8幕 素直になるために
スケッチブックにペンケース、日光避けに帽子を被って虫予防に虫よけスプレーを振りかける。
昼食に水無月のミートスパゲティを平らげた四人は歩いて花園に向かっていた。
……偏に花園と言っても、それはお金を取られる有料制ではない。この花園は地元の人が個人で花を植え、それを代々重ねた結果、大きくなっていたものなのだ。
風で動く風車や、花がアーチ状の鉄骨にまとわりつく造形物……地元の人々の趣味が重なった結果、それなりに見栄えのいいものになったのだ。偶に地元のテレビ局が取材に訪れるほどにここいらでは有名であり、唯一の難点が交通便の悪さだろうか。電車が付近に一切なく、実質車でしか向かうことが出来ない田舎ならではの絶景である。
一色たちの滞在しているロッジから本来歩いて十分ほどであるが、今は和那の歩幅に合わせているため倍ほどの時間がかかっている。しかし道中にも非常に自然豊かな風景があり、それをゆっくりと見るのも一興であった。
そんな道草をしつつ、四人は花園に到着した。花園には入り口という入り口はなく、一応管理人が小さな小屋にいる。この管理人が美月の祖父母と友人関係にあり、その繋がりで水無月も面識があるのだ。
水無月は小屋の方に小走りで向かっていくと、彼女の姿に気付いたのか管理人の老爺が小屋から出てきた。
「おやや、虹ちゃんじゃないか。今年もあの……なんだったか、美術部の活動で来たのかい?」
「はい!! 美月ちゃんたちは海で遊んでいて、たぶん明日顔を見せに来ると思います!」
「なるほどねぇ……。ゆっくりしていきなさい、あとでまた顔を出すんでなぁ」
老爺というがまだまだ足腰はしっかりとしており、物腰も非常に柔らかかった。一色たちに軽くお辞儀をすると、後ろの三人もお辞儀をし返す。
そして老爺は小屋の方に戻っていき、水無月は三人の元に帰ってきた。
「あのおじいちゃん、昔は花屋を営んでいたんだよ。それで今は退職して、こうして花園を管理しているの。花の苗とか種は皆が持ち寄っているんだよ」
「じゃあもしかしたら貴音先輩の祖父母さんも?」
「そう! それはもう惜しげもなくここの管理に協力しているんだよ。そういう思い切りの良さは絶対に美月ちゃん、受け継いでいると思うかな」
水無月はまるで自分のことのようにそう語ると、一色や和那の手を引っ張った。
「早く行こう! ほら、二人とも!」
……水無月はそう、普段通りの自然体で一色と和那の手を引いて花園の中を進んでいく。その光景を見守っている咲良は目を細め、口元を綻ばせた。
「――青春ね」
奇しくもそれは、渡邊が以前一色を見て抱いた感想と同じであった。
近くに小さいながらも山があり、その麓にあるのがこの花園である。一面に咲いている色とりどりの花は重なって花畑を作っている。
その中でも特に異彩を放っているのは非常に大きな向日葵だ。過去の偉大な芸術家たちもこぞって題材にした夏の花の代表である向日葵。その立派な佇まいに和那は「おぉぉ」と感嘆の声を漏らした。
和那の背丈を軽く超える向日葵。そこからさして離れていないところに幾つか腰かけるための木製のベンチが置かれていた。ここに訪れる絵描きも少なからずいて、それに気を遣って管理人が設置したものである。和那はそのベンチに座った。
「和那、確か夏休みの宿題に図画工作があるだろ。向日葵を描くなんてどうだ?」
「うん! わたし、これ描きたい!」
「……じゃあ俺、向こうの方も見てきたいから、ここで描いて待ってもらっても良いか?」
……ここで一色が最後のアシストをする。向日葵の前で自分と背比べをしている水無月に一瞬視線を合わせ、すぐに和那の方を見た。
「……わかった」
一瞬の沈黙のあと、和那は頷く。そして一色は和那と水無月を置いてその場から離れたのだった。何気に三人を少し離れて見守っていた咲良も連れてここを離れる。
……そうして取り残された水無月と和那。水無月はそこで一色の気遣いに気付く。
「……ありがとう、一色くん」
誰にも聞かれぬようにそう呟くと、水無月はそっと横長のベンチの端に座った。和那と水無月のの間にちょうど間がある。和那はチラッと水無月を見た。
……すると水無月は和那の方を見て
「私も向日葵描きたいから、ここに座っても良いかな?」
「……もう、すわってるよ」
「あはは、そうだね――嫌なら違うところに行くよ」
「い、いい……べつに、いいから」
そう言って和那はおもむろにスケッチブックを開けて、向日葵を見つめた。
