第31話 裁判前夜
夜は、地下牢にも等しく降りてくる。
石壁に刻まれた古い傷の影が、揺れる灯りに引き延ばされ、歪んだ獣のように床を這っていた。湿った空気が肺にまとわりつき、吐く息は重い。鉄格子の向こうから聞こえるのは、水滴の音と、どこかで誰かがうめく声だけだ。
俺は壁にもたれ、剣のない腰を見下ろしていた。ここに連れてこられてから、何度目かの夜だった。
——足音がした。
静かで、規則正しい。神殿兵のそれとは違う。俺は顔を上げなかった。それでも分かってしまった。
——聖女様だ。
格子の外、灯の届かない少し奥で、彼女は立ち止まった。姿は見えない。だが、空気が変わる。清々しい朝になったような感覚。実際にそうだろう。彼女のオーラは、場を清めている。『聖女』として完成していっている証拠。
呼べば、返事はあるだろうか? 名前を口にすれば、彼女は振り向いてくれるだろうか?
だが、俺は何も言わなかった。俺から話せば、縛る。彼女、覚悟を、選択を。
俺はただ、腰を下ろし、背中を壁に預けた。両手を膝に置き、目を閉じる。祈りの姿勢ではない。ただ、そこに在るだけの形。
格子の向こうでも、衣擦れの音がした。彼女もまた、動かなかった。
聖女様は、祈りの言葉を話さなかった。神の名も、理も、救済も、口にしない。神は、常に彼女の傍にいる。それでも、この夜もそうだった。
祈れば、神は応える。応えれば、秩序は保たれる。それが、彼女の役割だった。
それでも聖女は、沈黙を選んいた。
この沈黙は、神に捧げるものではないのが何故かわかった。
ただ、世界そのものに向けられた、名のない祈り。神と同期しない、彼女が自分として存在し、願う時間。
長い時間が過ぎた。地下牢に夜明けは見えない。それでも、空気のわずかな変化で、朝が近いことだけは分かる。
聖女様は、ゆっくりと姿勢を正した。そして、初めて祈りの形を取る。だが、唇は動かない。
神へでも、人へでもない。世界が、これ以上壊れませんように——そんな願いだけが、言葉にならずに残っていた。
俺は、その姿を見ていない。それでも、そうしたと不思議と分かってしまった。
――ああ。
この人は、俺を裁きたいのではない。世界を壊さない役を、引き受けたんだ。改めて、実感した。
足音が遠ざかる。聖女は振り返らなかった。鉄格子の前には、誰もいない。残されたのは、冷えた空気と、わずかな温度の名残だけだ。
俺は目を開き、静かに息を吐いた。
誓いは、まだ胸にある。それだけで、今は十分だった。
………
……
…
足音が近づいてくる。いつもと違う足音だ。
それが誰のものか、俺には分からない。いや、俺がわかろうとしないだけか。
神殿兵か、裁定官か、それともただの看守か。ここでは区別する意味がない。
その男が俺に言い放つ。明日が裁判だと。最後に祈れと。
俺は立ち上がらなかった。反応しなかった。
膝をついたまま、床に落ちる影を見ていた。
もう、祈らないと決めている。
神に向けて言葉を投げることはしない。
願いも、命乞いも、赦しも。
祈れば、期待してしまう。期待すれば、裏切られた時に、何かを憎んでしまう。
俺は、憎みたくなかった。
正しさを。
人を。
そして、聖女様を。
誓いは、もう十分に思い出した。
あの時の言葉も、声の震えも、確かに覚えている。
――あなたの理想の騎士になります。
あれは、あの時の気持ちは、嘘ではなかった。
守れる保証がなくても、それは誓いだった。
だから、結果がどうなろうと、言い訳はできない。
俺は自分の手を見る。
この手は、多くを救えなかった。
多くを守れなかった。
それでも、この手で、誰かを踏み潰すことだけはしなかった。
そのことだけは、胸を張れる。
世界がそれを評価しなくても。
神がそれを無価値だと断じても。
誠実であることは、報われるための条件じゃない。
生き方だ。
ここで折れれば、楽になるのかもしれない。
神に従うと口にすれば、処刑は免れるかもしれない。
だが、それは『人』として生き延びることじゃない。ただ、続いてしまうだけだ。
俺は、続けたくなかった。
誓いを裏切ったまま、息をすることを。
足音が止まる。
扉の向こうで、誰かがせわしなく動くのがわかる。
本当に明日裁判が始まるのだろう。
俺は、静かに目を閉じた。
怖くないと言えば嘘になる。
だが、後悔はなかった。
もし、これが終わりだとしても。
それでも俺は、誠実であろうとした。
それだけで、十分だ。
………
……
…




