1幕 昔か、今か、それとも先か
――窓から見える木の枝先から、地面に葉がかさりと落ちるたびに、残りの余命が少なくなっていくことを自覚していた。自分の命が少しずつ削られていくのが理解できるのは、本来ならば恐ろしく、どうしようもない不安や恐怖に襲われるだろう。
……それでも彼女は、毎日が楽しみで仕方がなかった。
『――ママー!!』
……なぜなら、愛娘が毎日こうして顔を見せに来てくれるから。だから残りの余命がどれだけ少なくても、彼女は過ぎていく時間の流れを恨めしく思ったことはない。むしろ一日でも長く生きられることを感謝していたほどだ。
彼女は抱きついてくる娘を受け止め、そして日課のように尋ねた。
『今日はどうしたの?』
柔らかな笑みを浮かべながらそう尋ねると、娘は必死な表情で話し出した。
『今日はね、お花のえをかいたの!! ほら、せんせーもほめてくれたんだよ!?』
そう言いながら画用紙に描いた絵を母親に渡す。彼女はそれを見て、目を細めて口元で半円を描いた。
『……うん、とっても上手だよ』
……笑顔で、懸命に自分の描いた絵を見せてくる娘を前にすると、彼女もつられて満面の笑みを浮かべてしまう。娘から絵を受け取り、それを見て穏やかに口元を綻ばせる。
……今回は向日葵の絵だ。子供らしくクレヨンを使って描かれたそれは、決して上手と言えるほど秀逸なものではないのかもしれない。
しかし、それを見て彼女は心の底からそれが美しいものであると感じた。とても色が映えていて、どこか才能のようなものを感じたのだ。好きなものを楽しんで描いている姿が自然に頭に浮かぶ。それが自分に向けてのものであるから、尚のこと頬は緩む。
彼女は微笑みを浮かべ、絵を指先で撫でた。
『それで、今日は学校でどんなことがあったの? お母さん、聞きたいなー』
『え、えっとね! 今日はたいいくでドッジボールしたんだよ!』
――入院生活が始まるまで、娘の成長を毎日見ることの幸せを、これほどにまで感じたことはなかった。
娘が生まれてしばらくの間、そうした感情を抱いていた。しかし育児を続けていくうちに少しの間、その喜びを忘れてしまった。
……そして、ずっと忘れていたものをこの入院生活で思い出せた。
だからこそ、彼女はこの理不尽に涙することなく笑顔を浮かべ続ける。……少なくとも、娘の前では最後まで笑顔を浮かべ続けた。
……彼女のベッドの傍には、娘の描いた絵の全てが常に置かれている。綺麗にファイルに閉じて、いつでも見られるようになっていた。
彼女はそれを見るのがどうにも好きだ。そしてそのファイルに絵が毎日追加されていくことにどうしようもない幸せを感じてしまうのだ。
……なぜならそれは
『ママー、これなぁに?』
『世界でたった一つの、私の宝物だよ。……どんな芸術作品よりも綺麗で楽しい、そんなアルバムなの』
『そ、そうなの? ……えへへ』
彼女は、娘を抱きしめながらそう小さな声で話しかける。娘は遠回りに自分の絵が褒められてことに、照れくさそうに笑った。
……愛する娘が自分のためだけに描いてくれた、世界で一つしかないアルバム。拙い絵を何枚も描いているうちに、少しずつ上手になっていく様は成長の現われだ。
だから彼女はこう思うのだ――絵は人そのものだと。線はからだで色はこころ。線を引くことが上手になるにつれて娘の身体は大きく成長していき、色が美しく塗れるようになるにつれて娘の心は豊かになっていく。
そんな娘の成長を誰よりも近くで見ることが出来るのは、本当に親冥利に尽きると。そう深く思い耽った。
彼女は娘の頭を撫で、可愛がりながら話しかける。
『……絵は、人を幸せにしてくれるの』
……娘を抱きしめながら彼女は話し続けた。娘は可愛いらしく首を傾げながら、母の言葉に耳を傾ける。
『誰かを想って描いた絵には本当の意味で色が宿るの。それはね、例え色の見えない人であっても美しいって思えるくらいに』
『……しあわせ?』
『そう……だから、いつまでも笑顔で楽しく絵を描いていってほしいな――そして絵で人を幸せに、笑顔にしてあげるの。あなたの絵には、そんな魔法の力があるから』
『――うん!! わたし、絵をかくのがだいすきだから、ママをえがおにしてあげる絵、ずっとかくよ!!』
曇りの一切ない、太陽のような笑顔を見て、彼女は強く娘を抱きしめた。
……窓辺から見える木の枝の葉がまた一枚、地面に落ちていく。
それを見て彼女は願った――一欠片でも多く残ってください。一日でも多く、この幸せな時間が続いてほしいです、と。大きな願いでもなく、本当に些細な願いを……娘の温もりを肌で感じながら、彼女はそう願い続けた。
