったのだから。
「……ん? それで美月は何で千尋に親しげなんだ? 理屈は分かったけどよ。それにしたってやっぱりお前の千尋に対する接し方は普通とは違うぞ」
「私としてはあまり違和感なく接しているつもりだけど……何が違うんだ?」
「ん~、難しいな。なんていうんだろう――そうだ、お前、千尋に対して虹ちゃんに近い接し方をしてるんだ」
唸るように考えていた雪彦であるが、パッと思いついたのか、そう美月に言った。それを聞いて美月は少し驚いた表情を浮かべる。
「……意外と頭が回るんだな、雪彦。…………意外と」
「意外ってなんだよ! しかも二度も言うんじゃねぇ!!」
「いや、馬鹿にしていないよ――そうだな。お前の言うそれも、決して間違いじゃないよ」
美月は微笑みを浮かべた時、丁度電車が到着する。鉄の擦れる音がホームに響く。美月の長い黒髪が電車による向かい風で靡き、つい雪彦は見惚れてしまった。
「……どうした?」
「……なんでもねぇよ。お前ってつくづく素材を台無しにしてるよなって思っただけ」
「……ふ」
雪彦の言う言葉の意味を理解した上で、美月は彼のことを鼻で笑うのであった。
「この私に見惚れるなど、お前も残念な男だよ」
「見惚れてねぇから。自意識過剰だぞ――それで、話の続きだよ。お前と話してたら話が脱線しすぎて面倒くさいな」
「その言葉をそっくりそのままお返ししよう」
いつもながらの会話をしながら、二人は到着した電車に乗る。席は夜も遅いからかかなり空いていて、二人は乗り込んだ扉のすぐ近くの席に座った。
「自分で意識していたつもりはないんだがな。知らないうちに一色に対して、虹と重ねていたのまもしれないな」
「……似ても似つかねぇぞ、あいつらは」
「そうだな。片やいつも笑顔で社交的で。もう片方はいつも無表情で内気――でもどちらも何かと世話を焼きたくなる。雪彦もそうだろう?」
「……まぁ、千尋のことは気に入ってるし、虹ちゃんは天使だと思っているけどよ。千尋ってしっかりしてそうで危なっかしいっていうかさ――放っておいたら、すぐに離れていきそうだからな」
雪彦は苦笑いを浮かべながら、しかし嬉しそうにそう話した。
その顔を見て、美月は興味深そうに目を大きく見開いた。
「雪彦はどうして一色のことを気に入っているんだ? 前々から気になっていたんだ」
「あ? ……え、話さないといけないか?」
「私は気になる」
雪彦は顔を少しばかり赤くするものだから、美月も意地悪くそう追及する。グイグイと迫ってくる美月に雪彦が勝てるはずもなく、ため息を吐いて観念したうように話し始めた。
「……俺の評判って基本的に悪くて、実は男子にもめちゃくちゃ悪くてよ。誰かさんのせいで一年生にも、それはもう悪評が回ってんだ」
「ほう、誰かさんか」
「知らばっくれんじゃねぇ! ……でもさ。あいつは最初から先入観を持たずに接してくれたんだ。あいつはそのつもりはないだろうけどよ。俺としては結構あいつと話すのは居心地が良くて――おい、微笑ましいものを見るみたいな目するな。母性たっぷりの笑顔浮かべんじゃねぇ!」
「ん? あはは、私はそんな女性らしい笑顔を浮かべれるんだな。いやはや、中々良い話じゃないか。うんうん、それなら雪彦が一色を気に入るのも分かるな! これはちゃんと一色にも伝えて」
ニヤニヤと笑いながら携帯電話をひらつかせる。雪彦は美月が一色に今のことを連絡するものだと思い、携帯電話を取り上げようとした。
「止めろー! そんなことあいつに知られた日には、俺はもうあいつには勝てねぇんだ! 今でさえ立場が完全にあいつの方が上なのに、これ以上は……これ以上は……っ」
「……本気泣きは止めろ。私が罪悪感でどうにかなりそうだ。そもそも電車の中でそんなことをするはずがないだろ」