いざというときに逃げる対象の一色も居なく、水無月と二人きりになる。一色が最初から立案していた最終作戦がこれであった。
とはいえ、図らずもこうなったと言っても良い。海での作戦で既に一色は達観を決めて、あとは二人で好き勝手にやってもらおうと考えていたからである。
水無月は懸命にスケッチブックに鉛筆を走らせる彼女を見て微笑み、自分も同じように鉛筆を持った。
……向日葵は綺麗に花を開かせ、その美しい顔を見せていた。
向日葵にはいろいろな表現がある。……太陽のよう、向日葵のような笑顔。事実、向日葵は太陽の動きに合わせてついていくように動く。その様から花言葉にはこうある。
あなたのことだけを見つめる、と。それから転じて向日葵には憧れや情熱などの非常に前向きなものばかりがあるのだ。
スケッチブックに水無月は向日葵の中心にある筒状花を描く。向日葵は一つの花に見えるが、実際には頭状花序と呼ばれる多数の華が集まって形成される花だ。
筒状花を大まかに描いくと、次に描くのは外側の舌状花だ。あまりラフスケッチをしない水無月が鉛筆でデッサンするという姿は意外と稀な姿であった。
……そんな水無月の姿をチラチラと見つめる和那。
先ほどの海の時もそうであったが、和那は水無月の作品を見たいような仕草を見せる。その姿をずっと見つめているのだ。
その時に何を考えているのかは彼女にしか分からない。……そして今もそう。水無月がスケッチブックに描く向日葵のことがとても気になっていた。
……そのことに水無月は気が付いていた。だけど水無月はそれに気付きつつも話しかけたりはしなかった。
「「…………」」
二人の間に流れるのは沈黙。ただ鉛筆を走らせる音だけが響いていた。
……そうしていると。
「――あの、こーちゃん……!」
その沈黙を、和那が破った。
和那はスケッチブックに絵を描くのをやめて、水無月の方を見て彼女に話しかけた。すると水無月も鉛筆を置いて、スケッチブックを閉じて二人の間のスペースに置いた。
そして体を和那の方に向けて、微笑みを浮かべた。
「……どうしたの、和那ちゃん」
「え、えっと……その」
しかし、言い淀む和那。どうしても緊張からか、その後の言葉が出てこないのだ。
もごもごと口を動かし、両手を合わせてもじもじと親指同士を擦る。顔も真っ赤で、汗もかいていた。
……それを見て、和那は鞄から魔法瓶を取り出した。紙コップに紅茶を注ぎ、緊張している和那の前にそれを出した。
「落ち着いて。ゆっくりでいいから、これでも飲んで話そうよ」
「…………」
和那は水無月から紙コップを受け取る。紙コップの外側から分かるように中身は冷たい紅茶だ。それを一口飲んだ。
水無月が一色のために作ったハチミツのミルクティーだ。和那が熱いものが苦手と知っていたため、氷で冷やして魔法瓶に淹れてきたのである。
それを飲むと和那はあまりのおいしさに一気に飲み干してしまった。
「あ……なくなっちゃった……」
「あはは、お口に合ったようで良かったよ。……おかわりはどうかな?」
「……うん、ほしい」
水無月は紙コップにミルクティーを注ぐ。そして笑顔でそれを和那に渡すと、
「――こーちゃん、ごめんな、さい」
……本当に申し訳なさそうな顔で謝ったのだった。
目元に涙を溜めていた。その涙の滴がポツンと紅茶に落ちて波紋を作る。
……いつもならば兄がどうしたらいいかを教えてくれていた。困ったことがあればすぐに自分を助けてくれるお兄ちゃんに、和那は甘えきっていた。
しかし今回は違ったのだ。一色は和那に冷たく当たることは決してないが、水無月に対して謝ることを強要しなかった。
だから拗れに拗れた。言い出してしまった反面、引くに引けない子供らしい反応。経験がないから戸惑った。
「いじわるして、ごめんなさい……しらんぷりして、ごめんなさい――きらいってうそついて、ごめんなさい……っ!!」
絶え間なく「ごめんなさい」を続ける和那。そんな和那を見て、水無月は……
「――ありがとう、ちゃんと謝ってくれて」
優しくそれを受け入れて、和那の頭をポンポンと撫でた。和那はそっと俯くのをやめて顔を上げる。
目元が少し腫れて、涙があふれ出ていた。顔は真っ赤で、スケッチブックも涙でくしゃくしゃ。そんな和那の頭を腫れモノを扱うように優しく撫で続ける。
「和那ちゃんも辛かったよね。誰も何も教えてくれないのは、怖いもん――だから自分から謝ってくれたのが凄く嬉しい」
「で、でもぉ……わたじ、すごくひどいことした……っ」
