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第3話 白い光は、泡じゃなかった

第3話 白境の聖女なんかじゃない


 少年の胸が、かすかに上下していた。


 さっきまで、ひゅう、ひゅう、と苦しげに鳴っていた呼吸が、今はまだ弱いながらも、確かに続いている。


 風宮亜矢は、木の器を持ったまま、その小さな身体を見つめていた。


 器の中には、山羊の乳が残っている。


 屋台の女性が差し出してくれた、ただの山羊の乳。

 そこに、亜矢がミルクフォーマーで泡を立てただけのもの。


 バイト先の休憩中に、紙コップのコーヒーを少し泡立てる時と、やったことは同じだった。


 スイッチを押して、小さな羽根が回って、液体の表面に泡が立つ。


 それだけのはずだった。


 けれど、白い泡は淡く光っていた。


 月明かりでも、魔法灯の反射でもない。


 亜矢の指先からこぼれていた白い光が、泡に混ざり込んでいた。


「……なに、これ」


 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


 少年の腕からにじんでいた黒い霧は、完全に消えたわけではない。


 傷は残っている。

 顔色もまだ悪い。

 唇の色も、元に戻ったとは言えない。


 それでも、さっきまで少年の肩へ広がろうとしていた黒い霧は、白い光に押し返されるように傷口の周りへ集まっていた。


 まるで、少年の身体と黒い毒の間に、見えない線が引かれたみたいに。


「息をしてる……」


 母親らしき女性が、震える声でつぶやいた。


「リオ……リオ、聞こえる……?」


 少年は目を開けなかった。


 けれど、その指がほんのわずかに動いた。


 女性が声にならない声を上げる。


 その場の空気が変わった。


 さっきまで死を待つように重かった広場に、ざわめきが戻っていく。


 驚き。

 安堵。

 恐怖。

 そして、信じられないものを見た時の沈黙。


 亜矢は、ただ立ち尽くしていた。


 助かった。


 そう思っていいのかは分からない。


 けれど、少なくとも呼吸は戻った。


 その事実が、亜矢には嬉しいよりも先に怖かった。


 自分は、何をしたのだろう。


 何が、自分の中から出たのだろう。


「よかった……」


 思わず息を吐いた瞬間、視界がぐらりと揺れた。


「あ……」


 身体から力が抜ける。


 手の中の器が傾きかけた。


 すぐ横にいた屋台の女性が、慌てて器を支えてくれる。


「お、おい、大丈夫かい?」


「大丈夫、です……たぶん」


 そう答えたかったのに、声がうまく出なかった。


 指先がしびれている。

 膝に力が入らない。

 息を吸っているのに、身体の奥が空っぽになったみたいだった。


 さっきまで手を包んでいた白い光が、少しずつ薄れていく。


 それと同時に、強い眠気のようなものが全身に広がった。


 何かを使った。


 亜矢は、ぼんやりそう思った。


 体力でもない。

 気力でもない。

 もっと奥にある、知らない何か。


 それがごっそり抜け落ちたような感覚だった。


「聖女さま……」


 誰かが言った。


 亜矢は顔を上げた。


 広場の人々が、亜矢を見ていた。


 さっきまで遠巻きにしていた人たちが、今は一人、また一人と膝をつき始めている。


 屋台の女性。

 ローブを着た老人。

 剣を下げた男。

 荷車のそばにいた少女。


 まるで、亜矢が特別な何かであるかのように。


「やめて……」


 亜矢は小さく言った。


 けれど、その声は広場のざわめきに消えた。


 リオの母親が、石畳に額がつきそうなほど深く頭を下げる。


「ありがとうございます……白境の聖女さま……」


「違います」


 今度は、はっきり声が出た。


 亜矢は首を振った。


「違います。私、聖女じゃないです」


 周囲のざわめきが少し止まる。


 言葉は日本語のはずなのに、意味は届いている。


 それは亜矢にも、もう分かっていた。


