7幕 少しずつ
一色が美月たち上級生三人を相手にして奮闘している時。
水無月はこれまでにないほどに集中していた。誰かのための作品制作、それをしたことが長らくなかったためだ。
汗を掻いていることも忘れ、太陽に肢体を照らされながらも没頭する。
内心では完成図に向かって頑張っているために楽しんでいるのだが、傍から見れば本気で取り組んでいるようにしか見えないだろう。
――本気で取り組んでいるからこそ、和那も興味を持ったのだ。それを証拠に、先ほどから少しずつ水無月に近づいてきているのが手に取るように分かった。
……この砂浜はあまり大きくはない。地元に若い子供がほとんどいないため、砂浜はチラホラと人がいるほどでほとんど貸し切りのようなもの。
だからこそ水無月は目立っていることに気づいていなかった。
「よいしょっ……ここで水をかけて……」
大きなスコップで大まかな形をとって、小さなスコップで細かいところを削ったり足したりして形を整えていく。水無月もレインちゃんは非常に好きなキャラクターであるため、見なくても記憶で再現できるのだ。
水をかけて砂を固める。それの繰り返し。しかしそれを繰り返していくことで次第に完成に近づいていく。
……そして一時間と少しが経った頃には、八割ほど完成していた。しかしそれとほぼ同時に水もなくなり、水無月は両手にバケツを持って海水を汲みに行く。
「よいしょっ……」
非力な水無月は汗をシャツで拭いながら海水を汲み、それを数度繰り返す。たまには汗を掻くのも悪くないと考えていた。
……ふと水無月は思った。
どうして自分はこんなことをせっせとしているのだと。何を目的にしていたのか見失っていたのだ。
「……あ、和那ちゃんへのアピールの事をすっかり忘れてた!」
水無月虹、痛恨のミスである。アピール対象の和那のことをすっかり忘れて、砂遊びを誰よりも真剣に楽しんでいたのだ。すぐに水無月はバケツに水を汲んで振り返った。
――その視線の先にいたのは、水無月が砂で作ったレインちゃんを驚きつつも近くで見ている和那であった。あの和那が自然と浮かべている満面の笑み。近くによれば聞こえてくるのは「すごい」という言葉だ。
それを見た瞬間、水無月は目を見開いた。
……彼女はバケツを持って砂浜に戻る。水無月の足音に気が付いてか、和那は一瞬ビクッとするも、今までとは違い逃げることはなかった。それが水無月にはどうしようもなく嬉しくて、今すぐにでも前のように話しかけそうになる。
……しかしそれを堪え、冷静を装って話しかけた。
「……どうしたの、和那ちゃん」
「え、えっと……れ、レインちゃんが、その……」
しどろもどろになる和那。
――仲直りしたい。そう言っている顔だった。しかしそれを言い出せず、言葉に詰まってあわあわと慌てふためく。
……そんな彼女を見て、水無月はすっと微笑む。慌てる和那の頭に手の平をポンと置いて、そして彼女に背を向けた。
「私、向こうの方に行ってくるね」
そう言うと、水無月は和那を置いてその場から離れた。和那は水無月が積極的に話しかけてくれると思ったのだろう。レインちゃんが形作られた砂の隣で、呆然と歩いていく水無月のことを見つめるのであった。
……皆が遊ぶ砂浜から少し離れたところの岩場に腰を下ろす水無月。岩の上で体育座りをして遠くを見つめながら物思いに耽っていると、頬に冷たいものを感じた。
それは彼女の後ろからで、水無月はそちらを見ると――そこには一色がいた。水無月の座る小さな岩場に片足だけ乗せて体を前に乗り出して、一色は缶ジュースを水無月の頬に押し当てていた。
「お疲れさま。汗かいただろ? これ、スポーツドリンク」
「……ありがとう」
水無月は一色から渡さる缶を受け取り、プルタブをプシュッと開ける。丁度喉が渇いていたため、それを一気に飲み干した。
「……悪いな。俺の我侭のせいで。仲直りする絶好の機会だったのに」
「ううん、いいよ。一色くんがいなかったらこんなすぐに効果は出なかったから」
一色の我侭というのは、一色が水無月のことを手伝うといった時に、一つだけした約束のことだ。
その約束とは……妹の成長を願う兄の想いだった。
「……和那が水無月を傷つけたんだ。だからまずはあいつからごめんなさいって謝らないといけない。これはちょっと譲れないんだよ。いくら俺でも、そこまでは甘やかせないからさ」
「ううん、立派なお兄ちゃんだよ、一色くんは。……私があの場から離れたのは、もっと違う理由なんだ」
