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第2話 二つの月と白い広場

 少年の呼吸が、また細くなった。


 ひゅう、と喉の奥で音が鳴るたびに、母親らしき女性の肩が震える。


 風宮亜矢は、白く光る自分の指先を見つめたまま、動けずにいた。


 分からないことばかりだった。


 二つの月。 白い線が刻まれた石畳。 獣耳の少女や、ローブ姿の老人。 聞き取れるのに読めない、不思議な言葉。


 そして、自分の手からにじむ白い光。


 何ひとつ理解できない。


 それでも、目の前の少年が苦しんでいることだけは分かった。


「神殿はまだか!」


「治癒師は来ないのか!」


「白環神殿まで走っても間に合わない!」


 声の意味だけが、亜矢の頭へ流れ込んでくる。


 亜矢は反射的にバッグからスマホを取り出した。


 画面をつける。


 時刻は、二十二時二十四分。


 さっき部屋を出た時から、ほとんど進んでいない。


 けれど、画面の上には見慣れたくない表示が出ていた。


 圏外。


「……うそ」


 電話もできない。 検索もできない。 誰にも助けを求められない。


 本当に、自分だけだ。


 その事実が、亜矢の足元を冷たくした。


「もう、だめかもしれない」


 誰かが、諦めるように言った。


 その言葉に、母親が崩れ落ちる。


「いや……いやよ……」


 その声を聞いた瞬間、亜矢の胸が痛んだ。


 あの顔を、知っている気がした。


 バイト先で、財布の中身を何度も確認しながら半額の惣菜を選ぶ人。 病院帰りなのか、薬の袋を持って疲れた顔で水を買う人。 子どもにお菓子をねだられて、困ったように笑う人。