 けれど、伝わっているはずなのに、人々の目は変わらない。


 それどころか、亜矢が否定すればするほど、畏れの色が濃くなっていく。


「私は……ただの大学生で……」


 言いかけて、亜矢は口を閉じた。


 大学生。


 その言葉が、この広場でどれだけ意味を持つのか分からなかった。


 そもそも、ここに大学というものがあるのかすら分からない。


「牛乳を買いに……」


 そこまで言って、自分でもおかしくなった。


 牛乳を買いに出ただけ。


 本当に、それだけだった。


 なのに今は、知らない世界で、知らない子どもを助けて、知らない人々に聖女と呼ばれている。


 おかしい。


 全部おかしい。


 頭が追いつかない。


「聖女さま!」


 遠くから、別の声がした。


 広場の向こうから、白い長衣を着た数人が走ってくる。胸元には、輪のような紋章が刺繍されていた。


 人々が道を開ける。


「白環神殿の治癒師だ!」


「早く、この子を!」


 神殿。


 治癒師。


 さっきから何度も聞いた言葉だ。


 白い長衣の一人がリオのそばに膝をついた。まだ若い男だった。額に汗を浮かべながら傷を確認し、すぐに顔色を変える。


「魔獣毒……いや、黒霧が剥がされている?」


 男はリオの腕を慎重に見たあと、亜矢の方を振り返った。


 その目が、見開かれる。


「あなたが……?」


「私は、何も……」


 亜矢は反射的に後ずさった。


「何も、分からなくて……」


 治癒師の男は、亜矢の手元に目を向けた。


 木の器。

 白い泡の残り。

 そして、亜矢が握っている小さなミルクフォーマー。


「その魔導具は……」


「魔導具じゃないです」


 亜矢は首を振った。


「これは、ただの……」


 ただの、何だろう。


 ミルクフォーマー。


 そう言っても、正しく伝わる気がしなかった。


 もしかしたら意味だけは伝わるのかもしれない。


 白い乳を泡立てる小さな道具。


 そんなふうに伝わったら、余計に誤解されそうだった。


 治癒師の男は困惑したまま、亜矢の指先に残る白い光を見つめている。


 やがて、彼の表情が変わった。


 驚きから、畏怖へ。


「これは……治癒ではない」


 治癒師の男が、震える声で言った。


 広場が静まる。


「傷を塞いだのではない。毒を消したのでもない」


 男はリオの腕に視線を戻す。


 黒い霧は、まだ傷口の周りに薄く残っている。


 けれど、それ以上リオの身体へ入り込めず、見えない壁に阻まれているように揺れていた。


「黒霧と肉体の境界を、分けたんだ……」


 境界。


 その言葉だけが、亜矢の胸の奥で強く響いた。


 白い泡。

 白い光。

 石畳に刻まれた白い線。


 そして、白境。


 ばらばらだったものが、少しだけつながった気がした。


 でも、理解できたわけではない。


 むしろ、怖さだけが増していく。


「百年ぶりだ……」


 治癒師の男は、今度は亜矢ではなく、遠くの白い塔を見上げた。


「百年ぶりに、白境の光が戻った……」


 その瞬間だった。


 遠くの白い塔から、低い鐘の音が鳴った。


 ごうん、と空気を震わせる音。


 広場の人々が一斉に顔を上げる。


「白環塔の鐘……?」


「まさか、聖女顕現の鐘か?」


「封じられていたはずじゃ……」


「神殿に知らせが入ったんだ……!」


 ざわめきが再び広がる。


 亜矢は何も理解できなかった。


 ただ、これ以上ここにいたら、もう本当に戻れなくなる気がした。


 治癒師の男が立ち上がる。


 彼の表情は真剣だった。


「聖女さま。どうか、白環神殿へお越しください」


「え……」


「あなたの身の安全を守らねばなりません。それに、その光についても調べる必要があります」


 身の安全。


 調べる。


 その言葉が、亜矢の胸を冷たくした。


 悪い意味ではないのかもしれない。

 この人はきっと、リオを助けようとしている。

 亜矢を乱暴に扱うつもりもないのかもしれない。


 それでも。


 知らない世界。