水無月はコトンと缶を岩場に置いて、自分の手についている砂を見つめた。
「違う理由?」
「うん。……和那ちゃんを見て思い出したの。少し前にあった、とっても嬉しいことを。それを思い出したらすごく心が温かくなって、なんだか泣いちゃいそうになったんだ。だから一度落ち着こうと思ってね」
水無月は手についている砂をパンパンと叩くと、砂は海からの潮風に乗って砂塵となってどこかへ消えてしまう。
「……でも改めて思ったよ。一色くんと和那ちゃんってそっくりだよね」
「……悪かったな。不愛想で」
少しだけ意地が悪くそう言う一色に対し、水無月は首を横に振った。
「――そういうのじゃないよ。ちょっとだけ不器用だけど、すごく優しいって意味」
「……冷たく当たられてるのに良くそんな風に思えるな」
「それが本意じゃないってことを言っていたのは一色くんだよ? ……私、自然に頑張るよ」
……自然に頑張るよ。その言葉が一色の耳に残る。
どうしてか、今の水無月には不思議な力があると感じた。どこか自信に満ち溢れているようにも見え、一色はここから先は力を貸す必要もないと思った。
水無月は岩場の上で立ち上がり、岩に背もたれている一色を見つめた。じっと彼を見つめていると、突如海の方から強風が吹く。その風に煽られて水無月は態勢を崩す。
「あっ……――」
「……危ないな。岩場の上に急に立つなよ」
……岩の側にいた一色はすぐに岩に飛び乗り、落ちそうになる水無月の手を引く。それによって水無月は態勢を取り戻し、安全に地面に降りた。
「……ほら、優しい」
「誰でも助けるだろ。……ほら、さっさと戻るぞ」
照れ隠しで前を歩く一色と、それについていく水無月。二人の間に流れるのは微妙な空気だった。つかず離れず、微妙な距離で歩いていく二人。
そして他の皆がいる砂浜に着いたとき――そこには何故か少し人だかりができていた。
恐らくは地元の人たちであろう。基本年齢層は高く、何かを中心にして囲っている様子。
「――こーちゃん、ちひろん! 大変だよ!! なんかこーちゃんの作品のせいで人が集まっちゃった!! それで和那ちゃんが知らない人ばっかりで人酔いして倒れちゃったの!! ぶくぶくーって泡を吹いて!!」
…………事情を聞いてとりあえず理解する一色。確かに水無月の砂浜に作った造形物は、ある程度芸術分野を携わっている一色たちの目から見てもクオリティーは高い。それを面白半分で近寄ってくる人がいても不思議ではない。
しかし一酔いで泡を吹いて倒れるなど、絶対にあり得ないことである。一色は不肖の妹のダメさ加減に頭が痛くなった。
「か、和那ちゃんは大丈夫なんですか!? いいいい、今はどこにぃ!?」
「お、落ち着いてこーちゃん!! どうしてお兄ちゃんのちひろんよりこーちゃんが慌ててるの!? とりあえず和那ちゃんは今、咲良先生がロッジの方で……」
「――私、様子見に行ってくる!!!」
初香の話を最後まで聞かず、水無月は一色との作戦すらも忘れて、いつも通りの水無月のままロッジに向かって走っていく。その光景を眺める一色と初香はその後ろ姿を見て一言。
「こーちゃんって、結構天然だよね」
「結構じゃなくてかなりです」
「だよね――どーしよっか、これ」
「とりあえず無駄にクオリティー高いので写真に撮りましょう。いずれ水無月のポートフォリオに加えても良い出来ですよ」
「そうだね。……こーちゃんの意外な才能だね」
その場に取り残されたメンバーは、各々自由に残りの時間を過ごすのであった。
とはいえ、一色もまた和那のことを内心では心配しているのか、水無月ほどではないにしろ、かなりの早足でロッジに戻っていった。
その姿を見た初香は、珍しくも微笑みを浮かべていたのは誰も知らない話である。
○●○●
自室にて横になっている和那。その傍にいる兄の一色は海から帰ってきてから、部屋の椅子に座りながら静かに本を読んでいた。
……初香から「和那が人酔いで倒れた」と聞いていたのだが、実際には少し理由は異なっているとのことを咲良に教えられた一色。
――水無月の造形に人が寄せられていたのは確かである。そこでその造形物に触ろうとした人がいるらしく、和那が勇気を振り絞って止めたらしいのだ。そしてその極度の緊張と近くに頼れる一色がいなかったことが災いして現在に至る。
……和那がどうして知りもしない他人と強く向き合えたなんていうのは、兄の一色からすれば分かり切っている。
「この馬鹿は、少しは素直になれ」