「それを全部反省してるから思い悩んで、泣いて、それで謝ろうと思ってくれたんでしょう? それってすごいことなんだよ。自分でそれが出来た和那ちゃんはすごい!! ……だから私、全っ然、怒ってないよ」
水無月はベンチから立ち上がり、和那の前に屈んで同じ視線になる。
「……和那ちゃんは、私のレインちゃんを守ろうとしてくれたよね? 私、それがすっごく嬉しかったの。倒れたって聞いてすごく驚いてそれどころじゃなかったけど……もう、それまでのことがどうでも良くなるくらい、嬉しかった」
「そ、それは……でも」
和那はそれでも自分が悪いと思ってか、納得ができなかった。罪悪感が残る顔をしているものだから、水無月は和那でもちゃんと分かるような話題を出す。
「……和那ちゃん、昨日のカレー、美味しかった?」
「……うん」
「じゃあ朝ご飯のフレンチトーストと、お昼ご飯のミートスパゲティは?」
「……ものすごく、美味しかったよ」
「――じゃあ許します! 私の作ったご飯を美味しいって言ってくれる子に、悪い子はいません!!」
そう言い切ると、水無月は和那の手元の紙コップを取り、そっと口を付けて飲んだ。
「……これ、落ち着くでしょ? ……昔、私がお父さんと喧嘩した後にね、お母さんが作ってくれた魔法の飲み物なの」
「魔法の、飲み物?」
「うん。これを飲むと心が落ち着いて、話したい事が話せるようになるの。飲んだら笑顔になって、仲直りできる魔法の飲み物。……効果、抜群でしょ?」
「……こーちゃん、ありがとう」
ごめんなさいではなくありがとうと言った和那を、水無月は抱き締めた。
「あ、あわわ……こーちゃん?」
「んー、ずっと和那ちゃん分を摂取できないかったから、我慢してね? これは言わば罰なんだよ?」
「……じゃあわたしも、こーちゃん分をせっしゅ? する!」
「あはは――あ」
――ふと、水無月の視線の先に一色が見えた。
彼は腕を組んで、二人を優しげな表情で見守っており、水無月と視線が合うと軽く手を振った。
「……ふふ」
そんな彼を見て、自然に顔が綻ぶ。
片手を和那から外し、一色の方に手を向け、親指を立てて、サムズアップで返した。
「……これにて一件落着、ってところか。……はぁ、疲れたな」
陰から二人を見守っていた一色はそんなことを言っているが、その表情は決して疲れている者の顔ではない。無事に問題が解決し、安堵している妹想いの兄の優しい笑顔であった。
……こうして、水無月と和那は無事に仲直りをすることが出来たのであった。
●○●○
……夜になる。あれから仲直りした二人と合流した咲良と一色は、スケッチも終わったとのことでロッジに戻った。
そしてロッジに戻ると、建物の前に美月と雪彦、初香が仁王立ちで四人を待ち受けていたのだった。
そして戻ってきた四人に。特に意味の分かっていなかった一色、水無月、和那にこう言い放った。
『――さぁ、宴の時間だ』
そんな意味不明な表現をした三人であるが、実際にはバーベキューであった。
実は三人が海に残るというのは建前で、雪彦はその辺りに釣りに行って魚を調達、初香と美月は慣れない手つきで渡邊の指導の元、野菜を切っていたのだ。そして残る渡邊が車で肉の調達。
……全ては一色と水無月、そして和那のためである。
前回の一色の歓迎会ではものの見事に目的がばれたということで、今回は念入りに裏工作を進めていた三人。それが見事成功し、今回に関しては一色を驚かすことに成功したのであった。
「……なんとも面倒くさいというかなんというか。……ありがとうございます」
「ま、気にすんな。先輩として後輩のために当たり前のことをしたまでだぜ?」
一色と話す雪彦は、少し照れ隠しをしながらそう言った。しかし一色としては素直に感謝していた。自分だけではなく、三人は三人なりに水無月と和那の仲直りのために計画してくれていたということ。これが言葉に出来ないが、嬉しかったのだ。
「っつてもなー。帰ってきたら二人はもう完全に仲直り、前よりも仲が深まっているってきた。なんかやり切れねーよ」
「そんなことないですよ――ほら、和那を見てください。水無月だけじゃなくて、貴音先輩や海老名先輩とも楽しそうにしていますから」
一色が示す方には、その絡みに困りながらも楽しそうに交流を深めている和那の姿があった。総じて和那は可愛がられているが、
……肉や野菜を焼いている二人は、それを見ながら表情を綻ばせる。
「水無月から逃げてたとはいえ、あいつから他の人に話しかけていたのは間違いなく成長です。だからこれは兄としてのお礼なんで、素直に受け取ってください」
