第27話 何が正義か
地下牢の最下層に、再び足音が響いた。
それは規則正しく、迷いのない歩幅だった。
俺は顔を上げる前から、それが誰かを理解していた。
白い衣が視界に入る。
松明の光を反射し、神聖な刺繍が淡く輝く。だが、その光は、どこか冷たい。
「……聖女様」
俺は立ち上がり、そう呼んだ。
いつもと同じ呼び方だ。このような光景を見ても、俺は彼女に敬意を持っている。
聖女様は、ゆっくりと俺の前に立った。
視線が合う。だが、その奥に、かつてあったはずの揺らぎはない。前のような強い意志を感じない。
既に、神の使徒としての『聖女』に完成が近づいていると、感じてしまった。
「お身体の具合は、いかがですか」
形式的な問いだった。
答えなど、最初から求めていない。
「……見てください」
俺は、背後を示した。壁際に並ぶ、白い影。
「彼女たちは、何ですか」
問い詰める声にならないよう、意識して抑えた。怒りをぶつけても、何も変わらないと知っている。
聖女様は、視線をシスターたちに向けた。
ほんの一瞬だけ。
「……神の理の中で、役割を終えた存在です」
「役割?」
「はい」
淡々とした声。
だが、わずかに、言葉の運びが遅れた。
「彼女たちは、聖女候補として育てられました。結果として、選ばれなかった」
「そうです……それで、ここに」
「はい」
短い肯定。
だが、それだけでは足りない。
「彼女たちは、自分が何者かを知らなかった」
俺は言った。耐えきれなかった。聖女様に言っても仕方がないことだと理解していたが、それでも、それでも。
「ここに連れてこられて、初めて知った。神から、直接。そして尊厳を破壊された! それが、それが許されることなのですか! 正義なのですか?!」
聖女様の指先が、わずかに震えた。だが、表情は変わらない。
「……それでも」
聖女様は言った。
「それでも、聖国は正しいのです」
「なぜです!?」
即答だった。
「秩序を失えば、世界は壊れます」
反逆者区画で見た光景が、脳裏に浮かぶ。欲望に飲み込まれた人間たち。
「彼らを抑えていたのが、神の加護です。神がいなければ、人は人でいられない。それに、神の加護だけでは足りない。そのために彼女たちが欲望を抑えることに必要なのです。」
「……だから、彼女たちを犠牲に?」
「犠牲ではありません」
聖女様は、はっきりと言った。
「必要な過程です」
その言葉は、あまりにも強かった。
「聖女様」
俺は、一歩近づいた。
「あなたは、それを……本当に、そう思っているのですか? あなたは、選ばれなかった彼女たちの苦しみを理解しているのですか? あなたが抱いたような思いも、誓いも! 彼女たちは持っていたはずだ……。それを、すべて唾吐かれているのですよ!?」
沈黙。長い沈黙だった。やがて、聖女様は静かに目を閉じた。
「……私は」
次の瞬間、聖女様の身体が、わずかに揺れた。
白い衣の内側で、何かが起きている。うごめいている。見えないが、確実に。何か抗っているように感じた。
「今でも、ここにいる彼女たちと、ここにいない彼女たちとも、繋がっています。」
聖女様は、シスターたちと接続したのだ。記憶も、その体験も。
聖女様の呼吸が、乱れる。だが、声は上げない。
「今でも、頭の中に、体に刻み込まれています。真理に近づいた者同士が。
貴族の屋敷。
暗い部屋。笑い声。
実験室。
悲鳴にならない叫び。耐えがたい苦痛。
それらの記憶が、感触が流れ込んでいるのです」
「……っ」
喉から、かすかな音が漏れた。
だが、崩れない。
「気が狂いそうです。しかし、神の加護により狂わずに済んでいます。」
欲望と『感情』を抑制する権能。
聖女様の精神は、壊れない。——その代わりに。
意識が、薄れていく。
「それでも、そのうえで、私は神が必要だと思っているのです」
「……聖女様」
俺は、呼びかけた。
聖女様は、目を開けた。
表情は、変わらない。
だが、頬を、一筋の涙が伝っていた。
「……ごめんなさい」
声は、平坦だった。
「感情が、うまく……」
言葉を探している。
「泣いている理由が、私には、もう……」
それでも、涙は止まらない。
「……あなたを」
聖女様は、俺を見た。
「騎士様……。あなたを、私は……だったから……」
その言葉は、静かだった。
だが、重かった。
「あなたと旅をして、あなたの戦いを見て、そして、あなたを育てたシスターの記憶を、今……」
声が、わずかに掠れる。
「……全部、見ました。あなたと過ごした『私』は……」
お互い黙り込んだ。数秒か、それとも数時間かすぎて、聖女様は口を開いた。
「それでも、……神に、従ってください」
涙を流したまま、聖女様は言った。
「裁判で、神に従う意思を示さなければ……」
言葉が、続かない。
「処刑されます」
事実の通達。
「……私は」
聖女様は、かすかに微笑もうとした。だが、頬をうまく動かせないようだった。
「それでも、私は……聖女でなければなりません。私の故郷のような惨事を起こさないために。あの一筋の光が、世界を救うと信じて。そして、ここにいる彼女たちが果たせなかった役割のために」
役割。
その言葉が、再び胸に刺さる。
「……わかりました」
俺は、そう答えた。
聖女様は、ほんの一瞬だけ、目を見開いた。
「……騎士様」
本心ではない。
だが、今は。
聖女様は、何も言わなかった。ただ、涙を流したまま、踵を返した。
足音が、遠ざかる。
地下牢に残されたのは、
俺と、眠るシスターたち。
そして、
秩序を守るために、
人を愛してはいけなくなった聖女の背中だけだった。
俺は、その背を見送りながら、
静かに思った。
——この世界は、正しい。
——だが、正しさのために、
——あまりにも多くのものを、失っている。
………
……
…