ベッドで眠っている和那の前髪を梳き流し、一色は柔らかい笑みを浮かべた。
……水無月が頑張って造っていたものを、壊されたくなかった。それも和那の勘違いなのだろう。しかし和那は勘違いであろうとそう行動した。あの人見知りで、臆病な和那が人のために行動することができた。
一色はそれが嬉しかった。
「……それは俺もだよな」
和那に言った言葉が反射鏡に自分が映るように返ってくる。
……すると和那はパチリと目を覚ました。
「おはよう、和那」
「……あれ? どうしてここでねてるの?」
「直前の記憶がないのか。……まあいい。今は昼過ぎで、皆で昼食を摂ってから花園に行こう……ってことになってたんだけどな」
しかしながら状況は変わる。元々の予定ではそうなるはずだったのだが、アウトドアが大好きなあの三人が昼からも海で遊ぶと言い出したのだ。
次はのんびりと時間を過ごしたいと考えている一色と水無月はそれに反対した結果、海に残る組と花園に行く組に別々行動することになった。
海には渡邊が残り、一色たちの方には咲良が同行することになっている。
「俺と水無月と咲良先生は花園に行くけど、和那はどうする? しんどいなら、俺がここに残っても良いぞ」
「……ううん。わたしも、行きたい」
和那は上半身だけ起こした状態で首を横に振る。一色は「わかった」と言って本を閉じ、一度リビングで水無月と咲良にそれを伝えに行こうとした
……しかし部屋を出ていく前に足を止めて、和那の方を見た。
「――和那が倒れたって聞いて、水無月の奴、お前のとこに駆け付けて心配してたぞ」
「…………うん」
和那はしゅんとした態度で、兄の言葉に素直に頷く。そんな妹を前にして、一色は少しだけため息を漏らしながらも……その頭を優しく撫でた。
「……じゃあ、準備できたらまず昼ご飯だな。お前の好きなパスタ作ってるから」
少しだけの後押しをした後、一色は部屋から出る。
部屋から出てリビングに向かおうと横を振り向くと、
「立派にお兄ちゃんしているじゃない、一色くん」
そこには既に私服に着替えている咲良がいた。咲良は年上らしい余裕のある態度で、一色の前で笑みを浮かべていた。
「……盗み聞きは趣味が悪いですよ」
「あら、それはごめんね」
咲良の発言を聞いて全て聞かれていたことを察する一色。しかし特に嫌な感情は抱かず、少し笑みを浮かべた。
一色は白状するように肩を竦める。
「うちの親って芸術家で、すごい放任主義なんですよ。もちろん俺たちのことを大切にしてくれています――だけど和那が物心ついた頃には、俺は同年代の奴らよりもしっかりしてたみたいで。だから和那は親の背中じゃなくて俺の背中を見て育ってきたんですよ」
「……つまり一色くんは和那ちゃんの人見知りは自分のせいだと思っているの?」
一色は咲良の指摘に頷く。
「……俺は昔からこんな感じなので、友達を家に連れてきたこともあまりありませんし。あいつもあいつで大人しくて遠慮する方なので。俺たち兄妹は閉鎖的な生活を送っていたんですよ」
……和那の面倒を見ていた時、一色は特にたくさんの理不尽の中にいた。だから和那に同じ目にあってほしくないから誰よりも彼女を過保護に見守っていたのだ。
和那の幼稚園には虐める輩がいないか、いつも目を配らせていた。和那をしっかりと見て寂しい思いをしていないのかずっと心配していた。仲の良い友人がいなかったとはいえ、一色の生活は幼い和那を中心にしていたのだ。
……もちろんその結果が全てではない。だが、一因して今の和那を形成しているのであれば、それは少なからず自分のせいである。一色はそう思っているのだ。
「だからあいつが自発的に誰かと仲良くなるのが嬉しかったです。例えそれが俺の……――友人であったとしても。今のままじゃダメだって、分かってるってことですから」
……その言葉は、一色自身にも言っているように見えた。
咲良はどこまで分かっているかは分からないが、しかし一色の言うことを全て聞いた上で、その場に立ち止まった。
「――偉い!!」
そして一色の頭をくしゃくしゃに撫でまわした。突然の彼女の行動に、一色は目を丸くして驚く。
しかし咲良は撫でる手を止めず、満面の笑みを浮かべたままだった。
「……あの、なんで頭を撫でられてるのか意味が分からないです」
「意味なんてないわ。私が撫でたいから撫でているのよ。和那ちゃんのことを考えて、その上で今、彼女自身に選択させようとしているのでしょう? そして……自分も頑張ろうとしている」