「……それもそうだな」
すると雪彦は満足そうな顔をしながら肉をひっくり返した。
「おにいちゃーん!」
すると和那は手におにぎりのようなものを持って、走ってきた。おにぎりのようなものと表現するのは、これを握ったのが美月だからである。
「和那、楽しいか?」
「うん!! あ、それでこれ、おにいちゃんのおにぎりだよ!」
「……おう、ありがと」
和那からおにぎりを手渡されて、一色はそれを受け取る。しかしながらほぼ爆弾のような形のおにぎりに一色は苦笑を漏らした。
……和那は片手にもう一つ、おにぎりを持っていた。少しもじもじしながら一色ではなく、雪彦の方を見る和那。そして……
「ゆ、ゆきひこくん! これ、よかったら……食べて?」
「お、俺にも? ……ありがとな、和那ちゃん」
雪彦がおにぎりを受け取ると、和那は元の場所に帰っていく。
……雪彦にとってその爆弾は、かなり効くものがあった。心がジーンとして、一色の方を見た。
「この気持ち、どうやって表現したらいいんだろうな。こう、中々懐かなかった飼い猫がちょっとデレたみたいな……」
「……人の妹をツンデレ扱いしないでください。和那はちゃんと甘え上手で優しい女の子です」
非常に不名誉なあだ名がつけられそうだったため、一色はそう強く言うのであった。
一色は和那が渡した美月作のおにぎりを、ラップを剥がして食べる。そして一口付けて、咀嚼した後に一言。
「――しょっぱい」
何故か、青春の味がしたのだった。
「一色くん、そろそろ変わるよ」
一色が異様に塩気の強いおにぎりを食べていると、渡邊がコンロの前で調理をしている一色と雪彦の元に来た。それまで一色と雪彦が肉や野菜を焼いていたため、それの交代で来たのだろう。
一色は軍手とトングを渡邊に渡すと、おにぎりを片手に椅子の方に向かった。席について一息つくように息を吐いた。
……机にコツンとコップが置かれる。一色はそちらを見ると、そこにいるのは水無月であった。
「お疲れさま、一色くん。これ、お茶だけど良かったかな?」
「……ああ、ありがとう」
一色に気を遣ってお茶を渡した水無月は、そっと彼の隣に座る。そして改めてと言うべきか、これまでのことを感謝した。
「ありがとう、一色くん。色々と迷惑かけちゃったし、助けてもらったね」
「別にいいよ。和那もちゃんと自分から謝ったから――そもそも俺も責任があったし」
「責任?」
「……いや、なんでもない。……俺こそ悪かったな。和那が色々と面倒事を起こしたから」
「ううん。私にとっては、和那ちゃんともっと仲良くなれた気がするもん――一色くんともね」
「……………………」
そんなことを恥ずかしげもなく言うのは、もはや才能である。
……一色の視線の先では雪彦がおにぎりを食べ、その余りの塩加減に吐きそうになっているのが見えた。
「……確かにしょっぱいけど、吐きそうになるほどか?」
「あー、あれね。美月ちゃんが面白がって、和那ちゃんに三倍の塩結びを渡したんだよ」
「……それを和那に持っていかせたと。悪意の塊のような人だな」
「あはは、否定できないね」
そんな風に笑いあっていると、ふと一色は今回のことを振り返った。
――自分のことではなかったのに、色々と思い知ったことがたくさんあったのだ。
渡邊と話し、美月と話し、咲良とまで深い話をした。たくさんの発見があった。自分が打ち明けることが怖いこと、それでも変わりたいと思っていること。
……理屈では分かっている。彼らは完全に善人だ。悪さももちろんする。それでも結局他人を思いやる素晴らしい人たちであると知った。
「……心では嫌いって思い込もうとしても、身体は正直だな。あいつ、ずっとお前のことを知らない内に気にしてたから」
「そうなんだ。私、全然気が付かなかったよ」
「……目にもわかるくらいに落ち込んでたからな」
「あはは……その節はご迷惑おかけしました」
すると水無月は深々と頭を下げてくるものだから、一色は苦笑いしてしまう。
……一色はふと水無月に尋ねた。
「……なぁ水無月。一つ気になったことがあるんだけど、聞いて良いか?」
「気になったこと?」
「ああ。……和那が水無月の砂浜の造形を見てた時に、水無月はものすごく驚いていただろ? バケツを持って驚いてて。そんなに和那が見ていたことが驚きだったのかなって思ってさ。岩場で話したことと繋がっているのかなって思って」