 誰かを守りたいのに、どうにもできない人の顔。


 亜矢は何度も見てきた。


 声をかけたことはない。 助けられたこともない。 ただ、売り場の棚の向こうから、少しだけ見ていただけ。


 でも今は、目の前にいる。


「お願い……」


 母親が、亜矢を見た。


「助けて……」


 逃げたい、と思った。


 助けてほしいのは、こっちの方だ。


 そう叫びたかった。


 けれど、倒れた少年の指が、石畳の上でわずかに動いた。


 誰かを探すように。 まだ生きたいと言うように。


 亜矢は唇を噛んだ。


「……飲み物」


 気づいた時には、そう言っていた。


 周囲が静まり返る。


 自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。


 けれど、頭の中には、いつもの光景が浮かんでいた。


 紙コップのコーヒー。 少しのミルク。 白く立つ泡。


 黒く沈んだ気持ちが、ほんの少しだけほどける瞬間。


 ただの思い込みだ。 泡で毒が消えるわけがない。


 それでも、亜矢の指先の光は、そのイメージに反応するように小さく揺れた。


「何か、飲ませられるもの……ありますか?」


 言ってから、自分の言葉の頼りなさに泣きそうになった。


 毒で倒れている子に、飲み物。


 何を言っているんだろう。


 周囲の人々も困惑したように顔を見合わせている。


「飲み物……?」


「水か?」


「いや、毒が回っているんだぞ」


「でも、聖女さまがそう言うなら……」


「聖女じゃないです……!」


 亜矢は思わず否定した。


 けれど、その声は混乱した広場の中に紛れてしまった。


 その時、屋台の奥から低い声がした。


「山羊の乳ならある」


 亜矢が振り向くと、恰幅のいい中年の女性が木の器を持って立っていた。屋台の店主らしい。表情は険しいが、その手は震えている。


「今朝搾ったものだ。売り物だが……持っていけ」


 亜矢はその器を見つめた。


 白い液体。


 牛乳ではない。 けれど、似ている。


 温かくはない。 清潔かどうかも分からない。 それを飲ませていいのかも分からない。


 でも、何もしなければ、少年の呼吸は止まってしまう。


 亜矢はバッグの内ポケットに触れた。


 中には、小さなミルクフォーマーが入っている。


 バイト先の休憩中、紙コップのコーヒーを泡立てるために持ち歩いているもの。


 白くて、小さくて、何の特別な力もない。 疲れた日に、ほんの少しだけ気持ちをやわらげてくれるだけの道具。


 これが何かを救うわけじゃない。


 力があるのは、たぶん、この道具ではない。


 亜矢の手から出ている、正体の分からない白い光。


 それをどう使えばいいのか、亜矢には分からなかった。


 ただ、いつもの泡コーヒーの作り方だけは思い出せた。


 混ぜる。 泡立てる。 黒く沈んだものを、少しだけ浮かせる。 固まったものを、ほどく。


 それしか、思い浮かばなかった。


 亜矢は木の器を受け取った。


 山羊の乳が、かすかに揺れる。


 手が震えて、少しこぼれそうになった。


「どうしよう……」


 思わず本音が漏れた。


 本当に、どうすればいいのか分からない。


 けれど、少年の母親が両手を組んで亜矢を見ていた。


 祈るように。 すがるように。


 亜矢はミルクフォーマーを取り出した。


 周囲の人々が一斉に息をのむ。


「何だ、あれは……」


「魔導具か?」


「見たことがない」


 違う。


 これは魔導具なんかじゃない。


 友人たちが誕生日にくれた、ただのミルクフォーマーだ。


 でも、説明している余裕はなかった。


 亜矢は木の器を胸の前に持ち、ミルクフォーマーの先をそっと山羊の乳に沈めた。


 スイッチに指をかける。


 日本のアパートでなら、何でもない動作だった。 バイト先のバックヤードでなら、ほんの少し気分を変えるだけの動作だった。


 でも今は、広場中の視線が亜矢の手元に集まっている。


 怖い。


 失敗したらどうするのか。 何も起きなかったらどうするのか。 期待だけさせて、助けられなかったら。


 考えれば考えるほど、指が動かなくなる。


 それでも、少年の呼吸は待ってくれない。


 亜矢は小さく息を吸った。


「お願い……」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


「何か、できて……」


 スイッチを押した。


 小さな羽根が、山羊の乳の中で回り始める。


 細かな泡が立つ。


 白い泡。


 いつもと同じはずの、ただの泡。


 そのはずだった。


 次の瞬間、亜矢の指先からこぼれていた白い光が、泡の中へ吸い込まれるように混ざった。


「……っ」


 亜矢は息をのんだ。


 ミルクフォーマーが光っているのではない。


 山羊の乳が勝手に奇跡を起こしているのでもない。


 光は、亜矢の手から出ていた。


 手のひらの奥から、胸の奥から、何かが流れ出している。


 それが指先を通り、器の中の白い泡へ溶けていく。


 木の器の中で、泡が淡く輝いた。


 月明かりとは違う、やわらかな白。


 温かい。 けれど、熱くない。


 怖いほど静かで、なのにどこか懐かしい光だった。


 少年の腕からにじんでいた黒い霧が、その光に反応するように揺れた。


 亜矢は器を少年のそばへ近づけた。


「これを……」


 飲ませていいのか。 本当に大丈夫なのか。


 迷いが胸を締めつける。


 すると、少年の母親が涙をこぼしながらうなずいた。


「お願いします……!」


 その声に押されるように、亜矢は膝をついた。


 少年の顔は苦しげで、唇はまだ紫色だった。 黒い霧が、右腕からゆっくりとにじみ続けている。


 亜矢は器を持つ手に力を込めた。


「少しだけ……少しだけでいいから……」


 助けて。


 最後の言葉は、声にならなかった。


 母親が少年の上体をそっと支える。 亜矢は、光る泡をすくうように器を傾けた。


 白い泡が、少年の唇に触れる。


 その瞬間。


 黒い霧が、びくりと跳ねた。


 まるで、何かを恐れるように。


「……!」


 周囲から息をのむ音がした。


 少年の腕の傷口からあふれていた黒い霧が、白い泡に触れたところから少しずつ薄くなっていく。


 消えた、わけではない。


 完全に治ったわけでもない。


 けれど、さっきまで広がり続けていた黒い色が、初めて押し返された。


 少年の喉が、小さく動く。


 ひゅう、と乱れていた呼吸が、一瞬だけ静かになった。


「息が……」


 誰かがつぶやいた。


「息が戻ったぞ……!」


 広場にざわめきが走る。


 母親が、震える手で少年の頬に触れた。


「リオ……? リオ、聞こえる……?」


 少年は目を開けなかった。


 けれど、その指が、ほんのわずかに動いた。


 母親が声にならない声を上げる。


 亜矢は器を持ったまま、呆然としていた。


 何が起きたのか分からない。


 自分が何をしたのかも分からない。


 ただ一つだけ、はっきりしていた。


 ミルクフォーマーが奇跡を起こしたのではない。


 白い泡が勝手に少年を助けたのでもない。


 自分の中から出た何かが、泡に混ざって、黒い霧を押し返した。


「私……」


 亜矢は自分の右手を見た。


 指先には、まだ淡い白い光が残っている。


 怖かった。


 けれど、その白は、不思議と嫌なものではなかった。


 泡コーヒーの上に浮かぶ、やわらかな白に似ていた。


 疲れた夜に、ほんの少しだけ自分を保たせてくれたもの。


 その白が今、知らない世界で、知らない少年の命に触れている。


 誰かが、震える声で言った。


「白境……」


 別の誰かが、その場に膝をついた。


「白境の聖女だ……」


 亜矢は、器を持ったまま固まった。


 違う。


 そう言いたかった。


 自分は聖女なんかじゃない。 ただの大学生だ。 牛乳を買いに出ただけだ。


 けれど、声が出なかった。


 広場の人々が、次々と亜矢を見つめる。


 怯えた目。 疑う目。 祈る目。


 その全部が、亜矢の小さな身体にのしかかってくる。


 木の器の中で、白い泡が静かに光っていた。


 それはもう、ただの泡ではなかった。


 ただの山羊の乳でもなかった。


 そして亜矢は、まだ知らなかった。


 この小さな白い光が、壊れかけた世界の境界を揺らす最初の一滴になることを。


 そして、自分の中に眠っていた力が、この世界で“白境魔法”と呼ばれることを。

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