 知らない神殿。

 知らない人たち。

 自分でも分からない力。


 そこへ連れて行かれる。


 そう思った瞬間、息が苦しくなった。


「違います……」


 亜矢は首を振った。


「私、聖女じゃありません」


「ですが、その光は――」


「分からないんです!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。


 広場が静まり返る。


 亜矢は息を切らしながら、もう一度首を振った。


「何も分からないんです……! ここがどこなのかも、どうして来たのかも、帰れるのかも……!」


 声が震える。


 泣きそうだった。


 いや、もう泣いていたのかもしれない。


「私、ただ……牛乳を買いに出ただけなんです……」


 誰も、その言葉を笑わなかった。


 でも、理解されたとも思えなかった。


 人々の視線は、変わらず亜矢へ向けられている。


 祈るように。

 期待するように。

 逃がしてはいけないものを見るように。


 それが怖かった。


 怒鳴られるよりも怖い。

 責められるよりも怖い。


 期待されることが、こんなにも怖いなんて知らなかった。


 治癒師の男が、一歩近づく。


「聖女さま、お待ちください。どうか落ち着いて――」


 亜矢は反射的に後ずさった。


 一歩。


 また一歩。


 人々が道を開ける。


 誰も亜矢をつかもうとはしなかった。

 ただ、祈るような目で見ている。


 その目から逃げたかった。


 亜矢はバッグを胸に抱きしめた。


 中にはスマホと財布。

 そして、さっきまで普通の道具だったミルクフォーマー。


 現代とつながるものは、それだけだった。


「帰らなきゃ……」


 小さくつぶやく。


 けれど、どこへ?


 アパートの玄関はない。

 廊下もない。

 コンビニへ続く道もない。


 二つの月の下、知らない広場があるだけ。


 白環塔の鐘が、もう一度鳴った。


 ごうん、と重い音が夜空へ広がる。


 その音が背中を押した。


 亜矢は走り出していた。


「聖女さま!」


「待ってください!」


「危険です、そちらは――!」


 背後から声が飛ぶ。


 亜矢は振り返らなかった。


 胸が痛い。

 足がもつれる。

 視界がぼやける。


 それでも走った。


 人々の間を抜け、屋台の横を通り、石畳の路地へ飛び込む。


 白い塔の鐘は、まだ鳴っている。


 二つの月が、知らない街を照らしている。


 どこに向かえばいいのか分からない。


 それでも、今はあの広場にいられなかった。


 亜矢は路地の角を曲がり、誰もいない暗がりに飛び込んだ。


 そこでようやく、壁に手をついて息を吐く。


「なに……これ……」


 声が震えた。


「ほんとに、なに……」


 返事はない。


 あるのは、遠くから聞こえる人々のざわめきと、白環塔の鐘の音だけ。


 亜矢はバッグを抱きしめたまま、その場にしゃがみ込んだ。


 手のひらには、まだ少しだけ白い光が残っていた。


 さっきリオを救った光。


 聖女と呼ばれた光。


 自分のものだとは、とても思えない光。


 亜矢はそれを見つめながら、小さく首を振った。


「違う……」


 誰に向けて言ったのか分からない。


「私は、そんな人じゃない……」


 その時、路地の奥で何かが小さく動いた。


 亜矢は顔を上げる。


 暗がりの中に、獣の耳を持つ小さな影がいた。


 子どもだろうか。


 その子は、広場の人々のように膝をつかなかった。

 祈るような目でも見なかった。

 聖女さまとも呼ばなかった。


 ただ、少し警戒した顔で、亜矢をじっと見つめていた。


 亜矢も、動けなかった。


 二つの月の光が、路地の入口から細く差し込んでいる。


 遠くで、白環塔の鐘がもう一度鳴った。


 知らない世界でひとりきりだと思っていた亜矢の前に、その小さな影は、ゆっくりと一歩だけ近づいた。

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