娘はそうしてこれからも彼女に絵を届け続けるだろう――彼女が愛した、人を幸せにすることのできる、彼女だけが描ける色の世界を。
娘の行く末を想像すると、きっと幸せな人生を送ってくれるだろう。大切な友人を作って、私と同じように本当に愛した人と一緒になって。
――願いが叶うのならば、それを見ていたい。優しく見守って、時には背中を押してあげたい。
……いつまでも。
どこまでも……――
○●○●
――騒がしい。俺にとっての美術部は、とにかくそれだった。
やかましく、いつも変な絡み方をしてくる先輩たち。そんな先輩たちに囲まれる後輩こ俺や水無月は困った表情を浮かべ巻き込まれる。それが美術部の日常茶飯事の出来事だ。
でも慣れとは非常に怖いもので、逆に言えばそれがなかった日には何か物足りないと思ってしまう。その時、俺はあの人たちにずいぶんと毒されているな、と思うものだ。
……だけどそれが別に嫌ではないというのがなんとも言えない。こんなこと、数か月前の俺からしてみればあり得ないことだろう。でも不思議とそれを今では良かった。そう思ってしまう。
もちろん、そんな気恥ずかしいことを皆に言うことは絶対無理だ。言ってしまえば海老名先輩を主体として玩具にされてしまうことは目に見えている。
……だけど、自分なりに思うところはある。それは……俺自身のことだ。
未だに自分の全部をさらけ出せているとは思えない。自分でも驚くほどに遠慮というものはなくなったとは断言できるが。
自分のこの面倒くさい性格を考えれば仕方ないとも言えるかもしれないが、いつかはどうにかしないといけない。しかしそう簡単に解決していたら苦労なんてしていないという話だ。
自分のことを打ち明ける勇気が、まだ持てない。自分の秘密を打ち明けることは本当に怖いことなのだ。
……だけど自分でも認めていることが一つある。
――誠に不肖ながら、どうやら俺は美術部に確かな居場所を感じているのだ。もう認めてしまった。美術部は俺にとって居心地の良い空間だ。
そう強く思っているからこそ、少なからず罪悪感を抱いているのだ。
「千尋、学校は楽しいか?」
……リビングで一人考え事をしていると、父さんが俺に話しかけてきた。珍しいことに両親は今日、家でゆっくりとしている。だから久しぶりの家族水入らずと言える時間を過ごしていた。
俺と父さんはソファーに座り、俺たちの間の床に母さんと和那がいる。和那は母さんの上に座っていて、子供らしく甘えていた。
「……楽しいよ。笑いすぎて逆に疲れるくらい」
「いや、嘘は付くな。お前が爆笑している姿なんて想像できんわ」
……そんなに俺は無表情だろうか。最近は少しマシになったと自分では思っているのだけども。
父さんは昼間から酒を片手に豪快に笑う。しかし異様なほどに酒に強いから、酔った様子はなかった。だけど驚くほどに酒臭いから近づくことは是非勘弁してほしい。その思いは母さんたちも同じだから、少しばかり俺の方に寄ってきていた。
……和那に悪影響だから、罰として明日の夕食のメインは抜きにしよう(明日の夕食はとんかつ)。
「えぇ~、そんなことないよ、パパ。おにいちゃん、すごく笑顔がふえたよ? あとおさけくさい」
「和那。パパは無頓着だから、そんな些細な変化が気付けないのよ。女心も気付かない男が、息子の変化に気付くはずないでしょ? あと、酒臭いわよ、近づかないで」
「……遠回しに些細な変化とか言われているぞ、千尋」
「父さんはもっと酷い言われようってことに気付こう。っていうか臭いから話さないで」
「お、お前らなー!!」
父さんは俺の指摘を聞いた後、少しばかり涙目を浮かべてそう叫んだ。
……普段はあまり話せない分、こういう機会に一気に話すのが一色家の習慣だ。現役の芸術家である両親は、結構な頻度でアトリエに引きこもって作品制作しているから、自然とこういう形になった。
二人は意外と仕事人だ。それ以外にも週一回ほど芸術系の専門学校へ講義に行く。更に時折個展も開いていることを考えれば、忙しい中でも子供のために時間を割いてくれていると思う。
すると父さんのことは放って、母さんは俺を見て話しかけてきた。
「でも千尋は本当に笑顔が増えたと思うわ。なんていうか、年相応? 千尋って無駄に大人びているし反抗期すらなかったからお母さん、心配していたのよ」
「……無駄ってな」
うちの両親はいつも一言多い。
