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こころのいろ  作者: 如月心
第4章 対向車線の二人
19/69

2幕 体育祭は大荒れ模様

 虹陸芸術専門高等学校の体育祭は、夏休みが明けたすぐの週末にある。普通に考えれば芸術の専門学校で体育祭など盛り上がらないと思うだろうが……


「は、早い、早すぎるぞ貴音美月! あいつ本当に美術部か!? 絶対に入る部活間違えているだろう!!」

「あいつ、小学生の時に素人の癖に陸上の全国大会に行ったって噂だよ」

「そしてそれを当日、サボったってことも有名だな」


 ――盛り上がる。その一言に尽きる。

 ……もう一度言おう。この学校の体育祭は、熱狂的と言い表せるほどに盛り上がるのだ。もちろんその年にもよるのだが、少なくとも美月や雪彦たちが一年生の頃からの二年間はかなりの盛り上がりを見せていた。

そしてそれは今年度も同様で……


『おおっとぉ~!? ここで三年生赤団団長、貴音美月が三人を牛蒡抜きだ! 早い、早すぎるよ美月ちゃん!! これは実況の初香ちゃんもビックリだよ!』

『は、初香さん? 色々と言いたいことはあるんだけど、まずあなたは放送部じゃないよね!? っていうかそれは私の仕事だよ!』

『細かいことは気にしないの~――美月ちゃんのレーンは他三人が陸上部所属だけど、そんなものは関係なし!! 美術部にしておくには勿体無いとしか言い様がない美月ちゃんの脚力は、草食動物を追いかける百獣の王の如く!! そのまま美月ちゃんゴールイン!! 美術部切手の野生児、安定の一位でゴールテープを破りましたー!!』


 ……一色千尋は自分の席で頭を抱えていた。彼の所属する美術部が嫌なくらいに悪目立ちをしているからである。しかし悔しいが、海老名初香、放送部顔負けの実況の上手さであることは一色も認めるところだ。

 ――体育祭が毎年盛り上がりを見せる理由は非常に簡単で、主に雪彦と美月、そして初香が凄まじい悪目立ちをしているからだ。

 たくさんある部活動の中で、一番目立っているのが文化系の美術部であるという部分がまずおかしいのである。しかしながら、そのことも逆に相乗効果を生んで、盛り上がりに拍車をかけているというのは否定ができない。故に一色は頭を抱えているのだ。


「……騒ぎすぎだから」


 決して自分は巻き込まれないよう、そっと空気と同化する一色。彼の視線の先ではまるで英雄のようにもてはやされて賞賛されている美月の姿があり、彼女も満更でもない表情を浮かべていた。

美術部では決して体験できないことだ。あれほどの人たちに賞賛されるなど、普段の彼女からはあり得ないのである。


「……あの人が一番この体育際を楽しんでる」

「あぁ、違いねぇな」


 一色の隣の席に座り観覧している雪彦が、さもそこにいるのが当然であるかのような態度で肯定する。足を組んで無駄に格好をつけている雪彦を見て、一色は白い目で彼を見ていた。

 一つ情報を追加すると、一色のいる場所は白団の一年生の席である。対する雪彦は、美月と同じ赤団の三年生だ。


「なんで雪彦先輩がここにいるんですか? あぁ、一年生の物色ですか。でも雪彦先輩の悪評は既に一年生の間でも有名で意味ないと思いますよ?」

「ちっげぇよ! そういうことを言うから、俺の悪評は留まることを知らねぇんだぞ!?」

「……ご愁傷さまです」

「――うるせぇ馬鹿野郎!!」


 年下に良いように言いあしらわれる雪彦は、流石である。この場合の流石は決して褒めているわけではない。貶しているのである。

 ……しかし、やはり目立つ。雪彦は良くも悪くもこの学校では有名だ。悪評云々はともかくとして、容姿に関していえば他の追随を許さぬほどに整っているのである。接さなければ華があり、やはりお近づきになりたい女子は少なからずいる。