美月は情けなく泣き崩れる雪彦の肩をポンポンと叩きながら、完全に引いた顔をしていた。雪彦もこれまでの交流で一色に勝てないということを理解していたのか。当初は積極的に弄っていたのものが、いつの間にか立場が逆転してしまった。隙のない一色には勝てない現実に打ちひしがれる。同じく最近彼に勝てない美月も雪彦に対して同情めいたものを感じた。
そうして話していると、電車は雪彦の降りる駅に到着する。そこで美月と雪彦は普段なら別れるのであるが……
「……ん? 電話か」
美月の携帯電話に着信がかかり、美月はそれに出るために雪彦と同じ電車で降りた。
「どうしたんだ美月」
「いや、電話がかかってきてな。相手は……一色?」
これまた意外な着信相手に美月は目を丸くした。それは雪彦も同様である。
自分たちから一色に連絡を入れることは多々あっても、一色の方から電話がかかってくることはまずないのだ。初めてと言っても良い。
美月は驚きながら画面を操作して電話を通話ボタンを押す。
「もしもし、私だ」
『……夜分遅くに申し訳ないです』
いつものようにあまりメリハリのない声が美月の耳に届く。しかし今日の声はいつにも増して元気がないというか――何か深く考え事をしているような声だった。
「どうした、一色。珍しいな、お前から電話を掛けてくるなんて」
『いえ、なんていうか……』
言い淀む一色に、美月は疑問を浮かべる。一色は電話を掛けてくるなら要件をまとめて、余計な会話を省いてすぐに用事を済ますタイプだ。少なくとも最初から言い淀むことはまずありえない。
珍しいことの連続が、美月の好奇心に火をつけた。
「話したい事があるのか? それも私に……あはは、つくづく珍しいな」
『……今週は、出来る限り部活に行こうと思います』
「うん、それは嬉しいことだな。……私が毎日顔を出せるかは、あいつらの機嫌次第だな」
バンド仲間の鬼の形相を思い出して、果たして毎日部活に行けるかどうか不安になる。……しかし、と美月は思った。一色はこの学校でも特に課題が過酷な漫画コースの生徒だ。それなのに無理して毎日顔を出すと言うから、心配するのも無理はない。
「一色、決して無理はしなくていいんだぞ? 普通、二学期は大体の学生が部活を控える時期なんだ。特にうちの学校は」
『分かってます。でも……今、一人でいても何もならないって思って』
「……珍しいな。お前が私に弱音を吐くなんて」
美月はこのとき、確信した――今の一色が、普段とは明らかに違うということを。それは数週間前の朝、二人で話した時の彼とも全く違うかった。
「何かあったのか? 私たちが部室を去ってから――」
そう言って、美月はハッと気づいた。美月と雪彦が去ってから、部室に残ったのは一色と水無月だ。一色と水無月が仲が良いことから考えれば、その後、二人で話したことは間違いない。
となれば二人の間に何かあったのかと勘繰るのが当然だ。
「……虹と何かあったのか?」
『……そういうわけじゃないです。むしろ水無月には助けられてばっかりです。ただ……いえ、なんでもないです』
何かを言いかけるものの、一色はそれ以上は何も言わなかった。
「待て、その意味ありげな言い方は困るぞ!」
『本当に大したことじゃないんです。すいません――じゃあ電話、切りますね』
一色はそう言うと、そのまま電話を切ってしまう。一方的に切られたことよりも、一色への心配が先決する美月は、釈然としない表情で画面を見続けた。
「……千尋、どうしたって?」
美月と一色の会話を傍で聞いていた雪彦は、恐る恐る美月に尋ねる。
「……わからない。ただ、一色が意味もなく電話することはまずありえないから、きっと何かはあったんだろう」
「でもあいつ、絶対に口、割らないぞ」