あの時、一色は水無月が呆然と立ち尽くしている姿を見た。一色は客観的に二人を観察していて、和那が少しずつ水無月に近づいていることを知っていたため、特に不思議に思わなかったが……水無月については話が違った。
水無月は砂浜造形にのめり込んでいたから突然のことで驚いた、と考えはしたが――あの時の驚きは、それとは違うものだと思ったのだ。
「……そうだね、驚いたのは思い出しちゃったからかな。誰かのため何かすることの……絵の素晴らしさを再認識したんだよ」
「絵の……素晴らしさ?」
一色は水無月の発言に耳を傾けた。
「……そうだよ。それを再認識したから――やっぱり私は人と絵は同じだと思ったの」
すると水無月は一色の言った言葉を聞いて、そう自分の価値観を言った。
……そう言った水無月に一色は注目した。このような発言をするときの水無月に興味があるからだ。
「人と絵が同じって、どういうことだ?」
「……私が砂浜でレインちゃん作ってて、和那ちゃんはそれを見て笑顔になってたよね? あの後、私が描いた向日葵の絵を見ても笑顔になってたよ――だから思うの。絵は人を笑顔にするものだって」
「……笑顔、か」
「うん。人が人を幸せにできるように、絵も人を幸せにできるんだよ。人に心と体があるように、絵にも心と体が確かにある」
そう話す水無月は、空を見上げていた。
映るのは満天に輝き続ける夏の星々。はくちょう座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイルが綺麗に夏の大三角を形成していた。
しかし、そんな満天の星々よりも、一色は彼女の言葉が聞きたかった。だから空を見上げず彼女を見続けて、そして尋ねた。
「――教えてくれ。絵ってなんなんだ……?」
一色は絵をそんな風には思えなかったから。
手を伸ばしても届かない。見ようとしても決して見えないもの。それが一色にとっての絵だった。
――藁にも縋るような声だった。水無月の言っていることは決して間違っていない。間違っていないことは、誰よりも一色が知っていた。
春の文化祭。その時にあの絵を見た時、一色は少なくとも激情に囚われた。その感情の意味を彼は知らない。それが幸せの感情だったのか。それすらも言葉には出来ない。
「(だから、あの時の気持ちの正体を知りたい。この子ならそれを教えてくれるような気がするから)」
求めた。ひたすらに、ただひたすらに水無月の答えを求めた。その時間はわずかなものなのに、永久のようにも思えてしまうほど。心臓は鼓動をすることを忘れ、鼓膜は彼女の言葉を聞くことだけに集中する。
「――色はこころで、線はからだだよ。二つは決して離れない運命共同体。決して離れてはいけないもの……私は絵ってそうだと思うな」
にへへと表情が綻ぶ水無月。
――色はこころ、線はからだ。その言葉を聞いたとき、一色の胸にはそれが不思議とすっと浸透した。
どうしようもなく晴れなかった心の曇りに、晴れ間が見えた……そんな感覚。
……ふと一色は、水無月に最初に言われた質問を思い出す。思えば彼女に質問をしてばかりで、自分は彼女の質問に答えたことがないということを思い出した。
「――俺の色は無色だよ」
「……え?」
「質問。お前、最初に俺に何色って聞いてきただろ? それに対する答え」
……その言葉は一色にとって侮蔑の言葉で、思い出したくない過去の言葉だ。他人とは違うということを分からされ、現実を叩きつけられた言葉。
一色の答えを聞いて、水無月は一瞬目をキョトンとさせる。そして深くその答えを考え込むように唸った。何をそんなに唸る必要がある――そう思った時、水無月はにぱっと満面の笑みを浮かべた。
「――無色なら、一色くんは何色にもなれるね」
「――――」
――言葉を失った。一色は水無月の顔を見て、固まった。
無色という言葉は、一色にとってトラウマの言葉だ。それを水無月はいわばこう言ったのだ。
可能性に満ち足りた色であると。
そんなことはない。そんなことがあるはずがない。
……だけど水無月はあっけらかんと、一色の「無色」をそう表現したのだった。
「なんで一色くんが無色って、自分を揶揄するのは分からないけど、でもなんとなく一色くんは無色透明だと思うなー。なんでも吸収して、自分の力に変えていけるみたいなものかな? ――あれれ、一色くん、どうして笑っているの?」
「……え?」
……一色は言われて初めて気が付いた。自分の頬を触ると、頬の筋肉が少し硬い。それで初めて自分が笑っていることに気が付いた。
「……そっか、俺、笑っていたのか。……ははは、気が付かなかった」