 そんな学園でも有名な海老名雪彦が、あまり他人とは関わりを持とうとしない一色と接しているというのは視線を集めるのだ。一色にとっては面倒くさいことこの上ない。


「それで、どうして一年生の席に来ているんですか? ……もしかして貴音先輩以外に友達がいないとか、そんなわけじゃないですよね?」

「……ち、違うから」


 明らかに語尾に力が篭っていない。更に動揺は明らかだ。それをあの一色千尋が見逃すはずがない。

 ――合宿を経て一色は進化した部分がある。それさ合宿中、美月や雪彦を黙らせ続けていた鬼神を間近で見ていたことがきっかけで備わってしまったのだ。


「――まああれだけ馬鹿をしていて悪評まで備わっていたら、中々気のおける友人なんてできませんよね。でもそれで後輩の、しかも敵チームの席にまで来るなんて、どれだけ寂しがり屋なんですか? ……ふ」

「――うるせー!! てめぇ、言わせておけば図星ばっかり突きやがって! お前最近あの悪魔に似てきてるぞ!?」

「……図星っていうのは認めるんですね」


 変なところで律儀な雪彦だ。涙目でそう言うものだから、一色は苦笑いを隠せなかった。

 一色も別に本心から雪彦を邪険に扱っているわけではないものだから、割と本気で泣いている雪彦に対して罪悪感のようなものが湧きたつ。

 ……しかし一色には、雪彦にどうしても伝えないといけないことがあった。


「……雪彦先輩、一つ良いですか?」

「あぁ、なんだよちくちょう……」

「さっき悪魔とか言ってた時、渡邊先生がここの近くを通って、それはもう凄い笑顔を浮かべていたんですけど」

「――マジで?」


 ……顔がみるみるまに真っ青になっていく様が、ここまではっきりと見えるのは珍しい。一色にとって、今の光景はとても貴重な場面であったのだった(主に漫画)。顔色の変化がわからない一色でも、雪彦の顔色が変わったことが理解できた。


「ちなみ雪彦先輩、次の競技はなんですか?」

「か、借り物競争だ」

「…………頑張ってください」

「――ちょっと待て、なんだ今の間は!! そんな物騒なフラグを盛大に立てるんじゃねぇよ!」


 雪彦がこの後、その貧乏くじを引くことになるというのは、言うまでもない。

 ……ところで体育祭のチーム分け。これはクラス毎にそれぞれ「団」と呼ばれるチームに分けられている。

 例えば一色のクラスは白団、美月と雪彦のクラスは赤団、水無月は青団で、初香は黒団といった全部で四つのチームで点数を競う。それが虹陸芸術専門高等学校の体育祭だ。それぞれ生徒は各団の色をした布を鉢巻として頭に巻き、そして様々な競技で点数を競うのである。


「っと、本題を忘れてたわ――昼休み明けの部活対抗リレー、千尋も参加するのは確定事項なわけだけど」

「ちょっと待ってください、聞いてないですよ」

「まあ今初めて言ったからな」


 ……またもや頭を抱える一色。何故こう、美術部はいつも唐突に事前連絡もなく事を起こすのだろうと本気で恨めしく思った。

 しかも部活対抗リレーは本来、運動部が主体の競技である。少なくとも文化部が参加するような代物ではないのだ。


「まあいいですけど。どうせ毎年参加しているんでしょうね、先輩たちのことですから」

「あ? いやいや、今年初めてだぞ、参加するのは」


 ……意外な返答に一色は素直に驚く。

 騒がしく、この体育祭を誰よりも楽しんでいるであろう先輩たちが、あろうことかそれに参加していないことに驚きを隠せないのだ。


「意外ですね、参加してなかったなんて」

「したくても出来なかったんだよ。ほら、リレーは四人からじゃないと無理で――美月が一人で二人分走るっていうのは運営に却下された」

「……本当にあの人、入る部活動間違っていますよね。いや、絵は上手いですけど」


 格闘技やスポーツで天下を取れるであろう至高の身体能力なのだ。宝の持ち腐れを目の前で見て、一色はもはや苦笑いも生まれない。失笑である。しかも何気に絵の才能もあり、音楽も出来るという多彩な面が見受けられるのだがらこの世界は不公平である。

 ただ彼女は女子力というか、生活力全般が壊滅的であることで、ある意味つり合いは取れているのかもしれない。


「ちなみに水無月ではダメなんですか?」

「――いいか、千尋。人にはな、得手不得手ってもんがある。俺は虹ちゃんを人前で見せ物にするほど心は穢れてねぇよ」

「何気にひどいっことを言っているのを自覚してください。水無月はやれば出来る子です」


 一色も大概である。

 ……そんな会話を雪彦としていると、彼が出場する借り物競争のアナウンスが入る。


『えー、次は――恋が芽生えるかも!? 借り物競争~~~! ちなみにこの競技には我が不肖の兄、海老名雪彦が出場するので女子の皆さん、気を付けてくださいね。これを機に可愛い人は口説かれるかも~』

