第29話 空虚
「昼」なのか「夜」なのか、誰も教えてはくれない。
俺は数を数えるのをやめた。
最初のうちは、何日が経ったのかを把握しようとしていた。牢の壁に爪で刻みを入れ、食事が運ばれてくる回数で時間を測ろうとした。だが、意味がないと気づいた。食事は不定期で、量も一定ではない。運ぶ者も毎回違う。時には水だけの日もあったし、何も与えられない日もあった。時間は、ここでは秩序を失っていた。
秩序を失っているのは、時間だけではない。
俺の目の前には、何人ものシスターが横たわっている。
彼女たちは眠っているのか、意識がないのか、それともただ“そこにある”だけなのか、分からない。呼吸はしている。胸は微かに上下している。だが、名前を呼んでも反応はない。
中には、すでに生命を終えている者もいた。無理な人体実験の結果だ。
「……水、飲みますか」
その中で呼吸があるものに問いかける。返事はない。それでも俺は、同じ言葉を、同じ調子で、何度も繰り返した。
水を含ませた布で唇を湿らせる。
汚れた髪を、指で梳く。汗なのか、体液なのか分からないものを、拭い取る。
それは世話というより、作業に近かった。だが、作業だと割り切ってしまえば、何かが壊れる気がした。
彼女たちは、自分たちがなぜここにいるのかを知らない。つい先日まで、修道院で祈り、子どもたちに読み書きを教え、畑を耕していた者もいるはずだ。だが今は、その記憶すら消されてしまっている。人としての最後の『財産』を奪い取られてしまっている。
「……今日は、少し冷えますね」
返事はない。
それでも俺は、声をかけるのをやめなかった。
声を出さなければ、俺自身が、ここで“人であること”を忘れてしまいそうだったからだ。そして、それはシスターが俺に根気強くやってくれたことだったから。
ある時、ふと気づいた。
彼女たちの顔を、一人ひとり、はっきりと思い出せなくなっていることに。
最初は、違いが分かっていた。目の形、口元、癖。
だが日が経つにつれ、その境界が曖昧になっていく。誰が誰だったのか、混ざり合っていく。
俺自身の意思が、薄くなっていることだ。
それが神の御業か、俺の体力のせいかはわからない。ただ、それが、何よりも恐ろしかった。
俺は慌てて、ひとりひとりの前に座り直した。
目を見て、顔を確かめ、存在を刻み直す。
「……大丈夫です。俺は、ここにいます」
返事はない。それでも、言葉にしなければならなかった。
この地下牢では、誰も名前を呼ばれない。
番号も、役割も、意味もない。ただ、生きているか、死んでいるか、それだけが基準だ。
だから俺は、ここで繰り返す。同じ行為を、同じ言葉を、何度も。
この行為に、意味があるのかは分からない。だが、意味があるかどうかを考え始めた瞬間、俺はもう折れてしまう。
ここで折れるわけにはいかなかった。
誰も見ていなくても。
誰も報われなくても。
神が沈黙していても。
俺は、今日も同じように水を運び、布を絞り、声をかける。それが何日目なのかは、もう分からない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
――この反復をやめた瞬間、俺は俺でなくなる。
だから俺は、今日も繰り返す。名もなき地下牢で、意味のない誠実さを、何度でも。
………
……
…