「わかっているよ。だから特に何もしない。……見守るだけ、だよ」
美月はそう言うと、携帯電話を両手でキュッと握りしめた。
美月は達観した言葉を並べていながら、内心では心配の色で染まっていた。それに気付いた雪彦は、彼女の肩に手をポンと置く。
「……素直に心配しておけよ。一人で考え込むのは美月の悪い癖だぞ」
「…………雪彦」
美月は雪彦のことを目を丸くして見つめた。
「俺も上手いことは言えないけどよ。千尋がそうやって電話をかけたっていうのも一つの成長なんじゃないか? やられた方は気になって溜まったもんじゃねぇけど――だからお前の言う通り、俺らは見守ってやろうぜ。うら若き新入部員をさ」
雪彦は快活な笑みを浮かべて美月にそう言った。
その表情を見て、美月は不意に微笑みを浮かべる。そして乗せられた手を払った。
「……私にお前の落とすときの常套句を使っても無駄だからな?」
「――今はそんな場面じゃねぇだろ! ……ったく、この野郎」
そう文句を垂れる雪彦であるが、その表情は怒っている表情ではない。それは美月も同様で、穏やかな笑顔であった。
しかし一つ、困ったことがあった――夜の田舎の電車の本数は驚くほどに少ない。
電話が来たことで途中下車してしまった美月は、電車が来るのを待たなければならない。しかも次の電車は一時間後である。
「全く一色は困った奴だ。ここで時間を潰すのは苦行だぞ」
「……なんだったら、うちに来るか? 初香もいるし、たまには上級生三人でワイワイとしようぜ!」
「…………仕方ない、雪彦に乗ってあげるよ」
――この夜、雪彦は彼女を家に連れ込んだことを後悔することになる。
何故? そんなもの決まっている。
「――こらぁ、雪彦ぉ! 炭酸が足りんぞ、持ってこーい!!」
「あははは、美月ちゃん、良い飲みっぷりだよ! あ、雪彦お兄ちゃん、お菓子もよろしく!!」
「…………失敗したぁ!!!」
無論、美術部の騒がしい部門ツートップを同時に相手しないといけないからだ。
このとき、雪彦は切に一色の存在を欲した――彼が普段、どれだけストッパーになっているかを改めて再認識した。
しかし雪彦のたちが悪いのは、再認識している癖に一色に変わらず迷惑をかけるところだろう。
……かくして、海老名雪彦の夜はまだまだ長いのであった。
○●○●
――貴音先輩に電話をした次の日の朝は、とてつもない後悔の波に襲われたのを鮮明に覚えている。
どうして俺はあんな意味のない電話をしてしまったんだろう、と。しかもよりにもよってあの貴音先輩に対してだ。
……だけど、あの時の俺はどうしても知りたかった。喫茶店で水無月の見せた、あの悲し気な表情の理由を。一体何が水無月をあの表情にさせてしまったのかが、どうしても知りたかった。
だけど今ではもう後の祭りだ。あれから貴音先輩からの催促を何度もはぐらかしたのは他の誰でもない俺で、だからこそもうどうしようもない。
そんなことばかりを考えていたら数日も経ってしまった。我ながら、一つのことにどれだけ考える時間を費やすものなのだと思ってしまう。おかげで漫画の進行も大不調で、渡邊先生に呼び出されるのも時間の問題だ。
……進行は大不調であるが、別に筆の調子が悪いかと言われれば、そうではない。むしろ話自体はそれなりに納得のいくものを思いついている。しかしいざペンを持って作業を始めると、ある程度のところでピタリとペンが止まってしまう。
そうして考えるのだ――この漫画は、何のために描いているのだろう、と。そんなときに思い出すのが水無月の悲しげな表情だ。
……わけがわからない。どれだけ言葉を頭の中にある辞書から探し求めても、最適解の言葉はいつまで経っても浮かんでこない。ずっと理解不能の渦の中に飲み込まれ続けている。
