第36話 エピローグ① 何も思い出せない中での、たった一つの
聖国の外れに、小さな街道がある。
かつては小さな村だったという、名もなき村だった。旅人は少なく、ついこの間までは荒れ果て、盗賊が出ると噂され、誰も好んで通ろうとはしなかった。
最近になって、その道を通る者が増えている。
理由は単純だった。
「面倒な神殿兵が来ない」
そう囁かれているからだ。
街道沿いの宿屋で、老人が酒をあおりながら言った。
「聖国の裁きから逃れたものがいるらしい」
「神を裏切った、危険な男だと聞いたぞ」
別の男が鼻で笑う。
「だがな、あの道じゃ、女も子どもも殺されてない」
「奪われた話も聞かねえ」
噂は、形を変えて広がっていく。
――神を拒んだもの。
――秩序を壊す存在。
――それでも、弱い者の前に立とうとした男。
どれが真実かは、誰にもわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
その村跡では、今では道が作られ、火が灯っている。
夜盗に襲われた商人が、助けられたという話。魔物に追われた子どもが、無事だったという話。代価を要求されなかったという話。
英雄譚にはならない。吟遊詩人も歌わない。この聖国では、そうしてはならない。この今、混乱している聖国では、その名を呼んではならない。
だが、確かに“そういう夜”が積み重なっている。
一方、聖国の神殿では、新たな布告が出された。
「秩序を乱す異端の存在に注意せよ」
「彼の者は、神の理に従わぬ」
名前は記されていない。
顔も、特徴も、曖昧なままだ。
それでも、人々は理解した。
聖国には、その者を恐れる者もいる。忌み嫌う者もいる。神殿に祈りを捧げ、彼の滅びを願う者もいる。
だが、同時に。夜道で誰かが思い出す。
「神が見ていなくても守ろうとした人間が、いた」
それだけ。秩序は、揺らいだままだ。かの者の影響で。
神は沈黙を続け、明言を避け、世界は、何事もなかったかのように回り続ける。
それでも――街道の火は消えない。誰かが誰かの前に立つ夜が、確かに存在する。
………
……
…
裁判が終わったその日から、聖女は聖国の中枢に住むようになった。
神殿の最奥――かつては誰一人、足を踏み入れることを許されなかった場所。それは神から正式に認められた者しか開錠できないため。白い石で組まれた回廊は音を吸い、蝋燭の炎は揺れない。空気は冷たく、異常とも言ってよい程澄んでいた。
聖女はそこに立ち、日々を過ごした。
正式な儀式を経て、彼女は「神の代行者」として認められた。教皇の上位者として。
神託はより明確に、より頻繁に降りてくる。
祈りを捧げれば、答えは必ず返る。
正しい行い、正しい裁き、正しい犠牲。
――聖国の中心は、秩序を取り戻しつつあった。
だが、その代償として、彼女自身は少しずつ人格が薄くなっていった。
怒りは湧かない。恐怖も、迷いも、ほとんど感じない。悲しみでさえ、胸の奥を撫でるだけで、涙に変わることは稀になった。
それでも、彼女は役割を果たそうとしていた。
神殿兵たちの進言を裁き、各地の処遇を決め、神の意志を人の言葉へと翻訳する。彼女の声は静かで、感情の起伏はなく、それゆえに誰よりも重く響いた。
聖国の民は口々に言った。
「これこそが、真の聖女だ」と。
夜になると、聖女は一人、私室に戻った。部屋は質素で、装飾はほとんどない。神の紋章と、簡素な寝台、机と椅子。それだけだ。
机の引き出しの奥に、ひとつだけ、彼女が持ち続けているものがある。小さな木彫りの像だった。
不格好な騎士の像。兜は歪み、剣は短く、盾には何の紋章も刻まれていない。
そして花の冠。
いつ、『誰が』作ったのか? もう、聖女は正確に思い出せない。
…本当に、不器用。
ただ、手に取ると、胸の奥がわずかに痛む。
理由は、わからない。
祈れば、神は教えてくれるだろう。
これは何なのか。
なぜ大切なのか。
なぜ捨てられないのか。
だが、聖女はその夜も祈らなかった。日課の夜の祈りは、しなくなっていた。
祈れば、正しい答えが返ってくる。
けれど――それは、彼女が知りたい答えではない気がした。
彼女は像を胸に抱き、静かに目を閉じた。誰かの背中が、脳裏をよぎる。暗闇の中で、ただ一人、振り返らずに歩いていく影。私だけを守ってくれる、私だけの、おとぎ話のような人。
それが誰なのか、もう名前は浮かばない。
ただ、その背中が、ひどく『誠実』だったことだけは、はっきりと覚えていた。
「……神は、正しい」
聖女は小さく呟く。
「だからこそ、私はここに残る」
それが、自分の役割だと知っているから。それが、あの人が選ばなかった道だから。
感情は、もうほとんど残っていない。それでも、胸の奥で、確かに何かが灯っていた。
祈りではない。救済でもない。――誓いだった。
聖女は静かに目を閉じる。
神殿の鐘が、遠くで鳴った。
世界は、今日も神の秩序の中にある。
………
……
…




