第35話 別れ
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……
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「理想の……騎士様」
言葉が、落ちる。涙が、一粒、頬を伝り落ちる。
表情は、変わらない。
それでも、涙だけは、止まらない。
「……それでも。それでも私は!!!」
聖女は、声を荒げた。
「私は、聖女です。秩序を、選びます。私は私の故郷と、そしてあなたに誓いましたから」
俺は、否定せず、頷いた。
「分かっています、聖女様。……あなたがその役割を、選んだのなら。俺は、俺の役割を選びます。あなたの理想の騎士になると誓いましたから。その結果が死ならば、それでも構いません」
法廷が、静まり返る。
そして誰かがつぶやくのが聞こえた。
--『騎士』だ。
その言葉がこの場で木霊した。そして、この場にいる傍聴者も、聖職者も、その名を呼んだ。呼んでくれた。何度も、何度も。
聖女様の中で、何かが、壊れたように見えた。
同時に、何かが、生まれた。
「--黙りなさい!!!」
俺にも、観衆にも言った言葉でないのは明白だった。彼女は、『天』に向かってそう言い放ったのだ。
「人がいない世界の秩序を守って……何になるというのです!!!」
――覚悟。
神に従う覚悟。そして、失う覚悟。そして、抗う覚悟。
その言葉は、この場にいる神の傀儡である者たちへも、そう言っているように聞こえた。
「……判決は」
聖女は、目を伏せた。
「……聖国からの、永久追ほu」
その瞬間だった。
法廷の空気が、裂けた。轟音が鳴り響き、白い光が床を走る。結界が、歪む。
神の封印が、強引に、こじ開けられた。
「……遅れてごめんね」
場違いなほど、気の抜けた声だった。
法廷の中央に、一人の勇敢な者が立っていた。
聖女様とは違う銀色の髪。
見慣れた小さな背中。だが、それが『人類』の守護者であり、世界の雌雄を決する存在。世界を別つ存在。
確かに『勇者』様のものだった。
「あなたは……勇者様」
聖女が、息を呑む。
「勇者……」「勇者様?」「なぜ?」
少女は、肩をすくめた。
「異常なほどの魔物の軍勢。寝る暇もない程。そしてそれが片付いて、やっとあの村に戻ってきたらさ、何もかもが破壊されていて。何が起きたか調査とか聞き込みしてもさ、全然情報得られないの。君たち、緘口令を敷いたね? あれもこれも全部、仕向けていたことだったんだね」
天を向いていた視線が、俺に向く。
「……無事だった、きーくん?」
「はい」
「よかった」
笑顔を向けた。それだけだった。
「やっぱり、神なんて、宗教なんてろくでもないや。人を不幸せにする。そう、どこの世界だって……」
勇者様の力が高まっていくのを感じる。常人が青ざめるほどの力。それをこの場で解放しようとするのを直感する。現に、勘の良いものは、気絶するものさえ出てきている。勇者様のその力が、解放されようとしている。
そのように、俺のために怒りを抱いてくれる勇者様へ、俺は『否定』した。
「勇者様、それは違います」
「……何だって? 珍しいね、きーくんが僕を否定するの」
勇者様のお言葉を、確かに俺は否定したことがない。
だが、違うのだ。
「神がいたおかげで、この世界が保っていけたのです。存在しなかったら、獣が満ち溢れていたのです。神のおかげで、俺はこうしてあなたと話すことができたのです」
「……」
「善き人たちの願いだったのです。争うばかりではなく、他者へ優しくしたいと。だから、神が生まれ、この国が生まれたのだと、そう思うのです。だから俺は、彼らのすべてを否定しない、してはいけないと思うのです……。」
「……きーくん」