……そんなときにふらりと美術部に行く。そこには相変わらず先輩たちがいて、水無月がいる。そこで時間を過ごすと自分の悩みが嘘のように忘れることが出来て、また前を見て……そうしてまた、同じことを考える。
最近はそんなことの繰り返すばかりだ。そろそろどうにかしないといけない、とは考えるものだけど……ああ、ダメだ。このパターンはいつもと同じだ。
「……はぁ」
「――なぁに辛気臭いため息吐いてるのー? 幸せが逃げちゃうよ、ちひろん」
「当たり前のように話しかけないでください、海老名先輩。いつの間に隣に」
「ちひろんがぼーっと空を見ながら黄昏れてるから、変な目で見られないように側にいてあげたんだよ?」
「……それはどうも」
海老名先輩の意見は筋が通ったものだったから、素直に感謝する。
……俺がいるのは放課後の教室だった。既に室内には俺と先輩以外はいない。どうやら授業が終わってしばらく呆けてしまっていたようだ。
「どうして海老名先輩がここに?」
「部活に行こうと思ったら、雪彦から連絡があってね。部室来る前に千尋のところに寄って来るかどうか聞いてこいって使いっ走りされたんだよ」
「そうですか。……今日は行きます」
俺はそう言って机のフックにぶら下げている学生鞄を手に取り、立ち上がった。
……するとその時、廊下の方で唐突に小走りする音が聞こえる。
「……なんだ?」
「ん~、さぁね。忘れものでもして走ってたんじゃなーい? それより部室へレッツゴー♪」
……海老名先輩はいつも通りの高いテンションのまま、俺の腕を無理やり引っ張って部室へと連行する。
別に部室に行くのが嫌な訳ではない……けど、この距離は遠慮したいところだ。
……一年生棟の二階から特別棟は直結している。その渡り廊下の途中には学内掲示板があり、そこを通っているときに俺はふと足を止めた。
「ん、どしたのー?」
「いえ、何かイベントがあるのかなって思って……大体が一年生が参加するコンクールのことばかりか」
「一年生は最初は絶対参加が基本だからねー。逆に二年生、三年生の方の掲示板は全国各地のコンクールの張り紙が、こことは比べものにならないくらい張り巡らされてるよ。ホント、引くくらい」
……俺も一度、二、三年生校舎の掲示板を見たことがあるから、海老名先輩の表現に同感する。掲示板なのに掲示板の意味を成していない、と言えばいいか。
隙間がないほどに張り巡らせた壁紙は、一体どれがどのコンクールかが一目で分からないほどにごちゃごちゃとしている。その点、一年生の掲示板は平和なものだ。
「漫画なら漫画大賞、私のアニメーションなら動画コンクール、音楽なら音楽祭って感じに色々あるんだねー。美術全般は募集してるコンテストがあれば、美術のどれか一つに特化したものもあるんだ」
「……絵画コンテスト」
ふと掲示板に張られているチラシの一枚を凝視してしまう。それは美術系のコースのうちの一つの、絵画のコンクールだ。水無月がこのコンクールに該当していて、不意に彼女の作品のことを思い出した。
……色の分からない俺が、生まれて初めて色のついた作品を美しいと思った作品がある。それは文化祭に見た水無月の作品だ。
あれ以来、俺は彼女の創作するもの全てに興味が尽きない。俺の灰色の視界は何も変わることはない。だけど、水無月のおかげでそれが少しは変わったと思う。
だから、俺はこのコンクールで水無月が描く作品を誰よりも楽しみにしている。次はどんな作品をどんな表情で楽しく描くのだろうと、期待していた。
「……海老名先輩が一年生の時、絵画コースの人ってどんな感じでした?」
……だからこそ、俺は水無月には全力を尽くして作品制作をしてほしい。故に俺は海老名先輩にそう質問をした。
