第28話 生きて
神殿の夜は、音がない。
鐘は止まり、祈りの声も途絶え、回廊に残るのは、白い石が冷える音だけだ。
聖女は膝をつき、額を床に触れさせていた。
普段の祈りの姿勢ではない――それは、彼女にとって、懺悔でもするかのような形だった。誰かに頭を下げるように。そして、誰かを想うように。
だが、彼女は祈りの言葉は出さない。
祈るべき言葉は、既に全て知っている。頭が、体が、覚えている。そして神が望む答えも、裁きの結果も、その先に待つ秩序の回復も、全て悟っている。
――それでも。
彼女の意識は、神殿の最下層へと向かっていた。
地下牢。人の声が届かないように作られた、完全な箱。聖国の闇。
あの人は、そこにいる。
「……騎士様」
声に出した瞬間、聖女は自分でも驚いた。
祈りではなく、呼びかけだった。
神は答えない。
そして彼も今、答えない。
だが、それでいい。
彼女は、答えを求めていないのである。
思い出すのは、旅の途中の光景だった。剣を抜き、必ず聖女たちの前に立った背中。血に濡れても、言葉遣いだけは崩さなかった声。
――理想の騎士。
それは、彼女が与えてしまった言葉だった。……彼にとっての『呪い』だ。
(……どうして)
聖女は、心の中で問いを投げる。
どうして、あなたは神を拒むのですか。どうして、私の隣に立ちながら、それでも神の側に来てくれないのですか。
世界を救うことは、多くの人を救うということを、なぜ理解してくれないのですか?
……答えは、知っている。
神に教えられたからではない。彼女自身が、見て、聞いて、触れて、感じてきたから。
あの人は、神よりも、世界よりも先に、人を見ていた。
それが、どれほど危ういことか。それが、どれほど多くの犠牲を生むか。聖女は、知っている。
故郷の炎。泣き叫ぶ人々。飢えた民。この『眼』で強く見えた、自身に欲望を向ける者たち。
だからこそ、彼女は神を選んだ。神は、世界の秩序だ。
欲望を抑え、暴力と欲望を縛り、人が人であるための最低限を守る仕組み。
完璧ではない。救えない者も、切り捨てられる者もいる。私も本来はその立場であった、この地下牢の彼女たちと同じ存在なのだから。
――それでも。
(それでも、世界には必要)
もし神がいなければ。もし秩序がなければ。
地下牢の中層で見た光景が、脳裏に蘇る。欲望に身を任せ、他者を踏み潰す者たち。善悪の区別すら失った目。
あれを、地上に放つわけにはいかない。
だから、私はここにいる。だから、私は聖女であり続ける。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
だが――。
(それでも、あなたは間違っていない)
その考えが、消えない。神への適合が進んでいる今でも、決して消してはならない。
神は正しい。だが、正しさだけでは、人は救われない。
騎士は、それを知っていた。知っていて、それでも進んだのだ。
私の、感情を削がれたはずの心が、確かに痛んだ。
(だけど私は、あなたを止めたい)
神の代行として。秩序の番人として。その役割を果たすならば、今からでも彼を処すべきだ。だが、希望をもって、彼の心が変わるのを待っている。……それも、私の意識が完全に神に成り代わるまで。
(あなたに、平和に過ごしてほしい)
私の行いは、この思いは、裏切りなのだろうか。
神にとって、そして彼にとって…。それとも、役割を果たしただけなのだろうか。
……そうだ。何をいまさら。私はすでに勇者様と騎士様を裏切っているでしょうが。
日々、神との適合が進み、意識が遠のく機会が多くなっている。
その中でただ一つ、はっきりしていることがある。
地下牢にいるあの人は、本当は裁かれるべき罪人ではない。優しい人だ。悲しい過去を背負った人だ。幸せになるべき人だ。
だが、世界にとって危険な存在であることも、確かだった。
だからこそ。……だからこそ。
「……どうか」
声は、祈りにならなかった。
願いにも、ならなかった。
それでも、胸の奥から漏れ出る。
「生きてください」
あなたが正しいからではない。
あなたが善いからでもない。
――あなたに、生きていてほしいから。
その誠実さが、この世界を壊すかもしれないとしても。
聖女は額を床につけたまま、動かない。
神は沈黙している。
地下牢も、沈黙している。
ただ、世界だけが、
何事もなかったかのように回り続けていた。
………
……
…