「――おいこら初香ぁ!! 全校生徒が聞いてる放送で何を口走ってんだよ!? 俺の大事な作戦をこんなところで暴露するなぁ!!!」


 ……笑いに包まれるグラウンド。雪彦は何故か持っていた拡張機でそう言ったからか、その声は広域に広がったのである。

 一色は雪彦の隣にいるのが恥ずかしくなって席を立ち、静かな木陰の方に向かった。

 ……しかしそこには、既に先客がいた。


「……よ、水無月」

「あ、一色くん。よっ」


 水無月は一色の真似をして敬礼をしながらそう言った。木陰に腰を下ろして体育座りをしており、そこから体育祭を見ていたのだろう。

 一色は特に気にすることなく彼女の横に座った。


「熱気が凄いよな。色々な意味で」

「あはは……そうだね。美月ちゃんと海老名先輩は毎年凄いけど、今年はいつにも増して張り切ってるよ。……怪我しなかったら良いけど」

「いや、たぶん雪彦先輩は怪我をするよ――心をな」


 一色がそう言うと、視線の先で雪彦が借り物の書かれた紙を見て絶叫している姿だった。


「だ、誰だ、漫画家のイケメン教師なんて書いた馬鹿野郎は!! ――まさか千尋、お前かぁぁぁああ!!」


 雪彦は先ほどまでの一色との会話を思い出し、そう断定してそう叫んでいた。


「……ちなみに一色くん、あれ書いたの?」

「ああ。ちなみに雪彦先輩の取る封筒にあれを入れたのは海老名先輩だ。あの人、運営に携わっているから」


 ……体育祭実行委員に入っている初香の案で、借り物についてのアンケートを取ったのである。一色は面白半分で雪彦の引いたものを書いたのだが、それを初香が採用したのだ――全てはこの一瞬の笑いのために。


『あははは~! ちひろん、私、ナイスアシストでしょ!? ちなみにうちのお兄ちゃんは一年生の時に色々とやらかして、渡邊先生に対して恐怖心を抱いていまーす』

『……もういっか。盛り上がっているし――お、渡邊先生が自ら笑顔で雪彦先輩のところに歩いていきます!』


 放送の言う通り、渡邊が満面の笑みを浮かべながら雪彦に一歩ずつ近づいていく。

 雪彦の顔が引きつる。今すぐにでも逃げ出したくなるが、長年の恐怖心で足が震え、逃げることができなかった。


「――やぁ、君の言うところの悪魔だよ。もちろんお手伝いするよ、さぁ」

「い、いやぁぁぁぁ!!!!」


 ……恐怖心が頂点に達したのか、雪彦はその場から一目散に逃げ出した――しかし渡邊玲は、それはもう恐ろしく器用である。運動能力が高く、走ることも非常に達者で、雪彦の隣をぴったりとくっついていくではないか。

 ……雪彦からしてみれば十分にホラーである。彼自身もそれなりに身体能力は高いのだが、渡邊が相手では仕方がない。何しろ彼は色々な意味で超越した存在であるのだから。


「……たぶん初香先輩の手の平の上だよね、あれ」

「あの人はそんなことを平気で笑いながら出来る人だよ。身をもって知ってる」


 二人もまた、その経験があるため本気で雪彦に同情するのであった。

 ……そんな同情はさておくとしても、グラウンドは笑いに包まれていた。結果的にとはいえ、初香の思い通りの展開になっているのだ。さながらお笑い芸人のコントを見ているような感覚だろうか。はたまた新喜劇の一幕を見ているような感覚だ。