――俺が不定期で行っている中で、水無月とはその都度、顔を合わせていた。つまり彼女は現在でも毎日のように部活に行っているということだろう。
一年生は特に慣れていない分、作業に時間を有する。にもかかわらず毎回のように部活に顔を出せるのかがずっと疑問であった。
「んー、結構忙しそうだったねー。遊びに誘ってもみんな乗り気じゃなかったよ」
「むしろ同じ条件下でアニメーションコースの海老名先輩が、そんなに余裕なのが可笑しいと思います」
「え、そう? てへへ、嬉しいことを言ってくれるのぉー♪ つまり、私が優秀だっていうことだよね?」
「…………まぁ、そうなんですけど。先輩が言うとなんかイラってします」
まあ実際に先輩の描く速度と絵の説得力は相当のもとだということは知っているから、特に反論はしない。雪彦先輩も言っていた通り、海老名先輩は要領が凄まじくいいのだろう。
「でも、そうですか。……水無月、大丈夫かな」
「お、こーちゃんの心配ですか、ちひろんくん? 初香お姉さんはこーちゃんばかりで嫉妬してしまうよー」
「変な冗談やめてください」
変な絡み方をしてくる海老名先輩に軽く牽制を入れつつ、俺は掲示板に視線を戻した。
……とはいえ、まだ九月の二週目に過ぎない。漫画コースと絵画コースでは絶対的な作業時間に違いがあるのだろう。漫画以上に感性を研ぎ澄まさないといけない絵画について、俺が特に心配する必要はない。
俺は深く考えることなく掲示板から視線を外し、真っすぐに部室に向かった。
部室の扉は開いている。部室にはいつものことながら水無月が部活の準備をしていた。イーゼルやキャンバスを全員分設営しようとする気の遣い方は相変わらずだけど、あいつの力は貧弱だ。
「あ、お疲れさま一色くんに初香先輩――あわわ」
「危なっかしいな」
水無月はキャンバスを幾つも抱えている。足つきが明らかに危なしくて、案の定というべきか、転げそうになっていた。俺は水無月からキャンバスを取り上げて部室の木製の机の上に置いた。
「ありがとう、一色くん!」
「……怪我されたら困るからな」
素直に水無月の好意を受け取れない俺は、相変わらず面倒臭い。
……今日も水無月は部活に来ているのか。でもまだ言って九月だ。来月にでもなれば行きたくても部活に中々来れなくなるだろう。
水無月と話せないことに少し残念だと思う一方で、その間に彼女が描く未来の作品にどうしようもない高揚を覚えた。
「今日は美月ちゃんと海老名先輩は休みらしいから、三人で何かしましょう!」
「お、いいね~。何しよっか――あ、ちひろんのヌードデッサン」
「……捻り潰しますよ」
俺が水無月の代わりにイーゼルを運んでいる間に、海老名先輩が勝手な提案をしていた。持っているイーゼルを彼女に投げつけたくなる。しかしそれをしては貴音先輩と同類だから、後で何らかのやり返しをしよう。
……余談であるが、最終的な部活動の内容は何故か海老名先輩が用意していたコスプレ衣装によるコスプレデッサンであった。モデルは俺で、描く時の水無月の距離感が異様に近かったのが記憶に真新しい。
――だけど、どれだけ日が経てども。水無月は笑顔を見ない日は決して来なかった。
誰よりも早く部室に来て、用意をしている水無月。ただの一日でもそれは寸分違わず、水無月の習慣は続いていた。俺も時々漫画関連でいけないことがあったが、その時は誰かしらが部活に来ていたから水無月が毎日部活に来ていることが知れた。
……そうしていると、ついに十月に差し掛かるのだった。
●○●○
外は肌寒く、ついに夏服から冬服に衣替えが完了する。生活をする上で丁度心地良い秋には色々な言葉がある。
食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋、行楽の秋、芸術の秋……。俺の通う学校では、もっぱらが芸術の秋を過ごしていることだろう。