……でも、家族の目から見ても変わっているのか。自分ではそういうことはあまり分からないから、言われて初めて気付くものだ。
そんなことを考えていると、突然父さんが真面目な表情になる。俺を真っ直ぐ見つめ、すると口を開いた。
「お前が部活に入ったと聞いたときは驚いたな。あの千尋が自分から部活に入ろうとするなんて思いもしなかったぞ」
……俺が美術部に入ったということを両親が知ったとき、それはもう驚かれたものだ。二人は俺の目のことを当然知っている。それに加えて、俺が今のような性格になってしまった原因も知っているのだ。
しかし部活に入ってから、そのことについて聞かれることはなかったから、特に気にしていないものだと思っていたけだ……。
俺は取り繕うように、至極真っ当な返答をする。
「……高校生になれば少しくらい変わるよ」
「そうか――千尋。別に俺たちはお前に芸術の道に進んでほしいわけじゃないぞ? もしお前が美術部に入った理由がそれだったら、気にする必要は――」
……父さんが言いたいことはすぐに理解できた。
父さんと母さんは昔から芸術をこよなく愛している。だからか子供にも好きになってもらおうと、よく俺に世界の著名な作品を見せていた。時折美術館や個展などにも足を運び、数々の作品を見せて俺に共感を求めていたのだ。
そのこともあり、きっと父さんも母さんもそれを申し訳ないように思っているのかもしれない。自分たちの遺伝子から生まれた子供が色がわからなくて、それで孤独を感じさせてしまう結果になってしまったのだから。
子供への押し付けで、俺がプレッシャーを感じていると思っていたのかもしれない。
……俺を気遣ってそう言っているのならば、きっぱりと言い返さないといけない。じゃないと変な勘違いで、二人が悩んでしまうだろうから。
だから俺は答えた。
「違うよ」
嘘偽りもなく、ケロッとそう言う。すると父さんと母さんは少し目を丸くして驚いていた。俺の即答がそれほどに物珍しいものなのか。
続けざまに俺は本音を言う。
「別に将来、父さんたちと同じような芸術家になりたいとか、そんな理由で美術部に入ったんじゃないよ」
「だったらどうして入ったの?」
「それは――知りたいから、だと思う」
……詳しいことは恥ずかしくて話せない。
水無月に興味があって美術部に入った。そんなことを言ったら、この親は下手をすれば水無月を連れてきなさい、とか言いかねないからな。
俺の気持ちを察したのか、父さんは嘆息して、
「……ま、詳しくは教えてくれないだろうからいいか――ま、頑張れよ」
「……ああ」
少し笑いながら俺に声援を送るものだから、俺はぶっきらぼうにそう言い返してしまった。
和那を抱きかかえて甘やかしている母さんが穏やかな笑みを浮かべているのが、どうにも心の内を見透かされているようで、あまり居心地が良くない。
俺はこの場から逃げたいあまり、ずっと立ち上がった。明日は早い。何せ……
「……明日、体育祭だからもう寝る」
非常に面倒くさいが、学校行事である体育祭があるのだ。あまり体力に自信がないから、万全の体調で臨まないと、後日体調を崩しかねない。
「わたしもー!」
和那は自室に戻ろうとする俺の後ろにぴったりくっつき、ついてくる。……こいつはいつになったら兄離れをするのだろうか。
「……もしかしてお前、明日の体育祭に来るつもりじゃないだろうな」
「ぎくっ」
俺の指摘に、我が妹ながら分かりやすい反応で返答する。
「……はぁ。お弁当、もう一つ用意しておくから早く寝るぞ」
俺は自室に戻る前に冷蔵庫を覗き、食材を確認する。……今日は二人もいたから、あまりものがないな。
仕方がないから寝る前に弁当用のおかずを幾つか作っておこう。明日の朝、楽をするためだ。
フライパンに火を掛け、冷蔵庫の中から食材を出していると、リビングの方から母さんが様子を覗きに来た。
「……千尋、何をしているの? 寝るんじゃないの?」
「明日の弁当の仕込みを今のうちにしようって思って」
「――千尋が私やお父さんに似なくてよかったと思うわ。あ、ついでに私たちのお弁当も作ってね。千尋のお弁当、おいしいから」
「……現金だよな、母さんたちって」
この二人がこんなのだから、俺がしっかりしないといけないことに、そろそろ気付いてほしい。俺たち兄妹が遠慮しがちなのは、一番近くに全く遠慮しない二人がいるから、それを反面教師にしたからだ。
……仕方ないな。鍋に水を溜め、火を掛けた時にふと思った。
――体育祭前日の俺は夜に何をしているのだ。
4章の始まりです。
ここから少しずつ物語が進んでいきます。