 そんな笑いをバックサウンドにして、ふと水無月は一色の方を向いて尋ねた。


「一色くんは何か競技に出るの?」

「……まぁ一つだけ。でも先輩たちのせいで部活動対抗リレーに出ることになったよ」

「あぁ、一色くんが入ってくれたから今年は参加できるんだね。私、応援してるよ!!」


 水無月は両手でガッツポーズをして、出ないにも関わらず一色よりも意気込む。


「……水無月は出ないのか?」

「え? わ、私は~……まあお休みかな~、なんて」

「……? ま、いいけど」


 ……妙に歯切れの悪い水無月の発言が気になったが、特に意味はないだろうと深く追求しなかった。

 そうして一色と水無月は二人でのんびりと過ごしていると、とうとう雪彦は渡邊に捕まったらしい。

 渡邊が雪彦の首根っこを掴んでゴールに向かっている様子が、二人の視線の先にあった。


「……雪彦先輩が選手だよな?」

「い、一応……」


 それについては、苦笑いを隠しきれない二人であった。

 グラウンドで繰り広げられている光景を前にして、一色はふとあることを思い出した。


「二学期から忙しくなるな」


 ――虹陸芸術専門高等学校では、二学期が忙しくなる傾向にある。芸術系のコースならばその時期にコンクールがあり、それに向けての作品制作。漫画コースでは出版社への持ち込みのための作品作りなどといったものに加え、更に授業の課題も重なってくるのだ。

 もちろんコンクールへの参加は自由であるが、ほぼ全ての学生が参加するのが普通である。芸術学校に来てコンクールに出さない生徒の方が珍しいのだ。授業によってはコンクールに作品を応募することを課題にしているコースもある。


「……そうだねー。芸術の秋だから、みんな創作活動が捗る時期だもん」

「言い得て妙だな。……水無月は何か描きたいものはあるのか?」


一色はそう尋ねる。すると水無月は人差し指を唇に当てて、うーん、と唸る。


「やっぱり紅葉とか、秋らしいものも描きたいよね。部活で何かやるなら、そういうテーマをお願いしたいなー」

「部活もいいけど。水無月は――」


 一色は軽口で水無月にコンクールのことを尋ねたときだった。


『次の男子障害物競争に出る選手は、受付まで来てください』


 一色の声が、アナウンスによって途中で掻き消された。

 障害物競争は一色が出場する種目である。一色は水無月の話を聞きそびれたことに少し後ろ髪を引っ張られる。しかし呼ばれたからには仕方がないと、立ち上がった。


「頑張ってね、一色くん」

「……ああ」

「あ、それとお昼ご飯は皆で食べようってことになってるから、一色くんもよろしく!」


 水無月はニコリと笑みを浮かべて一色を応援する。

 出来ればここでのんびりと過ごしたいと思っていたが、一応は出ると決まっているので仕方がない。一色は少しばかり小走りで受付まで向かうのであった。


「……コンクール、か」


 水無月はポツリとそう漏らすと、走り去っていく一色の姿を見つめていた。


○●○●


 障害物競争をつつがなくこなした一色。順位は何気に一着であったのだが、その途中の初香の興奮具合が彼の頭を悩ませていた。


『おっと、一年美術部員のちひろん、早い!! 無駄のない動きで無表情に進んでいる様はまさに仕事人だよ!! 先輩として後輩君のかっこいい姿が見られて非常に満足であります!! ね、和那ちゃんもそう思うよね?』

『お、おにいちゃんがんばれー!』

『ちょ、初香さん!? なんで子供がここにいるの!』


 これはその実況の一例なのである。更に言えば観客席にいた和那が放送席にいることも問題であるが、一色からすればそれは些細な問題だ。それよりも問題なのは、自分までもが初香のせいで悪目立ちをしているという一点に尽きる。

 周りからの一色への視線の種類は様々である。一つ危惧することがあるとすれば、それは一色もまた他の美術部員と同列に思われてしまうのではないか、というものだ。

 既に手遅れであると思いつつも、そうでないと心の中で思いたい一色は、今すぐにでもこのグラウンドから逃げたい気持ちでいっぱいであったのだ。

 しかし忘れてはいけない。彼にはまだ、部活対抗リレーという苦行があるということを。


「はぁ……やっと解放された」


 障害物競争が終わり、昼休みになる。

 一色は深いため息を吐きつつ、和那の分の弁当箱を持って他の美術部員の待つ場所へ向かっていた。和那を咲良のところに預けていたが、どうやら初香が面白がって実況席に連れて行ってしまったようだ。よって和那を迎えにいかずとも、既にいると予想していた。

 一色が呼び出された(全校生徒が聞いている放送で)のは、先ほどまで一色と水無月が話していた木陰である。そちらの方に近づいていくと、既に一色以外の面子が揃っていた。


「やぁ、ちひろん! ご機嫌いかが?」

「あんたのせいで色々と最悪です」


 わざとらしくそう聞いてくる初香に対してそう乱暴な言葉で言い返す一色。しかし初香に先ほどのことを気にして、彼女の相手にすることが得策ではないことを重々承知しているのだろう。彼女が見たいような反応を一切見せずに華麗にスルーする辺り、一色の成長が見受けられた。