……俺の作業自体は、なんとか前進することが出来ている。百パーセント、自分で納得できる作品を思いついたわけではない。しかしいつまでも納得できないからと言って止まっていては、何も生まれない。そう思ったからこそ、自分の思いついた中で最も面白い話をネームに描き起こしていた。
順調に進んでいるようだけれど、内心は全く納得できていないというのが本音だ。
……俺の思い描いている世界を、誰もが楽しめるとは思えない。俺の作品ではキャラクターを活かしきれていない。どれだけ試行錯誤を重ねても、どうしても突破口が見つからないのだ。
そんな、飛躍的に前に進むわけでもなく、かといって後ろに後ずさるわけでもない状況が続いている。だけど、ここまで前に進めたのは間違いなく美術部のおかげだろう。
あそこにいれば嫌でも創作意欲が掻き立てられる。様々な分野の人間が一つの活動をしていると、それぞれに色々な色が見える。それぞれの良さを最大限発揮した作品を、作業風景を目の当たりに出来るのがこの美術部だ。
……だけど俺の懸念は、本当は自分のことではない。水無月だ。
毎日部活に来ている水無月も俺と同じ一年生で、慣れない課題と向き合っているはずなのだ。俺は漫画、水無月は絵画。それぞれにコンクール課題があり、それの作品制作の時間を考えるならば毎日部活に来る余裕なんて出来ないものだ。
つまり水無月は
「作品制作をしていないのか?」
……思えば、水無月のちゃんとした作品を見たのは文化祭以来一度もなかった。
部活動で描く絵は何度も見たことがあるが、それはあくまで部活動における活動の一環。貴音先輩が思いついた企画を元に絵を描いたり、特には絵と全く関係のないことをしたりする過程で生じたものだ。
水無月が自分の個性、価値観をぶつけた一つの集合体である作品を、描いているところを見たことがない。もしかしたら授業で嫌というほどしているから、部活では楽しいことをしたいというだけなのかもしれない。
……でも、何かが引っかかる。
「……わがままだな。あいつの絵が見たいだけなんて」
俺に初めて美しさを教えてくれた。その絵には確かに「色」があって、そして水無月の「心」を描写している。
全色盲で生まれつき色を見ることが出来なかった俺に、初めて色を認識させてくれた水無月の絵。……もちろん本当の色を見たわけではない。だけど少なくとも色のついた作品を見て、心の底から美しく綺麗であると思ったのは、あいつの作品だけだ。
だからこそ、俺はどうしようもなく水無月の描く絵を、世界を求めてしまう。あいつの話は何でも知りたくて、つい普段の自分を忘れて彼女の質問してしまう。
――そんな恥ずかしいことを考えながら、俺は放課後、部室に向かっていた。
しかし特別棟に向かう人は限りなく少ない。やはり授業の課題に精を出す学生が多いのだ。普段から閑静な特別棟が、今日はいつにも増して静かだった。自分の足音が廊下中に響き渡る。
……窓辺から見える空は曇り。一面は雲に覆われている。
「……今日は曇り空を描くか」
その空を見ながら今日の部活で描くものを決めた。
最近は自分で好きなものを選択し、部活動の中だけでそれを絵として完成させるという活動が多い。これは海老名先輩の発案であり、流石はアニメーションのコースに進む人ならではの企画だと思う。要は速度を上げつつ完成度を高めていくというわけだ。
……部室の前に着くが、珍しいことに扉は開いていなかった。
「……まだ誰も来ていないのか?」
俺は扉をガラリと開くと、中はもぬけの殻だった。これは何気に珍しい。普段なら、いの一番に水無月が来て準備をしているからだ。どんな状況でも一番に来るため、気になって何度かあいつよりも早く来ようとしたが、それでも水無月はそれでも自分より早く来ていた。