「……渡邊先生、ですか?」
「――違う。カマをかけただけ」
……一色が口を滑らせる。彼女の言う通り、渡邊は一色のこと……彼の秘密については一切を漏らしていない。
これはいわば……女の勘であった。
「大人でもね、自分で自分を見つめて変わろうとする人は少ないの。どこかで自分が正しい、変える必要なんてないって頭ごなしに決めつけて――楽に逃げようとする。変わる努力は大変だって分かっているから、楽な停滞を選ぼうとしているの。……でも一色くんは違うでしょう?」
……一色は何も言わない。しかし咲良は更に続けた。
「私は一色くんのことは詳しく知らないわ。でも玲は頻繁に君の話題を出すものだから、少しだけ贔屓目しちゃうわ。……そういうの、教師的に良くないから変わらないといけないわね」
咲良はわざとらしくその言葉を使い、一色の頭から手を離す。
くしゃくしゃになった一色の髪。それを優しく元に戻して、言葉を紡ぎ続けた。
「今が転機の時なら、変わることを怖がらないこと! 知ってる? 何かのために努力をする人は誰よりも不安がるの。……そう、今の君みたいに。頑張った人ほど結果が怖くて不安になる。だからその不安は、全く悪いことじゃない。むしろ努力した証なんだから」
……この人は渡邊の恋人だと一色は再認識した。そして何よりもたちが悪いのが、彼女の性質が美月寄りであることである。
渡邊ほどに冷静的分析はしていないが、直感と感覚でそれを見抜いた上で美月のように感情を前面に他者を肯定する。それが一色にとって厄介だった。
「話が逸れたわね。ここから先は達観を決めましょう。君の妹のことを信じて、見守ろうじゃないの」
「……そうですね――そう、ですね」
……一色は顔を反らしてそういうと、咲良の隣を通り抜けて階段を下りる。頬が熱くなる感覚があったから、今の顔を見せてはいけないと考えたのか。
……でも少なからず、今の感情は悪いものでは決してなかった。
リビングに行くと、水無月がエプロンを着て調理していた。
最初は一色も手伝うと言ったのだが、水無月が頑なに「今は和那ちゃんの傍にいてあげて!」とお願いしたのである。
午後も海で遊ぶ組はどうやら先に食事を済ませて既にロッジから出ているようだった。
「水無月、ごめんな。一人で全部やらせてしまって」
「ううん、いいの。それより和那ちゃんは大丈夫?」
「ああ。花園にも一緒に行くって言ってた」
「そっか……なら紅茶でも魔法瓶に淹れていこうかな? あれ飲んだら落ち着くし――」
……そんな風に和那を気遣う水無月を見て、一色はふと思った。
――心の底から自分ではない誰かを肯定してしまう純粋さ。馬鹿なほどに優しくて、だからこそ自分がどれだけ駄目であるかを認識させられてしまうと。
一色とはまさに表と裏のような存在だ。だが、彼女と触れ合い、彼女を知れば知るほど自分が馬鹿になっていくような気がした。
……絵のこともあった。彼女の描く世界を知りたかったから交流を深めていた。
「(自分とは表裏のような人なのに、どうしてか彼女のことを知りたくなる。どうしてなんて毛ほども理解できない。騒がしくて、皆の中心で笑顔を浮かべて、誰かのために何かをしてあげようと第一に考えている水無月を。どうしてこんなに知りたくなるんだろう)」
……決して悟られぬように、そう心の中で思っていた。
――いつまでもそんなことをばかりを考えていられないと思い、一色は洗面台の蛇口から水を出し、顔に思いきりかけた。顔が濡れた状態を鏡に映った自分の顔を見た。
「なんだよ、この顔。……気持ち悪いにもほどがあるだろ」
灰色の視界の中に映るのは、自分の灰色の顔。しかしそこに映る自分は気持ちの悪いほどに嬉しそうな、満ち足りている顔をしていた。
それがどうしようもなく気持ち悪くて何度も水で顔を拭うが――表面上ではそれがなくなっても、一色にはそれがなくなったようには見えなかった。
「一色くーん、味見をお願いしたいんだけど……え、どしたの? 物凄く濡れている気がするけど――あ、そうか! タオルがないんだ! すぐに持ってくるから待っててね!」
パタパタと小走りする音が聞こえた。水無月が一色のためにタオルを取りに行った音だろう。
ふと一色はもう一度鏡を見る――そこにあるのは、また先ほどと同じ顔になっている自分の顔であった。
「……本当に、どうしようもないな」
一色はそう呟き、苦笑いを浮かべるのであった。