「強き者だったらいらないでしょう、神など。彼らは蹂躙する側だ。得る側だ。奪う側だ。だから、……だから、弱き者たちから神は生まれたのだと、俺は思うのです。俺は弱き者たちを守ると誓った。その弱き者たちが作り上げたものを俺は、全て否定などできない。たとえ、今がどうだとしても。原初の願いは、そうだったはずだから」
「きーくんは、……きーくんはそれでいいの? 殺されそうになったんだよ、それに」
「はい」
「怒ってないの? 泣きたくならないの?」
「怖く、生き延びたいと思っています」
「ならっ!」
「しかし、俺は『騎士』です。恥をさらして生き延びたいと思っても、それでも、俺はこの誓いを守りたいという気持ちがうわ待っている。」
勇者様は、俺を見つめる。そして、ため息をつきながら話す。
「……わかった。この場はきーくんに免じておさめるよ」
その言葉に安心した束の間。神殿兵がこちらを囲んだ。それに勇者様は舌打ちした。
「……やっぱ来るよね」
次の瞬間。彼女は、俺の拘束を切り払い、俺の腕を掴んだ。
「行くよ」
拒否の余地は、なかった。
『高速』『飛行』。俺をつかんでいる影響で多少速度が落ちるが、それでもその追手たちから逃げるには十分に見える。
俺は、聖女様を見た。
聖女様も、俺を見ていた。
目が、合う。言葉は、ない。だが、分かっていた。
町の人々に、村人に祝福されて、微笑んでいた姿。
「……いえ。別に」と言いながら、少し不機嫌だった可愛らしい姿。
全部、覚えている。
だが、もう、交わらない。
聖女様は、そこに残る。神の代行として。秩序の象徴として。
俺は、去ろう。誠実という『誓い』を背負ったまま。
勇者様と共に。
ただ、胸の奥で、何かが終わった。いや、何かが始まった。
聖女様は、ゆっくりと目を伏せた。それはまるで己の役割を、受け入れるために。そして「裁可は下りました」と言い、背を向けた。
裁判は終わったのだ。
決定の鐘の音が鳴ったのかどうか、意識が朦朧とし始めた俺には分からなかった。
耳鳴りだけが残り、音という音が遠ざかっていった。
神殿の奥へと続く白い回廊を、聖女様が歩いていく姿が見えた。白い法衣が揺れる。その背中は、あまりにも静かで、そして小さかった。自分の視界が、徐々に歪んでいったのがわかる。
思い出す。村で並んで歩いた背中。火の中で泣きながら、それでも俺の前に立ち続けた姿。そのすべてが、今、遠ざかっていく背中に重なっている。
呼び止めなかった。声を出せば、何かが壊れると分かっていた。約束が、誓いが、彼女が選んだ役割が、すべて崩れてしまうと理解していた。
聖女様は振り返らなかった。ただ歩き続ける。神の代行者として。世界の秩序として。
俺は気づいた。自分は、彼女から多くのものを受け取っていたのだと。剣を振るう理由。守るという言葉の重さ。正しさを選び続けることの苦しさ。それらはすべて、彼女と共にあった時間の中で形作られていた。
そして、……この胸の苦しみ、この喪失感、そしてこの誓いを与えてくれたのは、彼女だ。
並んで歩けた可能性もあった。同じ方向を向き、同じ速度で進めたかもしれない未来もあった。
聖女様の背中が、光の向こうに溶けていく。白が白に溶ける。誠実であろうとした結果、手放さなければならなかったものの重さが、ようやく実感として胸に落ちてきた。
俺も背を向けた。振り返らなかった。
振り返れば、
立ち止まってしまう。涙がこぼれてしまう。
それぞれの道。
それぞれの役割。
それぞれの、救われなさ。
だが、それでも。
俺は誠実であることだけは、手放さない。
——それが、騎士だった。
世界は、まだ、終わっていない。人間もまた終わってない。
だが、もう、元には戻らない。それぞれの、選んだ道の上で。
ふと後ろで、声が聞こえた気がした。
「幸あれ」と。
涙が、溢れた。
………
……
…