「わ、私、変な事言ったかな? もしかして一色くんの気に障るようなこと言った!?」
すると途端に水無月は取り乱し始める。
それを見て、一色は更に笑った。それは苦笑でも引き笑いでもなんでもない、穏やかで表情が綻ぶような柔らかい笑顔だった。
「……俺が笑うのが、そんなに不気味か?」
「だ、だって一色くんがそんな風に笑うところ見たことないからね? どうしてかなって……」
「……さぁな。自分でも笑っているのに今、気づいたばかりだから――たぶん嬉しかったんだと思う」
何が嬉しいのかなんて一色だって分からない。分かっていたら自分の気持ちにもっと素直になれるはずだ。分からないから人はそれを分かるためにたくさん考える。それは人であるならば必ずしなければならないこと。……特に、一色にとっては、誰よりもしないといけないことだ。
だから今は分からなくて考えていけば良いと彼は思った。ただ今はこの時間が少しで長く続けば良い――そう思っていた。
「なーにいちゃついてるの二人とも―!!!」
……背後に周り込まれて、突然後ろから抱き着かれる一色と水無月。その抱き着いてきたのは初香であった。
「初香先輩、苦しいですよー。……っていうか一色くんが困ってます!」
「えー、いいじゃんいいじゃん! ほら、三人寄れば文殊の知恵って言うじゃない?」
「それは少なくとも今使う場面でもありませんし、そもそも意味を知らずに使ってますよね? ……ふっ」
「あー! 今、ちひろん私のことを鼻で笑ったな!! こうなったらこの後の花火大会で覚えておきなよ!?」
そう言って初香はロッジに戻り、大量の花火の入った買い物かごを持ってきた。……いつの間に用意したかなど一目瞭然だ。
「ご飯食べ終わったら花火大会だよ!!」
騒がしい時間は、まだ続くのだった。だけど一色の心は、ほんの少しではあるものの――温もりに満ち足りていたのだった。
○●○●
……たった一人の友達は、自分よりも一歳年上の幼馴染だった。家が近所だったのと、うちの両親の芸術作品が好きで、自然と仲良くなった女の子。
とても活発的で何事も前向きに取り組む姿は、どこか水無月を彷彿とさせていたと今では思う。
もちろん俺の目の問題のことも知っていて、それでもなお理解した上で仲良くしてくれた。困ったときはもちろん助けてくれて、本当に大切な友達だった。
……俺が虐められた時だって、一番に助けてくれたのはあの子だった。誰にも打ち明けなかったのに気付いてくれて、そして俺を守ろうとしてくれた。
だけど、いつもあの子が傍にいることは無理だった。
あの子が頑張って虐めっ子と言い合いになって追い払っても、そいつらは俺一人の時に来る。俺だって男だからわざわざあの子を呼ぶのは嫌だった。
もしあの子に危害を加えられたらと思うと、どうしてもそのことを打ち明けることが出来なかった。
――上履きを隠されたことが何度もあった。机の上にマーカーペンで「無色」と書かれたこともあった。俺は色が分からないから、それに気付かずに授業を受けていた。休み時間、悪口を言われ、偶に暴力を振るわれた。
俺が何もやり返さないから向こうは必死になって虐めを続けた。あいつらは反応を見て楽しみたいだけ。だから反応しなければ良い。そう思っていたからだ。
……だけどあの子はそれがどうしようも耐えられなかったのだろう。俺が反応しない代わりに、あの子がいつも反応していた。俺が泣かないものだから、俺を抱きしめていつもあの子が泣いていた。
……どうして泣いていたのだろう。俺にはそれが当時、分からなかった。
ただ友達が泣いている姿を見るのは、どうしようもなく辛かった。自分が泣かせているのじゃないかって、そう思えてならなかったから。
――一番最初に思い出すのはあの子の最後の涙だった。
その涙はいつも俺を抱きしめて、俺の代わりに泣いていた涙ではなく、彼女自身が流した涙。どうしようもなく寂しそうで、申し訳なさそうにするそんな友達の涙だった。
……彼女もまた、虐められていたのだ。俺ばかりに気に掛けるから自分の同じ学年の友達をおろそかにして、孤立していた。程度は知らないけど、少なくともそれが原因であの子は転校することになった。
それを知ったのはあの子が俺の前からいなくなってからだった。
――俺はあの子のことを何も知らなかった。守られてばかりで、彼女の心を知ろうともしなかった。彼女の涙をいつも自分の代わりに流しているものと勘違いしていた。
……彼女は俺に言った。逃げてごめんなさい、と。