……体調でも崩して休んでいるのか? そう心配になる。
「……よし」
普段は水無月に準備をしてもらっているのだから、今日はあいつの代わりに俺がしよう。俺は扉を開けたままにして、床に学生鞄を置いて準備室の方に向かう。部室の中にその扉はあって、丁度隣接する設計になっている。いつもなら水無月が率先して準備、片付けをしているから俺はあまりその部屋に入ったことはない。
……準備室はきっちりと整頓されている。恐らく普段から水無月がしっかりと管理しているんだろう。というよりも、他の先輩たちに任せたら大変なことになるのか。あの三人は整理整頓をしそうにないからな。
とりあえずキャンバスとイーゼルは必須か。っと言っても、昨日部活に来ていたであろう面倒くさがりの先輩たちが自分たちのイーゼルとキャンバスをそのままにして置いているから、実質自分と水無月の分だけ運ぶだけで済む。
荷物を持って準備室を出ようとした――その時、扉の影に隠れていた一つのキャンバスがあることに気付いた。壁に立てかけるように無造作に置かれたそれには布が被せられている。
……何故だか、数か月前の出来事を思い出してしまった。
「あの時も、この部室から出ようとした時に水無月の絵を見つけたっけ」
……そう、文化祭のあの日だ。渡されたチラシでふらりと美術部の作品を見に来て、水無月の絵を見つけた。あの時も部室の出口辺りに布を被せたキャンバスが置かれていたっけ。
あれから俺の環境は随分と変わった。ほんの数か月前のことなのに、とてつもなく前のことのように感じる。
それほどに、この美術部での数か月は濃密だった。
「……そっか。あいつ、ここで自分の絵を描いていたのか」
これはきっと水無月の絵なのだろう。それならば合点が一致する。別に隠すこともないのにな。
あいつにとってこの美術部こそが最も作品制作をするには心地いい空間なんだろう。でも水無月は変なところで隠すところがあるからな。
昔話でいう鶴の恩返しみたいと思ってしまった。
「……なら、見てしまったらあいつは――なんてな」
俺は抱えるキャンバスとイーゼルを一度置いた。キャンバスにかけられている布に掴む。そして布を取って絵を見た。
一体どんな絵を描いているのだろうと、らしくもなく気分が浮つく。どんな色を見せてくれるのだろうと期待した。布が取れて絵が露わになるたかがコンマ数秒さえも遅く感じる。
――その時、俺は目を見開いた。
それまで考えていたたくさんのことが、考えられなくなった。
「ま、てよ……どうして、なんで……」
動揺が走る。言葉が浮かばず、同じような声を何度も繰り返してしまう。
その場から一切動けず、身体は固まってひたすらにその絵を見続けた。
……どうしてだ。どうして、なんだ。
水無月虹の描く世界は美しい。伸び伸びと、楽しんで絵を描いていることが俺でも伝わるほどに楽しい世界を美しく描いている。
例え世間一般で評価が芳しくなくても、あいつの絵は俺が生まれて初めて美しいと、色づいていると認識したほどに魅力的なものなんだ。
――その、はずなんだ。
「俺が、可笑しいんだ。そんなはずが、ないんだ――そうだ、これはあいつのじゃない。きっと先輩たちの誰かが描いて、それで」
……そんなはずがないと、理性では理解しているはずなのに、感情がそれを否定する。認めたくない、信じたくない気持ちが頭の中をグルグルと駆け巡り、冷静さを失わせる。
――そんな時、準備室の外から声が聞こえた。
「……誰か先に来てるのかな?」
……水無月の声だった。今、部室に来たのだろう。
足音が俺のいる準備室の方に向かってきて、そこで水無月は気付いた。