「まぁ海老名先輩にデリカシーって言葉は存在しないから、初めから期待していないです」

「のんのん、そういうキャラの方が可愛げがね?」

「もちろんないです。あるはずないでしょう、面倒くさい」

「め、面倒くさい!?」


 一色の毒舌が初香の胸に突き刺さる。一色は先ほどのやり返しのつもりで言ったのであるが、予想外にその言葉が効いたことに驚いた。

 ……ふと一色は大木に背もたれ、完全にのびている雪彦を見た。


「……お疲れ様です、雪彦先輩」

「お、おぅ……おらぁもう、疲れたぞ……」


 萎びれたご高齢の老人のような声音に、一色は同情した。しかし油断したとはいえ、本人のいないところで渡邊の悪態をついていたのは事実。流石に仕打ちが過ぎているということは否定はできないが。

……しかし、今のままでは使い物にならない。そう判断した美月は、そっと雪彦に近づいて彼の耳元で何かを囁いた。


「いいのか、雪彦。昼明けのリレーで他の部活を差し置いて一位になったら、それはもうかっこいいぞ?」

「……なに?」


 美月の分かりやすい煽りに、これまた分かりやすく反応する雪彦。それを見て美月はニヤリと笑みを浮かべ、更に耳元で囁いた。


「ただでさえ音楽活動をしているというモテ要素に加え、更に運動まで出来ると来ればお前の地の底に落ちた好感度は逆転するんじゃないか?」

「俺の人気が……爆発」


 そこまでは言っていない。

 そもそも雪彦の女性人気を地の底に落としたのは美月である。しかしその事実を完全に忘れている馬鹿は、馬鹿らしく、更なる馬鹿に乗せられそうになっていた。

あまりにも哀れで、一色は笑いを必死で堪えていた。


「あの程度で力尽きるとは、雪彦もそこまでの男だったということだ。全く、口先だけの男は始末に負えないな」

「……待てよ、美月。誰が力尽きたって言った?」


 間違いなく雪彦本人が一色に言ったのだが、数十秒前の出来事を完全になかったことにするのが海老名雪彦という男である。しかも美月の思惑通り完全に乗せられてしまったのか、勢い良く立ち上がった。


「おい、美月、初香、千尋!! この部活対抗リレー、絶対に負けられねぇぞ!!」

「……はぁ」

「はい、そこ! ため息を吐くんじゃねぇ!!」


 途端に調子を取り戻した雪彦を見てため息を吐く一色。そんな一色を見逃さない彼であった。

 一色は肩を落としながら地面に敷かれたレジャーシートに腰かけ、手元の鞄に入っている弁当箱を二つ取り出した。


「あ、おべんとう!!」


 和那は一色からお弁当箱を受け取ると、朗かな笑みを浮かべてそれを楽しげに開封した。

 お弁当とは開けるまで中に何が入っているか分からないものであり、胃の中に消えていく宝箱のようなものだ。特に和那のような年頃の子供にとって、遠足や運動会などといった行事の際のお弁当は特別で、いつもよりも豪華なお弁当になるのである。しかもそれが一色お手製の無添加弁当……楽しみになるのは仕方がない。

 もちろん今日、彼女はただの観客なのであるが。


「弁当一つでそんなに喜ぶものか?」

「あはは……でも私は気持ち、分かるよ。こういう時のお弁当って自分の好きなものばっかり入っていたりするから」


 水無月が和那の気持ちに同意するように、うんうんと頷く。一色もそんなことを言いながら、お弁当に和那の大好物のものを入れている。一色も妹思いと言うべきか、単純に甘いというべきか。甘やかし過ぎている自覚はあるものの、まだ年端もいかない可愛げのある妹を無下には出来ないのだ。


「ちなみにちひろん、私たちの分は」

「あるわけないでしょう。自分と和那の分だけです」


 一色と言えど、甘いのは妹に加えて良識ある人物だけなのであった。美月を初めとする全員が落胆の表情を見せるが、一色は水無月以外には良心を痛めるはずもないのである。

普段の己の行動を鑑みろ。そう心の底で思いながら、一色は弁当に箸をつけるのであった。

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