あれからだろう。俺が本当に誰とも仲良くしたいとも思えなくなったのは。たった一人の友達の心さえ見えなかった俺が、友達を、大切な人を作る価値がないと思って、自分の目の前に大きな壁を作った。関わらなければ誰も傷つかない。そう考えて――そんなことが不可能であることを悟った。
「一色くん。良いのかい? みんなのところに行かなくて」
……ふと、俺の隣に立っている渡邊先生がそう話しかけてきた。別の考え事をしていた俺はハッとして、先生の顔を見る。
――俺は先生の指差すみんなの方を見ると、そこには楽しそうに花火をして楽しんでいる姿があった。
「……はい。今はちょっと、考え事をしたくて」
「そうか……」
渡邊先生は、それ以上は聞かない。
……俺の視線の先には水無月が和那と線香花火を灯して遊んでいて、雪彦先輩がロケット花火の準備をしているところを、美月先輩が手一杯に持った手花火で悪戯をしに行っている様子があった。
海老名先輩は俺の方に手を振って「こっちにおいでよ、ちひろん」などと叫んでいた。
「正直、花火の綺麗さなんて俺には分かりません」
「……色があってこそ、だからね。一色くんの目にはあれはどう映っているのかな?」
「……白と黒ですよ。灰色さえありません。強い光は白で、外の真っ暗闇が黒。もちろん全く美しくもない、なんてことは言いません。俺にとって光はそれなりに綺麗に映りますから。……でも普通の人とは違います」
「……そっか」
……でも。それでも俺はもう一度、目の前の光景を見つめる。
「それでも俺は、この光景は綺麗だと思います」
「――――」
……俺がそう言うと、渡邊先生は何も言わなかった。どうしてだろうと考えて、そちらを見たくなる。でも俺は目の前の花火で遊ぶ皆から目を離せず、じっと見つめ続けた。
「……少しずつ、変わりたいって思ったんです。この合宿で……いいえ、この美術部に入ってから。俺がこうして先生と話せるのは、先生が俺に話しかけてくれたから。俺のことを知ろうとしてくれたからです。あの人たちと同じように……だからこそ俺、あの人たちには自分から話さないといけないと思うんです」
「……そっか――変わったね、一色くんは」
「……いいえ。全然です。まだ話す勇気はありません。そんなに簡単に話せれば、こんな面倒な性格になっていませんし――自分の本当の色を、なりたい色を知らないとたぶん話せないと思います」
「なりたい色か――まるで水無月さんの言いそうな言葉だね」
……この人には感謝している。俺のことを察してくれた上で、踏み込んでくれたことに。
だから渡邊先生にはちゃんと言わないといけない。俺が前に進めた時、変わることが出来た時にちゃんとそれを報告して。……そして心の底から、ありがとうございましたって言わないといけない。
「おいこら千尋! お前も手伝え、この馬鹿が手に負えない!!」
「ふはははは!! 今なら私は魔王と言われても気にしない!! 何故ならやっていることが完全に魔王だからだ!!!」
「認めやがったなこいつ!! と、とりあえず千尋、和那ちゃんと虹ちゃんのために打ち上げ花火を打ってくれ!!」
砂浜から必死に走ってきた雪彦先輩は、俺にライターを渡して再び貴音先輩から逃げていく。
……仕方ないな。そんな風に思いながら、俺は雪彦先輩が設営したロケット花火の方に歩いていき、導火線に火をつけた。
そして近くで線香花火をしていた和那と水無月の方に近づいた。
「あ、一色くんも線香花火する?」
「おにいちゃんもいっしょに!!」
「分かった、分かったから――ほら、そろそろ打ちあがるぞ」
俺は二人の興味を俺からロケット花火に向けさせる。そしてその瞬間、ヒュンという風切り音と共に満天の空に花火が打ちあがり、そして空で光の華を咲かせた。
……それを見て「綺麗……」と漏らす水無月。和那も目をキラキラとさせて喜んでいた。
皆にとっての美しいと、俺にとっての美しいはたぶん全く違う。掠りさえしないくらいに別物のはずだ。でも、人それぞれ美しいには形がある。色が美しい、形が美しい、雰囲気が美しい……本当に千差万別だ。
……理解されたい。そのためにはきっと、俺が美しさっていう漠然とした何かを理解しないといけないんだと思った。
そしてそのためのきっかけは、確かに俺の傍にある。
「……なぁ、水無月」
「どうしたの?」
「……綺麗だな、花火」
――俺がそういうと、水無月はいつもながらの満面の笑みを浮かべた。
「――そうだね。お星様が霞むくらい、すごく…………淡い、かな?」