「……あれ、もしかして一色くん、中にいる?」
水無月は扉の窓に移る人影に気付いたのか、扉越しにそう尋ねた。
「……ああ」
俺は限りなく低く小さな声で空返事を返すと、水無月は準備室の扉を開いて中に入ってきた。
「ごめんね、渡邊先生と話してたら遅くなっちゃって。私も準備手伝うよ――あ」
……水無月は俺がキャンバスを見ていることに気付いて、顔を少し赤くした。
「……一色くん、悪い子だ。これ、布が掛かっていたでしょう?」
「……ああ、悪い――水無月、一つ、教えてくれないか?」
俺は途切れそうな声を何とか紡いで、どうにか声を出してそう尋ねる。
「……なに?」
水無月は怒っているように装っているが、満更でもないような表情でそう言い返す。それが既に答えになっていることに気付いているくせに、俺は確かめられずにはいられなかった。
「この絵は……水無月が、描いたのか?」
――首を横に振って欲しい。この人生でここまでそう願ったことはない。
水無月からの返答を聞くのがどうしようもなく怖い。たった一秒のことが、永遠のように長く続く。心臓の音が自分でもわかるほどに高鳴っている。ドクドクとうるさいほどに鳴り響いている。
……水無月は口を開く。そして紡ぐ言葉は――
「……うん、そうだよ」
肯定で、あった。
――頭が真っ白になる。水無月の肯定を聞いて、言葉にできない感情が渦巻いた。
……水無月の絵で、あって欲しくなかった。
それは決して上手いとか下手とかそう次元の話じぁない。
「課題で絵を描くのって嫌なんだよね。絵が楽しんで描くものだからさ。だから授業で使う部屋でそれをしたくなくて、ここで隠れて絵を描いてたんだよ――って、一色くん? どうしたの、顔色悪いよ?」
水無月が、心配してくる。
だけどその心配なんて最早どうだっていい。
「――違う」
彼女の心配を振り払って、俺は声を出す。
「違う? 一体何が……」
水無月は俺の言う言葉の意味が分からないのか、首を傾げる。
――こんなことを言ってはならない。なのに俺の理性が働かない。口が勝手に開閉して、喉を振動させて音を出してしまう。
「違うんだよ、水無月……っ。そんなはずが、ないんだ……っ!」
「い、一色くん、落ち着いて? 何か嫌な事があったの? 私で良かったら話を聞くから――そうだ、今日は部活はなしにしよう! 先輩たちは全員お休みらしいから、私が相談に乗って」
……水無月の気遣いで気付く――自分が涙を流していることに。
でもこの涙は前に流したものじゃない。前に流した涙は、感極まって出た喜びの涙だ。だけどこれは――その逆だ。
……水無月が俺の手を握り、部室の方に引っ張ろうとする。だけど俺はそれを振り払った。
「え……一色、くん?」
水無月は少し怖がるように俺を見つめる。だけど俺は構わず、話し続けた。
「――これは、お前の作品じゃない」
止めろ、言うな。それを言ってはダメだ。それは彼女を傷つける言葉だ。
「お前はもっと、もっと美しい世界を描けるだろ……っ! なのに、どうしてこんな……こんなっ」
「な、……何が、言いたいのかな……? 私、一色くんが何を言っているのか、分からないよ」
……水無月の声が震える。だけど今の俺には、彼女を気遣うことなんてできない。
ただ自分勝手に、彼女に言いたいことを、言ってしまうだけ。
「――この絵からは、何も感じないんだよ……っ。美しさも、楽しさも……お前らしさが――色を、感じないんだ」
初めて俺に色を教えてくれた水無月虹の描く美しい世界という名の絵。
彼女のちゃんとした作品を目にしたのはこれで二度目。
彼女の世界に惹かれて、ずっと焦がれていた想いとは裏腹に、俺の目に映る光景は
――いつもと何も変わらない、白と黒……モノクロな光景であった。