……木漏れ日の美術部の夏合宿、二日目の夜が更ける。
とても濃厚な一日で、とてもじゃないけど毎日こんなのは嫌だけど――ほんの少し前に進めた。そう自覚できた一日だった。
「ところで和那ちゃん、どうしてあの時、私に嫌いって言ったの?」
「え、えっとね? ……お、おにいちゃんとこーちゃんが、なかよくしてて、その……」
「え……えぇぇぇぇえええええ!!? か、和那ちゃん、それ勘違いだからね!? そ、それは一色くんとは仲良しだけどそれは友達という意味で――一色くん、そうだよね!?」
「はぁ。分かってるからいったん落ち着けよ」
最後の最後で今まで黙っていたことを知られた。面倒な日はとことん面倒な、そんな濃厚な一日であった。
●○●○
……車は上下に揺れていた。運転する渡邊は、バックミラーから後ろの席の生徒たちを見る。そこにはとてもぐっすりと眠っている姿につい微笑みを浮かべた。
「こうして寝ていると本当に平和ね」
「そうだね――まあ昨日あれだけ騒いだ上に、今日も日中暴れまわっていたら眠たくもなるよ」
行きとは正反対のその様に、渡邊も苦笑を浮かべる。
子供の和那や、基本的に騒がしい美月、雪彦、美月はともかくとして、一色と水無月が眠たいのは基本的に彼らに巻き込まれたからである。
……その寝顔はまだまだ年相応のもので、なんとも無防備な寝顔であった。
「それにしても悪いね、御子。せっかくの休暇の貴重な休みを」
「もう、それは良いって昨日も言ったでしょ? それにちゃんと穴埋めはしてもらう予定だから。覚悟しておいてよね?」
……それは生徒の前では決して見せない咲良の女性の顔であった。
――しかし渡邊は、この美術部の合宿に参加して良かったと切に感じていた。
……自分が大切にしている大事な生徒がたくさんの悩みを抱えている。……一色のことだ。前にも進めず、後ろすらも振り返らない彼を見て、渡邊はいつもどうにかしたいと考えていた。しかしそれは自分がどうにかしてはいけない問題であるということも理解していたから、彼が自分の足で踏み出すのを見守り、たまに助言をすることしか出来なかったのだ。
……だからこそ、この合宿で彼の変化を間近で見ることが出来て、良かったと思った。
「……一色くん、楽しそうだったわね」
「うん。実は色々知っているのに知らないふりをするのは大変だっただろ?」
「あんたが勝手に色々話してくるからでしょ? ……でも身近で玲の愛弟子を見てたら、気に入るのもわかったわ。なんか放って置けないからね、一色くん」
そして咲良もまた、一色のことを渡邊から詳しく聞いていたのだった。聞いた、というより渡邊がお酒の勢いに任せて話してしまったという方が正しいのだが。もちろん彼の目のことは話していない。ただ、力になりたい生徒がいる、ということと彼の性質を聞かされていたのだ。
……ふと、咲良は車のグローブボックスを開けた。
「それで、そろそろ教えてくれも良いでしょう? みんな眠っているようだし」
「……なんのことかな?」
「とぼけないで――この車、玲の車でしょ? どうして皆にわざわざ嘘をついてまで私を呼んだのかしら」
――そう、渡邊に尋ねた。
グローブボックスの中身は、女性が扱うようなものは一切なく、どちらかといえば男性が携帯するようなものばかりが入っていた。たばこの吸い殻を捨てるケース、ライターなどなど。
……渡邊はゆっくりと口を開ける。
「……僕一人じゃ厳しかったからじゃダメかな?」
「……玲、あなたって嘘をつくとき、必ず疑問形になるのよ。知ってた?」
「――はぁ。御子には敵わないなぁ」
……ふと、渡邊は窓を少しだけ開けた。その時、心地よい風が車内を通り抜けた。
「……御子が必要だったから呼んだ。保険医がいないとダメだったからね」
「――もしかして玲、あなた知っているの?」
……渡邊はバックミラーでふと、少女を見た。
和那と手を握りながら、時折うつらうつらと一色の肩に頭を乗せそうになる彼女を。
――水無月虹を。
……渡邊が窓を開けた時、吹き抜けた風で 一色は目を覚ました。
その時、渡邊と咲良が何かを話していた。その内容について理解はできない。寝起きで意識は朦朧としていて、数秒経てばまた眠りに落ちてしまうだろう。
――しかし渡邊と咲良の最後の会話のあと、水無月のことを渡邊が見た。それだけは分かった。
……それについて、一色にはどうしてなのかはもちろん分からない。
……ただ、どうしようもなく二人の会話が頭に引っかかった――……




